ex 彼女の楽園

 この世界に辿り着いてから四日が経過したこの日、霞の研究室を訪れたエルは涙目で霞に訴えていた。


「痛くないって言ったじゃないですかぁ……ッ!」


「比較的痛くないとは言ったが全くとは言っていない。古今東西注射とは痛い物だよ。何せ針を人体に突き刺しているのだからな」


「まあ確かにそう言ってはいましたけど……」


「大体血塗れの衣服でこの世界に辿り着いた様な奴が今更その程度の痛みで何を言っているんだね」


「それとこれとは別ですよ。痛い事に変わりはありません」


 この日行っていたのは採血だ。先日霞が言っていた精霊に対する研究の為の材料として扱われるらしい。


「まあ許せ。ほら、飴をやろう」


「ありがとうございます」


「キミはなんだか幸せになれそうな奴だな……」


 雨を受け取って笑みを浮かべるエルに霞はそんな言葉を向けて小さく笑みを作った。

 そして再びこの訴えに話が戻らないようにという風に、霞は話題を変えていく。


「そういえばもうキミがこの世界に辿り着いて五日目な訳だが……どうだね、うまくやれているか?」


「まあ、それなりに……あ、いえ……多分うまくやれてるんじゃないかなって思います。というより……うまくしてもらってます」


 ここ数日でエルを取り巻く環境は大きく変わった様に思える。

 二日目以降、エルはこちらに話掛けて来る相手とある程度まともに接するようにして来た。

色々と複雑そうな心境で話掛けて来る者。好奇心で話掛けて来る者。情報の真偽を確かめようとする者。色々な人間が居たが、茜や誠一にある程度サポートしてもらいながらある程度交流と言える様な会話ができたとは思う。

 ……できるくらいには、向こうもこちらを受け入れてくれそうな風に話掛けてきていた。


「なんでこんなに優しいんだろって思う位に、皆さん優しいんですよ。ちょっと不思議です」


「なるほどなるほど不思議と来たか……まあ確かにその気持ちも分からんではないさ」


 霞はエルの言葉に頷いて、自分達の事をこう評する。


「確かに私達は客観的に見れば精霊に甘いと思うよ。思うし、キミ達をあまり良く思っていない連中からもよく指摘される」


 甘い……それはきっと精霊を助けようとするスタンスの事だろう。

 そして実際そういう事らしく、霞は言葉を続ける。


「精霊はこの世界を一方的に蹂躪する存在であり、いくら人の姿をしているからといって助ける対象だと思うのはおかしいと、そう言われる。実際キミがこの世界に来てから荒川の奴に直接抗議しに言った者も居るらしい。多分居たただろう? キミに近づこうとした相手で、明らかにキミに良い印象を持っていない相手が」


 確かに何人か、明らかに目線が違うものが居た。

 それは他の人が向けてくれた普通の視線でもなく、向こうの世界の人間が向けてきた資源を見るような視線でもない。彼らが向けてきたのは嫌悪感の籠った視線だ。


「まあ彼らの言い分や思想も理解できてるつもりだ。いくらキミ達が人間の姿をしていて、それに加えて明らかに暴走という様な状態で暴れていても、それでもキミ達がこの世界に齎してきた被害は甚大だ。だとすれば精霊は明確に敵と認識されて、こうして此処に居るキミもある程度同列に見られてもおかしくないというか、そもそもそうである事が自然の流れなのではないかとも思うよ」


 だけど、と霞は言う。


「現実はそう思ってる人間の方が少数派だ。多くの者はこの世界を守るために精霊に武器を向けるが、その度に傷を負っている。ある程度麻痺はしてるだろうがそれでも皆が心に傷を負うんだ。助ける為の術があれば縋りつくし、それが頓挫すれば皆酷く落ち込む。そしてキミの様な存在が現れれば……優しく接してやろうと思える……そうだ、私達はきっと甘いんだ。向こうの世界の人間の様に絶対的な物ではなく、傾向と呼べる様な物だろうけれど、私達は本能的にキミ達に甘いのかもしれん」


「本能的に……ですか」


 そんな事があるのかと疑問に思うが、実際に向こうの世界の人間は本能的にそうインプットされていると思うしかないほどに精霊に対して歪んだ価値観を持っている。

 だとすれば……それはありえる事なのかもしれない。


「もっとも例えそうだとしても本当にそういう傾向にあるという程度だよ。キミも見た様な精霊に対して嫌悪感を示す者も居れば、精霊に対し比較的甘い思考をしていた筈なのに、色々あって嫌悪派のトップになってしまった者もいる様にね。強制力もなく簡単に翻るんだ。だから……こんな物が適応されるのは最初の内だけだよ」


 そして霞はエルに忠告するように言う。


「そこから先はキミ次第だ。キミ次第で此処から先の皆の態度や精霊への認識は大きく変わる。心して掛かれとは言わん。だが皆の好意位は受け止めてやってくれ……なんて事をキミに言うのは野暮か」


 そう言って霞は笑みを浮かべる。


「中々評判いいよ。何も取り作らなくとも、どうやらキミは素でいい性格をしているようだ。だからキミはこれまで通りやってくれればいい。それなら私も味方でい続けよう」


「はい……ありがとうございます」


 エルは忠告してくれたことに……味方だと言ってくれたことに改めて礼を言う。

 そしてそれを聞いた霞は、一拍空けてから笑みを作ったままで言う。


「では今日は採血だけで終わりだ。待っているんだろう? 私よりも味方でいてくれる相手が」


「はい……普通にばれちゃいましたし、今、すぐそこの待合室で待ってくれてます」


「まあばれない方が不思議だ。ずっとべったりだからなキミ達。改めて考えれば考えに無理がありすぎる」


 先日霞が協力を申し出てきた時はうまく行ったが、やはりいざ何かをしようと思えばエルを呼び出す必要がある。霞は霞なりに茜にそういう事をしている事が露見しないように色々と考えていたそうだが、それは見事に頓挫してしまった。具体的にどういう風に何をやろうとしていたのかはエルが知る由は無いが。

 だけど霞が色々と事情を説明して、結果こうしてエルが採血を受ける流れになった。

 あまり最初は良い顔をしていなかったが、それでも何か彼女なりに考えが纏まったのかもしれない。最終的には頷いた。もっとも事の決定権を彼女は持っていない訳だが……ある意味で許しが出たと言ってもいい。

 ……一番そこに待ったを入れそうな相手はまだ眠ったままだが。


「じゃあもう行きたまえ。協力感謝する」


「はい。これからもよろしくお願いします」


 そんな風にエルは笑ってそう言って立ち上がる。

 そんなエルから視線を外して、背もたれに体重を大きく掛け天井を見上げた霞は、エルに聞こえない様な声量でポツリと呟く。


「……全く、向こうの世界は狂ってるな」


「何か言いました?」


「いや、なんでも。とにかくこちらからもよろしく頼むよ。仲良くしよう」


「はい」


 エルはそう言葉を返して踵を返す。


「じゃあ私はもう行きますね」


「ああ、ちょっと待て」


 歩きだそうとしたエルを霞は引き留め、立ち止ったエルは霞の方に向き直る。


「どうかしましたか?」


「ああ、一つ。聞いておきたいことがあってね」


 そしてこんな問いをエルに向けた。


「この世界は、キミにとって楽園に成り得そうかね」


「楽園……」


 この世界は精霊にとっての楽園では無かった。この先はどうなるか分からないが、霞の研究に進展が生まれなければそうなる事は無いだろう。

 では、自分自身にとってはどうだろうか。

 こうして今自我を保っていて色んな人に助けられている自分にとって、この世界は楽園であってくれるのだろうか。

 その事をほんの少しだけ考えて、そしてエルなりに答えを出す。


「そうなってくれればいいなって、そう思います」


 もう楽園の様な物ですとは頷けなかった。

 きっと自分がとても恵まれた環境にいて、その環境に居る事を良い事だと認識出来る様になっている時点で、もう殆どそれは楽園だと言ってもいいのかもしれない。

 向こうの世界に居る精霊。向こうの世界に居た精霊。その全てと比較しても、多分自分が一番恵まれていると確信を持って言える。その位にはエルを取り巻く環境はエルにとって理想的だ。

 だけどまだ足りない。一ピースだけ足りてない物がある。

 まだ目を覚ましていない人が居る。解決していない、解決しなくちゃいけない問題がある。

 そういう事を全て清算し終えて、初めてこの世界を楽園と言う事ができるのだろう


「ああ、そうなってくれればいいな」


「はい。じゃあ、私はこれで」


 そう言葉を返して今度こそ研究室を後にする。

 果たして今日はエイジは目を覚ますだろうか。

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