ex 風神の如く 上

(……急げ)


 肉体強化を用いた全力疾走は、それなりに距離があった宿から工場までの距離を一気に詰める。

 決意からほんの僅か。ほんの僅かで、彼女の戦いは始まった。


「……よし」


 自分は決して客人ではない。当然のことながら正面から入る必要はない。そして中に入ればどこも一律に危険。だから、侵入経路など考える必要もない。

 ただ一番手近な所を破ればいい。

 寧ろ一刻を争う今、それが最も最善の策だ。

 エルは速度を殆ど落とさず、工場外周の塀を飛び越えたのちに、建物へと接近。そしてなんの躊躇いもなく、顔を守りながら窓ガラスを突き破った。

 風でバランスを整えつつ、滑るように着地。次の瞬間、工場内部に警報が鳴り響く。

 だけどそれがどうした。侵入が露見する事位は承知で飛び込んでる。

 それにならなくとも……既に目の前に、敵の姿は存在する。


「……ッ。やっぱ今回も来や――」


 心の準備はできていた。

 故に彼女は止まらない。

 何か言いかけている目の前の警備員との距離を一瞬で詰める。

 そしてその言葉が終わる前に、側頭部に蹴りを叩き込んだ。

 そして壁へと叩きつけ、着地。直後に走り出す。

 多分まだ意識はあった。潰しておかないと挟まれるかもしれない。

 だけどそんな時間は無かった。

 刻印から悪寒が走る。

 そんな状態で、止まっていられる訳がなかった。

 エルは走りながらフロア内に風を走らせる。そしてエイジの居る下の階層への階段の位置を把握。

 そして、この先の通路に顔も知れない誰かが二人いる事を知る。


 ……少なくとも、それはエイジではない。だとすれば、なんの躊躇いもない。


 そしてエルは自身の左手を中心に風を集め、文字通り風の槍の様な物を作り出す。

 それは握らない。あくまで風だ。握れない。握る必要もない。

 ただ、相手の顔も確認しないうちに……通路に飛びだした瞬間に腕を振り、打ち抜く。ただ、それでいい。

 その槍は警備員の男の腹部に突きささる。そして衝撃を受けた風の塊は、隣の精霊も巻き込む形で勢いよく弾け、暴風を発生させる。

 その隙に接近。一歩前に出ていた精霊の腹部に右手でボディーブローを打ち込み、そのまま槍の直撃と暴風で意識が朦朧としている警備員へとぶつけ、同時に空いた左手から風を噴出。その勢いで体を回転させ、そのまま左手で警備員に裏拳による追撃を行う。

 そして勢いそのままに、なんとか意識を保ち反撃してこようとした精霊に、右フックを打ち込んだ。


 確かな感触。誰も、誰も、起き上がらない。

 そして、振り返らない。

 例え同族を打ち倒してでも。彼女は止まらない。

 当然、いつだってその行為には躊躇いが生まれる。

 だけどそんな事には気を回せない。きっと、相手が自分以外の普通の精霊だったとしても、回せやしない。

 そんなに彼女は強くない。気にはかけても、障害となれば打ち倒す。そこに躊躇いは生まれても止まりはしない。

 その位は彼女は覚悟を決めているし、その位にはエイジを求めている。

 それを阻むものは、誰だって倒してみせる。

 そうして再び走り出そうとした、次の瞬間だった。

 周囲の壁や床。天井までの全てが、薄い黄色に染まった。

 それが一体何を意味するのかは分からない。だけど一瞬気を取られたのは確かだ。

 だから……反応が遅れた。


「……ッ!」


 背後から、精霊が飛びかかってきていた。

 きっと、最初に倒した警備員と契約している精霊

 それも迫るのは、明らかに普通の状態ではない、光り輝く左足。


「うぐ……ッ!」


 今更回避は不可能だった。

 頭部を狙ってきたそれをなんとか右腕で受け止める。

 いや、それを受け止めたと行っていいのかは分からない。

 まるで小枝でも折るように、腕がへし折れた。


「あ、ああああああああッ!?」


 何が起きたか分からない様な激痛が右腕を襲う。


「……ッ!」


 それでも、歯を食いしばった。

 必死に、踏みとどまった。

 ただがむしゃらに、全力で。全力のフックを精霊へと打ち込む。

 その瞬間に、打ち込まれた。


「ぐ……ッ」


 精霊術によるエネルギー弾が右肩を貫通していた。

 慌てて背後。自分がこれから通る道から歩いてくる存在に視線を向けた。

 そこに居るのは、精霊と人間、それぞれ二人。

 その内の一人が、勝利を確信して故つに浸るように言う。


「なぁ、体の調子はどうだよ精霊」


 最悪だった。

 右腕の自由が効かない。単純に、怪我が重い。

 だけど、警備員が言いたいのはそういう事ではないらしい。


「聞いたことはあるか? アンチテリトリーフィールド。自分が弱体化するって、どんな感じ?」


 聞いたことが無い言葉だった。

 だけどその言葉で、一体それがどういう物かは察する事ができる。

 きっとテリトリーの無効化。いや……もしかすると、テリトリーの逆を行く、精霊を弱体化させる効力を持つ何かの事かもしれない。

 だけど……いずれにしてもだ。

 ……なんの問題も、無かった。

 きっとこれもまた正規契約の影響なのだろう。

 何も体調が変わらないという事は、即ちそういう事だ。


「……ッ」


 だからこそ、怪訝な表情を浮かべた。焦るように。困惑するように。そんな表情を必死に作って浮かべた。

 ……演技だ。

 相手は、目の前の精霊が弱体化している事を前提に話している。そうである事に慢心すらしている。それは表情や声音を見れば簡単に分かる。

 だとすれば、やるべきことは一つ。

 無我夢中に走り出した。

 ずいぶんと、ゆっくりと。段階で分けるのならば、一段階。彼女は速度を落とした。

 ……それはあの森で、エイジと契約したばかりの頃のように。


「へぇ、弱体化してても、中々早いじゃねえかよ」


 そうして。絶対的な強者のみが見せられるような、愉悦の笑みを浮かべる警備員の前で、一気に加速した。

 慢心している隙だらけの顔面に、拳を叩き込む為に。

 その道を突破して、エイジの元へと向かうために。

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