ex 決意

 時は僅かに遡る。


(あれ? ……行こうとしているの? 工場なんかに)


 自分がやろうとしている事が、一体どういう事か。

 それを理解してしまえば、震えが止まらなくなるし、恐怖の感情が湧き上がってくる。

 気を抜けば、そんな感情に全身を飲み込まれそうになる。気を抜かなくても、同じことだ。

 結局。なにをどうしようと、震えは止まってはくれなかった。

 それでも、必死に足を動かそうとする。必死に走ってエイジを助けに行こうとする。

 だけど駄目だった。ゆっくりと動いた足は、次の瞬間には止まってしまう。


「……どうしよう」


 その場に立ち尽くし、そんな言葉が漏れ出した。

 そしてその言葉の解は出てこない。出てきてくれない。出せるほどの勇気がない。

 だけどきっと、それを出す勇気が無かった時点で、本人に自覚はなくても、もう答えは決まっていた様なものだった。

 彼女は強くない。


『きっと私は、エイジさんの為に何でもする事が出来るかと言われれば、首を振るかもしれません。きっと出来ない事も沢山あるんだと思います』


 これがその解で、これがその限界だ。

 それをゆっくりと自覚していくと、震えが徐々に止まってきた。

 止まってきてしまった。

 まるで危険を回避したから。エイジを助けることをどこかで放棄したから。

 今の。誰にも襲われることもない。明日も自分が自分でいられる。そんな確証が持てる、甘く優しいぬるま湯の世界に浸っている事を、心のどこかで選び始めたから。

 だから、震えが止まってきた。

 止まり始めた事に嫌悪感を感じながらも、彼女は自然と考える。

 まだしっかりとエイジを助けることを考えつつも、エイジのいないその先の自分の事を考えはじめていた。

 考えて。考えて。手足の震えが強くなった。

 彼女と別れた彼は、決断の際に考えた。

 自分の隣にいる少女は、もう自分なしでもやっていけるという事を。

 実際、彼女はそれができていた。普通に話せていたし、周りの人間とぎこちないながらも、コミュニケーションが通れていた。彼女自身も、それが自分が周囲に適応した結果だと、そう思っていた。

 だけど……本当にそうなのだろうか?

 多くの場面で、エイジが居た。

 居ないときだって、心のどこかで何かがあったらエイジが駆け付けてくれると。そんな楽観的な事を、

きっと考えていた。


 ……この一カ月。そんな風に人と接してきた。

 例えばそこに彼がいなければ。一体自分はどう振る舞えるのか。

 縋れる相手がいない時分は、これまでのようにうまくいくのだろうか?

 それを考えれば、もう震えが止まらなかった。

 悪意は感じない。何も何も感じない。だけどそれは確かに存在するもので、存在するものだと自覚してしまえば、向けられなくてもそれを感じてしまう。

 エイジは、そんな見えない視線をいつだって打ち消してくれた存在だった。

 いつだって隣で笑ってくれて。何度だって自分を救ってくれて。いつだって彼女の思考の中心に居た存在で。

 そんな彼がいなくなったその後で。自分は一体どうなるのだろうか。

 そこまで考えると、彼女の足はゆっくりと動き始めた。

 色々な感情が、両足の枷となるようにしがみ付いてくるけれど。それでも一歩前へと進んだ。


 彼女は強くない。

 あの地下で、彼女はエイジを助けに戻った。だけどそれはきっと、今自分がやろうとしたことに比べれば僅かにマシな行為で。そしてそこが彼女の限界で。

 だからこの場に留まっているけれど、それでも。ほんの少し。ほんの少しでいい。そこに自分の情けない事情が、感情が含まれれば、話は別だ。

 彼女は強くない。

 一人じゃ生きられない。一人じゃどうにもならない。自分を助けてくれる。自分に手を差し伸べてくれる。自分に笑いかけてくれる。いつだっていつだって。隣に居てくれる。

 そんなエイジがいなければ、彼女はもう動けない。きっとかつては動いたからだが、もう動かなくなっていた。

 何度だって考えたことがある。

 自分は、エイジに依存している。

 それはきっと自分が思っているよりもずっと強く、そしてそれが彼女の背を押す原動力となる。


 だから、彼女の足取りは早まった。

 エイジの為に……そして、自分の為に。

 そして解は出た。

 それ故に彼女は肉体強化を発動させる。

 同時に、ガラスが砕けるような音が周囲に響く。

 枷を、内側から破壊した。

 元々はエイジの為に身につけた枷。それでも彼女の精神を安定させるのに一役買った大切な代物。


 それを壊すことに、今更躊躇はしなかった。

 そしてエルは窓から飛び降りる。


 少しでも、時間はかけられない。

 もう深夜ではあるが出歩いている人間は居るようで、そのうちの何人かがこちらに驚愕の視線を向ける。

 きっと、今日どこかですれ違ってでもいたのだろう。人間だった存在が、精霊としての雰囲気をまとっていることに、戸惑いを隠せないのだろう。

 だけどそんなことは、エルの知ったことではない。

 彼女の頭にあるのはただエイジと、自分の事だけだ。


(……絶対に助ける)


 エイジを生きて連れ戻す。

 そして、彼女が思い浮かべる考えは、もうひとつ。


(そして……エイジさんを止める)


 それは一つの決意だ。

 口論になっても。無理やり張り倒してでもいい。

 今の彼は彼自身の身をいとも簡単に滅ぼしてしまう。論理的に。道徳的に。彼のしている事は間違いではないのかもしれないけれど、きっと致命的に間違っている。

 それをやめさせる。

 エイジを……助ける。

 そして彼女は走り出す。

 地図なんていらない。場所は刻印から伝わってくる。

 だったらそこ目掛けて、全力で走る。それでいい。

 そして彼女は街を全力で駆ける。



 彼のために。自分のために。

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