那智勝浦町昔なつかし話
吉村 剛
第1話 仮面ライダーがやってきたのだ
那智勝浦町昔懐かし話
吉野 剛弘
早いもんで那智勝浦町の度真ん中、仲ノ町に生まれ育って53年。(勝浦にも仲ノ町というところがあるのだ。今の観光桟橋あたりね)変わってしまった景色や子供の時にあったことなど今の若者に知ってもらいたいと大それた気持ちというか、こんなこともあったんやでと言う軽い気持ちで僕の周りで、あった昔懐かしいことを短編小説風に書き記しておきたいと無性に思ったわけであります。まあ、気軽につきあってやってください。それでは、まず第一話。
第1話 『仮面ライダーがやってきたのだ。その1』
それは、僕が小学校2年生の時の話である。 「たけちゃーん。今度の日曜日仮面ライダーの本郷猛が勝浦へ来るみたいやけどいっしょに会いに行くかん。」たけちゃんとは、僕のことである。昔から剛弘なのでたけちゃんと呼ばれていた。「うん絶対いく。おいさんかまんの。」友達のO君のお父さんは勝浦の地元新聞の記者で白黒で写真を撮る勝浦ではちょっと有名なおいさんだった。
「あ~かまんで。おいさん、本郷猛に取材するさか賢一といしょに連れったるわ。もしかしたらいっしょに写真撮れるかもしれへんで。」「おいさん。ほんまかん。そやから僕おいさんのこと好きやねん。」と目一杯のおせいじをかましたったのである。そして、その日曜日。勝浦の築地にある老舗旅館の2階の一室に僕ら3人は出かけた。本郷猛、いや仮面ライダー1号はソファーに座って
「いや~。こんにちは。今日はよろしくお願いしますね」と挨拶。おいさん記者は、「こちらこそ、よろしくお願いします。あっ、この子は、うちの息子でこっちがその友達です」と僕らを紹介してくれた。「そうですか。僕ら仮面ライダー好きかい」僕らは2人目を合わせて「ほっほ、本郷猛がしゃべってるぞ」と心の中でつぶやいた。「あっはい、大好きです。いつも仮面ライダー見てます。」と0君。僕ら2人は、好きどころか朝から晩まで仮面ライターで仮面ライダースナックのカードを集めまくっていたほどである。それからしばらく、おいさん記者は、インタビューをしソファーに座っている本郷猛の写真を撮ったりしていた。そして本郷猛が「僕いっしょに写真とろうか。おいで」となんと0君をひざの上に座らせたのである。すかさずおいさん記者はシャッターをきった。
「さあ、もう次の撮影の準備があるからごめんね。これからも仮面ライダー応援頼みます。」と僕ら3人と握手してくれた。「今日はありがとうございました」と僕ら3人。そして、僕ら3人は1階に降り玄関先に出た。「くっそー。なんでおまえだけ写真とってもらえたんや。なんでやねん。」と僕は本当に腹立ったが口にはせず顔はにこにこしておいた。「いや~。良かったね。ほんま。あれ、サイクロン号おいたあるで」とおいさん。「うわ~。ほんまや。すごー。」と僕と0君は駐車場に置いているサイクロン号に近づいた。しばらく眺めたあと僕ら3人は帰路についた。サイクロン号を見てから僕と0君は0君家に着くまで無言だった。なぜかって。駐車場に置かれていたサイクロン号のボディの一部は木材でできており、ぽっかりと大きな穴があいていたからである。 第1話終わり。
第2話 『仮面ライダーがやってきたのだ。その2』
(ダブルライダーとシオマネキング)
「ねえ、ねえ、たけちゃん。昨日の仮面ライダー見たかん。」勝浦小学校に登校中友人のタコちゃんは、僕に尋ねた。僕の友人は変なあだ名の奴が多くタコちゃんは、名前のはじめに(た)が付き鼻が悪いんでいつもタコみたいに口をとがらせていたからタコちゃんである。小学生はあだ名付けの名人である。 第1話にも書いたが、たけちゃんとは僕のことである。「あたりまえやん。勝浦特集やぞ。俺、本郷猛に握手してもろたんやぞ。見やんわけないやん。」「そうやなぁ。たけちゃん、握手してしてもろたんやもんなぁ。」と、なんのこちゃわからない理由に2人して納得したのである。「そやけど、1号と2号に追っかけられたショッカーやけど、キーキー言いながら那智の滝の滝壺へ飛び降りた思ったら浦島の忘帰洞に逃げるんやもんね。」とタコちゃん。「そうや、ショッカーの基地が忘帰洞やもんね。びっくりしたわ。」僕らは撮影が那智の滝と浦島で行われたのは、小学生のレーダービームで知っていたが、まさかそんな場面で登場するとは小学生の頭(普通の下)では分からなかった。「でも、シオマネキングってなんかかっこええよなぁ~。潮をまねく王様やぞ。(なんのこっちゃ)名前がええやん。」とたこちゃん。小学生の僕らにはキングって付いたらなんかすごかった。かっこ良かったのである。野球のチームも仲ノ町キングとかそんな名前が付いていた。「でも俺は、一文字隼人より本郷猛やなぁ。やっぱり仮面ライダー1号やなぁ。」と僕。「俺は、一文字隼人やなぁ。男前やし、変身の仕方かっこええやん。」とたこちゃん。そうこう言っているうちに学校に到着。ランドセルを机の上に放り投げ朝の会が始まるまで昨日の仮面ライダーの放送のまねごっこ。タコちゃんがシオマネキング役。僕が仮面ライダー1号。仮面ライダーがシオマネキングの顔面にライダーパンチをくらわす場面。タコちゃんが「何か、たけちゃんの右手くさない。」「あたりまえやんか。本郷猛と握手してから洗ってないもん。」
2話終わり。
第3話 『祭りには、カチカチが欠かせないんやで』
「ワッショイ、カチカチ」「ワッショイ、カチカチ」皆さん、カチカチって、知ってるかなぁ~。カチカチに凍った氷のことやないで。僕らの世代の勝浦のもんは、分かると思うけど子供御輿の時に叩く拍子木(竹なので木やないけど)の様な物のことだ。もちろんカチカチと言うのか分らんし、正式な名前があるんだろうけど僕らはそう呼んでいた。簡単に説明すると30センチくらいの竹の棒を真っ二つに縦に割り、その1枚ずつに肩ひもが通るくらいに穴を開け肩からかけてちょうど左右の竹が腰あたりにくるように肩ひもを結んだ物である。これを左右の手に持ち子供御輿を担いだ小学校の上級生の後に付き「ワッショイ」のかけ声のあとにカチカチと叩くのである。勝浦(旧勝浦町)には、1区から6区まであり1区大勝浦、2区脇入(わきいり)、3区仲の町(たけちゃん坊ちゃんの生まれ育ったとこ)4区神明(しんめい)、5区北浜、6区築地がありそれぞれの地区に子供御輿があった。(今もあると思うが)この子供御輿を各地区の小学生が担ぐのだが、僕らの時は圧倒的に北浜と築地に小学生の数が多く我が仲の町と隣の脇入は、かわいそうなもんだった。いわゆる勝浦八幡神社例大祭の子供御輿である。この子供御輿の担ぎをランクで説明すると1年生から3年生までは、カチカチ担当、4年生は優秀生1人(3年まででカチカチが一番うまかったスーパエリート)が区の名前の入った看板持ち、次に前後の御輿を降ろした時の台持ち2人(エリート)あとの4年生はカチカチ、5年生、6年生は御輿担ぎだった。僕ら3区は5、6年生が少ないときは4年でもスーパーエリートから順に神輿担ぎになったこともある。いわゆるカチカチは、その後の神輿担ぎの登竜門であり皆必死にやっていた。今はないと思うが、僕らは各区ともライバル意識が強く祭り前に1週間位夕方から町中を神輿を担ぐ練習のために廻るのだが他の区の神輿とすれ違った時や、他の区の子供神輿休憩所の前を通ったとき相手の子供神輿の前後左右に付いている角をへし折っていた。だから1度は本番前までに祭りなので修理してくれたりするのだが、2回目はさすがに修理してくれないので、本番当日4本きれいにそろっている神輿はなかったと思う。どこの区も、はちまきで折れた角を結んでいた。そんなアホなこともしていた。もうすぐ今年も勝浦八幡神社例大祭の時期である。今年は9月18日が本宮とのことである。
目を閉じると聞こえてくる。「ワッショイ、カチカチ」「ワッショイ、カチカチ」
第3話 終わり
第4話 『ピンクの小屋』
はい、男性の皆様お待ちどう様でした。第4話は、勝浦の色っぽい話ですよ。
女性の皆様は、ちょっと我慢してくださいね。
これも僕らが小学生の時の話であります。では、では。
「なあ、なあ、タコちゃんとタケちゃん。」友達のナカシャが僕らの顔をながめながら話しかけてきた。ナカシャは、名前が中嶋でナカシマが36回ぐらい変化してナカシャとなった。僕らはあだ名付けの名人なのである。「なあ、桟橋の近くにピンクに塗った小屋あるやろあれなんか知ったあるか。」とナカシャ。「あ、あれか。横の壁もピンクのペンキで塗ったあるし。入り口もピンクのカーテン張ったあるんやで。この前、お母ちゃんにあのピンクの小屋何なんって聞いたんやけど。『そんなんあんたら知らんでもええんやよ。』って教えてくれなんだわ」とタコちゃん。「俺も何か知らんけど、おっちゃんらピンクのカーテンから入っていって出てくる時みんな笑顔で出てくるらしいで。何かのお店かもしれんど。」と僕。「俺の隣のおいちゃんに聞いたことあるけど大人のパラダイスっていうてたで。」とナカシャ。「パラダイスってどういう意味なん。」とタコちゃんと僕。小学生にはパラダイスは分からないのだ。
「今から見に行かへん」とナカシャ。今は午後5時、秋も終わりの頃なので薄暗い。僕らは、ナカシャの家から歩いて約5分のそのピンクの家の前まで行った。看板には「ピンクヌ〇ド」と書かれていて、スポットライトみたいので照らされている。入り口は、ピンクの厚めのカーテンだけ。そのカーテンが少しだけ横にずれていてかすかに中が見えた。真ん中に丸いステージみたいなのがありその周りに椅子がその丸いステージに沿っていくつか並んでいた。浴衣姿のおっちゃんが4、5人ステージから一番前の席に並んで座っていた。ステージ上では、これまたピンクの布みたいなのを着たおばちゃんが寝そべっていた。僕らは、それをじっと眺めていたが、突然後ろから「こら、おまえら何しよんや。ここは、大人のパラダイスやぞ。子供は来たらあかんねぞ」と声がした。「パラダイス」そこに立っていたのは、ナカシャ家の隣のおっちゃんだった。
と、言うことで、勝浦のバスターミナルの近くのN商店の隣には昔、「ピンクヌ〇ド」というストリッ〇小屋があったというお話である。今は空地になっている。ちなみに僕は中に入ったことは無い。大人になる前に無くなってしまった。また現在勝浦には、風〇関係のお店はございません。念のため。
第4話終わり。
第5話 『行商のおばちゃん』
「なんぞや、かんぞや、いらんかいのし~。」チリン、チリン。
今日も行商のおばちゃんは、ほっかむりをし、もんぺと長靴を履き大きな呼び鈴を付けたリヤカーに平天とかの天ぷらやコロッケ、アジとかの小魚、イラギ(さめ)の干物なんかを氷の入った木の箱にきれいに並べてやってきた。標準語に略すと「なんでもありますよ。なにか買ってくれませんか。」となるだろうか。おばちゃんは、僕ら小学生から言うたらおばあちゃんの年やった。勝浦小学校の下に魚屋を構えていたが、それを息子夫婦にまかし、いつも勝浦町内(1区から6区)まで廻っていた。「おばちゃん、イワシあるかん。」「ああ、あるで。今日のは、脂のっててうまいで。まぐろの刺身はいらんかん。」「そうやのぉ、もろとこかいな。」お得意さんとのいつもの会話だ。がに股歩きのおばちゃんは、歩くのがあまり早くない。だから町内廻るのに朝出ても店に帰ってくるのは夕方近くになる。でもおばちゃんの長年のファンは町内に多く、店に帰ってくる時は、いくつかの木箱は、ほとんどからっぽになっている。おばちゃんは、若いときから早朝魚市場へ出向きその日の魚を仕入れていた。おばちゃんの海産物を選ぶ眼は、そんじょそこらのもんには、かなわない。雨の日以外おばちゃんは、一年中行商に出かけていた。「たけちゃん、おばちゃん来たから、アジ3びきとコロッケ6つ買うきて。」とおかあちゃん。おばちゃん手作りのコロッケもうまかった。「うん、わかった。買うてくるわ」と僕は、外に出ておばちゃんのリヤカーのそばまで行く。「おばちゃん、アジ3びきとコロッケ6つちょうだい。」「たけちゃん、いつもおおきによ。今日のアジもうまいで。塩焼きにするんかいの。刺身でもいけるでっておかあちゃんに言うてよ」「わかった。おおきに」と僕。お金を受け取ったおばちゃんは、しわくちゃの陽にやけた顔で「おおきにね。また、たのむよ。」とリヤカーを押し始めた。僕ら勝浦小学校の生徒は、ほとんど知っていた。あの名セリフを。「なんぞや、かんぞや、いらんかいのし~。」チリン、チリン。
第5話終わり
第6話 『ハマチの釣り堀』
僕の書くこのシリーズには、小学生の時の事が多いがやはりその時期が一番多感で思い出に残っているからだ。今回も小学生時代の話。
「たけひろ、ハマチの釣り堀つれったろか。」「ほんま、いくわ。お母ちゃん、お父ちゃんハマチの釣り堀連れてってくれるって。今晩のおかずいらんで~。」「タケちゃん、あんた、いつもそう言うて釣ってきたことないやん。」「あほいえ、今日はちゃうで。いつものタケちゃんちゃうで、なんか釣れるような気がするんや。まあ、楽しみにしときなや。」「はいはい、刺身包丁研いでまっとくわ。」この僕にこの父母である。関西の親子である。会話がすでに漫才だ。
僕が生まれたのは、昭和38年だが、昭和30年代はじめ頃から40年代終わり頃までは、新婚旅行や観光旅行のブームで伊豆、箱根、熱海、南紀白浜そして勝浦と新婚さんや観光客でいっぱいやった時期である。勝浦も僕が小学生くらいの時は夕方になると浴衣を着た観光客や新婚さんが町中を行き来していた。そんな中今のバスターミナル前のM電気店の横あたりにハマチの釣り堀があった。平屋建ての小さな体育館みたいな建物の中に25メートルプール(楕円形だが)の様な、いけすがありその中にたくさんのハマチが時計回りに泳いでいた。それを、一人30分300円(子供も大人も一緒)の 料金を払い針だけ付いた竹竿で泳いでいるハマチをひっかけて釣り上げる仕組みだった。30分以内に釣り上げたハマチは、全部持って帰れる。その日もお父ちゃんに連れて行ってもらい僕は出かけた。入り口のおっちゃんに600円払って釣り竿とバケツもらって、いけすに近づいた。お父ちゃんの黒縁めがねの奥の眼がきらっと光った(ように見えた)「さあ、ハマッちゃん、かかってや~。賢いハマッちゃんかかってや~。」とお父ちゃんは、戦闘態勢に入っている。僕も負けずに戦闘態勢に。
「ハマッちゃん、かかってや~。お父ちゃんとこより、僕とこかかってや~。」しばらくしてお父ちゃんが、釣り上げた。「どうや、お母ちゃん喜ぶで~。」
30分やってお父ちゃん1本、僕は無し。そんなに簡単にハマチはかからない。ハマチも賢いのだ。帰ってその日の晩ご飯。ハマチの刺身を前にして普通のお父ちゃんやったら「ハマチは、出世魚やから、たけひろもハマチに負けんぐらい賢くならなあかんぞ」とか言うけど、うちのお父ちゃんのありがたいお言葉。「これハマチやなくてメバチマグロやったらもっとええのになぁ~。」さすが、僕のお父ちゃんや~。
第6話終わり
第7話 『和道流博正会勝浦支部』
始めにこの話は、僕の記憶に基づき書いた短編小説であり、当時お世話になった諸先輩方の記憶と異なる事があることをあらかじめご了承ください。
「なあ、タコちゃん、山ちゃん、今日は、K川先生来んのかなぁ~。」タコちゃんは、もうおなじみのT君であり、山ちゃんは、名字に山が付くのでそのまま山ちゃんである。「さぁ~。まだ7時5分やから分からんで~。」とタコちゃん。僕の小学6年生の時の話である。当時勝浦小学校の下のグランド(通用門から上がっていき今のプールのある左奥、お寺側)に木造立て2階の校舎跡の建物があり2階が家政学校、1階の1部屋が空手道場、もう一部屋が剣道道場に借りられていた。空手道場つまり和道流博正会勝浦支部の道場でK川先生はそこの勝浦支部長、僕らは生徒だった。僕のお父ちゃんも大学時代より空手をやっておりK先生と同じマグロの仲買いだったので、K川先生、Y木さん、R野さん、K郡さん、H中さんたち先生方といっしょにこの道場で空手を教える役だった。生徒は、全部で20人くらいいただろうか。僕は小学4年から6年の終わりまで習い1級(茶帯)、タコちゃんと山ちゃんは僕より1年早く始めており初段(黒帯)だった。「ガラガラ、ドンドンドン」入り口のドアが開いてK川先生がやってきた。K川先生は、背は低いのだが、ものすごい筋肉質で頭髪はなく、眼光が鋭くちょっと猫背気味に歩くので、ものすごい迫力だった。もちろん黒帯でその黒帯も所々色がはげており貫禄十分、いつも竹刀をもって僕らを教えていた。本気で叩かれた。普段は非常にやさしく冗談も言う先生なのだが、いざ稽古となると目つきが変わり戦闘態勢に入ったゴリラに変わる。
まるで大魔神が変身するときのようである。以前僕らの昇級試験に付いてきてくれたK川先生は見本として他の支部の有段者の若者と組み手試合をやって見せてくれたが、K川先生は暑くなると胴着からと頭髪のない頭から湯気が上がる。試合の途中相手がちょっとふざけた格好をとった。
初めは、おおめに見ていたK川先生だが、何度もふざけた態度を見せる相手の若造に中段突きと蹴りを一発。相手は壁際までぶっ飛び、気絶してしまった。それを見ていた僕ら生徒は、K川先生だけには、間違ってもふざけた態度は取るまいと改めて心に誓った。K川先生は、空手の練習日で無い時も、毎日仲買の仕事が終わったあと道場の外にぶら下げたサンドバックで突きの練習をしていた努力家であった。そのサンドバックには、所々赤く血が付いておりそのぐらい毎日練習していた。この道場はこの校舎跡が取り壊されたと同時に終わったが、形を変えてスポーツ少年団の様な形で那智勝浦町でも空手を習っている子供たちがいると聞いている。中学入学と同時にやめてしまった僕だが今でもその道場のことを思い出すことがある。良き思い出である。
第7話終わり
第8話 『タケちゃん頑張る(見下す奴は許さへんねで~)1』
今回は番外編という形で自分にあったことを書きます。少し自慢話になるけどご勘弁を。これも小学生の時の話です。
僕は、昔から自分が正しいと思えば年上だろうが目上だろうが相手がどんな立場の人であれ自分の意見を貫き通す性格だった。もちろん論破される時もある。そんな時は素直に謝るが、相手が確実に間違っているのに初めから相手に合わせるとかしなかった。しなかったというか今もそうなので、職場でもよく上司とやりあう。生意気な奴だったと思う。でも社会では、自分の意見を貫き通すばかりでは、生きていけない。難しい世の中だ。また、弱い者いじめも許せない性格だった。決して僕はケンカが強かった訳でもないし頭が良かったわけでもないが、人を格好や癖とかで見下す(いじめたり、からかったり)する奴は許せなかった。だからクラスに何をしても、どんぐさい奴っているじゃないですか。1人くらいは。僕の小学校の時もいた。そいつは親父が出稼ぎで家が貧乏で少しきたない服を着ていて勉強もできず運動音痴。ましてケンカも弱かった。だから何人かから、いじめられていた。そいつと僕は特に友達とかではなかったがたまに話をしていた。ある日そいつ(S君)がどう考えても悪くないのに悪いように何人かにいじめられていた。僕はそういうのが許せない。いじめてる奴らに「やめたれよ。こいつ悪ないやん。」と僕はS君の前に立った「なんや、おまえこいつの友達か。」「友達ちゃうけど、こいつ悪ないやん。なんでそんなに馬鹿にするんな。あかんと思わんのか。やめたれや」といじめっ子の一人の腕を取った。
いじめっ子は僕が大声で言ったのでいじめるのをやめた。「おぼえとけよ」と教室の外へ出て行った。それからは、いじめの標的が僕に移った。僕はいじめられてる意識はなかった。タコちゃんとかナカシャとか何人かの友達と普通に遊んでいたがときどきそのいじめっ子らに嫌がらせを言われたりした。僕は相手にしなかったが、ある時あんまりしつこいんでケンカになった。そいつらはいじめっ子の友達とも一緒に来てて相手は約20人。こっちは僕一人。初め僕は誰かがなぐりかかってくるまでじっと立っていた。それまではかっこ良かった。でも映画や無いやから勝つわけ無いやん。僕は家まで走って逃げた。けど一発も殴られなかった。走るのはものすごく早かった。いじめっ子は後を追っかけてきて僕のうちの玄関のドアに小石を投げて逃げてった。僕はお父ちゃんと、おじいちゃんに20対1でケンカしたことを言った。明治生まれの頑固なおじいちゃんと空手をやっていたお父ちゃんに「それでこそ男や、ようやった」とほめられると思った。2人のお言葉「20対1やって。アホかおまえ。」
第8話おわり
第9話 『タケちゃん頑張る(見下す奴は許さへんねで~)2』
このシリーズNO.2である。初めこの2の話を書こうと思って書き始めたら前置きだけで8話になってしまった。だからこの2が初めから書きたかった内容である。
小学6年生の時の話である。僕らの勝浦小学校もご多分に漏れず秋に運動会があった。運動会の目玉種目に6年生のクラス対抗100m走があった。僕のお父ちゃんは、若い頃短距離で国体へ何回も出てて和歌山で一番早かったらしくその血をひいて僕は、短距離走は幼稚園のときから小学校卒業までほとんど1番だった。勝浦町民体育大会でも、うちの仲の町は子供が少なかったのでリレーで一つ上の学年の子供と走ってもぶっちぎりで抜かすぐらいだった。(自慢たらっしくてすいません。でも事実です)。話を元に戻そう。そのクラス対抗100m走だがクラスで1人選ばれる訳だが、5クラスあり1組は大勝浦に住んでいたトシヤ君(彼は造船所のボンボンででもそれを決して自慢せずええ奴やった。今も友人である。彼も走るのが速かった)2組山ちゃん。(僕と友人で空手仲間、電気屋の息子で壊れたラジオの修理なんか朝飯前。彼も速かった。)3組ケイちゃん。(旧勝浦地区の外、朝日町に住んでいた。昔からスポーツ抜群、勉強もできて女の子に、もてもてだった。現在某役場の某課の課長。偉なったなぁ~。僕の中では勝浦で2番目に速い6年生)4組N戸君。昔から野球ばっかりスパルタ教育を受けていた。まるで星ひゅうまみたいな男。(なんか女の子にもてたし偉そうやったんで僕は嫌いやった。ごめん。でもぶっちぎりで速かった。僕の中では勝浦の6年生で一番速い男。勝浦のボルト。)そして5組。タケちゃん。つまり何故か勝浦で速い6年生が5名集まったのである。多分テレビ中継があったらリオオリンピック男子100m決勝までは、いかないが(あたりまえやん)おもろかったと思う。スタート前に本人達を前にしてN戸君が「この競争、俺が1番、ケイちゃんが2番、3番はトシヤ君か山ちゃん、そして吉野はビリやね」と大きな声で抜かしやがった。
他のみんなも「そうやなぁ~。」と言って頷いた。「吉野はビリ」他のメンバーは君付けやのに俺だけ呼び捨て。「許さん。見とれや。N戸。他のメンバーに負けてもかまんけどおまえだけには絶対負けへん。見下す奴は絶対ゆるさへんねで~。」とタケちゃんは、大魔神の様に変身したのである。
そしてスタート。「いちについて~。用~意」バーン。ピストルの音と同時にゴール目指して駈けだした。僕の横には人がいない。気配で分かる。ぶっちぎりのタケちゃん1番。2番ケイちゃん。3番トシヤ君。4番N戸。5番山ちゃん。僕は、1番の旗の所に座った。N戸が近づいてきて「吉野、速いなぁ。すごいね~。」「まあね。」と僕。ここでもまだ吉野である。「吉野様と呼べ。吉野様と」と心の中で思った。最後に一言「人を見下す奴には天罰がくだされるんやで~。正義は必ず最後に勝つんやで~。」
第9話終わり
第10話 『私立 勝浦幼稚園』
記念すべき第10話である。小学生の時の話が多いが今回はもう少し遡って見ることにする。幼稚園の時の話。
「はーるよこい。はーやくこい。あーるきはじめたちぃちゃんが~。」
昭和40年代中頃、当時那智勝浦町には幼稚園、保育所がいくつかあったが旧勝浦町(1区から6区)の子供達の多くは、勝浦幼稚園に通っていた。3歳で赤組、4歳で白組、5歳で青組だった。青組には、その歳から入園してきた子供のために黄組もあった。普通なら3歳の赤組から入園するのたが、タケちゃんは、白組から入園している。小学生の時、お母ちゃんに「タコちゃんや、ナカシャや山ちゃん、トシヤ君は赤組から入園してるのになんで僕だけ白組なん。」と聞いたことがあるが、お母ちゃんいわく。「お母ちゃんらもタコちゃんらみたいに赤組から入れよう思うて、タケちゃんを幼稚園の面接つれていったんやけど、『吉野さんとこの子供さんは申し訳ありませんが、あまりにも手に負えないので来年もう一度面接に来てくれませんか』って言われて入れてもらえなんだんや」「お母ちゃん、僕そんなに悪かったんか。」「あんた、体験入園の時先生らに鼻○そ付け廻るし先生のスカートめくったりかなりアホなことしたらしいで~。」と言うわけで僕の幼稚園生活は2年間だったが、青組の時の園芸会。園芸会は、毎年3月頃あったと思うのだが青組の演目では、「王様とその仲間達(仮称、すいません、正確なタイトル覚えてません)」で何故かトシヤ君は、きれいな衣装とマントと王冠をかぶった王様で椅子にふんぞりかえる役。そのそばでおいしそうな料理を王様に運び膝まづいて王様に差し出すやりがいのある(なんでやねん!!)家来の役のタケちゃんとナカシャ。もう幼稚園の時から差がついてたのよ。 トシヤ君。そして卒園メイン演目。「春よこい」。タコちゃんとケンタンは背が小さいのでサル役。僕とナカシャと山ちゃんとN谷君との4人は、背が高かったので熊の役。そして主人公の子供達の4人は、さゆりちゃんと、りかちゃんの女の子と当時建設会社のボンボンのハマっちゃん。
そしてトシヤ君。春を探しに山に出かけた主人公の4人がサルや熊に順に出会いサルや熊は主人公にエサもらっていっしょに春を探すというストーリー。
僕らの出番。熊役の僕らは縦に4人並び「おじょうちゃんたち、僕たちもいっしょに春を探しましょう。エサをくれたら一緒に探しましょう」と4人で言う。トシヤ君が答える。「そしたら、やるから付いてこい」と僕ら熊4匹にえさを渡す。僕らは主人公の後につき一緒に春を探しに行く。というすばらしいストーリーである。って何が「そしたら、やるからついてこい」や。ええかげんにせえよ。トシヤ君。笑。あなたのおかげで未だに僕には、春が訪れていません。
追記 現在勝浦幼稚園は、残念なことに閉園し福祉児童施設に代わっております。何年か前、白組の時の先生に約45年ぶりに仕事で偶然再会しました。なんと勝浦に住んでいてお元気でした。僕のこと覚えていてくれたことに感謝します。感動で泣きそうでした。 第10話おわり
第11話 『勝浦の子供達よスイカ氷に誇りをもて』
たまには食べ物の話を。
「うって~。うって~。おばちゃんうって~。」勝浦の子供達は昔から駄菓子屋の玄関を入るときは、この言葉を言う。売ってください、という意味。勝浦の子供達は行儀がよいのだ。(ほんまかなぁ~。)「はい、はい、何にするんかいのお~。」駄菓子屋のおばちゃんは店の奥から現れる。僕らの子供の時は、勝浦小学校の入り口の所にイトウ、入り口の右側忠魂碑の隣にユミネ、 そして今の紀陽銀行の近くにこれまたイトウという駄菓子屋があった。小学校終わって家に帰り、ランドセル放り投げてお母ちゃんにもらった10円玉いくつか握って駄菓子屋へ行く。僕らタケちゃん、ナカシャ、タコちゃんの仲の町3馬鹿トリオは、ユミネ派だった。理由は特にない。「なあ、ナカシャ、タコちゃん誘ってスイカ氷食わへん」「ああ、ええねぇ。」僕らは5段ギアの自転車「ライダー号」でユミネに向かう。スイカ氷というのは、スイカを食べるときのあの形のステンレスの枠に氷を受けて棒状に割った竹を横から刺しその上にまたまた氷をかけてそのスイカの形をした枠を左右から力いっばい押してあのスイカの形にする氷である。食べやすいように竹の棒が刺さっておりそれをもって食べる。この氷の外側に緑色のシロップをかけ、内側に赤のシロップをかけるとスイカ氷である。これには、裏メニューがあって、外側に緑のシロップ、内側にレモン味の黄色のシロップをかけると黄色のスイカ氷である。大人になって聞いたのだがこのスイカ氷全国で勝浦にしかないとのこと。(ほんまか嘘かわかりません。)だから「勝浦の子供達よ。スイカ氷に誇りをもて」と僕は声を大にして言いたい。勝浦の名物やぞ。今は氷というと底のくぼんだガラスの皿に氷をかいてシロップをかけたり、あんこを乗せたりして食べる。そして、これを都会のマダムやOL達はフラッペとぬかしやがる。(おっと汚い言葉をはいてしまった。すいません。)僕らの子供の時の駄菓子屋の氷はガラスの皿の氷は無くウエハースの皿にのせた氷か、このスイカ氷だった。何年か前に仕事柄、東京で地方のアイスクリームフェアというものがあって、特別にスイカ氷で紀陽銀行の近くのイトウさんに出店していただいたことがある。ものすごく好評だったと覚えている。今は、残念ながら僕が知っていた駄菓子屋は、その紀陽銀行の近くのイトウしか残っていないが、スイカ氷は今もあるらしい。ぜひ皆さん食べてみてください。食べ方もコツがあり途中でぽろっと棒から氷が落ちる時があるんでご注意を。同じ所ばかり食べずあらゆる方向から真ん中に向かって食べてください。今もイトウから聞こえる。「うって~。うって~。おばちゃんうって~。」
第11話終わり
第12話『勝浦は、昔サンマで有名やったんやで』
勝浦に生まれ育った僕は、実家が、ひいじいちゃんの時代より約100年続くマグロの仲買で、マグロによって僕は大きくなったと言っても過言ではない。 実家は今、弟が継いでいるが、そのおかげで僕は観光の仕事に従事している。
仕事柄、勝浦の恩人というか巨匠にお話を伺うこともあるのだが、今回はTさんの話を元に勝浦の漁業のことを書きたいと思う。
明治、大正時代は、実は勝浦ではサンマ漁が盛んで、漁法は網を使った追い込み漁だった。「勝浦のサンマ船に乗らなければ漁師やない」とまでいわれた程サンマ漁が盛んだった。勝浦の駅前に佐藤春夫のサンマの碑があるがそれゆえんだろうか。明治末期になると勝浦に動力船が誕生。これでサンマやカツオなどが採られていた。大正時代初めのマグロ漁船は帆を付けた櫓船(ろせん)で非常に危険な漁だった。その後昭和初期には、エンジン付き木造船が建造され、カツオ1本づりとマグロの延縄漁法が兼業で行われていた。このころから船も大型化されていく。これが勝浦での本格的なマグロ漁のはじまりである。
戦後まもなくも勝浦のサンマ漁は大量続きであったが、東北の三陸沖で棒受網漁によるサンマ漁が行われるようになり勝浦のサンマ漁は衰退していく。その陰でサンマ漁からマグロ漁に移る漁師が多くなってきた。勝浦のマグロ漁も船の大型化また漁法の進化により盛んになっていった。そして水揚げ高も増え延縄漁法による生まぐろ水揚げ高日本一の町になっていくのである。
つまり、上記の通り勝浦は戦後まもなくまでサンマで有名だったのである。
今は、勝浦に揚がるサンマは東北地方で採れるサンマみたいに脂がのっているサンマではなく東北から勝浦に海流にのってやってくるまでに脂が落ちている
形も一回り小さいサンマである。脂があまりないのでサンマ寿司にできるし、一夜干しにもなる。次に僕が小学生の時の話。先に書いたが、僕の家は祖父、祖母、父、母、僕、弟2人の7人家族という大所帯だった。毎日夕方5時に家族全員で大きなテーブルで正座し夕食を食べる。台所の隣は洗面所だった。
その日のおかずはサンマの一夜干し。僕たちは「やっぱり、サンマはうまいのう。今日のは特にうまいね」とサンマを味わっていた。僕は、サンマの骨が苦手で、しっかり骨を取ってたべる。すると明治生まれの頑固一徹のおじいちゃんが「たけひろ、おまえ魚屋の子供がサンマ食べるのに骨ら取りやるんやない。おじいちゃん見ててみ、こうやって頭からかぶりつくんや。」とおじいちゃんは、頭も取らずサンマにかぶりついて食べて見せた。「うん、おじいちゃん、わかった。こうやろ」僕も、頭からかぶりついた。「そうや。それでこそ勝浦の子供や。魚屋の子や」そういっておじいちゃんは、サンマの一夜干しを何本か食べた。しばらくしておじいちゃんは、無言で立ち上がり隣の洗面所の方に行った。しはらくするとおじいちゃんの声が聞こえた。「ごほ、ごほ、おーい、悪いけど背中叩いてくれ、骨ささったわ。ごほ、ごほ」僕らはサンマを食べる手を休め笑い転げた。「おじいちゃん、さすが俺のおじいちゃんや。魚屋のおじいちゃんや。」 なんでやねん。
第 12話終わり
第13話『第1回まぐろ祭り。その1』
今回より僕が携わってきたイベントに関し後世に伝えるために(大げさやけど、語り伝えてもらう為に)覚えている事を書きます。但し記憶なので事実と違っている場合もあることをあらかじめご了承ください。また、すべて実名で書かせていただきます、ご了承ください。
僕は、平成5年の12月に那智勝浦町観光協会で働くようになった。当時観光協会は、今の海産物センターの3階を借りていて湯浅専務理事、中村女史、久保女史、そして僕の4名が常勤で会長は中村紘一郎会長だった。会長は協会に用があるときに来られるという感じだった。僕が入社して年があけた平成6年の初めのある日、観光協会に会長が来られて「前から思っていたんやけど、勝浦は生まぐろが有名や。そやけど、このまぐろに関するイベントが無い。もっともっと全国の人に勝浦の生まぐろを知ってもらうためにまぐろのイベントをやりたいと思ってるんや。もうすでに漁協の組合長や魚商の濱田理事長に話してるとこや」とまぐろのイベント開催について初めて話された。それから何日かして和歌山にある日本工宣という企画会社の斉藤さんが、観光協会に来られ会長、僕と湯浅専務とで当時の魚商、漁協、県鰹鮪漁業協同組合、旅館組合、役場(水産振興会)、民宿組合、商工会を周り再度中村会長の意志を伝え、承諾をいただき上記8団体共催で10月第4土曜日に「第1回まぐろ祭り」を魚市場で午前中開催することとなった。町の団体で力を合わせてイベントを行うという意味で共催の形を取った。実は、このまぐろ祭りは「まぐろ祭り」と書く。生まぐろにこだわる所からあえて「マグロ」と書かず「まぐろ」と書く。1回目から携わった方々のこだわりである。このまぐろ祭りには、まぐろ鍋が使われマグロ汁が無料配布されるが、白浜町にステンレス製の舟形の鍋に魚介類を入れて作る海人鍋がある。これを僕ら観光協会の職員と日本工宣の斉藤さんと、町観光産業課の中地さんとで視察に行き、どうせ作るなら日本一のまぐろ鍋をつくろやないかと三重県の業者に頼み、あのまぐろの形をしたまぐろ鍋が生まれたのである。制作費約100万。制作日数約3ヶ月。約2500人分のまぐろ汁ができる。底に3つのバーナーを備えたまぐろの形のステンレスの板を張った風呂みたいになっている。約22年使っている。まだまだ現役である。このまぐろ汁に合わせ、勝浦らしいまぐろ料理を作ろうやないかと当時の中之島の上田調理長を会長とした紀南調理師会の皆さん(勝浦だけやなく南紀地方の宿泊施設の調理長の集まり)が検討を重ねまぐろ汁が生まれたのである。勝浦のオリジナル料理なんやで。まぐろ汁は、まぐろ祭りの時に生まれたんやで。
第 13話終わり、第14話に続く。
第14話『第1回まぐろ祭り。その2』
やはり、まぐろ祭りの事を書き出すと1話で終わらすつもりが、終わらない。よって続きを書きます。
まぐろ汁は、今は前もって作ったまぐろのつみれを冷凍させたものを使っているが最初の頃はまぐろ祭りの前日から上田調理長が2500人分のつみれをミンチ状で夜通し作りそのミンチを10個くらいの樽につめて中之島からまぐろ祭りの始まる早朝に対岸の魚市場に連絡船で運ばれスタッフが道具で一個一個団子にしまぐろ鍋に入れていた。今のまぐろ汁もうまいが、このときのまぐろ汁は格別にうまかった。また、一頭造りも「一刀造り」と書いたりするが生まぐろ1本をまるまる捌くことから「一頭造り」と言う書き方にこだわっている。そして、まぐろ祭りのテーマソング「紀州まぐろ節」も誕生した。生まぐろ販売も、藤紀和会の踊りも、色川茶サービス等も1回目から続いている。
実は、このまぐろ祭りはたくさんの皆さんに支えられて今のまぐろ祭りまで発展したのだが、この第1回のまぐろ祭りの企画書を作ったのは僕と観光産業課の中地さんと日本工宣の斉藤さんの3人である。(自慢ではないがまぐろ祭りの企画を作ったのは僕ら3人だと声を大にして言いたい。)だから僕に取っては子供みたいなものであるし、まぐろ祭りとともに歩んできたといっても過言ではない。話もどして、第1回目のまぐろ祭りだが、これも実はの話だが、「あげいん熊野詣」と同じ日に行ったのである。午前中に魚市場で「第1回まぐろ祭り」午後は那智山で「あげいん熊野詣」という今思うと「ようやったなぁ」と思う。なんと、まぐろ祭りでは熊野那智大社の祈願祭と那智山青岸渡寺の高木副住職をはじめとした山伏の皆さんによる大護摩祈祷を魚市場の会場で行ったのである。大護摩祈祷の煙が会場内の火災報知器を鳴らし大変だったのも思い出である。山伏の皆さんはまぐろ祭りが終わったらマイクロバスで那智山へ直行。あげいんの大護摩祈祷を行うというハードスケジュールであったが、どちらも大成功であった。第1回まぐろ祭りより本年で23年。最初の2、3年は10月の第4土曜日、4回目頃から10回目頃までは2月第4土曜日、それ以降は1月の最終土曜日となっている。最初は来場者5000人くらいだったが生まぐろの町の「まぐろ祭り」として全国に定着して今は全国より1万5000人来場する。近郊の来場者も多いが、それ以上の県外からの来場も多くまたリピーターも多いと確信する。これがまぐろ祭り誕生の話である。僕は第1回より23回まぐろ祭り担当責任者として携わってきた。いろいろな壁がありそれを各協力者の皆さんのお力を借り乗り越えてきた。人と人のつながり。「吉野が言うんやったら力貸そか。」と言って協力していただいた方々。本当に感謝しています。勝浦の子供たちよ。どうかこのまぐろ祭りを30回、40回と続け、そしてもっともっと生まぐろの町那智勝浦町を全国否全世界に広げてなぁ~。おっちゃんも頑張るからなあ~。
第14話おわり
第15話『勝浦温泉花火大会の中止 1』
僕が携わったイベントとしてやはり花火大会の事は避けられない。多分この話を書くことにより反感を買うだろう。しかし、それでは、当時いっしょにやっていた各団体の皆さん、諸先輩達が自分たちの都合で花火大会をやめてしまったと思われ続けるだろう。事実を誰かが書かなくてはいけないと思う。だから当時の花火大会事務局責任者として後世に伝える為あえて書きます。実名で書くことお許しください。
前にも書いたが僕の観光協会への入社は、平成5年12月である。勝浦温泉花火大会は8月1日なので僕が事務局責任者として携わったのは、平成6年から平成16年までの11年間である。平成16年終了後に中止となた。この11年間各申請やプログラム作り、実行委員会や警備会議の資料造り等はほとんど僕ひとりでやっていた。花火業者との打ち合わせや台船関係は、久司さん、大江さんや井藤さん等の商工会の皆さんが行っていた。勝浦温泉花火大会は僕が生まれた昭和38年よりもっと前より続いていたと思う。僕たち観光協会が事務局を受け持つまで商工会や他の団体の皆さんが事務局を受け持ち行われていた。
昔から那智湾と勝浦湾で交互に行っていた。まず那智湾での花火の事を書くと、当時は那智漁協の奥の堤防も使い海上には丸濱組の台船が2台と、3カ所より花火が打ちあがりそれを出来たたばかりの那智海水浴場の階段溝に座り見学していた。海が舞台なので台船からは大玉の10号玉を打ち上げたり、海中自爆も名物となっていた。露天は今の臨海道路側の海水浴場駐車場に並んでいた。勝浦湾では、渡の島の堤防、海上に台船2台浮かべて打ち上げていたが、陸から台船までと台船からホテルまでの距離の規制により10号玉等の大玉や海中自爆等は無くそのかわり2台のクレーンで鉄線をつり上げたナイアガラの滝が名物だった。僕が初めに携わった平成6年頃も警備体制の規制は厳しく那智湾の時は勝浦御苑の裏側の堤防から木戸浦グランドの端まで10mごとに落下したときの為のロープを付けたブイの設置、足下を照らす電球の設置、臨海道路の陸橋の海側に落下しないように角材と虎ロープで柵の設置等し花火大会開始前より消防団の皆さんを初めとした担当者の見廻りを行っていた。運営本部と台船とのやりとりは、トランシーバーを使っていた。また、勝浦湾では、落下防止対策に、より厳しく役場側、木下水産物裏の岸壁から脇の谷の渡の島あたりまで丸濱組に頼みセメントで造ったブロックに角材を取り付けそれを約10メートルおきに岸壁に沿って並べていき端から端まで何キロもの虎ロープで4往復ぐらいして落下防止の柵を取り付けた。見学客はその内側で花火を見学するわけである。また、その柵に沿って10mおきにブイを置く。
。第15話終わり 第16話に続く
第16話『勝浦温泉花火大会の中止 2』
第15話の続き。張り巡らされたロープに沿って岸壁を担当者が見廻り続ける。那智湾の時は、次の日の朝掃除をすれば良かったが、勝浦湾の時は、次の朝から市場で競りが行われる。夜9時に終わり岸壁に張り巡らしたロープは丸濱組が片付けてくれたが、それ以外は全スタッフで片付け、きれいに道や会場内を掃除しなければならない。スタッフは、帰宅が夜12時をすぎるのはあたりまえだった。そんな感じで11年間携わったが年々警備体制の規制は厳しくなっていった。また、景気も悪くなってきて僕ら観光協会は約130件ぐらい職員5人で寄付集めにまわっていたが、(他の団体の方々も必死で何十件も集めていた)が、「すいません。観光協会です。花火の寄付をお願いしに来ました。よろしくお願いいたします」と深々と頭を下げて廻っても「この不景気に花火に寄付らできるか。」と怒鳴られても、「なんとかお願いできませんか」と何回も通ったり「今年は、出したるけど来年は来るなよ」とか言われ続けた。それでも僕ら共催の団体は「ありがとうございます。」と花火大会を成功させるため深々と頭を下げ続けたのである。「なんで、こんなにぼろくそ言われなやあかんねん」と事務所に帰ってきた皆は言っていたが、その何分後かには、また出かけていった。
そんな中、平成13年7月にあの明石花火大会での事故が起こった。その翌年の実行委員会で当然警備体制の強化が議題にでた。その日は特別に町長も出席していて、ある警備関係の幹部の方が、「今年の花火大会は、もっと実行委員会の方々に見回りを強化してもらわなあかんですね」と発言した。その時いつもは温厚な町長は、テーブルをバーンと叩き立ち上がって「見回りは実行委員会の皆さんじゃなく、君ら警備関係の仕事やろうが。君らがそんな気持ちでどうするんな」と大声で言った。それぐらいその年の花火大会開催には、ぴりぴりしていたのである。そして、その年の花火は無事終わった。そして、2年後の平成16年8月1日の花火も無事終わった。しかし平成14年から問題となっていた開催責任者の責任、そして年々むずかしくなってきていた運営資金集め、より厳しくなってきている警備等の規制を含んだ話し合いを平成16年秋に当時共催だった那智勝浦町観光協会、那智勝浦町商工会(現南紀くろしお商工会)、南紀勝浦温泉旅館組合、南紀湯川温泉旅館組合、勝浦漁業協同組合、那智漁業協同組合の代表者が集まり行い、苦渋の決断だが「今後この団体の代表の誰かが実行委員長になり全責任を負うことはむずかしい。また、我々団体だけでは運営資金の確保もむずかしい。」という理由で平成17年からの勝浦温泉花火大会を中止としたのである。他の協力団体やマスコミには、上記団体の連名で通知を出した。
これが、勝浦温泉花火大会が中止になったいきさつである。それから何年かたち今は役場が中心となって町民で行う花火大会となっている。本来町民の協力が不可欠なのである。非常に失礼な言い方になってしまうが、僕たち共催団体が中止にしたときは、花火大会を行うには町民の協力が足りなかったのである。この花火大会中止を良き教訓として町民全体で協力し今の花火大会がいつまでも続くことを1町民として願っている。
第16話おわり
第17話『内田のおやじ 1』
このイベントのシリーズを書くにつれ、やはりこの方の事を書かない訳にいかない。そう、内田のおやじこそ内田正年(うちだ せいねん)さんだ。
ご家族のご承諾を頂戴したので、有り難く書かせていただくこととします。
あえて親しみを込めて内田のおやじと呼ばせていただきます。
僕と内田のおやじとの出会いは、僕が幼稚園の時ぐらいなので、約50年前ぐらいになる。内田のおやじは、名前が正年。普通は「まさとし」だが、「せいねん」と読む。いつも「俺はいつでも青年の心をもったぁるんや。名前のごとくやで~。」と言っていた。内田のおやじは、東京目黒の出身で勝浦に来て先代の酒屋を継ぐこととなったと言っていた。「俺はシティボーイやぞ」といつも言っていた。確かにおしゃれで身に付けていた物も僕ら田舎坊主にも高いおしゃれな物と分かった。内田商店は、脇入りの真ん中にあり昔からの老舗で家の中になんと温泉がわき出ており近年足湯が流行ってきたときに、その泉源からパイプで店の前の入り江に足湯を造って通りすがりの観光客に自由に足湯を楽しんでもらっていた。内田のおやじは、僕のおとうちゃんも、おじいちゃんも知っていて「吉野とこのおじいちゃんは、テニスがうまて、そこの山縣のおいさんと俺と吉野とこのおじいちゃんとよう試合やったもんや。いつも俺が勝ったけどなぁ~。あははは。」と言ってたけど本当にうまかったのかは定かでない。内田のおやじは、子供が好きでそして、いろんな団体の責任者もやっていた。あの名少年野球クラブ「脇仲少年野球クラブ」僕はキャッチャー、ナカシャは、ファーストも面倒をみていた。(内田のおやじの教え方のせいか、僕らの実力かいつも負けていた。)でもすごく楽しかった。そしてボーイスカウト等子供達の為なら酒屋の仕事もほったらかしで全力でやる、おやじだった。
約15年位前、地元の子供達でシンデレラのミュージカルを体育文化会館で現在公明党で頑張られている浮島とも子さんが責任者(当時ミュージカル劇団の責任者)で行うときもボランティアスタッフの責任者として練習会場の申請や合宿のための宿泊所の手配や食事、風呂の手配等、子供達のために汗を流していた。僕が観光協会に入社してからも「あげいん熊野詣」の実行委員長(内田のおやじは、第1回より携わっていた)、観光協会の理事および監事等勤められていた。いつもおやじは、ポルシェやと言っていたが、若者が乗るスポーツカーで観光協会にやってきた。そしていつもでかい声でしゃべる。うるさいおやじだった。僕も声が大きいので二人で話をしていたら廻りのみんなはさぞかし迷惑だっただろう。僕が入社した時からすでに実行委員長だったので良くあげいん熊野詣について話した。
第17話おわり第18話に続く
第18話『内田のおやじ2』
17話の続きです。
自称ポルシェでやって来たおやじは、協会事務所の奥から覗かなくても声のでかさでやって来たのが分かる。「みんな元気か。おつ、○○ちやん。今日は一段とかわいいね。吉野おるか、吉野」と入ってくる。僕は隣の職員と「また、うるさい、おやじきたで~。」と眼で合図する。「内田さん、女の子からかったらセクハラになるで~。まあ、こっちへ座ってよ」と僕。「あほいえ、からかいやるんやない。ほめやるんや。なぁ~。○○ちゃん。」○○ちゃんも「あっ、はい」しか言えない。皆は「こまったもんや」と思っても、おやじの本当の姿を知っているので皆、尊敬していた。「なあ、吉野くん、今度のあげいん旗持つけど去年みたいに全部あるけんかもしれんなぁ」おやじは、そのころ体を壊し入退院を繰り返していた。平成26年の春頃の話である。「うん、しょうないね。出発式終わったら去年みたいに車で大社までいったらええやん。」「すまんのお」とおやじ。「ところで体の方はどうなん。」「うん、手術は成功やけどまだ油断できへんねや」「俺も年やからねぇ」おやじは、80歳を超えていた。しかし、調子のええ時は、ダンスもやっていたし見かけは健康そのものだった。おやじは、毎年夏ころから髭をのばし秋のあげいん熊野詣に備えて役作りをし実行委員長兼侍役で自前の侍の衣装を着て「あげいん熊野詣」と書かれた旗を持ち行列の先頭を歩いていた。その後日、おやじは入院した。僕達は入院したことを知らなかった。そして平成26年のあげいん熊野詣に参加することなく内田のおやじは、天国に旅だった。平成26年10月の第4日曜日。第28回あげいん熊野詣当日。僕は担当責任者として早朝から会場にいた。その日の天気予報は、降水確率90パーセント。早朝より曇っていた。僕は空を眺め心の中で叫んだ。「内田さん、頼むから雨降らさんどいてくれ~。頼むから俺らをまもってくれ~。」僕の叫びをおやじは聞いてくれたのか雨が降り出したのはすべての行事が終わってからだった。僕は再び空を眺めた「内田さん、おおきによ~。」「大成功やったで~。」きっとおやじも「ようやったなぁ~。」と言ってくれただろう。次の話はおやじが亡くなった後日、ご家族から聞いた話だが、おやじが天国に旅立とうとしているとき、実は枕元の携帯電話が鳴っていたそうだ。その時前にも書いたが僕たちはおやじが入院していることを知らなかった。その携帯電話をかけていたのは僕だったのだ。内田のおやじの携帯の最後の着信の名前は僕の名前だったと家族の方に教えていただいた。何かものすごく複雑な気持ちだったが、不思議な絆を感じた。今年の10月23日であげいん熊野詣も記念の第30回を迎える。「内田さん、雨降らしたら承知せんからな。頼むで~」そして「出来ることなら、おやじもう一回会って話したいよ~。」
第18話終わり
第19話『妖怪大戦争』
イベントシリーズから今までの形に戻っての第19話である。18話からちょっと間が開いたが終わったわけではありませんよ。100話めざして書きまっせぇ。読んでね。でわでわ第19話小学校低学年の話でありま~す。
「タコちゃんあそぼ~。」「あっタケちゃんとナカシャか~。どしたん。」どしたんって遊ぼと言うたんやから遊び来たのである。僕らの子供の時は今から考えるとおもろい会話しやたっなぁ~。「ねえ、タコちゃん、駅前の映画館あるやん。そこの看板に妖怪大戦争上映中ってものすごい怖わそうなポスター張ってたんやけど見に行かせん。3時から第2回目ってあったんやけど。なあ、ナカシャ」「うん、もんごい怖わそうやで~。でもおもろそうやで~。僕ら3時からの行こか思いやるんやけど、タコちゃん行かへん。おもろそうやで~。」僕とナカシャは、軽くタコちゃんを誘っているように見せたが、実はタイトルから2人で行くのが怖かったんである。「わかった。行くわ。俺ら仲の町の3馬鹿トリオやもんなぁ。堅い友情でむすばれとんもんなあ~。」なんのこっちゃ分からんが僕ら3馬鹿トリオは、貯めた小遣いをポケットに入れ愛自転車、自称「ライダー号」にまたがり駅前の映画館松竹座へ向かったのである。
当時勝浦には、バスターミナルの近くの寿座、駅前の松竹座そしてもう一軒映画館が会ったと思う。(あまり覚えてなく名前と、数に自信ありません)
受付のおばちゃんに、入場料を払い受付横の売店でコカコーラ3つと何故か「羽衣あられ」を1袋買って席についたのである。(当時僕の記憶では、映画館の売店イコール羽衣あられなのである。)スクリーンが暗くなり映画が始まった。
あらすじを簡単に説明すると、この映画は1968年大映制作で、江戸時代に海の向こうの遺跡のある国で墓荒らしが、4000年の眠りから吸血妖怪ダイモンをよみがえらせてしまう。南蛮船に乗って日本に上陸したダイモンは代官に憑依し次々と人々を吸血し殺してしまう。この代官の家に住んでいた河童がいつもの代官の姿と違うことに気づきその正体が外国妖怪のダイモンであることを知り仲間の妖怪達に伝える。このままでは日本中の人々がこのダイモンに殺されてしまうと思った妖怪達は日本中からダイモンと戦うため大集合する。河童、油すまし、青坊主、ろくろ首、二面女、雲外鏡、から傘、海坊主、ぬらりひょん、天狗、雪女等々日本中の日本の妖怪が力を合わせて日本人の為に、ものすごく強いダイモンに何度も何度もかかっていくのである。そしてとうとう最後にはその団結力がダイモンの息の根を止めるのである。子供心にもこの日本の妖怪達の人間を思う姿に泣きそうになった記憶がある。3馬鹿とも映画館から出てきたときは、すかすがしかった。「怖かったけど日本の妖怪ってええなぁ~。俺らもいつまでも友達やで~。」とタコちゃん。「あたりまえやんか。ダイモンかかってきてもやっつけたるわぁ~。」いつも調子のええ3馬鹿であった。 第19話おわり
追記 この「妖怪大戦争」は1968年に公開されましたが、2005年には、当時の有名俳優によりリニューアルされ公開されました。
第20話『ホテル浦島には、ケーブルカーがあったんやで』
記念すべき第20話である。たぶん今の若者(この表現嫌いなんやけどなぁ、自分がものすごく歳とったみたいで。まだまだ若いと思てるんで)は、知らんやろけどホテル浦島は、僕ら小学生の格好の遊び場でしたと言う話です。
「タケちゃんあそぼ~。」またまた、仲の町の2馬鹿小学生タコちゃんとナカシャが僕んちに遊びに来た。「どしたん。まあ、入りなぁ。おかあちゃん、タコちゃんとナカシャ来たから何か出したって。俺の部屋いこか。」「タケちゃん、何もないけどピーナッツサブレとカルピス後でもってたるわ。タコちゃん、ナカシマ君こんにちは、また3人で何か悪いこと考えるんやろ」とおかあちゃん。うちのお母ちゃんは、子供の僕のことをタケちゃん、タコちゃんのことをタコちゃん、なぜかナカシャはなかしま君と呼んでいた。「あほか。俺ら悪いことばかり考えやるんちゃうで。勉強の話するんやぞ。」と僕。「あんたら、吉本見過ぎで頭おかしなったんちゃうか。」とおかあちゃん。「じゃかましわ」と僕らは2階の僕の部屋へ行った。「なあ、タケちゃん、今度の日曜日浦島いかへん。ケーブルカー乗って狼煙山(ろうえんざん)いかへん」とタコちゃん。「ええやん。いこいこ。なあ、ナカシャ」「うん、いこら。あそこ動物園みたいになったあて、おもろいもんなぁ~。」当時、ホテル浦島には、本館横より今の山上館(狼煙山)までケーブルカーが走っていて僕らは桟橋から(ほんまは、宿泊客しかあかんのだが)、ボートに乗ってそのケーブルカーで狼煙山に登りそこにあるミニ動物園(羊やサル、うさぎ等がいた。今で言うふれあいコーナー)や遊具で遊んでいた。ボートの運転手が知っているおっちゃんで、「また、おまえらか」と言う顔でおっちゃんは、ボートに乗せてくれた。(浦島の皆さんほんまは、あきませんが、子供の時の話なんでごかんべんを)「はい、とっておきのデザートでございます。」とおかあちゃんがピーナッツサブレとカルピスを3つ持ってきた。「おおきに」3人は、うまそうに食べる。やっぱり濃いめに入れたカルピスは最高やった。カルピスは、濃いぐらいがええ。お母ちゃんは、よう分かっている。(なんのこっちゃ)
そして、日曜日僕らは、宿泊客に混じり浦島のケーブルカーに乗りに行った。当然そのころのホテルにケーブルカーがあるところなんて他になかったし、ましてや屋上にミニ動物園があるホテルなんて他にない。浦島って昔からすごかってんで~。僕ら小学生のパラダイスや~。このケーブルカーも時代の流れで1976年僕らが小学校卒業と同じ頃廃止となり今はミニ動物園が露天風呂に代わっており山上館には、エレベーターで上れ、またケーブルカーのレールのあった場所には、エスカーターと健康の為と階段が設置されている。
ケーブルカーとミニ動物園、最高の小学生の時の思い出である。
第20話おわり
第21話『祭り囃子がきこえる』
いつも書いている話は過去形の物が多いが、今回の話しは現在も続いている勝浦の伝統のお話です。
「オーレンヤ、ホウランゲー、ヨヤサノサッサ、ヨイヨイヨヤサー」かけ声に合わせて太鼓を叩く。トントコリンノトン、トントコリンノトン。旧勝浦(1区から6区)の勝浦町民なら口ずさめるし、太鼓のリズムも刻めるほど有名なかけ声である。そう勝浦八幡神社例大祭の櫂伝馬のかけ声である。今年も櫂伝馬や子供神輿の練習が始まっている。前にも書いたが僕ら男の子は小学生の時は子供神輿、そして中学生の時は、櫂伝馬の漕ぎ手になるのが僕らの誇りだった。
「おい、タケちゃん。おまえら中学生になったさか、櫂伝馬でるか」中学3年生の先輩から声をかけてもらい僕とナカシャと山ちゃんは櫂伝馬に出ることとなった。僕らの中学生の時の櫂伝馬は、大勝浦(1区)、脇仲(2区・3区)、小坂・神明(4区)、北浜(5区)、築地(6区)、そして保存会のあいゆう会の6隻があったと思う。僕ら脇仲は、約1週間前より毎日夕方練習があり観光桟橋から乗り込み勝浦湾内を2時間くらい漕ぎまくる。そして最後にホテル浦島前で海に飛び込み、浦島で風呂に入って帰るという練習だった。本番は赤のよれよれの膝までの衣装に、さらし、そして白パン(僕らはロンパンと言っていた)で神社境内などで、木の杖に餅に見立てた綿をつけた棒を片手に餅つきの唄を披露しその後櫂伝馬に乗り込んだ。祭りは子供神輿や少女達の踊り、山伏等、そして大人神輿のひとつ大黒さん(担ぎ手が顔を真っ黒に塗り、大黒天を乗せた神輿を担ぎ町中を練り歩く。今はあまりしないが観光客や町内の見物客の顔などに炭を塗りたくる。酒に酔っているので家の中まで入ってくる。僕ら子供はわざと炭を塗られるのが誇りだった)、そして2つめの大人の神輿は、夕方クライマックスでバスターミナルあたりから神輿ごと海に飛び込む。町を練り歩き最後にバスターミナルの所に来るのだが、なかなか海に飛び込まない。見物客はいつ飛び込むのか、待ち遠しくなるだが、その気持ちが最高潮に達したときに海に飛び込む。見物客の歓声が響く。その海に飛び込んだ神輿にロープを掛け櫂伝馬で引っ張り合う。そこが一番の祭りの見せ場だ。その櫂伝馬の漕ぎ手に僕らは、中学3年間なれた。今夜も遠くから聞こえてくる。
「オーレンヤ、ホーランゲー、ヨイヤノサッサ、ヨイヨイヨヤサー。」
トントコリンノトン、トントコリンノトン。
第21話おわり
第22話『餅まき好き好きおばちゃん』
21話から少し間が空きましたが、まだまだ書きますよ。22話です。
「タケちゃん、明日の1時から桟橋のとこで餅まきあるんやて。お母ちゃんにゆうたって。」「うん、おばちゃんおおきに。」隣のおばちゃんが通りがけに明日の餅まきを教えてくれた。「お母ちゃん、隣のおばちゃんが、明日1時から桟橋のとこで餅まきあるゆうてたで~。」「ほんまか。隣のおばちゃん、餅取りの名人やさかなぁ~。」そういう家のお母ちゃんもなかなかのもんやと思う。
今は無くなってしまったが僕の小学生頃はまだマグロ船の船首のおっちゃんも町内に多く結構頻繁に餅まきが桟橋のところ等で行われていた。勝浦の餅まき(餅ほりとも言うが、大量にまくので餅まきと言う方が合っていると思う)は、新しくマグロ船を造船したときはもちろん、家を新築したときは、家主らが家の屋根上から大量に餅をまく。マグロ船の場合は、船の上から岸壁に集まっている餅まき大好きおばちゃん達の固まりに向かってまく。まく餅も白や赤というかピンクの餅、気前が良ければその餅の中に50円や500円、5円が入っている。大きさも小さいのからCD位の大きさまで様々であった。そして餅まきの情報は瞬く間に旧勝浦町内を伝わりゆく。僕は観光の仕事をやっているので、イベント等で餅まきをやるのだが、餅まき命のおばちゃん達は昔も今も時間に厳しく予定より早く行うなんてもってのほか、5分遅れようものなら苦情の嵐である。それだけおばちゃん達は必死である。と言うわけで翌日僕とお母ちゃんは、1時前に観光桟橋の所へ出かけた。新しい船には、大漁旗が飾られ岸壁には、まるで背中に「餅まき命」と書いているようなおばちゃんやおいちゃんがわんさかいた。おばちゃん達は、みんなエプロンをしている。プロはほとんどその場から動かない。自分の縄張りを持っていてその縄張りに入ろうものならただですまない。おばちゃん達はエプロンの両端を持ちその中に自分の方にまかれた餅を拾うのである。いや、拾うのではない。かき取るのである。船首達に向かって「おいさん、こっちやで~。こっちほらな後で怖いで~。」とおばちゃんたち。船首たちはそこめがけてほらなしょうないがな~。そんなこんなでプロのおばちゃん達は毎回何十個と餅を持って帰るのである。だからあんなにぶくぶく太ってるんやろか。
えっおまえはどうなんやって。僕は10個がやっとだった。お母ちゃんはセミプロなんで、結構拾っていた。帰り際お母ちゃんは「明日から1週間おやつ餅やで~。」そんなせっしょうな~。 第22話終わり
第23話『僕らのおやつ はったいこ』
新作でございます。
「おかあちゃん、腹減った~。」小学校から帰ってきた僕は「ただいま」の代わりにいつもこの言葉である。4時間目が終わってから給食を5分で(しかもお代わりし)超ハイスピードで食べ、昼休みの時間を目一杯ドッチボールをやる僕たちは給食だけで満足する訳なく学校から帰るとおやつ(今のスイーツとかなんとか言うおしゃれなもんやないで~)を食べていた。「おかえり、うーん、はったいこやったらあるで~。タケちゃんそれ食べとき」「はったいこか。まあ、ええわ。うまいし。でも昨日もはったいこやったで~。」「つべこべいわんとたべときな。」「わかったよ。」ここまで書いてああ、あれか。とお分かりになった方は、多分50歳以上の方でしょう。はったいことは、はったい粉と書き大麦をあぶって粉にしたものである。これを茶碗にスプーンで何杯かすくい、砂糖を少し入れ、その中にお湯を少し入れ箸で混ぜ混ぜするのである。
すると、なんて言うか、簡単に言えば灰色のソフトクリームみたいになるのである。それをスプーンですくい食べるとたちまち笑顔になるのである。
ただしソフトクリームみたいにきれいな色じゃなく灰色なのであまりおいしそうに見えないが、僕たちそのころの子供も大人もその魔法にとりつかれたのである。
スプーンではったい粉を茶碗に入れるのだからスプーンで混ぜ混ぜしたらええやないかと思うだろうが、駄目なのである。箸でないと。先祖代々吉野家の言い伝えなのである。(すいません。冗談です)でも何故か箸の方が混ぜ混ぜしやすくおいしくなるのである。味はちょっと粉っぽいソフトクリームかな。
後で知ったがこれが、整腸剤の代わりになるそうである。
このはったいこを茶碗一杯食べただけで満足した。毎日でも良かった。子供心においしいおやつだったのである。インターネットのヤホーで調べたら結構色んなレシピが載っていた。それはそれで良いのだが、僕らはやはりオーソドックス(なのかな)な食べ方が好きであった。好きであったと書いたが、もう何十年も食べてない。40年位かな。ぜひ知らない若者も一度食べてみてほしいと思う。最近この懐かし話を書いていて無性に食べたくなった。今度どこかで買ってきて混ぜ混ぜしよっと。 混ぜ混ぜ。
第23話おわり
第24話『おまぜ』
なんとすばらしい言葉「おまぜ」、なんと分かりやすい言葉「おまぜ」
たった3文字「おまぜ」、勝浦の人間で知らん人はいないと思う「おまぜ」
とっても丁寧な言葉「お」がついている「おまぜ」、
ちょっとエッチな言葉「おまぜ」、泣いている赤ん坊が泣きやむかどうか分 からない言葉「おまぜ」、その状態がそのまま言葉になった「おまぜ」
聞いただけでよだれが出てくる「おまぜ」、みんな大好き「おまぜ」
とっても簡単「おまぜ」、みんなでわいわい「おまぜ」、
何がなんでも「おまぜ」おーまーぜー(なんのこっちゃ。叫んでしまいまし た)
はい、新作です。23話に続き今回も食べ物の話です。つまり「おまぜ」で す。
インターネットのヤホーとゴーグル(お父さん、このまま覚えたらあかんで。 笑われるで~。)で調べたら、詳しく書いてあるだろうが、 あえてタケちゃん風にいうと、冠婚葬祭でおっちゃんやおばちゃんやご近所さん等、とにかく人がいっぱい集まるときにおかずやごはん用意するの大変なんで、手っ取り早く作れる保存がきく五目寿司である。にんじん、しいたけ、ごほう、たけのこ等を細かく刻んで甘辛く炊き、酢でしめたまぐろ(勝浦は、まぐろ)を、すし桶に入れた酢飯に入れて混ぜ混ぜ(この言葉大好きです) するのである。このおまぜに肉じゃがや鯖のみそ煮などおかずを付けてはいけない。何故かそんなおかずを作る時間がないのでおまぜを作るからである。(あくまで個人的な意見です)。僕の実家ではおまぜに「なます」と別虎かま ぼこの切ったのと、吸いもん(おすまし)であった。おまぜは、寿司なんで 日持ちがする。祭りのときや忙しいときは大量に作り朝、昼、晩おまぜである。さめてもおいしいし、おにぎりにしても最高である。遠足のときや運動 会の時もおまぜである。うちのおかあちゃんは、忙しいときはとにかく子供 にはおまぜ食べさせといたらええやろと思っていたと思う。
僕は(多分僕だけやなしに勝浦の子供みんな)、このおまぜが大好きで
一度に茶碗10杯食べたときもあった。今は、そんな量食べれないが、未だ に好きで3食おまぜと吸いもんでも文句言わない。逆にうれしい。
おまぜに綺麗な言葉は似合わない。食べるとか、おいしいとか似合わない。
「おまぜは、とにかく食うたら、うまいんじゃ~。」である。
こんなん書きやったら食べたなってきた。あ~、おまぜ食いたいよ~。
僕らの味方お~ま~ぜ~。 第24話終わり
第25話『山口熊野忌』
今回は、少し赴きを変えて歴史的なお話を。でわでわ第25話でありまーす。
皆さん、山口熊野って知ってますか。山口県と熊野地方ちゃいますよ。
人の名前で「やまぐち ゆや」と読みます。この方何をされた方と言いますと、紀勢本線(紀伊半島の鉄道ですな)の敷設に関わった大功労者なんですな。
この方が居なかったら、今僕らはJRで和歌山や大阪へ又は大阪から勝浦へと
列車移動が出来なかった訳です。ものすごく和歌山にとって大事な方であり未来永劫に語り継いで行かねばならない方であります。この方は、天治元年(1864年)11月11日に今の那智勝浦町浦神にお生まれになるのであります。
医者の息子で本人も一時医者を目指しますが、政治家になるのであります。
政治家になった熊野氏は、紀伊半島に鉄道を走らせる事に尽力されるのです。
そして昭和25年6月24日85歳でお亡くなりになるのです。この山口熊野翁の頌徳碑(しょうとくひ)が那智勝浦町の那智駅前にあり観光協会では、国鉄職員が行っていたのを引き継ぎ昭和60年頃より毎年菩提寺である浦神の海蔵寺のご住職にお願いし、またご親族のご参列をいただき命日の6月24日に那智駅前で山口熊野忌を行っていたのである。昔から観光協会は鉄道の事にも全力で力を入れていたのである。観光協会主催で初めに町長や国鉄関係等の来賓挨拶、協会長挨拶、ご親族代表挨拶に続き海蔵寺ご住職の読経と続く。
6月24日前には役場の職員や当時の国鉄職員、観光協会の職員でこの山口熊野翁の頌徳碑の周りの草刈りをやったり掃除をしたりして綺麗にする。そして6月24日に山口熊野忌をおごそかに行うのである。
平成12年の50回忌が終わった時にご親族の方に「熊野が亡くなってから50年。今まで鉄道関係の皆様、観光協会の皆様等大変お世話になりました。本当に感謝申し上げます。これからは、親族中心にやっていきますので、ご了承ください。今まで本当にありがとうございました。熊野も大変喜んでいると思います。」と大変ご丁寧な御礼の言葉をいただいた。勝浦の子供達よ。那智勝浦町には君たちがやがて進学や就職で県外に出たときに胸を張って語れる偉大な方がたくさんいるんやで~。那智勝浦町ってすごいとこなんやで~。
そして、それを未来永劫に語り継いでもらいたいと切に思う。
また、那智勝浦町を訪れた観光客の皆様、ぜひとも那智駅の山口熊野翁の頌徳碑を訪れていただきたいと思います。隣にはサッカーを初めて日本に伝えた中村覚え助の碑もあります。
第25話おわり
第26話『世界リゾート博』
25話からしばらく間が空いたが、実はこの話を書くため昔の資料を読み返し ていたのである。ちゃんと勉強もしてるのよ~。でわでわ26話です。
皆さんは、和歌山マリーナシティがかなり前にリゾート施設として建設され今に至ると思っていませんか。実は、この和歌山マリーナシティでとてつもないことがあったのであります。平成5年の12月に那智勝浦町観光協会に入社した僕は年が明けた年頭に専務理事YさんとN協会長に「吉野君、今年の7月から和歌山市で世界リゾート博という博覧会があってその中の紀の国温泉館というパビリオンで勝浦の温泉もPRすることになったんや。和歌山県の5つの温泉地が週替わりで3ヶ月の期間その地元からタンクに温泉入れて会場まで運ばなあかんのや。」僕は入社したてだったのでそれがどれだけ勝浦のPRになるのかわからなかったけど、温泉を運ぶとは、何かすごいことやるなと思ったのである。N協会長「温泉は湯川のきよもんの湯や、2トントラックにタンク積んで5週間に1回運ぶんや。それを会場でわかし直して入ってもらう。運送会社は手配できると思う。それで吉野君、観光課の連中と何回か勝浦温泉の週に温泉館に行って勝浦のパンフ使ってPRしてくれへんか」僕は、当然仕事なんで「わかりました。」と即答した。世界リゾート博について簡単に説明すると、和歌山市沖に造成した人工島「和歌山マリーナシティ」で平成6年7月16日から9月25日までの約3ヶ月間行われた地方博覧会。バブル崩壊前で3ヶ月で298万人訪れた。前年に阪和自動車道が全通しており、和歌山駅、和歌山市駅、海南駅からは直通バスも運行された。和歌山館等のパビリオンも約30ありその中でも南太平洋ビレッジでは、サモアから現地の方々が来てカヌー体験や夕方からはファイヤーショーとか行っていて人気があった。
そのなかでの紀の国温泉館である。僕も温泉館での勝浦温泉のPRの時は、1週間ホテルに泊まり込みで頑張ったのである。もちろん外国の方も来る。得意の英語じゃなくジェスチャーで答える。(当たり前だが中々通じなくて苦労した)。温泉館はパビリオンの中に露天風呂のセットがあり1週間の温泉地のPRが終わったらすぐに次の温泉地の温泉に入れ替える。来館者はいくらか払いその温泉を楽しむ。入り口がありその奥で男湯と女湯に分かれている。僕らは入り口の近くのパンフレット置き場で観光PRを行う。他の温泉地もそうだったが、なかなかの賑わいだつた。休憩時間等にかわりばんこで他のパビリオンも見て回った。当然パビリオンなので、きれいなかわいいコンパニオンがいる。当然タケちゃんは、声をかける。「那智勝浦町の吉野と言います。紀の国温泉館で観光PRしてるんで、休憩時間とかにきてね」っと。でも世の中そんなに甘くありません。来るのはきれいなかわいいコンパニオンじゃなく、その側で聞いていた
パンフレットの整理をしたりしているおばちゃんや、掃除のおばちゃん達である。
夕方になったら早番の仕事終わりのおばちゃん達は 「吉野くん、来たよ~。さあ、風呂はいろか」僕は内心「なんで、おばちゃんばっかしやねん」と思いながらも「あっ、○○さん、ほんまに来てくれたんですね。ゆっくりつかっててよ。うれしいな~。」と答える。当時僕は、30歳で独身。今のように太ってなくスマートであった。でも今でもそうだが、相手にされるのはおばちゃん達だけである。(すいません。小説なのでここの部分盛ってますんで)。あと期間中一番仲良しになれたのは、サモアのおっちゃん達であった。なんでやねん。
第26話終わり
第27話『南紀熊野体験博その1』
第26話に世界リゾート博のことを書いたが、次はやはり体験博のことも書かなくてはいけないでしょう。でわでわ27話でございます。
早いもので、南紀熊野体験博が開催されて17年たったのであります。
1999年4月29日から9月19日までの144日間田辺市の新庄総合公園と那智勝浦町の海水浴場駐車場をシンボルパークとして囲いのない自然が舞台の博覧会が開催されたのであります。期間中で約290万人の方が訪れたのである。那智勝浦町のシンボルパークでは、松本零氏の制作した南紀くまのエクスプレスという体感シアターや、オープンステージ、マリンスポーツゾーン、
水中展望船くまりんの運行や会場とくまりんの乗り場をつなぐシーサイドトレインの運行等があり毎晩夜に短時間だが花火が打ち上げられた。また大門坂茶屋では、平安衣装の体験も行われ今も続いている。オープンステージでは、有名歌手や演奏家等のステージも行われた。また、期間中様々な体験イベントやウォーク等も行われ100万人の熊野詣というテーマも生まれた。勝浦の会場内には、熊野牛等の特産物を使った食品や各地の特産品販売のブースも並び大変にぎわった。9月19日のフィナーレイベントの一万人の熊野詣では、毎年行っているあげいん熊野詣を体験博の期間に合わせて那智山を舞台に行うことになっており観光協会もスタッフの中心として加わっていた。当時体育文化会館の事務所内に体験博推進室が設けられ役場の各課より職員が派遣され準備運営に当たっていた。その一万人の熊野詣の詳細打ち合わせを1回目より観光協会と推進室、そして和歌山県内のイベント会社の担当者が入って行ったが、このイベント会社担当者がくせ者だった。悪口を言うわけではないが、いかにも業者マンですと業界用語連発、自信満々の男で僕らが何かアイデアをいうと「それグッドですね。まかせてください。大丈夫ですよ。」ばかり言っていた。そして推進室の担当者の方が「すいませんが、あと1ヶ月で詳細の書かれた企画書やスケジュールを県の事務所に提出することになっているんですが大丈夫ですか」と聞くと「ばっちりです。僕らプロですから1週間で仕上げますよ」と言った。しかしその後1週間立っても2週間立っても企画書ができあがってこない。推進室の担当者が催促しても「申し訳ありません。すぐできあがりますよ。」の一点張り。結局観光協会の僕と推進室の担当者で詳細企画書とスケジュール等制作した。この1万人の熊野詣は、ファイナルイベントとして企画されていて約200名の参加者で、 その模様をカメラで写しシンボルパークの会場で生中継することにもなっていた。しかし、台風の関係でその日の朝は警報が出て中止となった。昼からは、台風一過で晴れ間が見えて警報が解かれたので予定されていた閉会式は行われた。
この日和歌山のイベント会社の担当者は一万人の熊野詣は、一切手伝わず閉会式の準備をしていたのである。 、
閉会式の担当者が他にちゃんといたのにである。僕と推進室の担当者やスタッフは朝早くから中止が決まるまで、レインコートは着ていたが役に立たずびしょ濡れになりながら看板等取り付けていたのにである。「あいつとは、絶対に今後いっしょに仕事せえへん」といつも温厚な推進室の担当者は本気で怒っていた。僕も絶対に許せん。そいつとは、たまに顔を合わせるが、社交辞令の挨拶しかしない。推進室の担当者は何年か前に定年で退職されたが、たまに合うと同じまぐろ祭りを作り上げたスタッフとしてまぐろ祭りの話と必ずこの体験博の時の話しになる。悪口を書きたいわけではない。一万人の熊野詣のスタッフ全員を裏切った事が許せないのである。話変わって、中止になった一万人の熊野詣だが、イベント中止保険に入っていたので参加申し込みをしていただいた方全員に連絡し当初の人数には至らなかったが保険金で1ヶ月後にあげいん熊野詣として開催しました。
第27話おわり 第28話に続く
第28話『南紀熊野体験博その2』
サブタイトル 「甲斐さんが体験博にやってきた」
前回に続き体験博の話であるが、やはり我が青春のすべてである甲斐よしひろさんの事を書かずにはおかない。たぶん止められないならその話しだけで30話くらい書ける気がする。かなり感情が入ってますが、あしからす゛。
体験博も終盤に入った1999年8月12日のことである。ふと職場である観光協会の事務所のカウンター奥に張られている体験博のポスターに眼が釘付けになった。「8/13甲斐よしひろ~スペシャル・アコースティック・セット~Guy Band」と載っているではないか。「え~。うそやろ~。甲斐さんが体験博にくるんか~。え~。いつやん。え~、明日やないか。うそやろ~。」私としたことが。いつも通っているカウンターの奥に何日か前に体験博のポスターが貼り替えられているのを気づかずにいたのだ。「あかん、なにがなんでも行く。絶対行く。」と殺気だった眼で「局長すいません、明日体験博で僕がこの世で一番好きな歌手のコンサートがあります。次の日からなんでもやります。明日休みください。」とお願いした。局長は割とあっさり「ええよ。」と返事。「あ~。良かった。神様、仏様、局長様~。」 と心の中で思った。そしてコンサート当日、僕は嫁と2歳の娘と家から歩いて10分の会場に向かった。かなり早く行ったので僕達は前から2番目の真ん中からやや左よりに腰掛けて待っていた。しかし開演時間が近づくにつれすごい人が集まり立ち見まで出来た。ステージはオープンステージで、ステージの後方は列車の線路が走っていた。開演前のステージには左からフェンダーのプレジションベース・ナチュラルカラー、真ん中にはギブソンのJ-45というアコースティックギター、その後ろにドラムセット、右側にはエレアコとフェンダーのストラトキャスターが立てかけられていた。そして開演。ステージ横からサポートメンバーのドラムス(すいません。名前覚えてません)、ギターの鎌田ジョージ、そしてなんと、なんとベースは甲斐バンドのメンバーで名ドラムスの松藤英男、僕はその姿を見た途端に思い切り「松藤~」と叫んでました。そしてそして我らが甲斐よしひろが登場。その時も「甲斐~」と叫んでました。2歳の娘を抱いて。 甲斐さんは、白のTシャツに黒のベスト、黒のジーンズとラフな格好。ギブソンのJ-45を左利きでかき鳴らす。「かっこええ~。やっぱ違う」と僕は夢心地。始まる前特急が通ったので甲斐さんは「特急がとおってからやろうか」と皆に呼びかけ「この地方に来たのは初めてです」と挨拶した。しかし違うのである。甲斐バンドのアルバム「誘惑」が発売された直後隣の市の新宮市民会館で甲斐バンドのコンサートを行っているのである。当時僕は高校生、しっかり見ましたよ。
体験博の時の曲目は、1曲目 野生の馬、2曲目破れたハートを売り物に、3曲目安奈、4曲目裏切りの街角、5曲目レイニードライブ、6曲目風吹く街角、7曲目風の中の火のように、8曲目アウトロー、9曲目HERO、10曲目バス通りの10曲だった。ライブでも中々演奏されない野生の馬、甲斐バンドデビュー曲のバス通りをやってくれたのは、さすが甲斐さん。約1時間のステージだった。10曲終わってもアンコールの声は鳴りやまなかったが甲斐さんは、「1時間のステージなんだ。これ以上やると怒られるんだよ」との言葉を残しステージを後にした。僕は娘に向かって「よかったやろ」と分かるはずもないけどつぶやいた。娘はにっこり笑った。嫁さんも以前から僕に散々甲斐バンドの曲を聴かされていたので満足そうであった。この日の模様は翌日の新聞にも載った。その記事を僕は今も大事に持っている。あとこの時の写真は、取材に来ていた新聞記者の方に「頼みます、新聞に載ってからでええから下さい、新聞に載った写真だけでもええから」と頼みに頼みその方は良い方でフィルム1本分ネガごともらった。これも僕の宝物である。本当は甲斐さんのアップの画像載せたいのだが、すいません、許可いただいてないので遠くからの画像で勘弁してください。とにかく僕の生まれた土地に甲斐さん達は来てくれ、そして歌って演奏してくれた。一生忘れない大切な一日である。もちろん今も甲斐さんのファンである。甲斐さんを呼んだスタッフの方、あなた方は、本当に偉い、すばらしい。心から感謝いたします。
第28話終わり
第29話『僕らの遊び基地づくり』
パソコンの調子が悪くしばらく更新できませんでしたが、終わった訳ではありませんぞ。まだまだ書きますよ。でわでわ29話小学生4年生頃の話であります。
「なあ、タコちゃんとなかしゃ。新しい基地作りに行かへんか。前の基地大分古なってき て遊べんようになってきたやん。なあ、明日休みやから行かへん。」と僕。 基地って何やねん。って思われている方。もうちょっとお待ちを。この話読んでいくと分かるんで。「ええねぇ。行こ。行こ。めちゃくちゃかっこええ基地つくろや。なあ、なかしゃ」「そうやねぇ。材料もすぐ集まるやろ。俺集めとくわ。」なかしゃもうれし そうにそう言った。「頼むで、なかしゃ。よっしや。そしたら明日朝9時になかしゃと こ集まろら。」「うん、わかった。じぁね。」学校帰りに僕ら仲の町3バカトリオは、固 い男の約束を結んだのである。基地を作るには古くなったまぐろ船で使っていたしび縄、板切れ、かなづち、くぎ、ひも、そして枯れ葉や笹そして太書きの何色かの油性マジッ ク、基地が出来上がったとき食べるお菓子とジュース。まあこんだけあればいいてしょ う。しび縄は、桟橋に行けばそこら中に捨ててあったものをお裾分けしていただいて(捨ててあるの拾ってくるのだが)、板きれは、市場へ行くと古くなってこれまた、使わなくなったトロ箱をくずして板きれにし使う。これを何枚か用意する。金槌とかは家から借りてくる。つまり材料はただである。そして翌日 、我らの愛車仮面ライダー号(自転車)にまたがり、なかしゃんちへ集まった。「なかしまくーん。あそぼー。」「おう、いこか、今日のお菓子は、サッポロポテトバーベキュー味やぞ。そしてファンタグレープやぞ。どえらいやろ」なかしゃの家は、酒屋でお菓子もジュースもいっぱいあるのである。しかも最先端のものが。「うそ、バーベキュー味なん。俺今日 で食べるの3回目や。どえらいげ。さすがなかしゃ。ちゅうしたろか。」「あほか、気持ち悪いわ」それから僕らは、材料を手にし歩いて勝浦小学校の裏山へ行った。 4本のある程度太い木を探し飛び降りると降りれる高さのところに□の字に板を打ち付ける。そして平行にその上50センチくらいのところに左と右と奥に板を打ち付ける。はじめの下の板に田の字に板をはわす。そして、しび縄を奧から手前、左から右へと編み目になるよう掛けていく。しび縄の編み目ベットが出来上がると、その上に枯れ葉と笹を集めてきて敷きしめる。そして手前の木の目立つところに基地の名前を太マジックで書き打ち付けるのである。
いわゆる木を利用したベットを作るのである。これが僕らにとっての秘密の基地である。「なあ、基地の名前なんにする。」タコちゃんが聞いた。「そうやな~。仲の町トリオハウスにしよら。」となかしゃ。「なんか、もうちょっとかっこようならんかな。」と僕。「仲の町グレートデラックハウスにしよら。」「ええやん。どえらいげ。」 単純に僕らは、すごいとか、でかいとか強いとかいう英語を並べたらええと思っていたアホであった。その名前を板にへたくそな字で書いて釘で打ち付けた。「それでは、我々の基地完成を祝ってかんぱーい。」ファンタグレープの缶で乾杯。そしてサッポロポテトバーベキュー味をほおばる。そして3人そろって叫んだ。「お~。ベリーグレートデラックスおいし~い。」ほんまに幸せな奴らであった。 第29話終わり。
第30話『僕らの前にドラゴンが現れたのだ』
今年の夏位から遺書(死ぬわけちゃうで)みたいに書き始めて早30話になりました。正直ここまで、書けるとは思っておりませんでした。これもすべて僕の努力のおかげです。(いやいや、すいません。読んでいただいた皆様のおかげでございます。まじて感謝いたします。)
でわ、でわ記念すべき第30話でございます。
「なあ、たけちゃん、今度かおりみなとから日本にきた映画しったあるか。ものすごいかっこええらしいで。」なかしゃが、登校してきて僕らに聞いてきた。小学6年生の時のことである。「あほか、あれかおりみなとって書いてほんこんってよむんやぞ。おれもまちごたけど。しったあるで。ブルース・リーやろ」と僕。「カンフーって中国の空手みたいのの天才で、上半身筋肉ぎゅうぎゅうらしいで。うちのお父ちゃん、言いやったけどヌンチャクいう棒2本ひもでくくったもん、びゅーん、びゅーん振り回して悪党やっつけるんやて。」と僕。「都会でものすごい映画流行ったあるらしいで。今度松竹座へ来るんやて、燃えよ・ドラゴン言うんやて」となかしゃ。「そうか、みんなで見にいこら。」とタコちゃん。「おう、見にいこら」と僕となかしゃが答えた。当時色々なものが流行っていて、教科書を十時に止めて持ち歩くブックベルト、その先か後か忘れ又呼び名も忘れたが、段ボールみたいな厚紙で出来た四角い箱形のブックケース等があった。そんな中で僕らの眼の前に奴は現れたのである。そう、ドラゴン、はるか香港からやってきたカンフーの達人ブルース・リーその人である。後日映画を見た僕ら仲の町3バカトリオは、全国の男性がかかったブルースリー病にご多分にもれず、犯されてしまったのである。高倉の健さんの映画見た人が皆その後健さんのまねをするように、映画館を出た瞬間に僕らは「アチョー、アチョ、アチョー」の連呼である。その日の晩から、男たちは腹筋と腕立て伏せを始めるのである。僕らも当然行った。家の部屋には、ブルースリーのポスターを貼り、オモチャ屋で、プラスチックのヌンチャクを買って(僕のおとうちゃんは、通販で木のヌンチャク買いました)振り回していた。もちろんブルースリーの映画は勝浦で上映されたのは全部見たのである。レコードも持っていた。ブルースリーの映画は色んなストーリーがあるが、大体ある店で雇われているブルースリーがその店に悪党が借金や何らかで言いがかりを付けられ、その悪党の手下と店で一番強いと言われている男と戦って
悪党の手下にやられてしまう。店が困っているとブルースリーが私に任せてくださいと悪党の陣地に向かい手下の弱いものから順に倒していく。そして一番強い手下との戦いで、だいたい一度はブルースリーは倒れる。その後傷を負ったブルースリーはカンフー着の上着を脱ぎ捨て、腰に差していたヌンチャクが登場するのである。
そしてしばらく戦、相手はたいがい倒されて死んでしまう。そして最後に悪投の親分と戦い苦戦の末勝つのである。このストーリーに、そして格好よさに男はやられたのである。今は、便利な世の中で、いつでもインターネットとかで映画を見ることが出来る。今見ても格好ええ。小学6年の時の話である。さて、腕立て伏せやろかな。 「アーチョー」
第30話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第31話『メジロの鳴き合わせ会』
久しぶりの更新であります。終わったわけでは、ありませんぞ。ちょっと仕事が忙しく更新出来ませんでした。僕の作品の全国1千万のファンの皆様お待たせしました。
まだまだ書きまっせ。でわでわ、第31話であります。
「たけひろ、悪いけどメジロのえさ作ってくれんか。」「ああ、ええよ」
お父ちゃんに頼まれ、学校が休みの時は、朝早くからメジロのえさやりを手伝っていた。 小学生の頃の話である。僕の実家は、明治の中位に建てられた築100年くらいの家で
玄関をあけると奧まで長い通路がありその通路にそって部屋が建てられており奧には、 池があり縁側もあるいわゆる田舎の家である。玄関側を表、奥の部屋を裏と読んでいる。 その玄関のところにいつもメジロの鳥かごをかけており裏の方には、メジロが20羽、 ウグイスが5羽飼われていた。竹で作った鳥かごに前と後ろにとまり木を付けてその木 の間をメジロたちは行き来するのである。1羽につきひとつの鳥かごである。今は野鳥の乱獲によりメジロとかの捕獲、飼育は禁止されているらしいが、約40年前は届け てをしていると捕獲も飼育も許されていた。僕のお父ちゃんも届け出をしており、仲買 の仕事とが休みの土曜日には、めじろを捕獲に行ったりしていた。めじろは、鳥もうちで捕獲していた。そんなんで、僕は休みの時メジロのえさやりを手伝っていたのである。
大根の葉っぱやったと思うが、すり鉢ですりそれをおちょこみたいな物に耳かきみたい なへらで8分目くらい入れる。それをかごに取り付けていた。その間お父ちゃんは、鳥 かごの底についた糞を掃除していた。勝浦では、月に何回か日曜日の午後メジロの泣き 合わせ会が、地元のお寺の境内で行われており、僕もよくお父ちゃんに連れて行っても らった。メジロはスズメより小さく緑色しており眼のまわりに白色の輪があるのが特色 で早春に椿や梅に群がる。「チーチー」と雄だけが鳴く。鳴き合わせ会はそれぞれ鳴き 声がきれいなメジロを持ち寄りある時間で一番きれいで良く鳴いたメジロが優勝だっ た。僕のお父ちゃんの飼っているメジロも何度か優勝したことがある。いつまで続い たのか分からないが、僕が高校に行くころには、実家には、もうメジロもウグイスも いなかったと思う。鳴き合わせもいつの間にかなくなっていった。昔は結構メジロ飼っ ている家あったんやけどなぁ~。僕の実家には昔使っていた 鳥かごがまだいくつか残 っている。たまに実家に帰って縁側にすわり池の金魚を見ていると近くに直している 鳥かごに眼がいくことがある。一生懸命すり鉢をすったのを思い出す。幼い頃のお父ち ゃんとの良き思い出である。
第31話おわり
第32話『バスターミナル』
しばらくぶりでございます。今回の話はその姿が無くなったのはおそらくそんなに昔じゃないと思う物である。たぶん20年もたっていないと思う。でわでわ32話です。
勝浦のど真ん中、たけちゃん坊ちゃんの生まれ育った仲の町と魚市場のある築地との境目にバスターミナルがある。字のごとくバスの駐車場で役場の所有物で我が観光協会に管理委託されている駐車場である。勝浦のど真ん中なので、周りにはおみやげ物屋さん、パン屋さん、肉屋さん、酒屋さん、銀行、飲食店がある。今はバスが前後に14台くらい、自家用車が20台くらい停められる駐車場で、一角に事務所とトイレがある。近くには
ホテル浦島と中の島に渡る連絡船乗り場である観光桟橋があり、夕方には観光バスを降りた観光客が海沿いにバスターミナルから桟橋まで歩く姿がよく見られる。
僕はまだ生まれていなかったので知らないが、年輩の方に聞くとここは遠い昔入り江で
埋め立てられ前のバスターミナルが出来たという話である。今回書きたいのは実は今のバスターミナルの話でなく、一つ前のバスターミナルについてである。僕らが生まれてから
今から約15年程前までのバスターミナルである。覚えておられる方も多いと思うが、その当時のバスターミナルは、2階建てで、2階は展望台というかベンチがおいてありゆつたりと座って休憩できるようになっていたのである。天井には朝顔があちこちに咲いているようなラッパ型の屋根が付けられておりその2階からは観光桟橋、ホテル浦島、中の島、もつと右に昔の越の湯、桟橋の所には今は万清楼となつているが、金波というホテルが見えた。またはるか向こうには、カブト島、鶴島などの紀の松島が見えた。それらを見ながらのんびり出来たのである。また、。この2階に続く階段が僕はたぶん生まれて初めて見たと思うモダンな螺旋階段が取り付けられておりなかなかおしゃれであった。この2階で当時の新婚旅行のカップル(表現が古いね~。もっと前はアベックとも言いました。)が
ゆっくり海を眺めていたりしたもんだ。その横で僕ら仲の町3バカトリオは走り回っていたのである。この螺旋階段も絶好の遊び場だった。1階には確か事務所とトイレが合ったと思う。今から思うとなかなかのモダンな建物だったと思う。このバスターミナルでは、遙か昔よりお盆の時期にやぐらが設置され旧勝浦地区の盆踊りが夜中まで行われていた。露天も出ていて炭坑節や勝浦音頭、めはり音頭などに合わせ地元民だけでなく帰省者や観光客も入れ混じり夜中まで踊りまくるのである。そんな盆踊りも何年か前に消えてしまった。時代の流れかな。寂しい気がする。また、勝浦幼稚園の時には、子供たちによる火の用心パレードでこのバスターミナルでも演奏した懐かしい場所でもある。勝浦幼稚園は閉園してしまつた。(現在は他の保育園が引き継いで子供パレードを行っています)ただ、前にも小説に書いたがこのバスターミナルの前の勝浦港では、9月の中頃勝浦八幡神社例大祭の階伝馬や大人の御輿の海中御輿神事が行われる。伝統の祭りだ。いつまでも続いてほしいと思う。バスターミナルたかが、バスターミナル。僕にとっては幼き思い出の建物である。
第32話終わり
第33話『タッチごっこ』
淀川長治さん風に はい、皆さんこんばんわ、久々の更新ですね~。ちょっと間があきましたが、ごめんなさいですね~。タッチといってもタッちゃんと南の話じゃありませんよ~。ま~、読んでからのおたのしみですね~。それでは、31話です。また、最後にお逢いしましょう。さいなら、さいなら、さいなら。
はい、ということでタッチごっこでございます。これも勝浦小学校時代のお話です。
「おーい、昼休みタッチごつこやろらよ。」タコちゃんが、給食の僕らの大好物カレー汁を食べている(正確には飲んでいる、カレーは飲み物です。)クラスの男子(お~懐かしい呼び方や)に呼びかけた。「お~、ええね~、やろら~、体育館集合やぞ」ナカシャが答えた。そして他の皆も「お~、分かった、ズルズル」とカレー汁を飲みながら答えた。
昼休みのチャイムが鳴り5分で給食を全部食べた男子(その頃の僕らは5分でコッペパン1本、メインのおかず、小皿のおかず、牛乳1本を平らげるのなんて朝飯前、僕は3分で食べ終わっていた。そうじゃないと生きていけない。家の家族は7人家族で5人男でいつもおかず゛の取り合いである。必然的に早食い大食いになる)は、もうダッシュで体育館へ。急がないと他のクラスに体育館をとられるのである。タッチごっこは、ほぼ体育館全体を使うのである。男子全部で16名くらい。「そしたらグッパーやぞ、せーの」でグーかパーをだす。グーチーム8人とパーチーム8人に分かれる。簡単に言うとグーチームとパーチームに分かれた2チームは、舞台側の壁と反対の壁とを各陣地として体育館中を走り回る。そのときに相手チームのメンバーにタッチしたら相手の陣地の壁に片手をついて
とらえられる。2人目のとらえたメンバーは一人目と片手ずつで手をつなぐ。その捕らえられた一番新しいメンバーにまだ生きているメンバーがタッチできると、捕らえられたメンバーが生き返りまた体育館中を走れ回れる。時間内で生きているメンバーの多い方が勝ちという非常に疲れるが僕らにとっては非常に闘争心のあおられる遊びである。
各陣地の壁に分かれたチームは「それでは、タッチごっこはじめ~」のかけ声で走り回る。さわられそうになるとふんわり交わす。なかなか忍者みたいな奴もいる。
体育館シューズには底に滑り止めみたいな感じになっていて思い切り走ってキューキューと方向を変える奴。うまく出来ず壁に激突するアホ、せっかく助けるのにタッチしようと思って行ったのによそ見をしていて助けられないこれもアホ等いた。このタッチごっこ僕らの勝浦小学校では、そう呼んでいたが他の地域は分からないし、こんなハードな遊びがあったんだろうか。昼休み全力で走り回った男子たちは、5時間目は皆、頭の中はおねむりごっこであった。
はい、どうでしたか、タッチごっこ、それではまた次回お逢いしましょう。さいなら、さいなら、さいなら。
第33話終わり
第34話『勝浦の子供はあだ名付け名人なのだ』
今回はちょっと趣向を変えて勝浦の子供(僕らの小学校から中学校の時)の得意技あだ名付けについて書きたいと思う。前にある大阪出身のタレントが子供の時の友達たちのあだ名を紹介していて大爆笑したが、勝浦の子供も負けてません。でわでわ第34話でございます。
僕の友達のあだ名が続きます。あだ名とその次に理由が続きます。
トシヤくん( 字のごとく名前がとしや)、タコちゃん(鼻が悪くいつもくしゅくしゅしていて口をタコみたいにしているので)、山ちゃん(やまじ君だが初めの山だけとって)、
おっちゃま(おおたに君だがおっちゃんやおじさんだったら普通なので)、ほしばーさん
(ほしば君の事おばーさんのことちゃうで)、ほくろ(鼻の横に大きなほくろがある ちなみに僕のこと)たけのこ(名前がたけひろなので これも僕のこと)、ナカシャ(なかしまが30回くらい変化したらナカシャ)、フランケン(顔がそのもの)、梅干し殿下 (顔がそのもの)、てるちゃん(てるゆきのてるにちゃんをつけただけ)、ペンギン( ペンギンみたいな歩き方するので)、マッチ(角刈りが伸びてきたが髪の毛かたいのでそのままあらゆる方向にぴーんと伸びていてまるでマッチみたいだから)、ケンタン(けんいちなので。ケンちゃんやったらかわいすぎるので)、なべっち(なべわりをかわいく)
おったん (おっさんみたいやから) 、あんちゃん(あんだ君のこと)、ばば(名前がばば)
教授(坂本龍一氏ににているため)、せいぶつぶつぶつ(顔ににきびがいっぱい)、コンコン
(キツネみたいな顔していたから)、しまもっちゃん(名前がしまもとなので)
タケちゃん(名前がたけひろ 僕のこと)、ちゃっかん(かつや君のかっちゃんを並べ替え)さるくん(名前がまさる)、はまっちゃん(はまち君)、くにやん(くにとし君)、きみやん (きみかず君)、きたさん(名前の初めに北がつく)、にしやん(名前のはじめに西がつく)、さーくん(さとし君)、まーくん(まなぶ君)、へこき(屁ばっかりしている)、きんた(金田君)、ペリカン(あごが出てる)、はまっちゃん(はまち君)、よっちゃん(よしのり君),
がいこつ(やせているから)、おやじ(おやじみたいやから)、むっつん(むつみ君)、 しおちゃん(名前に塩がつく)、はまぐっちゃん(はまぐち君) 、おおえまん(おおえ君)、
みーくん(みなみ君)、だいちゃん(だいき君)、かんちゃん(かんじ君)
まだ、あるけどこれくらいにしときます。これらのあだなの方に対し決してけなすつもりはなく、親しみを込めて上げさせていただきました。又、あだ名を無断で掲載したことをお許しください。あしからず。
第34話 終わり
第35話『仮面ライダースナック』
はい、第35話でございます。実はこの話は前々から書くべきかどうか迷っておりました。勝浦だけの懐かし話やないからです。他の話書きながら、さて次に書くかなと思っても全国的な懐かし話ということで書けずにおりましたが、やはり勝浦の子供たちも、とりつかれたということで思いきって書きます。でわでわ始まり、始まり。
「やった~、ラッキーカードや。アルバムもらえるぞ。見したろか~。」ナカシャがユミネの前で叫んだ。ユミネというのは、勝浦小学校の近くの駄菓子屋である。僕ら仲の町3バカトリオをはじめ旧勝浦の子供たちのたまり場で、愛車(車ちゃうで~、自転車でっせ)のライダー号にまたがりやってきたのだった。「うそ~、もんごいげ~。タコちゃん、ナカシャ、ラッキーカード当てたぞ。どえらいげ~。」と僕。(現物目の前にして確かに嘘やないのに人はなぜはじめにうそ~、っていうんやろ不思議やなぁ~)。仮面ライダースナック。カルビーが1971年つまり僕たちが小学2年生の時から販売した カード付きのお菓子である。今のお菓子詰め合わせに入っているちょっとミニサイズの袋にピンク色の星形の甘いスナック菓子が入っていて、その1袋に1枚当時爆発的な人気があった仮面ライダーの怪人たちの写真が写っているカードがもらえる。もらえると書いたのは、実はこのカードスナックの袋の中に入っているのではなく、店の人が一袋に1枚くれるのである。この仮面ライダースナック1袋20円でこのライダーカードは何百種類もありこのカード集めるのが僕らの心を射止めたのである。僕らは完全にノックアウトされたのである。毎日ありったけの小遣いもってライダー号にまたがりユミネへ向かう日々がつづくのである。このカードのすごいとこは、今思うと表に怪人の写真、裏に通し番号と怪人の解説が書いている。つまりこのカードをたくさん集めると仮面ライダーに登場する怪人の図鑑が完成するのである。またまたこのカードのすごいとこは、同じ番号でも微妙に図柄が違うプレミアカードがあったことである。このカードの中には、かなり低い確率で、ラッキーカードと書かれたカードが入っておりそのカードをカルビーの工場に送るとカードが200枚位入るアルバムがもらえる。しかし実はラッキーカードと交換になるのでラッキーカードはもどってこない。だから現在このラッキーカードはヤクオフとかでかなりのプレミアとなっている。その後ラッキーカードが戻ってこないことに苦情が多発しカルビー側は印を押して返却するようになったそうだ。また、僕はおいしくて好きだったのだが、このスナック、カードほしさで店の前ではスナックだけが大量に捨てられているという社会問題となって店側は回収箱を置いたりした。ところでナカシャのラッキーカード仮面ライダー1号が富士山をバックにして変身ポーズをしているカードだったのたが、実はこのラッキーカード、僕ら勝浦の小学生の中で都市前説があった。ある時タコちゃんがそれを他の友達から聞いてきて僕らにこういった。「仮面ライダーカードのラッキーカードやけど幻のラッキーカードってあるんやって」僕らは「うそ~、どんなんなん、早よ教えてよ」
「ええか、よう聞けよ。幻のラッキーカード言うのはな、本郷猛がトイレ入って便器にまたがってう○こしやるとこやって」僕ら全員「そんな、アホな~」その後、僕らの中で
幻のラッキーカードを当てたものは、いない。 第35話 終わり
第36話『たこ焼き売りのおばちゃん』
以前行商のおばちゃんの事を書きましたが、勝浦にはまだまだ面白にくめないおばちゃんがおったのであります。さて、久しぶりに幼稚園時代までタイムスリップであります。てわでわ第36話です。
それは、約半世紀前(おっちゃんも歳とったなぁ~、50年前やもんなぁ~)誉れある勝浦幼稚園時代の話である。おかっぱ坊ちゃん借りのタケちゃん(僕ちんのことであります)の小遣いは1日10円であった。かなりの悪たれ坊主だったタケちゃんは、年小組から幼稚園には入れてもらえず2年目から入園した。その時に未だに友達であるナカシャとタコちゃんたちと出会うのである。ここからタケちゃんの人生はアホな方へ狂い出すのです。当時行商のおばちゃんもそうだが屋台とかで町内を廻るおばちゃんたちがおり、その中で屋台を引いてたこ焼きを売るおばちゃん(今から考えるとおばあちゃんやね)がいたのである。使い込んだ木でできた屋台。大きな車輪がついていて屋台の中にはたこ焼き用の鉄板、プロパンガス、水で溶いたメリケン粉(今メリケン粉って言うものおるんかな、うどん粉とも言います。要するに小麦粉のことね)の入ったバケツと手しゃく、きれいな水道水の入ったバケツ、鉄板の横には大きなカンカンに入った秘伝(ほんまかいな)のソースにハケ、青のりが入ったカンカン、鰹節の入ったカンカン、紅ショウガの入ったカンカン、つまようじの入ったカンカン、タコのぶづ切りの入ったタッパー、船型の竹の皮で出来た入れ物、そして必殺仕事人が持っている千枚通し(たこ焼きをくるっとひっくり返すあの先のとんがったあれです)を置いていた。そして屋台のバケツの横には古新聞をある大きさに切った包み紙を置いていた、薄汚れた屋台ののれんには、たこ焼きと手書きでかかれていた。また、おばちゃん屋台には呼び鈴も付けられていた。僕ら仲の町3バカトリオは良く幼稚園終わってから午後まわってくるたこ焼き売りのおばちゃんの屋台でたこ焼きを買った。当時は、たこ焼きかユミネ商店の駄菓子である。たこ焼きは、本当いうとタコそのものを焼いているものでなく、「タコの切れ端と紅ショウガがはいったメリケン粉でと丸く包んだもの焼き」が正しい名前ではなかろうか。おばちゃんは、子供が小遣いでも買えるように3個10円の物と大人用15個50円で売っていた。「たこ焼き~、たこ焼きいらんかいのし~。チリン、チリン」僕らは紅葉のようなかわいい手に10円握りしめて「おばちゃん、うって~、たこ焼きうって~」と天使のようなかわいい声でおばちゃんからたこ焼き3個買うのである。「あいよ、タケちゃんらいつもおおきによ。ちょっとまってな~」「おばちゃん、はよしてよ~、腹へっておなかとせなかくっつくわ~」「ほんまかいなぁ~、そしたらお母さんにくっついたのはがしてもらわなあかんがな~。あはははっ」と言いながらおばちゃんは、まず舟形の入れものの底に一度ハケで秘伝のソースを塗り千枚通しでカリカリに焼けた(最近べちゃっとなっているたこ焼きあるけど、たこ焼きはカリカリやないとあきまへん。)たこ焼き3個を取り上げ舟形の入れ物に乗せその上がまた秘伝のソースをハケで塗りその上にまず鰹節の粉をかけ、その後青のりをぱらぱら。そしてつまようじを1本たてる。(まったくの独断だがたこ焼きは、かりかりで入れ物の底にソース一度塗り、たこ焼き入れてもう一度上からソース塗り、後ここが肝心だが、つまようじを1本しか差さないたこ焼き屋はろくな店ではありまぜん。いくつ入りかにもよりますが10個以上入っているならお客さんが分けて食べるだろうと思って2、3本つまようじを入れるべきである。入れてない店はお客さんのこと考えてません。あくまで独断ですが。)「はい、10円ね、おおきによ。走ってこけたらあかんで~、気つけなあよ~。」「だいじょうぶやよ、おばちゃんおおきに~、あ~」案の定タケちゃんは、つまづいてこけるのである。僕らには3秒ルールというのがあって落とした物は、3秒以内なら食べても大丈夫というアホなルールがあるが、一度こけたら中々立ち上がれないのでこのルール通用しない。僕が困った今にも泣き出しそうな顔をしているとおばちゃんは、「いわんこっちゃない、アホやね~、ほれ」といって新しいたこ焼きをくれた。この時ほどおばちゃんが、神様に見えたときはない。「おばちゃん、ほんまおおきに、おおきによ~」
「あいよ~」そう言っておばちゃんは、また屋台を引いて行ってしまった。
「たこ焼き、たこ焼きいらんかいのし~。」
追伸 おばちゃんの屋台は、夏になるとたこ焼きとワラビ餅も売っていました。
第36話終わり
第37話『春咲半島半島キャンペーン』
いや、いやまた久しぶりの更新になってしまいました。趣味の音楽活動と本業の観光のお仕事(俺はいったい何者なんや~)が、忙しく今になってしましました。
(えっ、言い訳はええから早よ、書けって。わかってまんがな。全国1千万のタケちゃんファンの皆様長らくお待たせいたしました。本業の観光のお仕事の昔懐かし話でございます。でわでわ第37話のはじまりはじまり~。)
と言う事で、春咲半島キャンペーンである。僕が観光協会の狭き門をくぐり抜け超難関の面接試験を通って(本人だけ、そう思とります。はい。) 入社した平成の初め頃は、南紀の旅ぽかぽかキャンペーンとかエージェント(横文字の方がかっこええでしょ。つまり旅行会社のことです)と共同で観光客を勝浦方面に呼び込むキャンペーンをよく行っていた。(今もありますが、その時の方が年間での数が多かったかな)その中でJR西日本和歌山支社が事務局となり、南部町から新宮市までの「きのくに線」沿線を中心とした13市町村(当時) で実行委員会を作り平成8年頃から約10年位 続いたキャンペーンである。つまり当時から南紀の各市町村はこの実行委員会等でつながりが深く非常に仲が良かったのである。だから僕なんかも20年近く友好を続けていただいている方もあちこちの市町村におり非常にうれしい限りです。このキャンペーン春咲半島と書き(はるさきはんとう)と読み、春に花がたくさん咲く半島と春先の意味もあり1月にはすでに菜の花が所々に咲くほど暖かく日本でもっとも早く春が来るのが南紀であるという意味を持っていた。毎年12月1日から翌年の3月31日までの121日間の期間であり、各市町村とJRが負担金を出し合いろんな企画を考えた。最初の年には、イメージキャラクターに当時のトップアイドル西田ひかるさんが、採用され那智山とかでポスターやCMの撮影が行われアイドル大好きタケちやんも仕事で撮影に同行させていただいたのである。手元の当時の資料によると太地町の梶取崎、鯨浜公園、串本町の潮岬などで菜の花やすいせん等により春らしさを演出しますとある。また、キャンペーンのサービスとして白浜駅での「海人鍋」、紀伊勝浦駅での「まぐろ汁」の無料配布など行い、駅に到着した観光客に当時の温泉娘(勝浦のキャンペーンガール)より菜の花のプレゼント等行った。又、期間中春咲半島再発見クイズやマウンテンバイクスタンプラリーなども行った。またまた、期間中の土、休日「春咲くろしお号」の運行も行われた。約20年前のキャンペーンだが、オーシャンアロー号が運行を始めたときでもあり多くの観光客が南紀にやってきたのである。この春咲キャンペーン、紀伊半島の世界遺産登録に伴い古道キャンペーンと名前や企画内容も変わりしばらく続いたが、その後円満解散した。今はエージェントと共同でのキャンペーンという形は変わり、県の観光連盟等のもと各市町村の観光関係職員がグループで全国の旅行会社やマスコミを廻ったり、主要都市の会場でエージェントやマスコミの方を集めて観光PRや商談会を行う形に変わってきている。春咲半島キャンペーン入社したての若造が、無我夢中で取り組んだ良き思い出である。
第37話 終わり
第38話『温泉娘』
はい、前回の春咲半島キャンペーにもちょこっと登場しましたが、今回も本業の観光のお仕事に関する那智勝浦町昔懐かし話であります。でわでわ第38話であります。
「なあ、吉野さん、そろそろ来年の温泉娘の募集記事新聞に載せやなあかんね。」
観光協会の同僚であるI さんが僕に尋ねた。「そうすね。もう12月入ったから紀南新聞と南紀州新聞に記事載せますか。あと記者クラブにも情報流しときましょ。」「そうやね。来年もかわいい娘応募してきてくれたらええけどなぁ」
温泉娘というのは、那智勝浦町観光協会に所属する那智勝浦町のキャンペーンガール
である。僕が平成5年に狭き門(えっ、もうその冗談はええって、すいません)を突破して観光協会に入社したのだがすでにその時には、温泉娘が存在したのだからおそらく30年近く前から那智勝浦町のキャンペーンガールとして頑張っていたことになる。温泉娘は、字のごとく那智勝浦町は、温泉と生まぐろ(当時はまだ、世界遺産に登録されていなかったのて、世界遺産の町という言葉は後で付け加えられました。)の町であるためそのキャッチフレーズにふさわしい名前として温泉娘と言う名がついていた。1年任期で4月から翌年の3月まで平安衣装によつての観光キャンペーン参加やテレビや雑誌のモデル、ラジオの出演、各イベントへの参加等全国に出かけたりしていた。人数は4人から5人で
前年の1月から3月上旬まで各新聞や雑誌、ラジオ等(当時はまだインターネットというものが無く当然ホームページやfacebookとか言う物が無かったのであります。携帯もありませんでした。)で応募し、履歴書と全身の写真を提出していただき、三役と局長と担当のIさんによって厳重(ほんまかいな)の面接を行い温泉娘を決めていた。
応募資格は18歳以上の健康で明るい女性、1年通して要望があれば出張可能な方、容姿端麗、高校生不可という主な内容であった。勝浦在住でなくても大阪とか地方でのキャンペーンに参加できれば採用したりもした。制服も僕が入社した頃はこちらの女性社員が決めたりしていたが,その内温泉娘たちでいくつかある候補から選ばして購入したりした。基本的に帽子、上下の制服、靴、たすきを用意し1年間貸与しその年が終われば本人にプレゼントした。出張費は実費支払い、また1回PR活動に参加ごとに規定の日当を支払い、1年間終了時規定により謝礼金を支払っていた。どこかのキャンペーンガールみたいに外国旅行プレゼントとかは、なかったが、皆非常に那智勝浦町のために頑張っていただいたと思う。同僚のIさんは、僕より5年遅く入社したのでその5年間は僕が温泉娘担当だった。東京や大阪でのキャンペーンに同行したり、他の市町村の方々といっしょにマスコミやエージェント廻ったりもした。この温泉娘世界遺産登録前年くらいまで続き、予算の関係や、キャンペーンの時は県のキャンペーンガールも出席するのでそちらにお任せする等の理由で無くなった。今は県のキャンペーンガールと共に観光協会の女性職員が平安衣装とかでPRを行っている。この温泉娘の中から実は、プロのモデルになったりタレントになったりした方もいる。本人のため名前は伏せるが、和歌山で有名なスーパーのCMで一番前で踊っている彼女も温泉娘出身である。おそらくこの話をごらんの方々の中には
昔温泉娘だった方、お母さんや姉妹、友達が温泉娘だった方もいらっしゃると思う。
温泉娘だったことをいつまでも誇りに思っていただければと思う。この話も良き思い出のひとつである。 第38話終わり
第39話『学研の科学と学習』
ちょっと間が開きましたが、第39話です。今年中に50話行きたいと思ってますが、どうなるか。今回の話は勝浦だけでなく全国的に懐かしい話になると思いますが、僕らの小学生の時の話であります。でわでわ39話であります。
「はーい、みんな聞いてよ。明日学習と科学の販売日やから頼んだある人は、集金袋にお金入れてもってきてよ。忘れんようにね。ちゃんと連絡ノートに書くんやで~」
「はーい」皆元気良く返事。小学6年生の時の話。「タコちゃん、明日科学の発売日やと。先月号に載ったあたけど今度の付録日光カメラやぞ。」と僕。「うそ。ほんまかん。日光カメラほしかったんや。楽しみやね。」僕の斜め前に座っているタコちゃんは、いつものごとく鼻を くしゅくしゅしながらニコニコ顔でそう答えた。それを聞いていた僕の向かいに座っているナカシャは、「日光カメラかん。どえらいええげ。貸してよ。僕学習やさかに。頼むで、タケちゃん」「ああ、ええよ。300億兆万円で貸したるわ。」と僕。
「ほんま、安いね。400億兆万円払うわ。頼むで~。」とナカシャ。相変わらず仲の町3バカトリオの会話である。学研の科学と学習とは、僕のパソコンのアホーで調べたら
1946年学習研究社より創刊。内容は当時の学習指導要覧に対応しており1年生から6年生まで各学年別に「学習」と「科学」の2種類があり確か月刊だったと思う。
「学習」は、主に国語と社会を中心に編集。読み物が多かった。「科学」は、主に理科と算数を中心に編集。立体編集と銘打ってページの一部をハサミでちょっきんこしたり、折り曲げたりして何かを作り上げたりする読者が体で学べる工夫がされていた。またこの2種類の雑誌がすごいのは、永井豪氏や石ノ森章太郎氏のマンガが載っていたり、ムツゴロウさんが、原稿を寄せていたりしたのがすごい。またまた付録がすごかった。一例をあげると「科学」は、日光カメラ、レコードプレーヤー、カブトガニ飼育セット、磁石、ラジオ、顕微鏡、「学習」は、年賀状制作キット、鉱石セット、地図記号スタンプなどである。この「学習」と「科学」僕らの母校勝浦小学校では1階の端に給食室があり、少し離れて購買部があり、発売日に子供たちが集金袋に入れたお金をもって昼休みに交換に行く事になっていた。そして僕ら3バカトリオは、その週の休みの日僕の家に集まり早速「日光カメラを手に入れた記念グレートダイナミックスペシャル撮影会 」(前にも書いたが僕らはなんでもグレートとかキングとか付けたらすごいと思ってました。)を開催したのであります。モデルはタコちゃん。付録のカメラについていたフィルム(というかどうか分かりません)をセットしタコちゃんはポーズ。しばらく動かずそのまま。そして撮影終了。
しばらくすると タコちゃんの姿がフィルムに浮かび上がってきた。「これ、あかんやん、顔まがったあるやん」とタコちゃん。「いや、実物より男前やで。」と僕とナカシャ。
「アホか、俺仲の町のアランドロンやぞ。こんなに顔曲がる分けないやん」とタコちゃん。それを言う顔がもうすでに曲がっていたのであります。小学生の時のほんわか思い出であります。ちなみに、2009年「学習」、2010年「科学」より休刊となりました。 これも時代の流れなんですね。 第39話 終わり
第40話『生まぐろ1本付き出前解体プレゼントキャンペーン』
記念すべき第40回である。やはりここは、那智勝浦町の観光の歴史、そして我が観光協会の約60年の歴史に燦然と輝くキャンペーン、そう「生まぐろ1本付き出前解体プレゼントキャンペーン」のことを書かざるを得まい。後世のために。でわでわ第40話であります。
「あかんわ~。課長受け入れてくれへん。どうしよう」それは、平成22年の 11月末の話である。行政の方は分かると思うがこの時期は来年度の予算獲得のために必死になり来年度の事業を明確にし予算書を作成するタイムリミットの時期なのである。僕は次長として予算書の作成をまかされ当時の会長や理事、職員等と相談し来年度の新しい企画を取り入れた予算書を作成し局長と一緒に観光産業課のT課長に説明にいっていたのである。
「う~ん、この企画で観光客呼べるか、今までとほとんど同じやないか、悪いけどもう一回考えてくれんか。」町民の方の税金である、取る方も必死なら決める方も必死である。
何回か皆で検討し直したあと僕が「毎月まぐろ1本当たるのどうやろ、今まで裁いてブロックとかプレゼントとかあったけど、1本ってなかったんやない。」皆は、「そうやなぁ~。ええかもしれん。企画書作ってくれるか」「分かりました」そして、なんと僕は5分で企画書と予算書を作り上げ局長と共にT課長の所へ。「毎月生まぐろ1本プレゼントか。おもろいかもしれんなぁ~。う~ん。そうや、どうせ生まぐろやるんやったら解体できるやろ、解体もプレゼントせぇ。」とT課長。「生まぐろの解体プレゼントですか。たとえば全国どこでも行きますとか。」「そう、それや、今までどこにもないぞ。マスコミ飛びつくぞ。それやれ。よっしゃ~、ええぞ。来年は生まぐろ1本付き出前解体プレゼントキャンペーンや、ええぞ。」と言う風にこれも何と5分で決まった。子供たちよ、良く聞いて置いてください。「ええアイデアは時間かけたら出るんやないんやで。ひらめきなんや。」そして平成23年4月から1年間このキャンペーンを行うこととなった。でも案の定、周りからは「そんなもんで、観光客よべるかい。あかん、あかん」ってぼろくそ言われたりした。またまた子供たちよ、よう聞いて置いてください。「正しいものほどけなされたり、批判されるんやで~。そこであきらめるのか、最後までやるのかなんやで~。」このキャンペーンは、簡単に説明すると那智勝浦町の宿泊施設に泊まると一人につき1枚応募券がもらえそれをフロントにある箱に入れる。そして全宿泊施設の応募券を毎月初めに観光協会職員が集めに行きマスコミの前で抽選会をし1名当選者を決め希望日に自宅等にワゴン車にスタッフとまぐろを積んで出前解体をやりに行くという物だ。生まぐろは、キハダかメバチで約20キロを氷詰め。平成23年から平成25年まで3年続いた。非常に好評で多いときは月に2万枚の応募券数のときもあった。3年間なので合計36回だが、あの台風の被害でこちらから行けなかった、またどうしても当選者が出前解体を断る等で計32回全国を廻った。和歌山市の和歌浦の旅館にも湯浅町のお宅にも行った。スタッフは、解体、助士に漁協の2人ないし3人、協会より僕ともうひとり、また当選した方が宿泊した宿のスタッフ1人で 4人から6人で北は埼玉、西は岡山、また徳島まで朝まぐろを積んでその日の夕方に現地に着くよう走り廻った。東京へも2回10時間かけていった。雪の時もあり、高速で事故があり仕方なく国道を走りつつけた時もあった。僕は全回参加した。つまり32回全部担当者として走り廻った。
平成23年の第1回目の時、大阪のお宅だったが実は和歌山の地元のNHKの記者が同行し取材、また関西テレビ、読売テレビも取材、ラジオも3社取材にきて後日同じ日の午後5時ころその出前解体の様子がNHK、読売テレビ、関西テレビのどのチャンネルを回しても放送されているというすごいことが起こった。後日僕ら観光協会の職員と観光産業課のT課長はこういったものである。「やったなぁ~、マスコミに勝浦のこと取り上げてもらってPRしてもらい観光客を増やすのが目的や。俺らが正しかったんや」と。後このキャンペーンの終了時平成26年の3月に平成25年全国の中から1年間プロモーションに優れていたと言うことで、特別賞をいいだき、東京での授賞式に出席した(ちなみに大賞は九州新幹線の企画だった。サントリーとかもノミネートされていて大手企業の企画と並べられたのである)。記念の盾は、観光協会に飾っている。昔懐かし話というか、ついこの間の話だが、記念すべき40話にふさわしいと思ったので書きました。
第40話終わり
第41話『愛すべき我がふるさと 那智勝浦町仲の町』
はい、記念すべき第40話を書き上げもうだめかと思われた全国1千万のタケちゃんファンの皆様、残念でした。まだまだ書きまっせ。なんとか今年中に50話書き上げたいと本気で思っておりますアホでございます。えっ、そんな事よりはよ書けって。わかってまんがな。でわでわ第41話僕の生まれ及び育った仲の町の話であります。
はい、以前から何回も書いているのでご存じの方は多いと思うが、新宮市の仲の町と同じく那智勝浦町にも仲の町(なかのちょう)と言うところがあるのです。旧勝浦は1区から6区に分かれ仲の町は、第3区に当たる。つまり仲の町は、那智勝浦町のど真ん中のそのまたど真ん中である。今の観光桟橋のあるあたりであります。僕の実家はそのまたど真ん中にありようするに那智勝浦町のど真ん中でタケちゃんは、昭和38年9月15日(昔の国民の祝日、老人の日)に誕生したのである。(自慢話になりすいません。)子供の時か神童と呼ばれず幼稚園にも年少組から入れてもらえなかった悪ガキタケちゃんは、幼稚園に入る前からタコちゃんとナカシャにこの仲の町で出会いいわゆる仲の町3バカトリオができたのて゛あります。 それからの活躍は僕のこのシリーズに書いているので、いかにこの仲の町で教わり鍛えられたかおわかりだと思う。僕のほとんどない脳みそをほじくりまわし約50年前の昭和30年末から昭和40年代の仲の町の様子を書いてみることにする。仲の町とは、バスターミナルよりのまぐろ料理で有名な桂城の前の道を入った通りから右にずっと中島酒店あたりまでの地域である。この海岸どおりに面したあたりは、その頃は夕方になると浴衣をきた観光客が行き来していた。そして1本入ったいわゆる仲の町通りには桂城側から、食べ物なら何でもそろった田中フードセンター、パーマ店、学校の制服を買った中村呉服店、靴店、僕が初めてウイニーを買って食べた新谷精肉店、大石呉服店、クリーニング店、大井魚店、浜薬局、和中歯科医院、紀陽銀行勝浦店、新宮信用銀行勝浦支店、吉野百貨店(よく言われたが、僕の実家でも親戚でもありません)、タケちゃんがいつも坊ちゃん刈りにしていた鳥居理容店、コロッケが抜群にうまかった新田商店、 船具店、お父ちやんのハイライトをいつも買いに行かされた、あべくらたばこ店、森本かしわ店、中嶋薬局(ナカシャとこの親戚やったと思う)、と1キロもない通りにこれだけの店が並んでいてなんと僕の家の前に紀陽銀行(今の港郵便局)、隣に新宮信用金庫があったのである。(なんせ40年近くも前の話なので名前の間違い、思い出せない店名もあります。ご了承ください)十割そばの森本屋さんに行ったことのある方は分かると思うが、仲の町の昔の家は、玄関から奧まで廊下がつづいておりその廊下の左右に部屋があると言う作りで非常に風通しのよい作りとなっている。僕の実家もぼろぼろだが、築約100年のそのような家で家の中に小さな池があり今は使っていないが井戸もある。また縁側もある。
今は仲の町にもあまりそのような家は残っておらず誇りである。前の港郵便局の建物もモダンでなかなかのものである。このように仲の町は昔の勝浦を知るには、絶好ののとおりであり、隣の脇入り地区と会わせ今脇仲クラブの皆さんがこの脇仲通りのPRのため色々なことをされている。本当にうれしくありがたいです。我がふるさとで、育ちの地区仲の町と脇入り地区を皆様ぜひ那智勝浦町にお越しの時はのんびりと歩いてみてください。昭和の世界にもどれますよ。我が仲の町、愛すべき仲の町、いつまでもこのままでと
願わずにおられない。 第41話 終わり
『地下鉄サリン事件』
はい、第42話であります。この話は多くの方がお亡くなりになり、また被害に遭われましたので、書くべきかどうか迷いましたがあえて事実として書くこととしました。
昔懐かし話という軽々しい物ではないことも十分承知しているつもりでありますが、当時の話として後世に伝えるべくあえて書かせていただきます。何故ここで書くのか最後まで読んでいただければお分かりいただけると思います。
平成7年3月20日、僕は観光協会に入社しやっと1年がたち会長とかとともに出張にも連れて行っていただくようになっていた。前日の3月19日より観光協会、旅館組合、役場観光経済課(当時観光経済課でした)の職員代表約5人でグループを組み19日には名古屋、、20日と21日の午前中は東京の旅行会社をPRのために訪れることとなっていた。19日に名古屋の旅行会社を訪れ終わった僕たちは、20日午前9時名古屋駅発東京行きの新幹線に乗車した。僕らは車両の真ん中あたり。車両の前の上あたりにはその日のニュース等が電光掲示板で流れる。名古屋を出てしばらく経った時僕は何気なしにその電光掲示番に眼をやつた。読売新聞ニュース「東京の地下鉄で液体がまかれた模様。けが人もあり」と流れた。僕はすぐに隣の局長に「東京の地下鉄でなんかあったみたいですよ」 と話しかけた。局長は眠っていたらしく「どうしたんな。地下鉄でなんかあったんか」
と電光掲示板に眼をやった。「液体ってなんやねん」後日ニュースでやっていたがその液体がサリンであると言うことが分かるまでかなりの時間がかかったらしい。そしてまたしばらく時間がたって電光掲示番には「東京の地下鉄の何カ所かで透明の液体がばらまかれたみたい。けが人がでているもよう」と流れた。この時も当然サリンだとわかつておらず、事の重大さも僕らもマスコミ等も当然わかっていない。そのような電光掲示板を見ながら僕たちは東京駅に午前11時頃到着。予定表ではそこから地下鉄で地下鉄の築地駅まで行き東京の晴海にあるホテル浦島(当時は晴海にホテル浦島のホテルがありました)に行き大きな荷物をフロントに預けてホテル浦島のご厚意でマイクロバスで旅行会社をまわることとなっていた。地下鉄で行くこととなっていたが誰かが、「皆、荷物あるさか、お金かかるけどタクシーでいこらよ。」と急遽タクシー2台にて晴海のホテル浦島へ向かった。午前11時である。これが良かった。地下鉄で行ってたらどうなってたか分からない。タクシーでホテルに向かう途中かちどき橋にさしかかった。その時の光景は今でも忘れない。何台もの消防車、救急車、そして自衛隊の人々。かなりの人数が地下鉄の入り口付近に集まっていた。当然僕たちはそんな大惨事になっているのも知らないし、タクシーの運転手に「あれ 、なんですかね。避難訓練かなんかですかね。」と聞いていた。「さあ、避難訓練あるとかきいてないけどなぁ」と運転手。その時間には、まだあまりそんな大惨事が起こっていたのを人々は知らなかったのである。僕らは、ホテルに着き昼食をすませ
その後旅行会社を何軒か廻り夕方自分たちの部屋へ入った。僕も自分の部屋に入りテレビを付けた。その画面にはすぐそこの地下鉄の入り口の様子が映し出されたくさんの方が運び出されている映像が流れている。「あの模様はこれやったんか。え~、うそやろ~。」信じられなかった。ついそこでこの映像の事が起こっていたのである。あのまま地下鉄で行っていたらどうなつていたか。僕はすぐ隣の部屋の局長たちの部屋に行った。皆もテレビを見ていて初めてその事実を知った。僕は部屋にもどり結婚前の今の奥さんに電話した。「あっそうなん」しか言わなかった。情報がまだあまり伝わっていなかったからか。当時は当然携帯もスマホもインターネットもパソコンも無かった時代である。
この事件で13名の方がお亡くなりになり、約6000人の方が被害に遭われたそうだ。心よりお悔やみ、お見舞い申し上げます。
第42話 終わり
第43話『ボウリング場』
はい、42話がいつもと違う形になってしまったので、43話は元にもどしまっせ。
今年中に50話行きたいと思っていますが、決してあせってはいません。まだまだネタはありまっせ。今回は娯楽のお話であります。でわでわ43話です。
「たけひろ、ボウリング連れったろか。」お父ちゃんはマグロの仲買いだったので土曜日は休み。僕ら小学生は昼までだった。「ほんまかん。タコちゃんとナカシャも誘ってもええ。」と僕。「ああ、ええよ。」「分かった。ちょっとタコちゃんとことナカシャとこいってくるわ。」僕の家からタコちゃんの住んでいるアパートまでライダー号(自転車であります)で2分、ナカシャとこまで3分であった。2人ともただやったら来るので。即「うん、行くよ。30分後にタケちゃんとこやね。」の返事。その頃はまだ、電話が各家庭にある時代ではなく、なかなか不便だった。そして僕のお父ちゃんは、車に乗って無く、僕ら3人はライダー号、お父ちゃんはマジンガーZ号(んなわけありません。笑。)お父ちゃんは、いかにも昔のがっしりしたおそば屋さんの出前で使うような大きな自転車に乗り勝浦駅裏のボウリング場に乗り込んだのである。その頃(昭和40年中頃)はボウリングブームで、中山律子さんが特に人気でテレビでもボウリングの番組をよくやっていて、律子さんは、CMにも出ていたほどだった。「りつこさん、なかやまりつこさん~。」というフレーズが有名だった。那智勝浦町にも、今の駅裏のホテルの所に、あと元教育センターの所にボウリング場があった。(まだあったかもしれませんが、すいません、覚えておりません。)建物の上に大きなボウリングのピンが立っているので遠くからもよく分かる。なんとかボウルと。そうこうして、僕たちはお父ちゃんが、4人分のお金を払い靴を貸してもらって、仲の町4バカ(お父ちゃんごめん)グレートデラックスボウリング選手権がはじまったのである。お父上はお江戸の4大学に学んだ天才でありましたから、自分でシティボウイとぬかしていたが(汚い言葉、お父上おゆるしくだされ)結構うまく、あと何故かナカシャがうまかった。僕とタコちゃんは書くのも申し訳ないほどでありました。はい。でもそんな結果でも楽しく、子供だけで行けなかつたので、お父ちゃんに連れて行ってもらう機会が多かった。おもちゃでも野球盤も人気があったがボウリングゲームも人気があつた。しかし高かった。僕の親戚に東京で会社の社長しているおじさんがおり、盆と正月に勝浦に良く遊びに来ていた。だからタケちゃん坊ちゃんは言葉巧みにお土産のリクエストをし、デラックスボウリングゲームを手に入れていたのである。土曜日以外は、学校が終わったら良く僕の家で仲の町グレートデラックスボウリング選手権(ゲームやけどね)をおこなっていたのである。ボウリング場では、今はボールを投げると自動的にスコアが電光掲示板に示されるが、昔はスコアの用紙と鉛筆をもらい手書きである。スペアとかストライクとか全部手書き。面倒くさかったが、ボウリングをやっている間、ぼくちん達は、シティボ-イの香りに酔いふけっていたのであります。また、終わった後の一杯(いやいや、冗談です)、終わった後の瓶のファンタグレープはシティボーイの味がしましたとさ。
第43話 終わり
第44話『かしわごはん』
はい、いつもより速いペースでの更新であります。前に、はったい粉やおまぜ等食べ物の話を書いたことがありますが、久々に食べ物の話ですよ。でわでわ第44話であります。
「お母ちゃん、明日遠足なんやけど弁当たのむで。」「あいよ。遠足かん。タケちゃん、かしわごはんのおにぎりでもええかん。」僕が小学生の時の話です。「ほんまかん、やった~。かしわごはんうまいもんね。あとお母ちゃん、こんこと卵焼きとウインナ入れてよ。こんこ多めやで。」「あいよ、こんこ山盛り入れたるわ。タケちゃんこんこ好きやもんなぁ」「お母ちゃん頼むで~」「あいよ、かしわごはんは、おばあちゃんに味付けしてもろたるわ、おかあちゃんのもうまいけど、おばあちゃんのは、特別やで~」「え~、おばあちゃん、ほんまかん、つくってくれるん。」「あ~、ええで~。タケちゃんのためやったら喜んでつくったるよ」「お母ちゃん、おばあちゃんたのむで~」かしわごはんというのは、簡単にいえば鶏肉 (かしわ)を入れた炊き込みごはんである。西日本では、鶏肉の事をかしわとも呼ぶのである。僕のパソコンのアホーで調べたら、かしわ飯、九州では鶏肉のことをかしわと呼びかしわを入れた炊き込みご飯で、細かく刻んだ鶏肉とにんじん、干し椎茸などを醤油、みりん、酒、だしの元を入れて米といっしょに炊きあげる福岡の郷土料理であると載っていた。関西でも鶏肉のことをかしわというが、僕のお母ちゃんは福岡出身なので勝浦で僕の家だけ作っていたのかと思い職場の同僚に聞いたらかしわごはんという言葉すら知らなかったが、ある人は呼び方は知らんけど、かしわの入った炊き込みご飯やろと答えて食べた事あるよ、と返事があった。あと、僕の嫁さんの家でも勝浦育ちのお母さんが普通に昔からかしわごはん作っていて今でもたまにお裾分けしてくれる。勝浦の他の方はどうなんだろうか。祭りのときやお祝い事の席では決まっておまぜやったし、かしわごはん食べないのだろうか。かしわごはんは、あるけど、呼び名は鶏肉入り炊き込みご飯なのだろうか。皆さん、教えてください。何遍も書いて申し訳ないが、僕の中ではごく当たり前に小さい頃からの食事であり、おまぜと並ぶ2大おいしいごはんであるのだ。また、これも分からない方がおられると悪いので書くと、こんことは、たくあんの事である。昔の方はなぜこんなに料理がうまいんだろうか、といつも思う。僕のおばあちゃん(亡くなってます)や僕のお母ちゃん(80近いが元気です)や嫁さんのお母さん達が作ったおまぜやかしわごはん、煮物など、なんであんなにうまいんやろか。そして何でも作る。うちのおばあちゃんなんか、まぐろのにぎり寿司、昆布ずし、サンマ寿司、イカやタコの寿司、いなり、海苔巻き、めはり、煮物各種、おせち料理全部、餅もつくし、なんでもやってしまう。だから寿司なんか家で作って食べるもんだと思っていた。仲買いなんで、特上のまぐろが手に入るし、マグロの握りも格別にうまい。家で極上の寿司が食べれたのである(寿司屋の皆さん、すいません)。話それたが、かしわごはんを夕食に食べるとき僕の実家ではこんこと、おすましを作っていた。これもまたうまかった。ここ2年前くらいからうちの奥様がかしわごはんを自分でつくるようになった。最初は本とにらめっこ。まずくはなかったが、やはり僕のお母ちゃんや、奥様のお母様とちょっと違った。最近は大分近くなりかなりおいしくなったがもうちょっとかな。かしわごはんはさめてもおいしいし、おにぎりにしてお弁当にも出来る。この話書いてたら、かしわごはん久しぶりに食べたなってきたなぁ~。明日リクエストするか。もちろん、おすましとこんこ大盛りつきで。
第44話 終わり
第45話『町民総踊り』
はい、またもや早いペースの更新であります。ここだけの話やけど結構45話も書くとネタも大変なのよん。ある時ふと人と話している時やテレビ見ている時なんかに「あっあんな事もあったんやないか」と僕の脳みそがいっぱい詰まった頭の記憶装置を動かしタイトルを考えるのであります。またタイトル決まったのはいいが内容があまり思い出せないときは、昔の資料や、パソコンのアホーで調べたりして大変なのよん。
まあ、今年中に50話突破し来年は100話達成し本にして出版しサイン会開いて芥川賞とノーベル文学賞とるという夢を昨日見ました。あっはは。えっそんなことどうでもええから早よ話に行けと、分かりました。でわでわ45話であります。(前ふり長いなぁ~。)
はい、皆さん突然ですが、めはり音頭って知ってますか。「南紀かつうら にほんのおへそ~。」から始まる那智勝浦町を代表する音頭である。三波春夫さんの歌で勝浦の人間で知らない者はいないぐらい有名な音頭である。各区の盆踊りや行事、また小学校では運動会でこのめはり音頭にあわせて踊る。だから大抵の大人も子供もこの音頭を踊ることが出来る。このめはり音頭、字のごとくあのめはり寿司のめはりをタイトルにした音頭である。
歌詞は勝浦の名所(紀の松島や那智の滝等)が入っている。今から約30年前の昭和61年にNHKの昼のプレゼントの公開生放送に合わせ作られ三波春夫さんの歌で録音されレコード化された。このめはり音頭発表に合わせ当時の観光産業課等が中心となりめはり音頭に合わせ町内を踊りながら廻る「町民総踊り」いわゆる「めはり祭り」が翌年の昭和62年の夏から始まった。当時は8月1日に勝浦温泉花火大会が1年ごとに勝浦湾と那智湾で交互に行われており、その花火大会の日に勝浦駅周辺で花火大会前に町民総踊りが開催されていた。町内の各区、各団体が自分たちの考えためはり音頭に合わせた踊りと衣装で参加しそれを町長や各団体長達が公平に審査し優秀団体を決める。魚市場当たりから各団体ごとに行列を組み バスターミナルから今の紀陽銀行の所をまがり駅の方へ海産物センター前をまがり駅前本通りを通り市場へ向かい終了とだいたいこんなコースだったと思う。めはり音頭のレコードに合わせて踊るのだが、時には歌の得意な町民が生で歌ったりもしていた。そして踊り切った町民はそのまま花火大会の会場へ向かうのである。この町民総踊りは2001年まで続き、2002年に7月の末に夏祭りというイベントを駅前にて行うようになりその中の一つのコーナーとして続けられた。その夏祭りも約10年前まで続いたが、様々な理由により終了し今に至る。同時に長き歴史の町民総踊りも幕を閉じたのである。しかしめはり音頭とその踊りは今でも色々な行事や運動会等で受け継がれている。また、冬の一大イベントのまぐろ祭りでも藤紀和会の皆さんが23年前の第1回目から踊り続けてくれていて、会場の皆さんともいっしょになって踊る。これからもめはり音頭は踊りと共に受け継がれることを願うものである。那智勝浦町を代表する有名な音頭として。
第45話終わり
第46話『熊野七湯七滝七薬師キャンペーン』
はい、息つく暇もなくまたまた更新でございます。僕の頭はショートしそうであります。しかし書きたいネタはまだまだ頭の貯蔵庫の中にいっぱいあるでよ。僕には全国1千万のファンがまっていると自分だけ思とりますです。はい。でわでわ今回も勢いよくいくきまっせ。でわでわ第46話でございます。
みなさんは、熊野地方に七つの滝と七つの湯と七つの薬師があるのをごぞんじでしょうか。この話は、僕が観光協会へ狭き門を突破(ほんまかいな)して入社してから4年後の平成9年と10年に行った画期的なキャンペーンのはなしである。先に説明すると、七滝とは、1.那智勝浦町の那智の滝、2.同じ那智勝浦町の陰陽の滝、3,新宮市の白見の滝、4.同じく新宮市の桑の木の滝、5.串本町のはぶの滝、6,熊野川町の鼻白の滝、7.同じく熊野川町の宝龍の滝の七つである。また七湯とは、串本温泉、太地温泉、湯川温泉、勝浦温泉、川湯温泉、渡瀬温泉、湯の峰温泉の7つである。七薬師とは、1,那智勝浦町の大泰寺薬師 関南七薬師の第1霊場でも知られる。特に耳、心の病に霊験あらたか。
2.那智勝浦町の湯泉寺薬師 湯川温泉にあり、特にリウマチ、関節炎に霊験あらたか。3.那智勝浦町の円心寺薬師 越水薬師とも言う。空海が妙法山を開き、越水薬師に庵居すると近くに鉱泉が流れ出たと言われる。万病に霊験あらたか。
1.新宮市の佐野薬師 南珠寺のご本尊であり、日本天台宗の開祖、伝教大師の作といわれる。特に首より上の病に霊験あらたか。 5,三重県紀宝町の平尾井薬師 白河法皇が勅願して建立された由諸ある薬師堂である。特に首より上の病に霊験あらたか。6.三重県紀和町の楊枝薬師 1167年、後白河法皇が薬師如来本尊をつくり、大導師となつて開眼法要を行った。特に首より上の病に霊験あらたか。7.田辺市本宮町の湯峰薬師 成務天皇の御代に発見された日本最古の温泉(東光寺)。薬師如来は湯元から出る湯の花が化石となってできた。別名湯胸薬師。胸の病に霊験あらたか。の七薬師である。勉強になるでしょ。たまにはこんな話もええもんである。実はこの七湯七滝七薬師を巡ろうということで南紀地方の各市町村と首都圏の大手旅行会社が手を組んで平成9年は9月から11月まで大々的にキャンペーンを行ったのである。各大手の旅行会社ごとに表紙の違う豪華パンフレットを作成したりもした。那智勝浦町、新宮市、本宮町、太地町、串本町の各各自治体、観光関係者と大手旅行社の担当者で熊野七湯七薬師推進協議会も結成された。団体バスで都心より観光客も多くやってきた。ただマニアックな感は否定できない。2年間のキャンペーンだったが、画期的だった。もちろんこの七湯七滝七薬師は今も現存する。一度訪れてみればどうか。(那智勝浦町の陰陽の滝は先の台風により行けなくなっております。)七湯七薬師巡りは今も実行可能だと思うがいかがなもんか。
昔の僕たちの先輩方は非常にアイデアマンだったというお話であります。
第46話終わり
第47話『シーベース』
はい、またまたまたハイペースの更新であります。1日1話ペースであります。このまま行くと年内に何話いくでしょうか。今回は真夏の話です。なに、このくそ寒いときになんで真夏の話なんやって。そこがタケちゃんのええとこであります。でわでわ真夏のお話第47話であります。
「なあ、タコちゃんとナカシャ明日から夏休みやさか泳ぎに行かへん。」小学4年生の僕は1学期の終業日の日2人に聞いた。明日から約40日間の長い長い夏休みである。僕のお母ちゃんは福岡の芦屋と言うところから嫁にきて僕が生まれてから2年に一回夏に1ヶ月くらい僕と弟達を連れて里帰りしていた。僕が小学4年の時はちょうどその年に当たっていた。芦屋にも海水浴場はあったが、僕は夏休みに入ってから7月末までの約10日間毎日タコちゃん、ナカシャと那智の浜に泳ぎに行った。夏休みの宿題は日記は毎日書いたが、夏の友は、頑張って最初の1週間でやりきり後の1ヶ月は遊びまくるのである。「ああ~ええよ、何時に集まる」とナカシャ。「そうやなぁ、タケちゃんとこへ1時でええんちゃう」とタコちゃん。「よっしゃ、そうしょうか。」 翌日僕らは愛車のライダー号(毎回書きますが自転車です)にまたがり海水浴場に向かった。脱衣場で着替え、海パン姿の仲の町3バカトリオはシャワーを浴び念入りに準備運動をし(このへんは3賢いトリオなのです)海へ飛び込んだ。沖には遊泳範囲を表すブイが浮きその近くを監視船に乗ったおっちゃんが監視。その少し手前には、「シーベース」が設置されていた。シーベースとは、簡単に言えば海に浮かぶステージみたいな物である。たて約6メートル横約12メートル、高さ約1メートルのステージみたいな台でそこまで泳いで休憩したりそのステージの上から飛び込んだりして遊ぶのである。波打ち際から結構距離があるので僕らはそこまで競争したりして、そのあとそこから飛び込んだりした。このシーベースはシーズンオフは、町内の勝浦ドックで保管され海水浴シーズン直前に曳航船により勝浦ドックから那智海水浴場まで運ばれアンカーにて固定される。ステージの周りにはプラスチックの浮きがついていた。このシーベースは僕らの子供の時から僕が観光協会に入った平成5年近くまで海水浴場に設置されたが、やはり長期間使用されたので損傷が激しくお役目ごめんとなったのである。そのあと竹で大きな、いかだみたいな物を作り浮かべたり工事用のプラスチックパイプでいかだを作り浮かべた年もあった。近年はシーペースみたいなものは無くなったが、スライダーとかが海水浴場に設置され人気をよんでいる。
おそらくシーベースの事を覚えていらっしゃる方は、もういい歳の方であろう。これも時代の流れか。ちなみに我が町の那智海水浴場は環境省の選ぶ快水浴場(安全性や水のきれいさ等)の全国で12カ所しかない特選に選ばれており、和歌山でも片男波と那智海水浴場だけである。だから全国の皆さん安心して夏には泳ぎにきてくださいね。
はい、くそ寒い時期の真夏の話でした。
第47話終わり
第48話『昆布寿司』
はい、1日おいてのこれまた、ハイペースの更新であります。今回は久々の食べ物シリーズですよ。ただ、このタイトル、専門店の方もいらっしゃるので、僕みたいな度素人が、書くのは本当に申し訳なく恐縮し、間違った所もあるかもしれませんが、ご了承いただきたくよろしくお願いいたします。 でわでわ第48話でございます。
「もういくつ寝るとお正月~。」と言うわけで、一年早いですね。ついこの間正月の特番見ながら馬鹿笑いしやったと思ったら、もう年末であります。あれよこれよと月日は流れるのであります。そしてまたもうすぐすると正月特番見ながら(僕は吉本育ちなので漫才や物まねなどの番組が大好きであります。又、箱根駅伝もええですなぁ)馬鹿笑いや感動に涙するのでありましょう。そんな時に側にあるのがお正月料理であります。僕の子供の時は、前にも書いたが何でも作る僕のおばあちゃんがおり、おせち料理のたつくり、黒豆(若い奥様方なかなか味付けがむずかしいんですよ。これが上手につくれると旦那様に一目置かれますよ)、伊達巻き卵、生酢、栗きんとん、かずのこ等もすべて手作り、そして正月寿司の定番、サンマ寿司、海苔巻き、揚げ寿司、昆布寿司もおばあちゃん手作りでありました。今は、僕も家庭を持ち、おばあちゃんも亡くなり、僕の実家でも僕の家でも簡単なおせちしか作らず、また寿司もお店やスーパーとかで、買ってきたりするが、やはり僕の中ではおばあちゃんの作っていた寿司が一番である。(すいません、あくまでも個人の意見です)。この寿司の中の昆布寿司であるが、関西でも熊野地方しか作らないのか大阪の友人とかに聞いても知らないことが多かった。僕のパソコンのアホーで調べると、「寿司に使う昆布は一般的に押し寿司特にサバ寿司の表面に乗せて使用することが多いが(バッテラ寿司)、高知県では軽く煮て味付けし寿司飯を海苔巻きの様に巻き込んだ昆布寿司を作る(高知の郷土料理)。大阪では鏡餅の上に乗せて新年を祝う、名古屋では婚礼の際の結納飾りに用いられる」とある。そして昆布寿司は僕らの勝浦や新宮とかでも昔から作られ食べられてきた。この昆布寿司、こんぶずしと書いて勝浦とかでは、こぶずしと呼ぶ。「よろこぶ」という言葉にかけて縁起の良いお寿司として、お祭りや、お正月おめでたい席によく食べられてきた。この昆布寿司の昆布は白板昆布を用いてそれを、出汁で煮詰めて使う。また中の具材はかんぴょう、ゴボウ等でそれを醤油、みりん、酒、砂糖等で甘辛く煮込み酢飯のうえに乗せ、それを先ほどの昆布で海苔巻きのごとく巻いていくのである。これがまた格別にうまい。僕ら勝浦の子供達はこの昆布寿司がごちそうでありましたし、大好きであります。もうすぐお正月が来ますが、この昆布寿司食べたことがある方も、大好きな方も、見たこともなく知らない方も、、お子ちゃまも、おっちゃんおばちゃんも、きれいなお嬢様もそうでない方も皆皆様方、勝浦や新宮のお店等で食べられますのでぜひお越しくださいませ。この正月は、昆布寿司で決まりだー。
追記 昆布寿司は正月でなくても勝浦や新宮のお店で食べられます。又取り寄せできるお店もあります。一応お知らせまで。おいしいですよ。
第48話 終わり
第49話『マンボウ料理』
はい、ちょこっと間が開きましたが、ハイペースの更新であります。今回も前回に続き食べ物のお話ですよ。でわでわ早速いってみよ~。
はい、皆さんは、マンボウ知っていますか。「あのつぶらな瞳の図体は大きいが非常にかわいいお魚でしょ。水族館とかで見たことあるわよ。うちのお利口ちゃんの息子といっしょに見たわよ」とお上品な奥様方が答えるでありましょう。そのマンボウのお料理のお話であります。(なんか書きにくいなぁ~。まあええか)。もうひとつ聞きますが、皆さんはマンボウを食べたことがありますか。あまりいないのではないだろうか。実はこのマンボウ、我が那智勝浦町の宇久井(うくい)漁港で行われている大敷網漁法に、たまにかかるのである。大敷網漁法とは、僕のパソコンのアホーで調べると袋網がU字形をしていてその1辺が開いていて魚の入り口になっている定期編み漁である。ブリ、マグロなどの大型魚を目的に発達したが、今は他の漁法が発達してきたのでほとんど残っていない。とある。この大敷網漁が宇久井に残っているのである。それだけでもすごいのだが、この大敷網にマンボウがかかるのである。観光協会の同僚のIさんは宇久井出身なので聞いたところ子供のときから良くマンボウは食べていたそうだ。マンボウは、たまにしかかからないので、僕ら勝浦地区の人間はほとんど食べたことが無く、僕は観光協会の仕事をしていなければ知らなかったであろう。それじゃ何で知ったかと言いますと、テレビ和歌山に「こちら海です」という約25年続いた人気番組があり、ここのプロデューサーがこれ又めずらしい物や隠れた名物を探すのが得意で和歌山のことなら隅から隅まで知っているというようなおもろいおっちゃんで、風貌はこわそうなおっさんなのだが(すいません、敬意をもって書かせていただいております。)この方が宇久井、そしてマンボウ料理が好きで、取材の時に同行したのであります。僕が観光協会に入社してあまり月日の経っていない時である。地元宇久井の民宿兼料理屋の店先で前日に水揚げされたマンボウをさばくところからカメラにおさめる。マンボウはどのようにさばくかご存じでしょうか。実は包丁で横に寝かしたマンボウを、まず真横から包丁を入れてかぱっと真二つに切るのであります。簡単にいうとカスタネットを開いた状態のようにするのであります。この時の下の部分を初めて見たとき僕はびっくらこんしました 。何と、何と、そこにはきれいに内臓がならんだマンボウが横たわっておりました。ここが心臓、これが肝臓と、さばいてくれた店のご主人が教えてくれたのを思い出す。マンボウの身は例えると杏仁豆腐みたいで、固まりを包丁より手でちぎって食べた覚えがある。この身はほとんどが水分である。僕らは、さばきを見てそして店の台所でご主人やその奥さんが、刺身やマンボウの肝あえ(マンボウの身とネギをマンボウの肝を入れて軽く炒める)とかごちそうになった。もちろんどの料理も初めての経験だったが、おいしく特にマンボウの肝あえを口にした時おもわず笑いだしプロデューサーと固い握手をした。人間本当にうまい物を口にしたとき笑ってしまい握手してしまうのである。今、「うんうん、そうそう」 と、うなづいていらっしゃる方も少なくないだろう。
この後、何回か「こちら海です」を初めいくつかの番組でマンボウ料理を取材したりした。
残念ながら何年か前に「こちら海です」は終わってしまったが。
那智勝浦町のまぐろ祭りでも宇久井漁協の皆さんのご協力によりマンボウの刺身を振る舞っていた時もあったが、前にも書いたがいつも網にかかる物ではなくまぐろ祭りの時に手に入らないときも何回かあった。また外でのイベントへの保健所の規制により配布はなくなった。今勝浦とか新宮でもマンボウ料理を食べられる店はあると思う。
マンボウ料理食べる機会があればぜひ食べてみてください。おいしいですよ。
第49話 終わり。
第50話『寝台特急 紀伊』
はい、今年ももうすぐ終わりですね。今年7月頃から何かを残したい。自分の子供の時の事。生まれ育った那智勝浦町の事を文字にして残したいと、無性に思い出し那智勝浦町昔懐かし話として書き始め何と今回が第50話であります。初めの内は冗談で100話書くぞと言っておりましたが、まさか半分行くとは。これもひとえにひとえにそう、僕の努力であります。いやいや、皆様方のあたたかい励まし、いいね、コメントのおかげでございます。ほんま、書く方も書く方やけど、読む方も読む方で、ほんまありがとうございます。このお返しは、本での出版と言う形で代えさせていただきます。誰か本にして~。お願い。えっ前置き長いって。はいはい、分かってまんがな。それが、タケちゃんのええとこでもあるんでっせ。では、記念すべき第50話あなたとともにいって見よう。
「タケちゃん、風邪ひかんようにね。東京行ったらこの2万円ちゃんと先輩に渡すんやで。やったこと全部だしたらええからよ。着いたら電話しなあよ。じゃ、頑張っておいで」 そう言ってお母ちゃんは僕に茶色の2万入っている封筒を渡した。表におかあちゃんの鉛筆書きで「よろしく頼みます」と書かれていた。1981年2月僕は大学受験の為、紀伊勝浦発東京行きの寝台特急紀伊に乗り込んだ。午後7時34分発。「ああ、頑張るわ」
茶色の封筒を受け取り僕はそれだけ言った。ドアがしまり列車は走り出した。僕は、ホームに一人立つおかあちゃんをしばらく見つめ、そしてボストンバックと茶色の封筒を手に自分の席に向かった。東京へは、中学3年の時に修学旅行で行ったきり2回目だが、一人で行くのはもちろん初めて。東京駅のホームでは高校のクラブの先輩が迎えに来てくれることとなっていた。ここで少し寝台特急 紀伊の説明をしようと思う。国鉄が1968年10月1日から1984年2月1日まで東京駅~紀伊勝浦駅間を東海道本線、関西本線、紀勢本線経由で運行していた夜行列車である。1975年3月10日の山陽新幹線の博多開業に伴うダイヤ改正で寝台特急へと格上げされた。急行から特急への格上げである。車両は開放式のA寝台、開放式3段B寝台、食堂車などで編成されていた。停車駅は上り紀伊勝浦駅を出発し、那智、新宮、尾鷲、紀伊長島、多気、松阪、津、亀山、四日市、名古屋、沼津、熱海、横浜、そして東京駅に午前6時25分に着く。下りは東京駅を午後9時発、紀伊勝浦駅午後7時22分に着く。その日僕は、3段B寝台の一番下の席、寝台だけど乗ったことがある方は分かると思うけど結構走る音がうるさくて寝れない。結局朝まで一睡も出来ず朝を迎えた。夜行列車の朝というのは、なんであんなに気持ちがよいのだろう。車窓から見える遠くの山々。その間から太陽が昇る。いつもと違う景色が走馬燈のように変わっていく。一日のはじまりを目の当たりにしている。一度行ったがほとんど初めての東京。無知の世界。コンクリートジャングル。合ったことのない人々。田舎より早くすぎると錯覚に陥る時間。それに向かって僕は進んでいる。席の窓からの眺めはそんな自分にしてしまう。わくわくもあり、不安もある。たった2週間だが、僕の進むべき道が決まる大学受験。その頃は、センター試験なんてなく、共通一次試験と呼んでいた。僕は私立受験だったので関係ないが。非常に寒い2月の早朝、東京駅のホームには先輩が迎えに来てくれていた。働きながら専門学校に行っていた苦学生である。
目黒の4畳半のアパートに住んでいた。ジャンバーの襟を立てて僕ら2人は目黒駅まで行き駅前の吉野家に入った。初めて食べた牛丼。この世の中にこんなうまい食べ物があるんか。本当にとりつかれた。それから2週間3食ほとんど牛丼を食べた。受験の時は牛丼弁当。初めの日にお母ちゃんから預かった2万を先輩に渡した。先輩は表の鉛筆書きをじっとみつめ、ほんまは、もらうべきやないけど、ありがたくもらうよ。と受け取った。今と違って物価は違うとはいえ、男1人を2週間泊めさせるのは、金がかかるのである。少ないくらいだと思う。ましてや、先輩は苦学生。本当にありがたかった。
大学は残念ながら駄目だったが、その後中野の専門学校に通うこととなり、上京の時もこの寝台特急 紀伊を利用したし、僕が上京し3年後の1984年に運行が終わるまで帰省の際利用した。本当に思い出深き寝台特急であった。ゆっくり寝たときは、ほとんどないけど。それはそれで良いと思う。僕の東京での生活もこの寝台特急とともに始まったし。乗り換えなくて良かったのがいい。東京から勝浦間は結構時間がかかったが、それも又よし。僕にとって忘れることが出来ない思い出の列車である。
最後に、メリークリスマス。いつもありがとうございます。記念すべき第50話。このつたない話をあなたに、心をこめて。 by タケちゃん
記念すべき第50話 終わり
第51話『さんふらわぁ』
皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。さて、昨年のクリスマスイブに第50話を見事(拍手)書き上げ1年を終わりましたが、これで終わりではありませんぞ。今年は100話目指して頑張ります。まだまだ僕の記憶装置にはネタがあるのよ~ん。元旦と言うことで何から書き初めを行うか迷いましたが、元旦と言えば日の出、日の出と言えば太陽、そう「さんふらわぁ」の事を書こうと思ったわけであります。何となく書いているようで、ものすごく計算しているのであります。もう15年くらい前のことになるので中学生くらいの子供さんまではリアルタイムで知らないことになる。このような勝浦の歴史、そして後世に伝えるべき事を書き残す事が僕の使命であると思とる訳であります。100話まで書いたら出来れば製本し形に残したいとも思とります。でわでわ、2017年最初の懐かし話元気良くいってみよう。
はい、てなわけで「さんふらわぁ」というフェリーのお話であります。実は今でもたま~にお客様より観光協会にさんふらわぁで勝浦行きたいけどと問い合わせがある。そう、15年前までこの勝浦の沖を「さんふらわぁ くろしお」が運航されていたのである。この「さんふらわぁ」僕のパソコンのアホーで調べると日本高速フェリーが1972年に第1船「さんふらわぁ」を名古屋~高知~鹿児島で就航、そしてすぐに「さんらいず」という第2船を就航するが、すぐに「さんふらわぁ2」と改名。1973年「さんふらわぁ5」「さんふらわぁ8」が東京~那智勝浦(宇久井港)~高知を就航。1974年には、直列2本煙突、収納式アンカーなどの豪華客船風の外観をもつ「さんふらわぁ11」が大阪~鹿児島で就航。のちに上記の5隻は、「さんふらわぁ5姉妹」と呼ばれるようになる。
また、地元のことを書くと5姉妹のひとつ「さんふらわぁ8」が1973年7月4日より東京~那智勝浦 ~高知を就航開始。12,759総トン、全長185m、幅24m来島どっく建造。1990年運航会社がブルーハイウェイラインに移籍したことから「さんふらわぁ とさ」に改名。1997年、「さんふらわぁ くろしお」就航に伴い「さんふらわぁ とさ」は、引退。その後「さんふらわぁ くろしお」が東京~那智勝浦~高知を就航することとなる。9,723総トン、全長160m,幅25m、航海速力22、7ノット。旅客定員530名、車両積載数トラック150台、乗用車70台、三菱重工業下関造船所建造。1997年に就航したが、2001年9月航路廃止により那智勝浦への寄港が終わる。僕も観光協会に入社し何回も東京まで乗船したり、また就航が終わる直前高知、徳島への訪問団に加わり「さんふらわぁ」にて高知県庁や松山城、道後温泉等視察訪問した懐かしき思い出もある。当時の宇久井港の事務所は現在の宇久井海水浴場の先にあり、仮眠室というか休憩場所もあった。最後の就航の時も観光協会はじめ各団体の方々が見送りをした。船旅の別れはまた、独特のものがあり船上から投げられた色々な思いの色々な色の紙テープが岸壁で見送る人々の心と船上の人々の心をつなぐ。そしてそれが船の出港のドラの音により再会という眼にみえない色に染められていく。「さんふらわぁ くろしお」最後の宇久井港寄港の時、船上と岸壁には「さんふらぁ 今までありがとう」「いつまでもわすれへんで~」「宇久井港ありがとう」の声があちらこちらで聞こえた。
そして、岸壁を離れた「さんふらわぁ くろしお」から5回ドラの音が鳴り響いた。
それは「あ、り、が、と、う」と宇久井港の岸壁に鳴り響いた。
第51話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第52話『生節』
はい、元旦に第51話をアップして早7日経ってしまいました。月日の経つのは早いですね。遊んでた訳ではありませんぞ。1日は所用で出かけ、2日は年末に買ったギターの修理、3日は仕事、そして4日から昨日までも仕事でありまして、結構忙しい年始でありました。でもでもその中で、さて第52話は何にするか記憶装置の中をかき混ぜながら考えてたわけであります。52話は、食べ物の話であります。あかん、また前置き長なってもうた~。全国1千万のタケちゃんファンにまた怒られる~。分かりました。でわでわ第52話であります。
「じゃあねナカシャ、後でユミネの前ね。」「うん、タケちゃん、タコちゃん後でね。」
小学生の時の話である。当時の小学校は土曜日は半ドンであった。僕は、午前中の授業をきっちりまじめに受けて(ほんまですよ)終了後タコちゃんと、ナカシャと帰る。
そして、昼ご飯食べて、吉本新喜劇をテレビで見て、愛車のライダー号(いつも書きますが自転車ね)でユミネ(駄菓子屋です。なんかカタカナで書くとおしゃれやなぁ~。ルミネみたいで)へ行ったり、ナカシャとこで遊んだりしていた。(ナカシャとこは酒屋なのでいつもサッポロポテトやファンタがおやつに出るのである。それ目当てでナカシャとこなのである。)「おかあちゃん、ただいま、コロッケこうたある。」僕の土曜日の昼ご飯は、新田商店のコロッケ(特別何がどうと言うことはないのだが、うまいのである。)と、ごはんかチャルメラ(インスタントラーメン、今でも大好きであります)であつた。
「ああ、タケちゃんお帰り、コロッケと生節もあるで」とお母ちゃん。「ほんま、生節も食べるわ。うまいもんね。」「そこ置いたあるからたべといて、お母ちゃんちょっとでかけるさかいに。」「ああ、分かった、食べ終わってからナカシャらと遊んでくるわ。」「そうかん、5時の鐘なったら帰ってこなあかんで」(うちのお母ちゃんは、5時のチャイムのことを鐘と言ってました。)皆さんは生節って知ってるだろうか。今でも地元のスーパーとかで買えるので知ってる方は多いと思うが。僕のパソコンのアホーで調べると、生利節(なまりぶし)のこと。生の鰹等を解体し、蒸す、ゆでる等の処理を施した一次加工食品。カツオだけでなく、マグロ、サバも使用する。江戸時代以降に製造が盛んになる。現在は静岡、鹿児島、三重、高知、和歌山、千葉等の県でカツオやマグロの水揚げが多い周辺で製造されている。全国的にカツオの生節が有名だが、僕が書きたいのは、マグロの生節である。勝浦でもビンチョウマグロの頭を落とし、3枚におろし、釜ゆでしたものを売っていたりした。今も売っているが。水分を40パーセント程度含み、保存期間に制限があるため、長期保存が出来ない。(今は真空パックの物も売っていて保存が利くようになった)調味料等使ってないので、包丁で輪切りして醤油をかけて食べたり、煮魚を煮るみたいに煮て食べたりする。 僕はいつも醤油ぶっかけだが。このまぐろの生節、僕の昼ごはん(もちろん晩ご飯でも)良きご飯の友であり今も大好きな食品である。興味ある方は、インターネツトで「マグロの生節 那智勝浦町」でお調べください。カツオの生節もええけどマグロの生節もうまいで~。
第52話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第53話『勝浦ビルフィッシュトーナメント』
はい、弾き語りをアップするためにミュージシャンになつたり、この短編小説書くために小説家になつたり結構いそがしいタケちゃんであります。第52話から少し間空きましたが、53話であります。自分の歳と同じ数であります。ということで、僕の生い立ちを書こうと思いましたが、すくに思いとどまり(そうです。私の過去は秘密なのであります。タケちゃんは、永遠に謎の人物なのであります。なんのこっちゃ)、上記のタイトルになりました。今回も前置き長くお許しを。でわでわ第53話タケちゃんの生い立ち、いやいや勝浦ビルフィッシュトーナメントであります。
はい、皆さんは勝浦でもビルフィッシュトーナメントが開催されていたのをご存じでしょうか。えっ「なんや、そのビルでフィッシュバーガーなんとかゆうやつ」ってあーた。そうなんですよね。僕もこのしごとやってなかったら知らなんだ僕らには経験できんのなのであります。つまりビルフィッシュとは簡単に言うとカジキ釣りのことであります。
要するに勝浦で行われるカジキつり大会であります。僕の記憶装置をかきまわしてもっと詳しく書くと、1987年から2009年まで22年続いた大会である。ヤマハ電動株式会社が中心になり、那智勝浦町が協力し全国から多いときは100隻以上のクルーザーが那智勝浦町の渡の島(ホテル浦島対面の岸壁)に集まり毎年7月上旬の3日間行われた。1隻高い物で何億円のクルーザーに乗ったいかにも金持ちそうな方々(失礼、でも僕らにはそう見えました。)があつまるのである。チームスタッフの女性の方もきれいな女性が多くタケちゃんは、毎年楽しみにしていたイベントでもありました。笑。もとい。
1日目の午後からはウェルカムパーティーが行われ、岸壁にてカブト焼きの振る舞いや、郷土芸能の披露等が行われた。また2日目の朝は午前7時に本部船によってスタートが告げられ約100隻のクルーザーが潮岬沖の方めがけて一斉に走り出す。この姿は格好良く圧巻だった。「俺もいつかはクルーザーできれいな姉ちゃん乗せてこの大会出たるねん」とまだ独身だった観光協会に入社したばかりのタケちゃん青年は固く心に誓ったもんだ。(いまだにかなってませんが)。潮岬沖が良くカジキ等が釣れたポイントだったみたいだ。獲物を釣り上げた船からは渡の島の本部に無線が入る。その連絡に合わせ岸壁では、計量の準備をし帰港を待つ。帰港した船からはクレーンで大きなカジキが釣り上げられすぐ大きさや重さの計量に入り魚拓が取られる。この作業を2日間に渡り行う。そして上位からステージにて表彰される。この表彰にはビルフィシュレディという2人のこれまたきれいな女性が、な、なんと水着姿で両端に並んで記念撮影を行う。勝浦っ子純情のタケちゃんは水着姿のキャンペーンレディというものを初めて見たのがこのビルフイッシュ大会でありました。鼻血ブーになりそうでした。笑。このビルフイッシュ大会地元住民も楽しみにしており大きなカジキや普段見ることのない豪華なクルーザーの集まりを毎年多くの方が見学に訪れもした。また一席に使う燃料もバカにならず、地元のガソリン店も喜びまた食料とかお土産店とか地元への経済効果も高い物があったと思う。2009年の年頭当時のヤマハの担当者が町役場の担当者とともに観光協会に来所した。
僕も同席していた。そこでヤマハの担当者から時代の流れで年々以前より参加艇が少なくなり会社の方針で勝浦でのビルフイッシュ大会の開催が出来なくなった。本当に申し訳ないと号泣しながら語った。ヤマハの担当者の方々は第1回から携わっており本当に色々な難関を乗り越え苦労しながら22回の開催を行ってきたのであろう。その姿は度素人の僕が見ても「ああ、本当にビルフイッシュ大会を愛していたのだなぁ」と強く感じた。
そう言うわけで、勝浦のビルフイッシュ大会は2008年で終了したが、僕の心の中、そして勝浦の住民の心の中にはいつまでも良き思い出として残っている。
第53話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第54話『松に桜』
はい、かなり寒い日が続きますが、全国1千万のファンの皆様お元気でしょうか。僕は前に風邪をひきまだ喉の調子が完全ではありません。そんなんでも新年最初の音楽物もアップしました。ユーチュウブでyoshee50で検索すると過去の弾き語りや音楽物も見れますのでぜひご覧ください。ということで結構ハイペースで、書いてますが、昔懐かし話でございます。今回の話は現在も存在するものでございます。町民の方でも知らない方がいるかもしれない取って置きの話ですぞ。今回も前置き長くなりましたね。でわでわ第54話です。
はい、今回の話は、たぶん僕も観光協会で働いていないと知らなかったであろう話であります。那智勝浦町には、温泉郷が2つあるのはご存じでしょうか。1つは、南紀勝浦温泉ですね。もうひとつは、南紀湯川温泉です。この南紀湯川温泉については、次回詳しく書こうと思いますが、南紀湯川温泉の地域は、紀伊勝浦駅から大阪方面に次の駅である湯川駅の近く勝浦に戻るような形で徒歩10分くらいのあたりの事をいいます。ちょうど国道42号線をはさみ、ゆかし潟の対面「きよもん湯」の所から国道に沿ったところともう一本奧へ入ったあたりのことです。その「きよもん湯 」から1本入った道の所に以前Hという宿があり、僕も観光協会に入ってからそこのご主人や女将さんに大変お世話になりました。(ご主人は何年か前にお亡くなりになりました。)その旅館Hの庭に、実は
松の老木に桜の枝が生えている「松に桜」があったのである。(過去形で書いてますが現在もあります)。この木は、非常に珍しく簡単に説明すると松の老木に昔鳥か何かが桜の小さな枝を植え付けそれが松に刺さり年月と共に桜の枝が松から栄養分を吸収し立派な枝に育ったと言う物である。僕も何回も桜の時期にはその見事な松の木に桜のきれいな花が咲いているのを見せていただいたが、見事な物だ。テレビや新聞とかマスコミにも取り上げられたりした。ただし何年か前にご主人が毎年桜の咲く数が少なくなりこのままなら駄目になると言うことで樹医を呼んで手入れをするので、良ければ手伝ってもらえないかと観光協会の僕の所に電話してきてくれた。僕は快諾し同僚のIさんとともにお伺いし樹医さんの指示通り落とす方が良い枝をのこぎりで切ったりする手伝いをした。作業が終わり樹医さんは、「出来る限りの事は、やりましたが、来年桜があまり咲かなかったらもうおそらくよみがえらないでしょう」と言った。翌年の春は手入れをした時より桜の花が少なかった。ご主人は、「やることはやったのでしょうがないのう、あとはこの木に任せようと思う」と言っていた。その後ご主人がお亡くなりになり、旅館の営業もしなくなつたのて゛僕もご無沙汰していた。この話を書くことを思いついたとき久しぶりに、元旅館Hに電話してみた。女将さんが出られ僕はこの「松に桜」の事、ご主人といっしょに生前手入れをしたことなど話し、今はどうなっているか聞いてみた。女将さんは「今は、桜の花の数は以前より少なくなったけど今も春になると桜が咲いているよ」と答えた。
「本当ですか、うれしいなぁ。よかった。今度見に行きますわ」
と僕は電話を切った。本当にうれしい。なんかご主人の思いがこの「松に桜」にとどいたのであろう。今年の春も湯川温泉郷にこの「松に桜」は花を咲かせることだろう。皆さんもこの辺りにお出かけ時はぜひご覧ください。那智勝浦町のひとつの名物である。
第54話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第55話『南紀湯川温泉』
はい、少し間が空きましたが、第55話であります。本当は55話なのでコント55号のこと(古いかな、今の若者知ってるんやろか)でも書きたい気持ちでありますが、ここはぐっとこらえて、第54話でちょっとお話ししました南紀湯川温泉のことを書きたいと思います。ただ、僕は郷土史家でもなんでもないのであくまでも僕の記憶装置に任せて書きます。ご了承ください。またまた前置き長くなりましたが、でわでわ第55話でございます。
改めまして、南紀湯川温泉であります。那智勝浦町は南紀勝浦温泉として有名だが、実は、もうひとつ温泉地があります。それが南紀湯川温泉であります。俗に湯川温泉といいますが、全国で他にも湯川温泉という所があるかも知れないのであえて南紀湯川温泉と書きます。南紀勝浦温泉も名湯が多いが、ところがどっこい南紀湯川温泉も劣らないのであります。この南紀湯川温泉、歴史はものすごく古く、平安の昔、熊野詣に向かう旅人達が、参拝前に湯ごりをして身を清め、旅の疲れを解きほぐした場所と言われ古くから湯治場としても栄えてきたのである。南紀勝浦温泉の開湯が江戸時代であり、南紀湯川温泉が平安の時代(約1500年前)だからどれだけ歴史があるかおわかりであろう。紀伊勝浦駅から大阪方面に1つめに湯川駅があり、その湯川駅から勝浦の方に戻る形で徒歩約5分の所に湯かし潟がある。新宮市出身の詩人佐藤春夫が湯かし潟と命名した。海水と淡水が混ざり合う珍しい汽水湖であり、その湖畔沿いに数件の宿が営まれてきた。僕が観光協会に入社した平成5年当時には、この湯かし潟の入り口付近に湯川温泉ホテルがあり、湯かし潟では、家族連れやアベック(僕も古いね~、カップルの事です)が手こぎのボートに乗っていたりした。また国道を挟んで対面沿いや1本道を入ったところに小さなこじんまりした旅館が数件あった。すべての宿が趣があり良いのだが、特に昭和23年には、当時の皇太子(現天皇陛下)が喜代門旅館(現在のきよもん湯)にお泊まりになった記録があり、皇族の方々もお泊まりになるほどの名湯なのである。
また、温泉地の中に熊野七薬師で有名な湯泉寺もあり、昔から足の病気に霊験あらたかで足の不自由な旅人が湯泉寺に参り、この南紀湯川温泉の湯に浸かり湯治をしたら帰る頃には杖が入らなくなりその杖をこの湯泉寺の本堂に立てかけて帰ったというすごい薬師なのである。南紀湯川温泉、現在は、経営者の高齢化等の理由で旅館は2軒のみの営業となってしまっている。
立ち寄り湯は、きよもん湯はじめ数軒の営業となっている。全盛期とくらべるとさびしいが、なんとかこの名温泉地をもう一度有名にしたいと思っているのは僕だけでないだろう。大きなホテルも良いが、こじんまりした本当に家庭的な旅館でゆっくりと過ごしたいと思われる方はぜひ南紀湯川温泉にお越しいただきたい。そして温泉と共に季節ごとの良さを見せる湯かし潟周辺もぜひ散歩していただけたらと思う。
この話書いてたら南紀湯川温泉のお湯に浸かりたくなってきた。久々に明日でもゆっくり浸かりに行くかな。
第55話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第56話『夕暮れサマーコンサートinブルービーチ那智』
はい、雪も降るほど寒い今日この頃ですが、真夏の話であります。この季節感タケちゃんならではなのであります。仕事柄色んな町お越しのイベントに携わってきたというか企画してきたわけでありますが、今も続いている物、形や名前を代えて残っている物、その時非常に盛り上がり花火のごとく消えてしまった物いろいろあります。そんな中で何年か続き形を代えて今も他の有志が行っているコンサートであります。でわでわ第56話です。
皆さん、寒い日が続くと早くあつたかくなんないかなあ~と思い、暑い日が続くと、あ~早く涼しくなんないかなぁ~と思う人はわがままな生き物であります。今回は真夏のカンカンでりの日の夕暮れ時のお話であります。昔NSPというグループの「夕暮れ時はさみしそう」と言ういい歌がありましたが、このコンサートがあれば、ちーとも寂しくないですよ。時は平成12年までさかのぼります。国のCCZ計画で、那智の浜周辺が開発され、国道からの海水浴場への立体道が出来、また那智の浜の護岸が整備されて完成した頃である。このころから花火大会もほとんど那智の浜で行われていた。そして那智海水浴場が
環境省の快水浴場(かいすいよくじょう、海水ではありません。水分の質とか環境とか安心して泳げる基準で選定)の全国で12カ所しかない特選に選ばれた。和歌山でも2カ所後一つは片男波である。このことを全国にもつとPRしようやないかということで、夏の海水浴シーズンに那智の浜を格好よく「ブルービーチ那智」と言うようになりコンサートを護岸を舞台に行うようにした。砂浜に観客が自由に座り、階段溝の一番上に演奏者が立つ。観光協会主催で少ない予算で行った。階段溝の一番上にテントを2張り立ててその中にドラムとかアンプとか置いて演奏する。電源は放送室から引いてきたりした。音響も知り合いの持っているミキサーとかを借りて、この年は、アマチュアバンドとなんとプロの知り合いのシャンソン歌手が歌ってくれた。昼間から夕暮れまで。そして翌年から開催時間も午後4時くらいからとしてコンサート名を「夕暮れサマーコンサートinブルービーチ那智」とした。そして平成14年には、砂浜に仮設ステージを作り、階段溝や砂浜に観客は座りステージを見る。目の前にステージ、その後ろには海原、そして上空には星と満月という素晴らしいロケーションである。この年は少し予算も付けてもらい、和歌山の誇るウインズ、地元のサウスマリーン楽団、グリーンコーラス等素晴らしい音楽に観客も酔いしれたのである。書くのが遅れたが、サマーコンサートは、この12年だけ500円のチケットで、後は無料で楽しめるようにした。このあと少し間があいたが、平成15年から約5年間、今度は体験博の行われた駐車場のテント跡で行い地元や近辺のダンスチームや、アマチュアバンド、アフリカン太鼓やフラダンス等夕暮れ時から午後9時頃まで、観光協会や出演者達の運営で行った。司会はなんと僕と同僚のIさん。ポスターやチラシも手作り。アンプとかも持ち回り。音響はプロだがほとんどボランティアみたいなもの。近くの家から「うるさいそ゛」と役場に苦情の電話が入り、その後何人かで謝罪と説明に行くと手作りでやっていることに感心され、次の年からは観客に変わった方もいた。
観客も地元の方はもちろん、観光客も訪れ、またそのために露天も出たりした。夕暮れコンサートは行わなくなつたが、今は海水浴シーズンに有志が同じ場所でダンスや、アマチュアバンド、フラダンスの披露等行っている。
少ない予算で、ほとんど手弁当で行っていた「夕暮れサマーコンサートinブルービーチ
那智」夏の良き思い出である。出来ればまたやりたいものである。
第56話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第57話『熊野列石探方ウォーク』
はい、しはらくぶりでございます。ある時は弾き語りのタケちゃん、ある時は小説家きどりのタケちゃん、そして本業のタケちゃん。本業である観光協会主催のまぐろ祭りの準備でぜえぜえ言っておりましたが、昨日無事終わることが出来ました。これもひとえに、僕
の努力、いやいや皆様の応援のおかげでございます。本当にありがとうございました。と言うわけで、小説家に変身したタケちゃん。前にも書きましたが、僕は郷土史かでも何でもないので、その点ご了承ください。でわでわ第57話熊野列石探方ウォークです。
はい、皆さんは猪垣つて知ってますか。僕もおそらくこの観光協会の仕事していなかったら知らなかったと思います。那智勝浦町に高津気(こうづけ)という区がある。町の北東部に位置し新宮市に隣接している。面積5、15k平方メートルの中山間地域である。地区の産業としては、農林業が主体であるが、近年の道路整備の結果、町中央部まで車で約15分程度となったため区外への通勤者も多い。高津気地区の来歴は古く平安朝の頃からその存在が報告されている。高津気区の名前が現れる正確な文献は1628年の「郷帳」
がある。そんな高津気地区に熊野列石がある。熊野列石とは、猪垣(ししがき)とも呼ばれ、鹿や猪の害を防ぐ目的(諸説あり)で江戸時代に盛んに築造された防壁のことである。ここ熊野地方の猪垣は全国有数の規模を誇り、昭和63年に「熊野列石研究会」が県の補助を得て調査しところでは、新宮市と当時の東牟婁郡内で総延長70kmに及ぶ猪垣が確認された。あまりの長大さから、熊野先住民が古代に築いた防砦の連溝ではないかというロマンチックな説も出て全国的に話題になる程だった。那智勝浦町の高津気(こうづけ)の猪垣はとりわけ規模が大きく、熊野の万里の長城ともいえる威容を誇っている。ここには、猪落とし(いのししを落とす穴)や、侍岩、人面石もある。那智勝浦町観光協会が、集客事業の一環として平成19年の5月と10月の2回、平成20年の4月と10月の2回、「熊野列石探方ウォーク」と題して地元の方々の協力の元、この猪垣を歩くウォークを実施した。どの会も地元の方々が2、3人が随行し安全面からのサポートを行っていただいた。調整役として観光協会職員も2、3人が同行した。ここはきつい所もあるが、わりかし楽に歩ける。ウォークの参加費はいらないが、垣普請代として一人100円いただき、猪垣の保全代として高津気へ納めた。僕もこのウォークに何回か参加させていただき、垣普請にも何回か参加させていただいたりして、この猪垣を何回か歩き猪垣を目の当たりにした。その姿は高さ約1mでずっと猪垣が続いている。圧巻であった。現在は事情があり観光協会主催のウォークは行っていない。この熊野列石本当に熊野が誇るひとつの資源であると確信する。いつまでも残ってほしい。そして熊野列石探方ウォークを再現できればと思う。
第57話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第58話『町民運動会』
はい、少し間が空きましたが、皆様お元気でしょうか。巷では、ノロウイルスやインフルエンザが流行っていて、早くシーズンが終わってほしいと思いますが、その後にぐずぐすの、はくしょん大魔王の季節、そうあの憎き花粉症の季節がやってくるのでありますと言うか、もういらっしゃってまして、花粉症歴35年タケちゃんは非常にむずむずしている訳です。桜が咲く頃には落ち着くのですか゛。またまた前置きが長くなりましたが、今回は久々にタケちゃんの小学生の時の話であります。3バカトリオも登場いたしますよ。でわでわ小学生の時にタイムスリップです。
はい、と言うわけで約45年前の話であります。今の那智勝浦町の庁舎(いわゆる役場)は、今の紀陽銀行の所に建っていまして、今の役場周辺は広い空き地で、この場所で
僕が小学校2年くらいまで毎年11月上旬に町民運動会が開催されていたのである。その後は役場建設のため勝浦小学校の運動場となった。今回は場所が勝浦小学校に移ってからの話。
「なあ、ナカシャ、今度の町民運動会、俺6年生で走ってくれって、役員のおいさんに言われたんや。ナカシャそのまま5年生で出るんやろ」と僕。「えっ、そうなん、まあ6年おらんしタケちゃんやったら大丈夫やろ。走るの速いし。」「俺5年生やけど、6年と勝負やで、かなわんわ、早い子いっぱいおるもん。タコちゃんは、。4区で出るんやろ」「いや、昨日5年生6人で走って決めたんやけど、今年はアンちゃんや。」とタコちゃん。
「そうかん、アンちゃん早いもんね。そんで、タコちゃん他のでるん。」「障害物にでるんや。」「そうかん、タコちゃん障害物得意やん、いつも1等やん、1等取るんちゃう」
「わからんで、5年と6年の混合やもんなぁ。まあ、頑張るわ。」「俺らも頑張るで」
タコちゃんは、4年生の時に仲の町(3区)から神明(4区)に引っ越したのである。
タコちゃんの新しい家は、勝浦小学校の真ん前の文房具店、学校から一番近いのにいつも僕らと登校するのでいつも遅刻していたのである。蓄膿症で、いつも口をタコみたいにしていたのでタコちゃんなのである。前にも書いたが旧勝浦の地区は6区あり、1区が大勝浦(我が友、年哉くんの区)、2区が脇入、3区が勝浦の銀座と僕らは思っている我が故郷仲の町、4区が小坂・神明、5区が北浜、6区が築地である。この6つの区で大玉ころがしや、玉入れ、障害物競走、借り物競走、綱引き、100メートル走等を行い1つ1つの競技ごとに得点を付けていき総合得点数が一番多い区がその年の優勝区となっていた。そして最後の競技がメインイベント200メートルリレーである。200メートルのトラックを、男女別に小学1年から中学3年まで各学年と大人の各区20人のメンバーで走る。これがものすごい盛り上がる。僕は小学1年から6年までは学年で1番か2番に早かったのでいつも仲の町の選手だった。
ナカシャも早かったが、仲の町は子供の人数が少なかったので、ナカシャがその学年の選手、僕がその上の学年の選手の時もあったのである。
それで話戻り、僕が5年なのに6年の学年で出たときの話である。5年で出ているナカシャの相手は、1区年哉くん、2区山ちゃん、4区アンちゃん、5区サルくん、6区おやじ(顔がおやじみたいなんであだ名がおやじ)であった。4年生の女子まで3区が5位。5年男子のナカシャにバトンが渡された。頑張るナカシャ、なんと一人抜き3区は4位、そして6年女子にバトンが渡されそのままの順位で僕の出番。6年生男子、バトンを受け取ったタケちゃん、なんと2人抜いて2位でバトンを渡した。タケちゃんには、1年上の学年の生徒もかなわないのである。そして3区のリレーの結果は2位だった。総合得点では3区は5位。景品の洗剤とジュースを手にナカシャとタコちゃんと家へ向かった。「ナカシャすごいげ、1人抜いたやん」と僕。「そうや、ナカシャ一人抜いたとき仲の町の皆の歓声すごかったで~」
とタコちゃん。「ほんまかん、うれしいよ。俺一人抜いたとき気持ちよかったわ、」
「でも、タケちゃん6年生で走って2人抜いたやん。ものすごい歓声やったで~」と
タコちゃん。「そうや、おっさんばっかり、低い声で吉野がんばれー、タケちゃーん、言いやったわ」とナカシャ、「そうか、おっさんばっかりか~、っておまえらどつくぞ」
僕らは大笑いしながら家路についたのである。小学校の時の良き思い出である。
小学校低学年まで運動会を見に行ったり実際参加した場所。今その場所には、役場が建っており、また駐車場となっている。
第58話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第59話『那智ユースホステル』
はい、中々のハイベースでの更新であります。誰ですか、もうそろそろネタもつきてきたやろと、言うのは。大丈夫ですよ。毎日トイレに入ったときなど、昔の事を考えてるとふと「あ、そうや、こんな事もあったな」と思いだし、トイレから出た後メモに書いて今読んでいる本に挟んでおくのであります。そのメモがまだありますので、まだまだ書きますぞ。今年の初めに100話今年中に書く決意をしたので、後世に伝える遺言みたいに書き続けますよ。それが観光の仕事に就いた僕の使命だと最近つくづく思うのであります。 だからただ書くだけでなく、これを本みたいに形にしてやるとか、新聞に載せてやるとか思われた方いらっしゃいましたら遠慮なく観光協会までご連絡ください。ということで今回も長々と前置きを書きましたが、今回は初めて書くと思いますが、僕の中学校の時の話もあります。でわでわ第59話であります。
「なあ、いさお君今度の日曜日なべっちとこ遊びにいかへん。タコちゃんとナカシャも誘って、なべっちキーボーこうたらしいで。 」いさお君というのは、僕が那智中学校に入学し入学式の時名前に吉が付いたので、僕の前に並んだのきっかけで(ほんま子供の時は変なことがきっかけとなり友達になるもんです)僕から「同じ吉が付くんやね、どこの小学校から来たん」と話しかけたことで意気投合しそれから今まで約40年親友である。那智中学校は、町内のいくつかの小学校の生徒が集まってきており、いさお君は市野々小学校出身で那智山からバスで通っていた。野球部で坊主頭で昔はやったガリバー君みたいな顔の奴だ。あとナカシャとタコちゃんはおなじみの僕との3バカトリオ。そしてなべっちだが、ちょっと事情があり幼稚園の時から太地より勝浦へ通っていた奴である。なべっちとは僕たち3バカトリオは幼稚園の時から友達であった。なへっちの家は那智勝浦町の隣の太地町の平見という景色の良いところにあり海も見える。そこでご両親は、太地ユースホステルを営んでいた。皆さんはユースホステルというものをご存じだろうか。僕のパソコンのアホーによると、青少年の徒歩旅行、自転車旅行のために簡素、清潔、廉価な宿泊施設のこと。青少年の自然との触れあいや、国境、人種、宗教なとを越えた相互交流の機会を提供することを目的としている。とある。だからなべっちの家は2階建てでお客さん用の部屋が16部屋あり、そのほかにご両親の部屋、なべっちの兄弟の部屋が3部屋と食堂やお風呂そして廊下には卓球台もあった。僕らはたまに日曜日に自転車に乗り太地の平見まで遊びに行って卓球とかしてたのである。午前中の内に行くとお母さんがお客さんに出す昼ご飯のカツ丼とかを僕らの分も作ってくれて食べさせてくれたりもした。絶品だった。ある日僕らは、音楽好きのなべっちが買ったキーボードを見になべっちの家に行き、キーボードを弾いたり、その頃弾き始めたギターとギターでのベースとキーボードとボーカルでバンドごっこをしたりした。なべっちの家のユースホステルも平成21年の6月のまで続いたが残念ながら閉館した。そして実はここからが本題なのだが、我が那智勝浦町にも昔ユースホステルがあったのである。場所は那智駅から那智山へ向かう県道の入り口すぐ、補陀洛山寺の隣りにある渚の森公園の場所である。
僕が平成5年に観光協会に入社したときは、まだその建物が残っていたが営業はしていなかったと思う。名前は正式には和歌山県 那智ユースホステルで、昭和34年6月営業開始と記録に残っている。おそらく30年くらいの営業だったのであろう。僕が観光協会に入ったときは、たしか建物の一部を観光協会のイベントの物品の倉庫に使っていた。この建物の側には、熊野古道の振り分け石がある。この振り分け石は、紀伊半島の西側を海沿いに進む大辺路、紀伊半島の東側を海沿いに南下する伊勢路、そして田辺、本宮、那智を結ぶ中辺路の分岐点を示す道標である。今もこの振り分け石は残っている。ただ、那智ユースホステルは、解体されその跡地は整備され渚の森公園となっている。これも時代の流れか。那智ユースホステルはおそらくたくさんのお客さんを迎え、様々なドラマが生まれたのだろう。那智勝浦町の良き思い出である。
第59話 終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第60話『フカヒレの天日干し』
はい、また゛まだ寒い日が続きますが、お元気ですか。日本海側では雪も降っており大変だと思います。お気をつけください。今回は、久々に食べ物の話でございます。僕の上京したときの話も少し書きます。前置きがながくなりそうなので早速行きますか。でわでわ第60話であります。
「たけひろくん、遠慮しないで食べてね。お気に召すかしら。さあ、私たちもいただきましょうよ」「おじさん、おばさん達、今日は、僕のために本当にありがとうございます。おいしいです。遠慮せずにいただきます。」「そうよ、親戚同士だから、遠慮なんかしたら行けないわよ。さあ、いただきましょ。あっ、たけひろくんからどうぞ。飲み物はビールでいいの」「すいません、いただきます」ここは、横浜のなんとか楼という高級中華料理店、僕が高校を卒業し上京してからしばらく経ったある日、親戚のおじさん達が、僕の上京歓迎会を高級中華店で開いてくれた。僕の実家は本家で、僕の祖父の兄弟、親父の兄弟は何故か横浜あたりに住んでいて大きな会社の社長とかしていた。その皆さんが僕を招待してくれたのだ。恥ずかしながら、円卓というものを初めて見て、ずらりと並んだ中華料理そればかりか、しばらくしたらまた別の料理が運ばれてくる。この時僕は生まれ初めてフカヒレというものを食べた。思わず「うま~、なんやこれ」と言いそうになつたが、お上品なおじさん、おばさんの手前「おいしいです。フカヒレ最高ですね」と標準語で答えた。「良かったわ、私たち、たけひろくんの近くにいるからこれから何かあったら遠慮しないでいつでも連絡や遊びに来てね」「ありがとうございます」「いいえ、あたりまえのことよ」それから何時間か僕たちは高級中華料理を堪能した。ほんま、うまかった。これが僕のフカヒレ初体験である。話変わってこのフカヒレ。実は那智勝浦町の冬の名物でもあった。過去形で書いたが後で理由を書こう。那智勝浦町の勝浦漁港は生まぐろの延縄漁法水揚げで有名たが、この延縄にはまぐろだけでなくサメも時々かかる。サメにはヨシキリ、イラギ(アオザメ)、ヒラガシラ、トキリなどの種類がありフカヒレには、ヨシキリやイラギが使われる。胸びれは、フカヒレスープでおなじみの細かくほぐれた繊維質になる。背びれと尾びれは、ほぐれていないヒレの形をした繊維質の固まりに加工され、胸びれの2倍以上の値がする。那智勝浦町にも、大正時代から約100年続いたM商店がある。1月の上旬から3月までフカヒレの間約2ヶ月かけて毎日早朝から夕方まで干す。フカヒレは主に関西の中華料理店などに出荷されていた。サメの身は干物等になりこれも絶品である。このフカヒレの天日干し何年か前より見なくなったので、女将さんに聞いたところ、3年前にワシントン条約によりサメの乱獲が規制されフカヒレが手に入らなくなり、やらなくなったそうだ。今は主に干物づくりを行っているそうだ。サンマの一夜干しの風景と並んで冬の風景だったフカヒレの天日干し、出来ることなら復活してほしい。
第60話 終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第61話『観光会館』
はい、ほんの少し間が空きましたが、まだまだ書きますよ。本日は世の中はバレンタインデーという男の子も女の子もどきどきする日でありますが、ダイエットしなければならないタケちゃんにも職場の心優しい女神達がたくさんチョコレートをお渡しくださったのであります。義理と分かっていてもほんま、うれしいものであります。ほんま女神達よありがとうございます。ちゃんと心込めてお返ししますからね。ちなみに僕のカレンダーは、あと3日バレンタインデーとなっておりますので宅配も受け付けます。観光協会までどうぞ。(冗談ですよ)、というわけで、今回も前置き長くなりましたが、今回は中学の時の話も少し書きますよ。でわでわ61話であります。
「なあ、ナカシャ今度の日曜日、観光会館でバンドコンサートあるやん、見にいかへん」僕は、いつもギターを弾きあっていたナカシャに訪ねた。ナカシャは僕の話の中ではもうおなじみである。そう仲の町3バカトリオのひとりで幼ななじみである。僕らは那智中学校に入学しそして僕らはご多分に漏れず思春期というものになり音楽にめざめたのである。それは、僕らの前にキッス、ディープパープル、レッドツェッペリンなどかっこええあちらのバンドが現れ(ビートルズではないんですよ、僕らの世代は)、そのギタリストが持っていたエレキギターに僕らは完全におかされてしまったのである。ナカシャは当時安物のエレキを持っていて、僕はエレキが買えずほんまに安いフォークギターをもってナカシャの部屋でディープパープルやキッスとかガチャガチャやっていたのである。ナカシャは国産のギターアンプも持っていてナカシャの家の前は漁港なんで僕らがギター弾いてるとアンプに無線の音が入ったりする。僕らはそのたび大爆笑。僕らの仲間には那智山から通っていたイサオ君、そしてたまにナベッチもいた。「ああ、バンドコンサートやろ、ハナイレコードのおいさんいつもがんばりやるね。、あそこのPAものすごいええらしいで。俺ハナイレコードの入り口にあるグレコのエレキほしいわ」と僕。「今度のコンサート、大ちゃんグレコのレスポール持ってキッスやるらしいで。ベースは、おっちゃま、もう一人のギターはさらい君、ドラムはむっつんやて。」
「キッスやるんか、ええなぁ。大ちゃんうまいもんね。」と僕。「俺らも来年出れるように頑張ろら。」そして僕らはまたガチャガチャグーイーンとギターをかき鳴らした。
那智勝浦町には、駅から歩いて10分くらいのところ(今の勝浦御苑の前、道はさんだところ)観光会館というホールがあり音楽コンサートや踊り、講演等に使われていた。1階には管理事務所や町の団体の事務所、階段上るとホールになっていて舞台があった。資料によると、昭和38年の1月31日に竣工式、当時の6500万で建てられた。落成式には歌手の三浦洸一氏が来勝され盛大に行われた。昭和38年なので僕と同い年である。
僕が平成5年に観光協会に入ったときは、1階には、社会福祉協議会の事務所と管理事務所があり、外の倉庫に観光協会の看板とか備品を置かせてもらっていた。だからしょつちゅう出入りしていた。
この観光会館は長きにわたり様々な催しを行ってきて町内はもとより 町外の方々にも利用された。色々なドラマが生まれたことだろう。テレビの2時間番組のロケ地にもなったこともある。
しかし、時の流れか耐震性や老朽化によりおしまれつつ約10年前に閉館した。今は各団体の備品の倉庫となっている。観光会館いつかは取り壊されるだろうが、僕らの心の中にはいつでも良き思い出として残ることだろう。
第61話 終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第62話『学生帽子と学生カバン』
はい、中々ののハイペースでの更新であります。今回はこの前休みの日に母校の中学校の前をちょうど通学時間に通ったときに感じたことを題材に書きたいと思います。那智勝浦町昔懐かし話だが、もしかして全国区の話になるかも知れません。あしからず。今回も前回に続きタケちゃんの中学校の時の話もありますぞ。でわでわ62話であります。
小学6年生の正月が過ぎた頃、「タケちゃん、もうすぐ中学校やさかい、今度N洋服店へ学生服見に行くかん。」お母ちゃんが、僕に聞いた。「うん、今度の土曜日に見にいこよ」と僕。「よっしゃ、300万おろしとくわ」とお母ちゃん。ほんまおもろい母である。その日曜日僕らは仲の町のN洋服店に出向いた。「あれ、タケちゃん、もう中学かん、早いね。ついこの前まで鼻垂らしてそこら中走り回りやったのに、早いねえ。」と店のおばさん。「おばさん、おおきによ。でも一言おおいで」「えっ、そうかん、いつも一言多い美人のおばちゃんって有名やで~」とおばちゃん。「そんなことどうでもええさか、たけひろの学生服見せてよ。」とお母ちゃん。「すまんの~、これどうや、かっこええで~。タケちゃん似合うとおもうで」その頃の僕は、今と違いやせていて格好良かったのである。
(えっ、今も格好ええて。ありがとう、照れるがな。)そんなこんなで僕は非常に普通の学生服とズボン、そして学生帽のセットを買った。裾直しをしてもらうため預けた。いくら負けるとのお母ちゃんとおばちゃんのバトルがありお母ちゃんが勝った。「タケちゃん、お祝いやさかいこの学生カバンもつけたるわ」「おばちゃん、おおきに、今日はおばちゃん美人やね」と僕。「今日はってなに、いつもやで~」おばちゃん、「はい、はいタケちゃん帰るで」とお母ちゃん。やっぱり家のお母ちゃん普通と違うわ。そして僕はその学生服を着て、那智中学に入学。何人かの新しい友達も出来た。そして中学3年生になった
ある日のことである。中3ともなるとかなり格好付けたくなる年頃である。「なあ、イサオ君、そのズボンもものとこ普通のより太ない」と僕はイサオ君に聞いた。イサオ君は、前にも書いたが中一の時から友達で那智山から通っている。エレキも持っていた。このイサオ君今は某楽団でサックス吹いてます。昔から音楽の才能は抜群でした。顔はガリバーやけど。「これ、知らんの、ツータックいうてこのベルト通すとこの下2段階に折り込んだあてニッカボッカみたいにモモのとこ太なったあるんや、格好ええやろ、ナカシャもこれやで」「ほんまかん、かっこええやん、ナカシャもそうかん、俺も買おう」と僕。イサオ君がツータック履いていたのも驚いたが、それよりあの3バカトリオのナカシャが履いていることが腹たった。負けられんと思った。その日の帰り道、ナカシャに聞いた。「ナカシャ、ツータックはいたあるん、どこでこうたん」「あっ、これN洋服店で売りやるで、それからこれも」とナカシャは上着の裏を見せた。そこには龍の刺繍が入っていた。「何やそれ、格好ええやん。」「タケちゃん、格好ええやろ、あんまり派手な刺繍はあかんやろうけど、これくらい何気なく入っているやつやったら大丈夫やで、これもN洋服店やで」「ほんまかん、あのおばさんとここんなんも置くようになったんや、今度こうてもらおう。」
そして、家に帰り次第「なあ、お母ちゃん、ツータックっていう学生ズボンあるんやけどこうてくれん。お尻のとこきつなってきたんや。ナカシャもイサオ君もツータックなんやで」家のお母ちゃんは、ナカシャのことは僕と同じくアホやとおもてるけど、たまに遊びに来るイサオ君は、ええとこのボンボンや思ててかなり気にいってたのである。その彼がツータックなんで、「そうやね、、今のズボンも古なってきたさかいこうたるわ」とお母ちゃん。その次の土曜日また初めに書いたようなアホみたいなお母ちゃんとおばちゃんのやりとりがあり僕はツータックのズボンを履いていくようになつたのである。しかし、3年生になっても上着の裏に刺繍を入れる勇気はなく、そして学生カバンも3年間使った。新宮高校に入ってから学生服の裏に少し刺繍の入ったやつも着たりした。ズボンは相変わらずツータック、これが楽なんである。カバンはさすがに、その頃流行っていたアディダスのスポーツバック(ギョウザみたいな形をしていた) をつかっていた。学生帽も新宮高校の物をかぶっていた。今回なぜこのような話を書いたかというと、今の中学生は、学生服はもちろん着ているのだが、学生帽というものがないらしい。家の娘が中学生なので聞いてみたが「そんなのないよ」とのこと。そしてもちろん学生カバンもなく、今はリュックサックみたいなので通っている。僕らの時は当たり前だった、学生帽と学生カバンいつから無くなったんだろう。県内の中学校でも残っている所あるのだろうか。なんかさみしいなぁ~。これも時代の流れか。学生時代の良き思い出である。
第62話 終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第63話『そろばん学校』
はい、またまた少し間が空きましたが皆様お元気でしょうか。僕の方は、イベントや出張やらて゛、忙しくおまけにひどい腰痛で「こりゃあかん」と机に向えず中々第63話を書けず申し訳なく思っております。 しか~し、その間にネタの思いつきがありこれから怒濤のように書きまくる夢を見ました。(いや、夢ではなくほんまに書きますよ。)またまた前書きが長くなりましたが、今回はタケちゃんの小学校の時の話が中心であります。我が町のほんわか懐かしい思い出であります。でわでわ第64話のはじまり、はじまり。
「タコちゃん、そろばんいこら」僕は愛車のライダー号に乗り、勝浦小学校正門前の文房具店にやってきた。タコちゃんとはもうおなじみの僕の親友で文房具店の息子である。勝浦仲の町の3バカトリオのひとりである。小学4年生の初めにこの場所に引っ越した。その4年生のときからの話である。「かずひさ、かずひさ、タケちゃん来てくれたあるで。はよせんかん。タケちゃんいつもおおきによ。こら、はよせんかん。」タコちゃんのお母さんは、事情があり母一人でタコちゃんと妹さんをこの文房具店と朝は早くから魚市場で小物の魚を仕入れ魚屋さんにおろす仕事をしていた。僕のお母ちゃんやお父ちゃんは本当にその働きぶりをいつも感心していた。「おう、タケちゃんごめん、ごめん、いこら」とタコちゃんも店の外に置いているライダー号にまたがった。ライダー号は、その頃流行っていた5段変速ギア付きである。かっこええが、たまにチェーンが外れた。そんなときは、手を真っ黒にして素早く直す。僕らは那智中学校の国道はさんだ向かい側にあるYそろばん学校本校に小学4年生になった時から小学6年卒業まで毎週月、水、金曜日に通った。
その頃の小学生は、そろばんや習字、硬筆、絵、数学(算数違いますよ、6ねんの時に)、など習っていたが、圧倒的にそろばんを習っている子供が多かった。オレンジ色の手提げカバンにYそろばん学校の文字が入った皆おそろいのカバンにその級の色つきテキストブック、 鉛筆と赤ペンと消しゴムの入った筆ばこ、下敷き、そろばんケースに入ったそろばん、出席帳が入っている。これに上級になると暗算のテキストブック、そして今で言う10cm四方のメモ帳を束ねたみたいな伝表というもの(本当に伝票をめくるみたいに順番にめくって計算していく)が入っていた。僕らは教室に着くとまず、前にすわっているキュウリみたいな顔でチョビひげをはやしている校長先生に出席帳のカレンダーのその日の所に印を押してもらう。それから席につきテキストを何ページかやり自分で答え合わせをする。分からないところは校長先生に聞きに行く。そしてその日のテキストを自分で答えあわせし赤ペンで採点する。これが終わったら校長先生に見せてまた、印をもらい帰宅する。だいだい1時間ぐらいそろばんの勉強をしていた。そして何ヶ月かに1度昇級試験がある。合格すると合格証とそろばんに貼る合格した級のシールをくれる。これをそろばんに貼る。当然上級者ほどそのシールの数が多い。あるとき僕らはびっくらこんした。
僕の一つ下にオモチャ屋の息子のM君がいた。彼は非常に勉強ができそろばんも飛び抜けて出来て段をもっていた。その日校長先生が僕らに「この度M君が注文してくれた特別なそろばんが届きました~。」と高々と手にし皆に見せてくれた。
普通のそろばんは、親玉がひとつ、小玉(というのだろうか)が4つの、縦に5つの玉があり、始める時に 左から右に人差し指で一度親玉を上にあげる。しか~し、校長先生の見せてくれた特別そろばんは、そろばんの上の所にホタンがついており、なっなんと、そこを押すと親玉がすべて上に上がり、小玉が全部下に下がるという「おそれいったか~、てめ~ら~」と言っているようなびっくらこん、なものであった。僕らは、「ぎょぇ~。なんやそれ~、めちゃええやん」といっせいに合唱した。校長先生は「皆も手にいれられるで~、1本1万円やけど」とぬかしやがった。(すいません、絶対こうてもらえん怒りから言葉が汚くなりました)「ええねん、僕。僕らはこれでええねん」とタコちゃんと僕は自分たちのそろばんを愛おしくさすりながら、だまってうなずきあった。このそろばん学校は、そろばんだけでなく、たまに、休みの日曜日など希望者で各自弁当持参で遠足等行った。那智中学校の上の鉱山跡にも遠足に行った。僕もタコちゃんも参加しタコちゃんは、しきりに「校長先生、これ金やないん、絶対金やわ、俺大金持ちになったぞ」とわめき散らしていた。どうみても銅やのに、僕も校長先生もめんどうくさいので「そうや、金や、なかなかないで」と言っておいた。
そんなんで校長先生はかなり生徒から好かれていたと思う。僕らは小学校6年卒業まで通ってそろばん2級、暗算も2級で終わった。
縁あって僕の今の家の近くには、Yそろばん学校の分校がある。(つい5、6年前まで生徒が通っていたが今は閉校している)今は、本校もやっていないと思う。僕たち、いや那智勝浦町の大人達の子供時代の良き思い出であろう。電卓なんか無かった時代の。オレンジ色の手提げカバンなつかしいなぁ~。
第63話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第64話『きんたの大冒険』
はい、超ハイスピードの更新であります。タケちゃんの頭の中は、ネタで一杯でありますと言いたい。(本当は少しすきまがあるのよん、でも頑張ります)。今回のタイトル見て、にやりした殿方は、助平であります。またにやりしたお母様方も隅に置いてけません。その昔、つぼいのりお氏の歌でキンタの大冒険と言う歌がありまして、話題になりましたが、その話しではありません。そんなのそのまま書いてfacebookにアップできまへん。
今回は、僕の中学校の時の話です。忘れられない先生の事も書きます。でも、最近は小学校の話書いた思たら、中学と行ったり来たりしてますなぁ。頭の中整理できてない証拠やなぁ。まあ、いきましょか。でわでわ第64話きんたの大冒険であります。
はい、僕ら勝浦小学校を無事卒業した(義務教育やから当たり前やけど)仲の町3バカトリオは、N洋服店で買った真新しい制服に身を包みさっそうと肩で風を切り他の小学校からも悪ガキが来る入学式に参加したのであります。そして見事3バカトリオはクラス編成でバラバラのクラスになったのである。でもそのおかげで3人とも新しい友達が出来、その新しい友達も3バカトリオ共通の友達となっていくのである。たとえば今も親友のイサオ君、おったん、だいちゃん、しーちゃん、谷口のよっちゃんなどである。まだおるけど。
僕とイサオ君とは、前にも書いたがクラス別に並んだときに名前に吉がついたので僕の前に並んでいて僕から「おなじ吉つくからよろしく」と話しかけたのが運のつき、それからは磁石のごとくほんま親友になり今も親友であります。その僕らのクラス1年5組の担任になったのが、理科系大学を卒業して中学の教師になったばかりの金田のぼるせんせいである。金田と書き(かなだ)と読む。その頃さだまさし氏がソロになり、雨宿りがヒットしていた。(僕がギターではじめてマスターしたのが雨宿りです。どうでもいいが)そのさだまさし氏に、そっくりであった。黄色の色のついたスケベサングラスをかけ顔はさだまさし、乗っていた車はどぎつい緑色の軽のワンボックスで自分でキャンピングカーみたいに改造していた。そして、科学部の顧問だった。僕とサカジと谷口のよっちゃんは小学校からの友達で、中学で同じクラスになったのて3人で科学部に入った。イサオ君は野球部へ、タコちゃんとナカシャは卓球部へ入った。僕ら科学部へ入った物は特別科学が好きだった訳ではない。なんとなくである。でも入ってからが面白かった。あっそうそう顧問の金田先生は、本人の前では言わないが、皆「きんた」と 呼んでいた。教科は理科てあつた。
科学部では、天気予報をラジオで聞きながら天気図書いたり(やったことがある方は分かると思うが、書き方がわかってくると実に面白い)、アリの巣の観察したり、気象観測したり人体の事を勉強したり結構面白かつたので1年の2学期まで休まず参加した。しかし、3学期になりサッカー部に入りたくなったのであっさり退部してしまった。でも、きんた先生は、サッカ部の副顧問でもあった。そして2年になり、クラス替えもあり担任もかわった。2年生はサッカー部でサカジもいっしょだったが2人とも下手だったので補欠だった。
そして3年生になりまたクラス替えになり3年5組となった。イサオ君といつしょになった。 僕は2年の終わりにサッカー部をやめ帰宅部になった。担任は、又きんた先生だった。3年生になると進学を考えるようになる。僕はあまり成績が良くなく新宮高校に、ぎりぎり合格する程度だった。そしてそのことで僕はノイローゼになってしまった。歩いていても夢を見ているようで足が地面から浮いているように感じる。そんな感じでも毎日学校へは行った。ある日僕は生徒がいっばいいる中の廊下で思いっきりひっくり返った。足が地に着かないのである。でもこんな時きんた先生ははげましてくれた。「ある日俺は、学生の時ひとりでアメリカ横断したこともあるし、九州あの緑の車で縦断したこともあるよ。人生感変わるぞ、受験大変やけどそれだけが人生ちゃうぞ」と。きんたの大冒険である。そんな僕だったがいつの間にかノイローゼは治り、新宮高校にも無事合格できた。合格発表の時僕の自宅に電話があった。「吉野くん、やったね。おめでしう」「あっ、きんた先生ありがとうございます。」「きんたやない。かなだです。あっははは」ときんた先生は笑っていた。
僕らが卒業し、しばらくしてきんた先生も転校したと聞いた。また風の噂でまた、きんたの大冒険をしにいったとも聞いた。僕が13の時で22位やったから今63くらいかな。きんた先生の今の事知っている方いらっしゃいましたら教えてください。またお逢いすることがあれば、「吉野は、りっぱなアホな大人になりましたとお伝えください」
きんたの大冒険、本当に大変おせわになりました。
第64話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第65話『名誉の保健委員』
はい、2月ももうすぐ終わり今年もあと10ヶ月となりましたが、皆様お元気でしょうか。僕は35年続いております花粉症に悩まされ、くちゃみばっかりしております。ヘェックション。あっ失礼しました。中々のハイペース更新、全国1千万のタケちゃんファンも喜ぶ第65話であります。前回中学の時の事を書きましたが今回も中学の時の懐かし話です。でわでわ行ってみよう。
「はい、皆きょうは、学級役員を決めるからな。1年を9月で分けて前期と後期の2期に分けるんや。今回は前期のや。今日の日直の2人、悪いけど前へ来てこれ書いてくれるか」那智中学校へ入学し5日経った朝、担任のきんた先生は、そう言って日直のサルくんとKさんを前に呼んだ。2人は左右に分かれ、きんた先生に渡された学級役員の種類を順に書いていった。全部で10くらいある。初めに学級委員長、副学級委員長、代議員、体育委員、保健委員、書記等である。学級委員長、副学級委員長、代議員は各1名、体育委員からは男女1各ずつと書かれている。サル君達が書き終わると「ありがとう、そのままこれから決まっていく役員の名前も黒板に書いてくれるか。すまんけど」「え~と、これからこれらの役員決めていくんやけど、ひとつひとつはじめに立候補聞いて、なかったら推薦聞くようにしよか、じゃ初めに委員長から」当然誰も立候補は、ない。「はい、Kくんがええと思います。」庵ちゃんが言った。Kくんとは、サルくんで、たまたま今日日直で前に出ている。サルくんと庵ちゃんも勝浦小学校出身で2人は友達であった。結構役員を決める時ってこんなもんである。学級委員長はK君、そして副委員長も推薦があり前に出ていたKさんに決まり、代議員は健さんにきまった。健さんは、三河小学校から来た面白い奴でその後僕とも友達になる。そして色んな委員が決まり保健委員の番になった。そして何を思ったか庵ちゃんが僕の名前を推薦した。僕は保健委員になった。女子は推薦でOさん。別の小学校から来た子だった。僕の隣の席で、天然パーマで魔女っ子めぐちゃんみたいな子だった。向こうから「同じ保健委員やね。吉野くんよろしくね」にこっと挨拶してきた。勝浦っ子純情のタケちゃんは一発でやられちまった「あか~ん、かわいい」である。保健委員というのは何をするかというと皆の検尿や検便集めて担任の先生に届けたり、健康診断の準備の手伝いしたりと結構皆の嫌がることをやったりした。普通だつたら少し嫌な顔をして皆の検尿集めたりするのだが、Oさんは嫌な顔ひとつもせず一生懸命やっていた。そんな姿も「あか~ん」である。その後、実は後期も僕は保健委員に推薦され、そして何とOさんも保健委員になったのである。中学1年の時はバラ色の人生であったが、その後何も起こらず、2年生になり僕とOさんは別のクラスになった。まあ、こんなもんである。そして2年の学級委員を決めるときになり、なんと又保健委員に推薦された。「俺の顔つて保健委員の顔かなあ」と学校帰りにタコちゃんとナカシャに聞いた。クラブは違ったが、たまに帰りが同じ時間になったりした。「タケちゃんの顔は、検便を集める顔や、うん、ねえ、ナカシャ」とタコちゃん。「そうや、検便の顔や」とナカシャ。
「そうか、検便の顔か、ってなんやねん」僕らは笑いながら家路についた。
そして、またまた2年の後期も保健委員に推薦された。このことをナカシャとタコちんに話すと腹かかえて笑い転げた。2人とも「あ~、おもろいよ。タケちゃんは保健委員しかないんちゃうか。一番似おたある。もうこうなったら中学3年間全部保健委員やったらすごいやん」とナカシャとタコちゃん。「そうやなぁ~、記録つくるわ」と僕。あっそうそう、ちなみに2年生の時の女子の保健委員は、普通の子で何もありませんでした。念のため。そして3年になりクラス替え。担任は、きんた先生。そして悪友のイサオ君ともいっしょのクラスになった。タコちゃんとナカシャとは別のクラス。学級役員決めの日。なんとタケちゃんは、代議員に推薦され、代議員になってしまいました。クラス代表で生徒会の手伝いとかした。ここで3年間連続保健委員の夢(なんちゅう夢や)はたたれてしまった。でも与えられた役員一生懸命やりましたよ。そして中学3年生後期、最後の役員決めの日。またもや推薦で保健委員になったのである。惜しい、実に惜しい。(なんでやねん)中学3年生最後の役員を保健委員で飾れたことに誇りを感じます。やっぱり私には検便集めが似合うのか。でも大事な役員なんやで。今も我が那智中学校では、各役員があるらしい。今保健委員をやっている君、保健委員に誇りをもってね。
第65話 終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第66話『くろしおの恋人たち』
はい、3月に入り卒業式のジーズンですね。タケちゃんも約40年前に中学、そして高校と卒業したのでありますが、卒業式が終わってもしっかり学生服の第2ボタンは付いたままでありました。誰も、もらつてくれなかったのよ~。おろろ~ん。おろろ~ん。涙。
まあ、僕だけでなく、仲の町3バカトリオはじめ私めの友達は、ほとんどというか全員というか、もてませんでした。おろろ~ん。(このハクション大魔王の泣き方すぐに分かった方は、ある程度のお年だと思います)。あっ、あかん。また前置き長くなってもうた~。
こんな前置きなので今回は卒業式の話だと思うでしょう。ところが、その手は桑名のアンルイスであります。(なんのこっちゃ) 僕の観光協会入社時の話であります。でわでわ第66話全国のタケちゃんファンにお届けしまーす。
はい、スペースの1/5を前書きで、つこてもうての第66話です。僕は今の観光協会の狭き門を面接で突破し、平成5年に入社いたしました。観光協会の仕事というのは、観光の案内は、もちろん(読み順まちごたらあかんで~、笑。)イベントの企画、開催、パンフレットの企画や制作、観光キャンペーン参加等まだまだいろいろありますが、その中のひとつにマスコミ取材の協力があります。僕が初めてドラマの取材に同行したのは、平成6年の春頃であります。撮影先への許可申請の手伝いや撮影がスムーズに行くようADの方との打ち合わせ等を行いました。そのドラマがNHK新銀河ドラマ「くろしおの恋人たち」である。撮影は熊野地方で行われ全撮影期間は3週間くらいであったと思うが、そのうち那智勝浦町での撮影の約1週間朝から夕方までずっと同行した。このドラマは、簡単に説明すると主人公の吉野桃子(偶然ですが、吉野です。ほんまやで、が時の大人気女優、裕木奈江さん)は就職活動まっただ中の大学4年生。その就職活動が行きづまりゼミの合宿で紀伊大島の民宿にやってくる。桃子は、ひそかに鳥山助教授(阿部寛さん、なんとブレイク前の阿部ちゃんが出ていたのである)にあこがれているが、鳥山の前にかっての恋人が現れる。ある日民宿の長男の浩(榊原敏彦さん)の船で海に出た桃子に浩はプロポーズするが、桃子は断る。さて桃子、浩、鳥山助教授の恋の行方は、と言う話である。このドラマは先ほども書いたが当時ものすごく人気のあった裕木奈江さん(タケちゃんも大ファンであつた)とブレイク前の阿部寛さん、榊原利彦さん、イッセー尾形さん、永島暎子さん、藤田弓子さん、岡八郎さん、レッゴー長作さん、桑原和男さん等が出演していた。この撮影は勝浦での撮影は、那智駅と那智大社、那智の滝前がメインで毎日野次馬が見学に来ていた。地元の新聞でも取り上げられた。
放送は平成6年の10月17日から11月10日までの夜8時40分から20分間で視聴率も良かった。
当時の放送は僕はビデオに撮って大事に保管しているが、撮影風景もカメラで写真に納めている。今回は特別に何枚かアップさせていただきます。この当時は、まだ携帯電話もなくポケベルが、はやっていて裕木奈江さんも「ポケベルが鳴らなくて」という当時のドラマで大ブレイクしたのである。
僕の入社当時の話であるが、それ以前、それ以後もたくさんのドラマ、映画、テレビ番組等も我が那智勝浦町でも撮影された。全国に那智勝浦町の良いところを知っていただく大事なものである。そのひとつ「くろしおの恋人たち」の話である。
第66話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第67話『弁天島の白蛇さま』
「ぼうや~、よいこだ~、ねんねしな~」はい、今回は少し趣きを変えて那智勝浦町の昔話を書こうと思います。僕の先輩方が書き残してくれた資料を元に昔話風に書いてみたいと思います。それじゃぁ、第67話じゃ、はじまるそ。
むか~し、むか~しから、蛇は神様の使いと言われとるのじゃ。民家などで見つけられても人間の方からは手をださず外にでてもらうほどで、けして蛇は殺ろさなかったのじゃ。特に白蛇は弁天様の使いといわれとる。那智勝浦町の大勝浦いうところに弁天島(今は、ゴジラ親子に見えるゆうて、たいそう話題になっとるらしいが)があって小さい祠があり、その名前のとおり弁天様をお祭りしとるのじゃ。この島のむかえの道沿いに弁天温泉のあとがあり、その北寄りに白蛇様の碑があるのじゃ。今も地元のもんがお供えしたりしておるんじゃ。今日はその白蛇さまの話したるからな。ようきけよ。
むかしこの勝浦のお蛇浦いうとこに、兵衛屋というのがあり親父とこの漁師町には、めずらしい色の白く黒髪の長いそりぁべっぴんな姉妹がおったそうな。ある日お父が沖に漁に出てから姉妹は弁天の針(はえ)の先に出て、沸々とでる温かい湯を汲んでいたそうな。そこへ一人の男前の立派な武士がやってきて娘達になにゆえ湯を汲んでおるのかたずねたそうじゃ。娘達は沖に出たお父が寒かろうと思って帰ってきたら温かい風呂に入れてやろうと思てると答えたのじゃ。それから何日かたちある武士が親子の家をたずねたそうじゃ。
姉妹はその武士が前に合った武士だとすぐ分かったそうじゃ。武士はお父になんと親おもいのやさしい娘か。どうか姉を嫁にくれんかと頼んだそうじゃ。武士はこの浦に魚を寄せて波をたかくすることはない、その上に針の湯の道をこの家側まで引くことを約束したそうじゃ。お父は、姉をその武士の嫁にあげることにしたんじゃ。それからこの浦の荒磯ではイガミが良く釣れるようになり家の近くから温泉が沸きでたそうじゃ。それからしばらくしたある日、またもや一人の武士が親子の家を訪ねたのじゃ。同じように今度は妹を嫁にくれるようお父に頼んだのじゃ。お父はまたもやすぐに返事をし、妹を武士の嫁にくれてやったのじゃ。その時武士はいったそうじゃ。まだ何かほしいものがあるのか。金か。金がほしけりゃ硫黄を掘らしてやる。火がほしいのか。この欲張りものめが。と。それから、お父は毎夜うなされ、いつのまにかこの地からいなくなったそうじゃ。近所の者は、あの娘達の亭主は蛇じゃ。とさわぎたて3つの蛇塚を海辺に建ててそれから「お蛇浦、お蛇浦」というようになったそうじゃ。今もその硫黄の洞と温泉は、昔を物語るように残っておるのじゃ。3つの蛇塚は今は波にさらわれたのか、姿はないんじゃ。この武士こそ弁天様の使いである白蛇の化身であったということじゃ。今は弁天島に白蛇塚がお祭りされており、お供え物がたえんとのことじゃ。また勝浦漁港は白蛇の約束のごとく日本一の生まぐろの水揚げを誇る漁港になったのじゃ。えらいもんよのう。また勝浦中には豊かに温泉が沸いておるじゃろ。これもすごいことじゃのう。皆の衆も勝浦にこられたら
駅から歩いて15分くらいで弁天島あたりにこれるさかいに、ぜひおとずれて見るのじゃぞ。運がよければ、。潮がひいていおるときは歩いて弁天島までいけるぞ。
また、弁天島のあたりから那智の山を望むと天気のええ日にゃ、那智の滝がみえるのじゃ。ぜひ来ておくんなあれよ。しじの昔話も今日はここまでじゃ。次回も勝浦の昔話するさかいのう。たのしみにしとくんじゃぞ。そんじゃ、またお目にかかる日までじゃ。元気でな。
第67話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第68話『海中の井戸』
はい、じいじゃ。一晩ぶりじゃのう。こない早くあえるとは、おもてもなかったのじゃ。昨晩はよう眠れたか。そうか、じいの話を聞いたからぐっすり眠れたか。それは、うれしいことじゃのう。そう言ってくれたお礼にもうひとつ勝浦の昔話を話してやるけ、よう聞くのじゃよ。あっそうじゃ。世間は、卒業の時期で、若者は都会とかにでていくんじゃのう。このじいの話とか都会のもんに話してやれ。勝浦の自慢になるそ。またじいの前に書いた勝浦の話でもええぞ。何かの足しにしてくれよ。どんどん都会ででも勝浦の話をするのじゃよ。勝浦で育ったことに誇りを持つのじゃよ。この話を読んでくれとる皆の衆のお子さんで都会とかに出ていく子がおるかもしれん。まずは、じいより、卒業おめでとうとお伝えくれるかのう。そして、出来れば、じいの話をはなしてやってほしいもんじゃ。
それじゃ、始まりじゃ。
皆は、文覚上人は、知っとるかのう。文覚上人といえば、もとは平家一門の武士で、遠藤盛遠という北面の武士だったのじゃ。訳あって仏門に入り那智山で滝修行をしようと思うて、海路熊野へ向かったのじゃ。その途中勝浦の沖で大きなシャチに追われている鯨を助けてやったんじゃ。勝浦に上陸した上人は、那智山に向かったんじゃが、田圃のあぜ道で子供達がもぐらをいじめておるのを、みたんじゃ。上人はかわいそうに思うて、そのもぐらを買い取り野原へ逃がしてやったそうじゃ。さて、那智山近くで可愛い童子が現れ、「上人様、あなたは滝修行に来たのでしょう。滝にはこわい天狗がおりますからこの飴をあげましょう」といって去ったそうじゃ。実はこの童子は観音様の化身だったのじゃ。上人が那智の滝に着いたのじゃが、言われたとおり恐い天狗が通せんぼしておったのじゃ。上人様はもらった飴を天狗にしゃぶらせて、そこを通してもらったのじゃ。そして、修行の場、滝壺に着いたのじゃが、大水のために近づくことができんのじゃ。そこへ助けてやったもぐらが現れ「上人様あのときは、ありがとうございました。私たちがご恩返しのつもりでお手伝いさせていただきます。鯨さんにも連絡しますので少しお待ちください」と言ったかと思うと、もぐらは仲間をたくさん集め滝壺から勝浦の港に向けてトンネルを堀りはじめたそうじゃ。鯨はそれを待ち受けて、もぐらが水におぼれないよう大きな躰でトンネルから湧き出る水を吸い上げたそうじゃ。これが、海中から真水の湧く名物、勝浦湾にあった海中の井戸となったそうじや。昔は本当に勝浦の湾で船にこの海中の井戸から真水をくんでいたのじゃ。今は、埋め立てられて姿は無いがのう。昔の写真にちゃん残っておるのじゃ。すごかろう。童子の持っていた飴はあの、かち割り飴、那智飴として今も売られているのじゃ。
どうじゃ、面白い話じゃろ。これ以外にも、まだまだ勝浦には、色んな言い伝えがあるのじゃが、又の機会に話してやるからのう。都会にでていく若者よ。元気でがんばるのじゃよ。つらいこともたくさんあると思うが、それを乗り越えて大人になるんじゃ。けしてその苦労は無駄にならんぞ。じいも都会にでて苦労した。金もなかった。だがのう、金でかえんもんを一杯手に入れた。
それが今になって本当に、なにひとつ無駄になっていないことに
つくづく気づいている毎日じゃ。頑張るのじゃ。元気で頑張るのじゃ。都会へ出る若者よ。
出ていくときは、親御さんに、今までありがとうって、ひとことでええからお礼を言って出かけるんじゃよ。親御さんは、一言でもうれしいもんじゃ。そして、たまには帰ってこいよ。そして、また、じいのつまらん話の相手になってくれるかのう。
それじゃ、今回の話は終わりじゃ。体に気を付けて頑張るのじゃよ。
第68話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第69話『公衆温泉洗濯所』
はい、しばらくぶりでございます。知っている方もおられると思いますが、何とタケちゃんが3/1から3/7日までZTVの「Iloveくまの」に登場し、そして3/8から1週間ぐらい我が吉野御殿とお母ちゃんが登場し、お茶の間の笑い(話題やないで)となっておるのであります。現在親子でサインの練習しとります。いつでもどうぞっていうわけでまたまた、前置き長くなりましたが、今回も書きますぞ。今回の話は今は無きことでは、ないのですが、めずらしかなというものでございます。でわでわ69話いってみよう。
、
「A子ちゃん、こんにちわ。きょうもええ天気やね。」荷台に大きなタライを乗せその中に洗濯もんをいっぱい乗せたB代おばちゃんがこっちへ向かいながら話しかけた。
「こんにちわ、ほんまやね。ちょっと風あるさか寒いけど、洗濯せな、たまるもんのう、女は、つらいわ。あっそうそう、今日の昼から桟橋のとこで、もち堀りあるって、なっちゃんいうてたで。」B代おばちゃんは、荷台に乗せた大きなタライを降ろしながらそう言った。「ほんまかん、そりゃ、いかなあかんやん。餅ひらいおばさんの名にかけても絶対いかなあかんわ。」A子おばちゃんは、温泉で子供の服をごしごし洗いながらそう言った。ここは那智勝浦町の北浜にある公衆温泉洗濯所(実際こんな呼び名ではなく、なんて呼びやるかしらんのですが、書きやすくするため、あえてこう呼びます。)である。小阪山の方から湧き出ている温泉をパイプで引いていて金網の下のセメントの壁に長いパイプを横に壁に沿って1本取り付けてありいくつかの穴がそのパイプの下の部分に空いている。その穴から勢いよく温泉が流れ出来ているのである。そのパイプの下は溝になつており何カ所か板が渡しておりその上にタライに乗せた洗濯物を置いて一枚ずつごしごし洗う。もちろんかけ流しの温泉で誰でも無料で使える。毎日洗いにくるおばちゃんもいる。こんな公衆温泉洗濯所が那智勝浦町にはここ以外にも何カ所かあると思う。「まあ、A子ちゃん、派手なパンツ洗いやるのう」「当たり前やん、これ、おとうちゃんのお気に入りやで。がはははっ」とA子おばちゃん。「その大きなお父ちゃんのパンツ洗うの大変そうやのう。」とA子おばちゃんが、B代おばちゃんに話しかける。けと゛、B代おばちゃんは、無言で洗い続ける。「どしたん、B代ちゃん」ともう一度A子おばちゃん。「このパンツおとうちゃんのやなしに、あたしのや、大きてわりかったのう」とB代おばちゃん。「えっ、それあんたのかん、ぐははははっ、ごめんごめん。」A子おばちゃん笑いながらなんで言葉にならん。大爆笑である。
「あんたのより、かわいいのもあるんやで~」と憮然とB代おばちゃん。まあ、このような会話がこの北浜公衆温泉洗濯所で交わされているのである。(すいません、あくまでも僕の想像であります)。でも勝浦のおばちゃん達の社交場であり、井戸端会議の場所であり、情報収集場所であり、かわいいパンツの自慢場所でもあり、つまりおばちゃん達のストレス発散の場所である。この公衆温泉洗濯所は僕の子供の時からすでにあったので、少なくとも50年くらいは続いているのであろう。その間先に書いたような会話が何度も交わ
されたのであろう。これも温泉の町那智勝浦町ならではのものであろう。
今は、洗濯物と洗剤入れてボタンをポンと押すと自動で脱水までやってくれるが、洗濯粉とタライと洗濯板を使ってごしごしと愛情込めて家族の洗濯物洗っているおばちゃん達の姿は、ええもんじゃないですか。これこそ温泉の町勝浦のおばちゃんの姿ではなかろうか。
でも普段もようしゃべる、うるさいおばちゃんばっかりやけどね。いつまでもこの光景が残りますように。
第69話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第70話『アイラブユー』
はい、3月も半ばになり暖かい日が続きますが、いかがお過ごしでございましょうか。タケちゃんは、本業の観光協会の仕事で、もうすぐ記念講演を行うのでその準備や年度末なので事業報告書の作成なんかで結構忙しい日々を過ごしております。あと体重のせいか最近腰が痛くちょっとつらいです。この懐かし話もなんと70話まで来ました。自分でもここまで書けると思っていませんでしたが、今年の初めに今年中で100話まで書くと宣言した以上頑張ります。100話書き上げたときは、本にしたいなぁ。どなたか協力していただける方よろしくお願いいたします。と言うわけで今回も前置きが長くなりましたが、前回に続き温泉に基づく話です。でわでわ、第70話です。
「今日の体育、高岡先生のランニングかなわなんだわ。」と僕。中学2年の時の学校からの帰り道である。「ああ、タケちゃんのクラスもランニングかん。俺のクラスも5時間目やったけど高岡のおっさん、ランニングはすべての基本やって。ただ走らせるだけやで。トラックぐるぐる。おかげで汗だくや。足がくがくやし」とナカシャ。中学2年生になり 僕ら仲の町3バカトリオは3人ともクラスが違っていた。タコちゃんとナカシャは1年から卓球部に入っていて、僕は1年の3学期から何故かサッカー部に入っていた。クラスとクラブも違っていたが、いつもいっしょに約1キロ歩いて登下校していた。「なあ、帰ったら久しぶりに、にしの湯いかへん」ナカシャが言った。3人とも家には風呂があったので、銭湯には、たまにしか行かないが、なんかの機会に親や友達どおしで、にしの湯にいっていたのである。その頃町内には何軒か銭湯があり今も続いている所もある。にしの湯は、僕ら(タコちゃんは小4の時に仲の町の隣の神明に引っ越しした)の仲の町の中にあった。バスターミナルから仲の町に入る道を少し入ると右側(今の桂城の向かい)に2階建ての白い壁のビルがあり1階はスナックや飲食店が何軒か入っており2階にあがる階段を上ると銭湯にしの湯があった。「ええねえ、いこいこ」僕らは学校から帰ってタオル等を手に田中フードセンター前で待ち合わせ、にしの湯に向かった。「いらっしゃい、こんばんわ」番台のおばちゃんが、元気良く客を迎える。「タケちゃんら久しぶりやね。元気かん」おばちゃんは、お金を受け取りながらそう言った。仲の町の子供なので皆顔見知りである。「うん、元気やで~」と僕。「今、中学なんやね。早いのう、さとし君もかずちゃんも元気みたいやね。もう毛はえたか。おばちゃんみたろか~。がっはははは。」とおばちゃん。さとしはナカシャ、かずちゃんはタコちゃんのことである。勝浦の昔からのおばちゃんは、みんな明るいスケベである。「当たり前やん。もう大人やぞ。今度みせたるわ。がっははは」と僕らは、答えて脱衣場に向かった。これぐらい言い返えせんと仲の町では生きていけんのである。(なんのこつちゃ)僕らは、一応前をタオルで隠し湯船へ向かった。もちろんタオルは湯船につけたらあかん。初めに洗い場でかけ湯をしタオルを頭にのせ湯船に浸かった。「あ~~~。気持ちええのう」3人そろっての合唱である。
なんで皆喉から絞り出すように「あ~~~、気持ちええのう」というのであろうか。まあ、気持ちええからやけど。女性の方も湯船浸かる時いうのだろうか。ぜひ教えてください。しはらく僕らは湯船に浸かり、そして体をごしごし洗いエメロンシャンプーで頭(3人とも坊主頭なのでせっけんでええんだが)を念入りに洗い、またしばらく湯船に浸かりそれから脱衣場にむかった。タオルで、全身を良く拭き、3人ともトランクス(なぜか男は中学生になるとブリーフ派とトランクス派に分かれるのであります。僕ら3人は風通しが良いトランクス派です)姿で「おばちゃん、牛乳もらうで」とお金を番台のおばちゃんに渡しショーケースの扉を開けて牛乳を手に取り、上のビニールとふたを取り、左手を腰にあて両足は肩幅に開きタオルは肩にかけ、右手で牛乳瓶をしっかり持ち、一気に、ごくりごくりと飲み干した。瓶のラベルにはもちろん「天満牧場」である。(他の牧場主の方すいません。)僕ら仲の町の子供は皆天満牧場の牛乳なのである。当時の仲の町の子供の体の一部は天満牧場の牛乳でできているのである。(ほんまかいな)。余談だが僕が初めて牛という生き物を見たのは、勝浦幼稚園で遠足で行った天満牧場である。そうこうして、たっぷり銭湯「にしの湯」を堪能した僕らは、ぞれぞれ家に帰った。にしの湯は、その後時代の流れで無くなってしまったが、勝浦には大勝浦に「はまゆ」という素晴らしい銭湯が今もある。
ホテルのお風呂も、もちろん良いが、勝浦に来たときに銭湯に入るのもまた、おつなもんである。仲の町にあった、にしの湯の話でした。アイラブにしの湯である。
第70話おわり
那智勝浦町昔懐かし話
第71話『我ら脇仲ナイン』
はい、ちょっとぶりの更新であります。とうとう70話を越えて僕の頭の懐かし話の引き出しの中も大分隙間が出来てきましたが、まだまだ書きますぞ。ふとした時に、「あっ、こんな事もあったやないか」と思い出すんであります。僕の書き方は、まずテーマがありすべての話が出来上がってから書くのではなく、その都度その都度少しずつストーリーを考えながら書き上げていく方法であります。早いときは,テーマをパソコン(僕の携帯は未だガラケーでありましてfacebookは、家にある僕専用のパソコンでアップしております。だから写真が少ないのであります。ガラケーで撮った写真なんてきたなくてアップできません。面倒ですが、デジカメでいったん撮りパソコンに保存しfacebookにアップするという涙ぐましい努力をしておるのであります。)に打ってから5分、遅いときは1週間書けないときもあります。と言うわけでまたまた、前置き長くなりましたが、今回は、小学生の時の話です。少し長くなるかも知れませんが、いってみよう。でわでわ第71話です。
はい、所は、仲の町僕の家。小学4年も終わった春休みのことである。「なあ、タケちゃん、5年生になったら少年野球せえへんの。脇仲チーム。やまちゃんと、西谷のまーぼー入るらしいで。」とナカシャは僕の家の僕の部屋で冒険王をめくりながら僕に話しかけた。「少年野球か、空手も始めたしな。でも空手は夜やし。うーん、どうしょうかな。」とお母ちゃんの出してくれたピーナッツサブレと少し濃いめのカルピスを飲みながら僕はそう答えた。その頃の小学生はもちろんJリーグなどないのでほとんど野球が好きで各区で5年、6年生中心に少年野球のチームがあり、大会とかあった。僕も少しは5年になったら野球やりたいなとは、思っていたがタコちゃんと山ちゃんに誘われ、そしてお父ちゃんが先生のひとりである空手を習い始めていた。「う~ん。やりたいけどな。新しいミズノのグローブ、ハマチスポーツでこうてもろたとこやしなぁ。山ちゃんもやるんやしなぁ。」
同じ空手を習っている山ちゃんが少年野球に入るのが僕の背中を押した。「俺はやるで。山ちゃんやろ、まーぼーやろ、俺やろ。メンバーたらんゆうて内田のおいさん誰かおらんか言いやったんや。」とナカシャ。「内田のおっさん、世話役なんやろ、あのおっさん、何でもやりよるね。ボーイスカウトもやりやるんやろ。家の弟入ったもん」と僕。「なあ、タケちゃんやろらよ。」「よし、分かった、やろか」そして僕らは5年生になったと同時に脇仲少年野球チームに入ったのである。あっ、脇仲というのは旧勝浦は、6区に分かれていて1区大勝浦、2区脇入、3区僕らの仲の町、4区小阪・神明、5区北浜、6区築地、この6区の他に町内には朝日町、天満、浜の宮などの地区がある。この区ごとに少年野球チームがあったのだが、悲しいかな2区の脇入と仲の町は子供の数が少なく2区と3区で1チームであった。だから名前は脇仲である。脇仲チームの6年生は立木君や、山縣君(たぶん入っていたと思うが違ったらすいません)、そして5年の山ちゃん、西谷のまーぼー、ナカシャ、僕、一つ下のさとる等でなんとか1チーム作っていたと思う。
練習は日曜日にお寺の境内だった。(結構ひろい空き地みたいになっていた)。人数が少なかったので全員レギュラーだったと思う。まーぼーはピッチャー、ナカシャはファースト、山ちゃん、セカンド、僕はなんとキャッチャーだった。さとるは、リリーフピッチャーでサードだった。(あとのメンバーはあまり覚えてません。すいません。)このチームあまりうまくなかったが、かけ声だけはよかった。「わっきょーい、りーりーりー」エラーしても「どんまい、どんまい」と大声でエラーした者がいう。練習は非常に楽しかった。
そして大会にも出たり他の区との練習試合もたまに行った。天満区のチームには、せいし君やきっかわ君などがいた。もちろん脇仲チームはボロ負けであった。試合中も「わっきょーい、りーりーりー」と脇仲チームはうるさい。もちろんエラーしても「どんまい、どんまい」である。4区には、同級生のアンちゃん、一つ下のとさ君、たなか君もいた。ピッチャーのとさ君は小学生でカーブを投げた。僕ら脇仲チームは、その曲がる球におったまげて手も足も出なかった。この試合もボロ負け。5区には、はまっちゃんや、サル君らがいた。ここも強かった。なにしろ子供の数が多い。そして1区には、あの年哉君がいた。ここも強かった。子供の数も多いし。僕たちの脇仲チームは弱かったがちゃんとユニフォームがあった。
胸の所に漢字で脇仲、そして僕は5、6年とも背番号2番、キャッチャーだった。
残念ながら僕は野球は、中学に入ると全然やらなくなったが、これもまた小学生の時の良き思い手である。今はおそらく各区の少年野球チームは無いのだろうなぁ。良き思い出である。
第71話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第72話『忘れまじ体育館シューズ』
はい、すっかり春らしくなってきたこのごろですか、お元気ですか。巷では合格発表や都会に出ていく方の準備とかでお忙しい日々を過ごされている方もいると思います。、 役場とかでは人事異動も目前にせまり、俺変わらんやろかとか、神様、仏様、上司様とどきどきしておられる方もいらっしゃると思います。幸い僕の観光協会は部署移動という物がないので安心ですが、色々と忙しい日々を送っております。そんなこんなで第72話であります。今回の話は、これまた、僕の小学生の時の話です。今もある物ですが、まあ、懐かしい物かなと言う話です。でわでわ、いってみよう。
「なあ、みんな明日から春休みやから体育館シューズも持って帰って、きれいに洗ってくるように。新学年になるさか新しくしてもええし、そのまま使こてもええぞ。」担任の先生が言った
「はーい。」みんな元気良く手をあげて答えた。小学5年生の春休み直前の終業式の日のことである。僕ら仲の町3バカトリオ無事6年生になれるみたいである。5年から6年はクラス替えもなく担任の先生も替わらない。僕とナカシャは同じ5組、タコちゃんは3組だった。僕らは5年生の1年間で書いた作文や絵とかを返してもらい、ひとつの大きな袋に入れ、そして体育館シューズをシューズ入れ(ほとんどの子供が手作りの入れ物)に入れ持ち帰った。「そんじゃ、みんな春休み無事故で、すごさなあかんぞ。また、4月の8日に学校へ来るように。それじゃ日直。」と先生。「起立、礼、ありがとうございました、」僕は、ナカシャとともに3組へ行きタコちゃんと合流し家に帰った。「ただいま、お母ちゃん、体育館シューズ持ってきたから洗ろといて、ご飯食べてからナカシャとこ遊びに行くわ」と僕。「ああ、タケちゃん、おかえり。体育館シューズそこ置いときなぁ、洗ろといたるさか。新田のコロッケこうたあるさか、たべな。」「ああ、おおきに」その後、僕は新田のコロッケ(普通のコロッケやけど僕の好物でした。)を食べナカシャとこへ行った。その日からナカシャとことかタコちゃん交えて3人で遊んだり、少年野球の練習行ったり約2週間の春休みを、思いっきり満喫した。その間にお母ちゃんはきれいに体育館シューズを洗ってくれた。洗った体育館シューズが乾いたある日「タケちゃん、体育館シューズ、つま先のとこ、ちよっと穴空いてきたあるで。それと名前消えかかったあるわ」とお母ちゃん。 「たけひろ、おじいちゃん直したるわ。名前もついでに書いといたる」とおじいちゃん。僕のおじいちゃんは、約15年前に亡くなったが、孫思いのええおじいちゃんで、明治42年生まれの頭がきれいに銀髪で右足が生まれつき悪かったんで戦争には行かず、お父ちゃんにマグロの仲買の仕事を譲ると、家で色んな物修理したりマグロの売り上げ計算したり、国会中継と相撲は欠かさず見ていた頑固一徹の明治男であった。そのおじいちゃんが僕の体育館シューズをお母ちゃんから預かった。おばあちゃんに向かって「かあさん、たけひろの上履きのつま先縫うさか糸と針かしてくれるかん」「お父さん大丈夫かん」と言いながらおばあちゃんは、糸と針を渡した。
あとマジック貸してくれと僕に言った。
僕は、マジックを渡した。「直ったら袋へ入れてお母さんに渡しとくわ」とおじいちゃん。「うん、おじいちゃん、たのむで~」「ああ、まかせとき」とおじいちゃんは、奧の部屋へ行った。そして6年生の始業式の日僕は、その体育館シューズを袋のまま持って、例のごとくタコちゃんとナカシャといっしょに学校へ向かった。そして6年生のクラスの近くの下駄箱に自分の名前の所を見つけ履いてきた靴を入れ体育館シューズを履こうと袋から出した。「えっ、嘘やん、やられた~。」僕が大声で、わめいたので、タコちゃんとナカシャが側に寄ってきた。ここまで書いて感のいい方はお気づきだろう。そうです。そうなんです。僕の手にしている体育館シューズは、まずつま先のところが青である。これは、男子は青、女子は赤と決まっていた。その青のつま先の所にいくつかのバツ印に大きく凧糸みたいな白い糸が縫われていた。ものすごい目立つ。そして名前。うちのおじいちゃんは明治生まれである。明治時代は、文字を右から書く。名前もそうである。つまり体育館シューズの名前を書くところに、ひらがなで左から「のしよ」と「のしよ」と黒マジックで大きく書かれていたのである。それを見た僕たち3人は一瞬動きが止まり10秒後に大爆笑した。ほんまに、やられた~。である。しかたないので僕は、その「のしよ体育館シューズ」を履いて教室へ行った。タコちゃんは、別のクラスなんでええんだが、僕の斜め後に座っているナカシャはクスクスしている。僕は心の中で「ナカシャ、他の奴にいうたら絶交やぞ」と思いながら始業式を乗り越えた。ナカシャは何と誰にも言わなかった。だから今も友達である。しかし家へ帰るとき2人は、笑いながら「のしよ君、帰ろら 」と僕を誘いに来た。こいつらやなぁ~と思いながら家路に着いたが、2人は笑い放しであった。当然僕は体育館シューズを持って帰りお母ちゃんとお父ちゃんに見せた。二人とも大爆笑であった。「タケちゃん、おじいちゃんにはゆうたらあかんで。おこってもあかんで、そして明日購買部であたらしの買いな」とお母ちゃんは言った。という忘れまじの体育館シューズの話である。聞くところによると今も体育館シューズは昔と形もあまりかわらずあるみたいだ。僕の小学生の時の那智勝浦町なつかし話というか面白話である。
第72話おわり
那智勝浦町昔懐かし話
第73話『ポケベルが鳴らなくて』
はい、進学や就職でスマホを新しくしたり、新しい部屋に電話を取り付けたりしている方もいらっしゃるのではないでしょうか。タイトル見てまた、ドラマの話やなと思った、あなた、違いますよ、今や猫も杓子もスマホの時代ですが、タケちゃんは、頑固というかアホというか、未だにガラケーそれも7年前のを使っております。僕の職場では、同僚のiさんが同じくガラケーで、、そのiさんが、「おれ、そろそろス~マ~ホ~キ~タ~ドコニ~キ~タ~にしようかな~と思いやるんや」というもんやさ「あか~ん、裏切ぎったらあか~ん」と駄々っ子みたいに止めたのであります。 今回は那智勝浦町というか全国だと思いますが、携帯もほとんど無かった頃の話、僕が観光協会に入社した頃の話であります。でわ、ブルブルブルブルブル。
「吉野くん、観光協会も外へ行く機会多いさか、会長にゆうてポケベルこうてもらおか。」僕が狭き門をくぐり抜け3人の応募者の中から見事観光協会へ入社を決めた平成5年から半年経った平成6年の夏頃の話である。その頃観光協会は花火やらキャンペーンそして、テレビなどの取材同行など、局長以外の男性は僕しかいなく、結構外にでて仕事をする機会が多くなっていた。そんなときに色んな所から僕あてに協会に電話がかかってきてもでられないという事態になっていた。その頃は携帯はあったが、まだ世の中にはそんなに出回ってなく、また高額で、ポケベルが流行っていた。今の20歳より若い子たちは知らないだろう。ポケベルとは、正確にいうと無線呼び出しというもので、1990年代に流行したポケットに入る無線呼び出し箱である。NTT等に登録しそのポケベルの番号に電話をかけると書けた相手の電話番号が画面に明記される。ポケベルを持っているサラリーマン達は、近くの公衆電話(その頃はあちらこちらに公衆電話があったのである)からその相手に電話を入れて用件を聞くという感じである。当然携帯みたいにポケベルで通話出来ない。ただ、今電話で自分と話したい人が呼んでいる事が分かるという物であった。
「そうですね。局長も僕も外へ行く機会が多いので協会で1台必要ですね」と僕は答えた。それから、局長は、会長の自宅に電話し許可を得て後日観光協会にもポケベルがやってきた。外に出ていて初めてポケベルが鳴ったときは感動した。ポケベルは、音で知らせたり今の携帯のマナーモードみたいにバイブ機能で知らせてくれたり選択できた。
僕は、ポケベルが鳴ると公衆電話を探し相手(ほとんど会社だが)に電話を掛けた。なんか、仕事してる感がものすごくあり、何か格好ええやんってなっていた。たまに「いってきます」といってポケベルを持って出かけたが、何時間も1度も鳴らないときがあった。ドラマのタイトルじゃないけど「ポケベルがならなくて」である。なんかさみしかった。俺には誰からも電話がかかってこんのか~。と思ったこともあった。約2年くらいポケベルを使ったか、携帯電話もものすごい早さで世の中に普及しその波に乗って観光協会でもドコモの携帯を会社用に購入して使うようになった。それと引き替えにポケベルも使用し
なくなった。それからは、ご存知のとおり、ムーバからフォーマそして、スマホとすごい早さで携帯は形を代えて普及した。それも約30年の間にである。すごいことである。
今思うとポケベルを持っていた時代もなつかしい。ポケベルがなると公衆電話に向かって駆けだした自分もなつかしい。全国的にも懐かしい話であります。
第73話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第74話『平 維盛 伝説ゆかりの地を訪ねるウォーク』
はい、少し間が開きましたが、皆様お元気でしょうか。まもなく4月新生活の始まる方もおられると思います。タケちゃんの方は、明日3/26の記念講演会の準備作業前のほんの束の間の時間にこれを書いております。今回は平 維盛に関係する話なので、那智勝浦町昔懐かしいどころか、平安時代のはるか昔のことに関係する話になります。あと僕は歴史学者でも維盛研究家でもなく、観光協会の一職員でありますので間違った表現等はあらかじめ御了承いただきますようお願いいたします。でわでわ第74話です。
「昔から大野区には平家の落人の宝物が保存されているみたいやけど、前にテレビの取材で見せてほしいと頼んだやけど断られたことがあるんや」と僕は、同僚のIさんと話をしていた。来年度の観光協会の予算書作成のため誘客に結びつく新しいウォークイベントを考えていた。約5年前くらいの話である。「そうかん、勝浦には、補陀洛渡海の話もあるし、また維盛伝説もあるし平家のお宝見せてくれたらひとつの新しいウォークイベントできるかもしれんけどね」とIさん。「駄目もとで区長さんにきいてみよか。俺区長さんしったあるし。ちょっと電話してみるわ」と僕は区長さんに電話してぜひウォークイベントの中で大野区で保管している平家のお宝を見せてほしい旨聞いてみた。そしたら何と
「11月の第3日曜日に毎年大野保郷会館でお虫払いするさか、その時やったら見に来てもええで。写真とか撮ってもええで。ただし雨降ったら中止や」とのお答え。「ほんまですか、分かりました。その日に併せてウォークします。ぜひお願いします」と言うことで翌年度の11月に初めて「平 維盛 伝説ゆかりの地を訪ねるウォーク」を開催することになった。平 維盛は、(たいらのこれもり)と読み、清盛の孫で高野山で出家し熊野詣をしたあとに那智の浜から渡海船に乗り補陀洛浄土を目指し入水したと言われるが、一説に那智山の麓の色川地区に逃げ隠れたと言われている。この維盛の子孫たちが落人となりその後暮らしたと言われている。
ウォーク当日は、快晴で熊野那智ガイドの会のメンバーにガイドをお願いし全国からの参加者約30名といっしょに僕も参加した。世界遺産の補陀洛山寺横の公園(駐車場)に集合し、補陀洛山寺に参拝、補陀洛渡海船の復元船の見学と維盛の供養塔や渡海上人の墓の見学、そして那智の浜より観光船にて山成島や綱切り島、海から望む那智の滝の見学、そしてバスにて円満地公園へ移動し、そこから大野区の保郷会館までウォーク、途中色川神社等に立ち寄りガイドからの説明、そしていよいよ大野保郷会館に到着し平家の落人の宝物を拝見。ものすごい数の巻物、平家のマークであるアゲハチョウの模様の旗、後醍醐天皇に関するもの、また数々のお面(これは実際手に取り見ることができた)
等、大野区の皆さんの解説付きで約1時間じっくりと見学できた。このお宝見学に、参加者も当然初めてみるので「すご~い、来て良かった」の連発。しっかり説明を聞き、また写真に収めていた。その後また円満地公園まで歩いて戻りバスで補陀洛山寺の横の公園まで戻り解散となった。このウォークは、そのあと2年程続いたが、別の団体も行うようになり、またお虫払いも別の場所で大野区のイベントと一緒に行うようになったので、観光協会では行わなくなった。那智勝浦町にはこのように全国に誇れるものがまだまだあると思う。いつまでも残すべき、また語り続けるべき物だと思う。
第74話終わり
那智勝浦町昔懐かし話(番外編)
第75話『忘れまじ O先輩』
はい、職場の移動、退職の時期でありますが、僕の非常にお世話になった(表向きの言葉であります。一応ね、こう書かんと)O先輩への鼻くそ(いやいや、はなむけ)の意味で何か出来んかなと考えたあげくやっぱり、こんな方やったと暴露するのが一番のはなむけやろうと思いましたので、ここに書くことといたします。O先輩あしからず。でわでわ第75話感謝の気持ちを込めていってみよう。
僕とO先輩の出会いは、遙か約35年前に遡る。那智中学校を優秀な下から数える方が早い成績で卒業したタケちゃんとほんまに成績の良かったミスターミュージシャンのオリバーいさお君は、新宮高校への受験をなんとか突破し花の高校生活を始めた。「なあ、吉野クラブ何入るん、俺ブラバン入ろか思うんやけど一緒に見学いってくれへん。」といさお君。「ああ、ええよ。俺、陸上入ろか思いやるんやけど。まあついていったるよ」と僕。それが運命の返事だった。見学のつもりが2人とも入部。いさお君は、サックス、僕はユーフォニュゥムという訳わからん(あの~、けなしているわけではありませんので、すいません)楽器を受け持つようになりその年の夏の合宿を迎えた。そこにあのO大先輩が後輩の御指導と言うことでお越しになられたのであります。O先輩は、僕より7つ上でその頃近大の吹奏楽部の部長だったと記憶しとります。だからものすごく雲の上の人で、ちょっと変な音出したら竹刀でどつかれるんやないかと思うほど、すごい先輩だったのであります。それが初めてお目にかかったときの印象であります。それから3年たち僕らも高校卒業し、僕は上京し30歳で勝浦に帰ってきて難関を突破し観光協会へ入社。O先輩は商工会で働いておられました。その頃はO先輩も僕も今のドラマに出てくるイケメン俳優のごとくスマートで、当然腹も出ていなくて、きびきびと動き回るかっこええ団体職員でありました。(歳と月日というのは人をこんなにも変えてしまう物なのねぇ)その頃から会議や、町あげてのイベントで、O先輩とは、ごいっしょさせていただきました。まぐろ祭りでは第1回より、あげいん熊野詣ではO先輩は初回より、僕は第8回より、花火大会でも平成6年から約10年、商工祭でもお互い初回よりお世話になりました。そんな中で一番忘れられないのは、僕が観光協会に入った翌年の那智湾で行われた花火大会当日の事であります。準備万端、那智湾の堤防の所に警備本部と運営本部を設置しその少し離れた堤防の所に机だけの花火打ち上げ指示場所をもうけ電話線にて運営本部と指示場所をつないでいた。そして那智湾に浮かぶ台船とのやり取りは、O先輩たちの商工会のスタッフと花火師さんとがトランシーバーで行うこととなっていた。僕のいる運営本部にも花火師さんとやり取りできる様トランシーバーを置いていた。その台船の花火師さん達に本番前にお弁当を連絡船で届ける時に、僕は、台船上の花火師さんに「Yさん、すいません、お弁当いくつ必要ですか」 とトランシーバーで訪ねた。「あ~、すいません、弁当200個お願いします。」とYさん。「えっ、200個ですか。」僕は本番前なので緊張しており、また、初めての運営本部担当と言うこともあり、冗談やいたずらと言うことは考えられんくらいの頭になっている。でも手元には弁当20個くらいしかない。しかしYさんは、弁当200個運んでほしいって言うている。どうしよう、今から弁当屋電話しよう。頭の中はパニックである。「え~、運営本部の吉野です。すいません、今手元に200個ありませんが、すぐ手配します。お待ちください」「わかりました。出来るだけ早くしてください。早くね。あっははは。吉野くん、後ろ、後ろ」と聞こえた。僕は、後ろを振り返ったが、パニックってるのでまだ、だまされたことも理解できずにいた。しばらくしてそこにはトランシーバーを持ったO先輩達が爆笑しながら立っていた。片や僕は、顔面蒼白である。「ごめん、ごめん、こんなにうまく引っかかるときは思わなんだ。」とまだ、笑いながらO先輩は言った。しばらくして、冷静に考えたら、弁当200個なんてありえんし、トランシーバーはO先輩達も持っているので簡単に返答できるし。でも完全にやられた。それ以来僕の中では別の意味で鬼のO先輩である。この話は、商工会スタッフと僕の間ではずっと語り草で、たまに昔の花火大会の話になると必ず出てくる「弁当200個事件」である。まだまだO先輩とは、イベントを通し色々なおもろい又悲しい、うれしいエピソードはありますが、今度は、酒でも飲みながら語り合いたいと思います。仕事で約23年、クラブの先輩として約35年本当にお世話になりました。変態な部分は受け継がず、すばらしいまじめな部分だけ受け継いで行きたいと思います。
ありがとうございました。感謝。
第75話終わり めでたく定年退職をお迎えになるO先輩に感謝の
気持ちを込めて
那智勝浦町昔懐かし話
第76話『ダンシングクイーン』
はい、少し間が開きましたが、皆様お元気でしょうか。新年度が始まり新しい生活の場所でこれを見ていただいている方はおられますでしょうか。新しい生活頑張ってくださいね。タケちゃんも応援してますよ。もし上京された方がおられましたら、是非新宿のアルタ裏にあります「アカシア」という洋食屋へ行ってみてください。なんでもおいしいですが、中でもロールキャベツが絶品です。おいしいよ。タケちゃんが東京で暮らしていたときよく行ったお店です。と言うわけで今回は中学校の時の懐かしい話です。僕たち勝浦の子供は中学校の時は、こんな事をしたよと言う話です。
てわでわ第76話です。
「きりーつ。礼、よろしくお願いします。」「はい、おはよう。皆今日はラジオを作るぞ。 はい、列の前のもんは、ラジオのキット取りに来てくれるか」中学3年の夏休み前の技術の時間のことである。技術の越やん先生(先生は生徒の皆から越やんと呼ばれていた)は、そういって前に皆で注文していたラジオキットを配った。「はい、この3時間目と4時間目で完成させるように皆頑張って作るように。はよ出来たもんは、遅いもんの手伝ってもええぞ。それでは列ごとに作業台に分かれて」僕らは列ごとに6つの作業台に分かれた。各作業台には、ペンチやニッパー、半田こてや色んな道具がそろっていた。僕らの列は、サルくん、いさお君、アンちゃん、三浦っち、山ちゃん、そして僕の6人だった。僕らは箱の中身を四角いプラスチックの箱に入れ作業台を囲む様に座り説明書に沿って組み立てて行く。山ちゃんは、家が船関係の電気器具の修理店で、小さいときから色んな電気器具を分解したり修理して遊んでいたので、ラジオづくりなんて朝飯前であっというまに組み立ててしまった。組み立て行程は、まず磁石にコイルを何回も巻いてそれを基盤に取り付け、部品を基盤に半田付け、スピーカーやイヤホンを取り付けその基盤をラジオの箱に収めると簡単に書くとこんな物である。この最初のコイル巻きがなかなか時間がかかり大変だった。なんとか、やりきり少しずつ完成に近づいていった。山ちゃんは、組み立ての遅いサル君を手伝った。4時間目終了までに6人とも出来上がりクラスの皆もほとんどの者が出来上がった。4時間目終了のチャイムが鳴った。「きりーつ、礼、ありがとうございました。」「皆できたか。ラジオ持って帰って家で使えよ。はい、ごくろうさん。」僕らは、自分たちの教室に戻りでっかい弁当を取り出しフタにやかんに入っているお茶を入れ弁当にむしゃぶりついた。僕はいつも、いさお君と山ちゃんと3人で弁当を食べていた。「なあ、山ちゃんといさお君、弁当食うたら体育館の階段のとこでラジオ聞かへん。たぶん12時位やから音楽番組しやるかもしれんで」と僕。「そうやな。まだ、音楽きいてないもんな。さっきは、なんかアナウンサーのしゃべりだけやったもんな。キッスの曲とかかかったらたまらんぞ。」といさお君。「ええなあ、俺帰ったら夜これで鶴光のオールナイニッポンきくんや。もんごいええらしいぞ」と山ちゃん。「よっしゃ。弁当くうたか、ラジオもっていくぞ」と僕。僕ら悪ガキ3人はラジオを手に体育館の階段の所に行き、階段に腰掛けた。
「それでは、3年5組タケちゃんと山ちゃんといさお君のラジオ局の開局でありまーす。」 僕らは、ラジオスイッチを入れボリュームいっぱいにし、チャンネルを合わしていった。なんか音楽らしきものが聞こえてきた。チャンネルを微調整する。「ダンシングクイーン、ダンシングクイーン」「おお、アバやん。ダンシングクイーンやないか。」僕ら悪ガキでも大ヒットしているアバのダンシングクイーンぐらい知っている。3人とも同じこの曲にチャンネルを合わした。「お~、お~、お~、なんとかかんとかダンシングクイ~ン」
英語はわからんが、ダンシングクイーンだけは、分かる。「ええぞ、ええぞ」3人は、訳わからんダンスをしだした。ディスコ状態である。「なんとかかんとかダンシングクイーン、なんとか~、かんとか~、お~、お~」知らん人が見たら学生ズボンはいた坊主あたまの中学生3人が余りの暑さにくるって踊っているみたいだ。「お~、お~、ダンシングくい~ん。」「はい、アバでダンシングクイーンでした。いや~、いい曲ですね」とアナウンサーがいった。僕らは、自分たちの作ったラジオがうまく聞こえた事は元よりそのラジオから洋楽が流れてきたことに感動した。「もんごい、ええげ、アバええやん。」僕らはそれからしばらく他の洋楽も聞いたが、やはりダンシングクイーンが一番だった。体育館から教室に戻るときも、もちろん3人そろつて歌いながら戻った。
「お~お~お~お~、なんとかかんとか~、ダンシングクイ~ン、お~お~お~」
夏休み前の懐かしい中学校生活の話であります。
第76話 終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第77話『JR紀伊勝浦駅の20歳の桜』
はい、4月も約1週間が過ぎ桜の花びらも開いてきれいな姿があちこちで見られるようになってきました。今年は全国的に桜の開花が遅いらしくこれからが見頃となるのでしょうか。桜が咲くと僕の花粉症も治まりうれしいです。今回はう~んと現代に近づき20年前の話であります。それでは77話ラッキーダブルセブンです。いってみよう。
というわけで、もう何回も書いておりますが、平成5年に超難関を突破(えっ、もうええって、笑。)して観光協会に就職した僕は、毎日せっせと那智勝浦町の観光のため汗水鼻水を流しながらがんばっていたのであります。入社してから約4年たった平成9年の初夏の事であります。仕事にも大分慣れてきて前年に僕の上司にYさんが入社し観光協会も体制が変わっていた。そんなある日当時の勝浦駅長が、あるところから桜の苗木を寄付してもらえるので、駅の駐車場の奧(役場側)に植樹しようと思っている、良かったら観光協会もお手伝いしてもらえないかとお願いしてきた。当時観光協会は、勝浦駅前の海産物センターの3階にあり、2階には旅館組合が入っていた。今の観光協会の場所は、列車に乗せる荷物受付事務所と駅長室だった。その話があった約10日後、駅の職員、観光協会男性職員、旅館組合の事務局長の約10名で約30本の苗木を今のコーナン裏あたりに植樹する作業を始めた。植樹と言ってもちゃんと整地された場所ではないので、まず草刈り機で雑草を刈ったり、大きな石を取り除いたりしてまず植樹場所の整地から行った。そして役場側から等間隔で約30本の1メートルほどの苗木を植え付けた。JR勝浦駅には、昔から今のわかたけ側(自転車置き場)に桜の木が並んで植えられており、4月にはきれいな桜の花が咲き観光協会では地元の電気屋の協力で咲き始めた初日から約1週間ライトアップを行っていた。(諸事情で現在は行ってません)昼間もきれいだが、夜のライトアップされた桜もなかなかのもんだった。今もライトアップさえないが、桜の花の開いた駅周辺はなかなかのものである。話を僕たちの植えた桜に戻そう。この僕らの植えた30本の桜は、その後約20年の歳月をかけて育ち立派な桜の木になり毎年これもきれいな花びらを咲かせた。実は私事で申し訳ないが、この植樹した年の4月の桜満開の日に長女が生まれ、僕自身個人的に誕生祝いの意味も込めて桜を植樹した。本年4月に長女も20歳を迎え、僕らの植えた桜も20歳を迎えた。しかし、僕らの植えた桜は、何年か前の鉄道のイベントの時、駅のホームから今の役場の側のSLが見にくいと言うことで、JRの方に当時植樹した関係者の者の承諾の元伐採することとなった。だが、当時の植樹した関係者は皆退職しており、残っているのは僕だけだったので僕が娘のために植えた桜の辺りは残していただくことを条件に快く承諾した。今もコーナンの裏辺りに当時植えた桜が何本か残っている。いわゆる20歳の桜だ。本数は少なくなったが、今年ももうすぐきれいな桜の花を咲かすことだろう。毎年桜の季節になると植樹した時の事を思い出す。植樹してからは特別なことはしていないが、立派に大きく育っている。いつまでも枯れないで毎年きれいな桜の花を咲かせ続けてほしいと思う。ぜひ勝浦駅周辺に来られたら駅の桜もご覧ください。まもなく花開くと思います。きれいですよ。
第77話 終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第78話『僕らはやっぱり坊ちゃん刈り』
はい、時には、まじめに観光協会職員、ある時は弾き語りの歌の下手なおっさん、又あるときはfacebookに訳の分からん小説みたいなものをこれでもか、これでもかと77話も書き続けている売れない作家もどきになるタケちゃんであります。今日は別にfacebookで徒然草なるものをしたためて見たのですが、ご覧いただいたでしょうか。78話書いてますが、過去の僕の話読みたいと思った変わった方は僕のfacebookでも、観光協会のHPでも読めますのでご覧ください。と、またまた前置きが長くなりましたが、今回は幼稚園時代くらいまで昔にもどります。でわてわ第78話です。
稲刈り、カリカリに焼いたパン、やどかり、まさかり、ポカリと、かりにもいろいろありますが、皆さんは坊ちゃん刈りって知ってますか。今から詳しく書いていきますね。
「ただいま」「タケちゃんお帰り」ナカシャやタコちゃんといっしょに勝浦幼稚園から帰った僕は、通園バックとパンツのゴムのついた黄色の通園帽子を取り、ちょこんと縁側に腰掛け池の金魚に餌をやった。お母ちゃんは、「タケちゃん、髪の毛伸びてきたからトリイへお父ちゃんにつれてもらい。」「あんた、悪いけどタケちゃんトリイ連れたって」お父ちゃんは、お母ちゃんからお金を受け取り僕の手を引いて実家から歩いて1分の散髪トリイに連れて行った。当時勝浦の仲の町のど真ん中にトリイという散髪屋があり、そこのおいさん(というかおじいさん)は、きれいに、はげあがった頭の主人で、職員のおねえちゃんとお兄ちゃんがいてこの3人で切り盛りしていた。店に着いたらお父ちゃんは、「おいさん、こんにちは、たけひろの頭頼むわ」とお金を渡し家へ帰っていった。「タケちゃんいらっしゃい、こっち座ってくれるかん」おいさんが僕を呼んだ。お姉さんの時は散髪は優しくしてくれるのだが、お兄さんとおいさんの時は僕が動きさがすのて゛、その度に「こら、ゆうこときいてじっとしとかなあかんやん」と僕の頭を左手でグッとつかんで刈りやすい位置にする。坊ちゃん刈りというのは、まず首の方のうしろは耳の線くらいまできれいに刈り上げ、サイドも刈り上げ、もみ上げもまっすぐきれいに、そして前髪は右から左に向かってまっすぐにハサミ入れる。よく言われるオカッパ頭である。この髪型はトリイの3人の誰が刈ってもほほ同じであった。トリイのおいさんは、僕の髪を切りながら「いつも思うけどタケちゃんの髪は、固くてきれいやね。髪は大事にせなあかんよ」と一本の髪もないおいさんは口癖のようにいつも言う。僕の実家の近くにはあまり散髪屋はなく、タコちゃんもナカシャも脇の谷に住んでいた山ちゃんもトリイだった。そして天然パーマのタコちゃん以外皆坊ちゃん刈りであった。なんとこれは小学6年の卒業までずっとこの辺の勝浦の子供は坊ちゃん刈りであったのである。まあ簡単に散髪できるし、かわいいし賢く見えたのである。トリイは今は、なくなつているが、僕が30歳で東京から帰ってきてから魚市場の近くで、このトリイで修行していたお兄さんが独立していて自分の店を出しており、つい去年まで僕は23年くらい月1回通っていた。もちろん、坊ちゃん刈りにするために。(んな、わけありません、冗談です)僕の幼稚園の時の事から知ってい
るので、東京から帰ってきたときは、喜んでくれた。しかし、去年の秋ぐらいに
突然店閉めてしまった。それからは、仕方ないので他の所にいっているが。元気なんだろうか。僕ら仲の町3バカトリオや山ちゃんも那智中学校に入学し、坊主頭や、角刈りにするようになり坊ちゃん刈りから卒業したのだが、幼稚園や小学校の時の写真を見るとかなりの数で坊ちゃん刈りの子が多い。そしてみんな賢そうに見えるが、見かけだけで皆個性的な奴らばかりであった。勝浦の子供らは、頭の形だけ坊ちゃんだったのである。
第78話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第79話『勝浦3大うるさい おばちゃん』
はい、この懐かし話も79話になり中々ネタに苦労するかなと思っていた矢先寝床に着いた途端、僕の枕元に観音様がお立ちになりと言う話だとすごいのだが、そんなことはなく寝床で天井眺めていたら頭の中に怒濤のごとくネタが湧いてきて思わず、がばっと飛び起き、そばにあった紙切れにネタを書き写した最近であります。ですからまだまだネタありますよ。もしかしたら今晩あたり初の2話連続アップなんてタケちゃんファンが泣いて喜ぶことをしちゃうかもしれませんぞ。約束できへんけと゛(おもろいテレビあったらそっちが優先という駄目な僕ちゃんであります。)と言うわけで前置きご多分に漏れず長くなっておりますが、今回の話はあくまでも僕個人がこの方は3大うるさい(良くしゃべる)と思っているわけで、あと決して個人をからかったり中傷すると言う気持ちも全くありません。また、イニシャルで書いても誰のことかわかりやすいと思うので出来るだけその辺は濁らせますのでご了承を。つまり勝浦には他にはないこんな元気なおばちゃん達がおるんやでと言うことを書きたい訳であります。ではいってみよう。
はい、勝浦には3大というのがいくつかあり、皆さんご存じの仲の町3バカトリオは、僕とナカシャとタコちゃんなのである。あと今回書く3大うるさい(ようしゃべる)おばちゃんは、旧勝浦の1区から6区内でのおばちゃんであって、6区外の朝日町や那智山等の地区にもうるさいおばちゃんは、いると思う。僕が選ぶ3大うるさいおばちゃんはOさん、Bさん、Aさんである。いわゆる勝浦のOBA(おば)さんたちである。年齢順でもOBAて゛ある。ひとりひとり、なんでそうなのか説明していこう。まず、Oさん。大勝浦在住の怪獣おばごんである。化粧は超厚塗り、おばQみたいである。100メートル離れてもあのおばば特有の化粧のにおいがした。(なんか乗ってめちやくちゃ書いてるけど大丈夫かな~)このおばちやん何せ勝浦の女性ドンである。誰も逆らえない。ものすごい圧力というか権力があった。ある団体の部長していたとき僕はちょっとまちがつた言葉の文書を0おばちゃんに出してしまった。そしたらすぐに、観光協会に電話かかってきて「吉野くん、あの文書はどういう意味、今から副部長2人連れて3人でそっちへ行くから説明してくれる」とその電話だけで僕はション便もらしてしまうほどだった。その後電話の通りお三方はやって来て、3おば対タケちゃんのバトルが繰り広げられたのである。ほんまにこわかった。言葉の散弾銃である。0おばちゃん率いる3おば軍団である。書かなくてもわかるだろう。僕の全身は抵抗の暇なく全身言葉の銃弾で撃ちのめされた。完敗であった。それが0おばちゃん。2人目は、Bおばちゃん。このおばちゃんには、ほんと頭あがらない。なにせ僕と同じく仲の町に昔住んでいてそれも近所、僕は幼稚園入る前から知られている。ええ事も悪いことも。うちのお母ちゃんの友達でもある。つまり、この方こそ、勝浦のお母ちゃんそのものである。
今は湯川に住んでいて勝浦駅の近くで家族で店をしている。旦那さんは昔から静かで割りと無口やのに、この息子と娘が母親似でこれまた、ようしゃべるしうるさい。Bおばさん
は、さすがに僕の職場では吉野君と僕を呼ぶが、外で会うとタケちゃんである。この前も
うちの職場にイベントのお弁当の注文のことで来ていて、お弁当の打ち合わせで3分、世間話で30分話して帰っていった。職場の皆はまだ、このおばちゃんのしゃべりに慣れていないので何もいえないのだが、僕だけは言えて、おばさんは「この前うちの近所のおやじがゴミの出し方ちゃんと守らんからそのゴミそのおやじの家の玄関へもどしたったんや。何遍注意しても出したらあかん日に出すんやで。班長もよういわんのや。おばさんは、ゆるさへんね。いうたったわ。なあ吉野くん、おばさんまちごたあるか。あたりまえのことやろ」「おばさん、玄関へもどしたんかん。そうやね、いわなあかん時はいわなね。おばさん、ほんま、昔から変わらんね。弱い者は守り、悪いもんにはなぐりかかっていくもんね。おっさんでも、どつくし。なんかすかっとジャパンみたいやのう」と僕。「そうやろ、正義の見方や。がははははは。」と大笑い。「おばさん、もうええから、うるさいから早よ、帰り」と僕。そんなこと言えるのは僕ぐらいである。昔からよう知っているし本当に世話になっているからである。「じゃかましわ。まあ、吉野くんにいわれたら帰るわ。おおきによ。」と帰ってきた。そのあと観光協会に娘さんのやっているたこ焼き屋から差し入れのたこ焼きが届いた。そんな粋なおばさんである。3人目は観光協会の近くにお住まいの上品やけどようしゃべるAさんである。この方は、勝浦のおばちゃんにはないなんというか都会ぽい所がある。ただし思い上がりの激しい方である。以前この方の娘さんが観光協会のキャンペーンレディをされていた時その娘さんが写った写真を額に入れ観光協会の事務所の一番目立つ所に飾ってほしいと持ってきた。娘はきれいだ。娘はかわいい。その気持ちは分かる。気持ちは、分かるが額に入れて飾ってくれはないだろう。要するにずうずうしいおばさんである。逆らう者ならこれも言葉の散弾銃に撃ちのめされる。このおばさんもようしゃべる。みかけは都会の上品なマダムであるが、しゃべり出すと勝浦のおばさんである。うるさい。仕方なくパネルは飾った。いつ見に来るか分かんので。以上勝浦の3大うるさいおばさんの話である。でも、こんだけうるさなかったら、ここ勝浦では生活できへんのやろなぁ~。漁師町でもあり、観光の町でもあり人の出入りも激しく、けんか早い奴らも多く都会みたいにおとなしいおば様ばかりやったら成り立たない。自然と男勝りのおばさんが出来上がる。これも勝浦のおばさんのええとこやね。ほら~、うわさしやったら、Bおばさんきたで~。「吉野くん、聞いてよ。この前のおっさん、まだゴミだしやるんやで~」「はいはい、又、きたんか~、まあ、きいたるわ」
うるさいけど、勝浦に無くてはならない、愛すべきおばちゃん達であります。尊敬いたしております。
第79話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第80話『アルバイト 魚市場編』
はい、約6時間ぶりの再会でございます。80話か~、我ながらよう書いたなぁと思います。昨年の夏から何気なしに書き始めて約10ヶ月、原稿用紙で200枚位になりました。単行本1冊分です。後20話なんとか書き上げたいと思っております。書き上げた暁には、本にし直木賞をとりますか。まあ夢は大きく持ちましょう。と言うわけで今回は中学の時の話です。魚市場編と書いているので別の編も次に書く予定です。でわでわ80話です。
今考えてみると、僕らが那智中学校に入学した頃というのはアルバイトが許されていたのだろうか。僕とかナカシャとかタコちゃんは、夏休みにしっかりアルバイトしていた。許可されていたか、内緒でやっていたんだろう。と言うわけで那智中2年の夏休みの時の事であります。僕は1学期でクラブのサッカー部をやめ帰宅部になっていたので、何かアルバイトしたいと思っていた。「タケちゃん、夏休みアルバイトするかん」お母ちゃんが、僕に聞いた。「えっ、どこで」と僕。「家でや、市場のアルバイト夏休み中せえへんかん。お父ちゃんも喜ぶし、働いてくれやるおばさんも喜ぶで。もちろんアルバイト代あげるよ。その代わりアルバイトやから市場休みの時以外毎日やで。子供いうてあまやかさんて゛」
「うん、ええよ。やるわ」と僕。早速夏休み初日から魚市場へ行くことになった。お父ちゃんのお古の帽子、長袖の服、ジーパンにこれまたお父ちやんのお古の長靴。お古の手がき(まぐろをひっかけて持ち上げるもの)を手に朝6時に起きてしっかり朝ご飯食べて
6時50分前には着くように自転車で市場へ向かう。書き忘れたが、僕の実家は、ひいじいちゃんの時代(約100年)から4代続く老舗の生まぐろの仲買店である。
知っている方も多いと思うが、勝浦の魚市場は、土曜日と祝日の前の日が基本的に休みである。これは、東京、名古屋、大阪など都市部の市場が日曜、祝日が休みで、生まぐろの配送の関係でその前日に競りをしても都市部は休みである為だ。あと勝浦の魚市場は、朝7時に競りが始まる。都会部では、指で値段を表したりするが、勝浦はアルミで出来た短冊みたいな入札ふだに屋号と値段を白木で書いて読み上げる台に置いて、読み上げ担当の市場職員が一番高く入札した屋号を読み上げる。たとえば「一番500円ヤマサン」と言う具合だ。これは、一番の札の所のまぐろをヤマサン(ちなみに家がヤマサン)がキロ、500円で競り落としたと言うことである。僕のアルバイトの仕事は、競りをやっている側で働いてもらっているおばさんといっしょにお父ちゃんが競り落とした生まぐろを
手書きで横の邪魔にならないところまで運び、そこに木のトロ箱を運び一輪車で、氷を乗せた氷り売りのトラックまで行き屋号を告げ(氷一輪車一杯200円掛け売り)一輪車でトロ箱まで運び生まぐろを氷りづめにする。まず、このトロ箱運びが慣れないと大変である。長さ2メートルくらいの木の箱である。その時分は、今の、にぎわい広場あたりに屋号ごとに積んでいた。そこから肩に担いで持ってくる。ちょうど真ん中あたりを右肩に当て斜めにし頭からかぶるように持ち上げる。これも慣れると右肩と左肩に1つずつ持てるようになる。僕も筋がいいのか、すぐに2つ持てるようになった。でも一度だけ仲買の方にぶつけそうになった時があった。知り合いのおじさんだったので事無きを得たが、気をつけないと当時市場で働いていた人たちは喧嘩ばやい恐い人たちばかりだったので危なかった。ほんまやで。次に一輪車。これにもペンキで屋号が書いてあり、氷のいっぱい入った一輪車をあちらこちらに生まぐろや道具、トロ箱の置いている細いところをバランスを取りながら自分家のトロ箱まで運ぶ。何回ひっくり返したことか。でも何回かやるうちにこつがつかめ慣れる。ひっくり返した氷は素手で一輪車に汚れていない上のほうだけ入れて運ぶ。また、生まぐろは、ビンチョウ以外尻尾切っている。仲買いの方はその尻尾の色や、つやとかを見て買うかどうか判断する。
トロ箱には、胴体の部分と尻尾を2本分入れる。まあ生まぐろの大きさによるが。またヒレをハサミで落とす。それもバイトの仕事。ビンチョウは尻尾切っていないのでそのまま木の箱に入れる。氷詰めしたら屋号のマークの紙と送り先の紙を貼りそれで一丁あがり。次の競りをしている場所へ急ぐ。それの繰り返し。生まぐろの水揚げが少なかったらバイトは早く終わるし、水揚げが多いと遅く終わった。まあ昼前までには終わったけど。アルバイトは時給だった。まあまあのお金になった。中2の冬休みも、中3の夏休みもこの市場のアルバイトをした。僕の同級生も親が仲買いの者もいたのでアルバイトしていた。
親がやっていなかっても何かの紹介でやっている者もいた。やりやすかったバイトで勝浦ならではのアルバイトだったと思う。多分、今市場で働いている僕ぐらいの方々は中学生ぐらいの時市場でアルバイト(正当にお手伝いの方もいらっしゃるでしょう)していたと思う。思い出深き魚市場でのアルバイトである。
第80話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第81話『アルバイト 新聞配達編』
はい、まだ前回アップしてから2日経ってないんですね。「えっ読む方の都合も考えろって。どの口やどの口がそんなこといやるんな。お母ちゃんそんな子育てた覚えないで。どの口や。ほんまっ。」て何のこっちゃ。前回からシリーズで書いているアルバイト編今回で終わりですって2回だけです。はい。でわでわ行ってみよう。第81話です。
「だんな、ええ金儲けの話あるんやけと゛、ききたないでごわすか。えへへへ。」とナカシャが僕に話しかけてきた。「うん、おぬし又なにかやらかすつもりか。おぬしも悪よのう。しか~し、わしも黄金色に光る板はきらいじゃないぞ。えっ、おぬしも好きじゃろ」とまたまた仲の町3バカトリオの2人は何かたくらんでいる。中3の夏休み直前の僕とナカシャの話である。「その金儲けてなんよ。あやしいことやないやろね。と僕。「あほんだら、まともな話やぞ。」と、まともやないナカシャが言う。「だから、なんやねん。」とまたまた、まともやない僕が言う。「俺中3なってクラブやめてからまじめに学校終わってから熊野情報配りやるのしったあるやろ」とナカシャ。ここは、ナカシャの家のナカシャの屋根裏部屋である。ナカシャはこの前買ったアリアプロのエレキを片手に、大ちゃんが置いて行っているローランドのギターアンプにコードをつなぎ、僕は同級生のむっつんがこれまた置いているドラムセットにまたがり、ディープパープルのハイウェイスターのレコードに合わせ演奏し終わった後、ナカシャの4つ上のお姉ちゃんが差し入れてくれたカルビーバーベキュー味をもぐもぐほおばりながら、ファンタグレープでのどを潤しながらこの話をしている。「ああ、しったあるよ。それがどしたん」と僕。「夏休みの間だけ手伝う気ない。夏休み、うちの店も結構忙しくなるさか、店出来るだけ手伝ってくれってお母ちゃんにいわれたんや。そんで、週3日くらいと集金てつどてくれへんかな。もちろん、その分払うさか。もぐもぐ。」「う~ん、もぐもぐ、どうしょうかな、もぐもぐごくり。ま~、ナカシャ大先生の頼みやさか、やろか。その代わり2日間そのエレキ貸してくれ。ええやろ。もぐもく」と僕。「え~、こうたばっかしやぞ。う~ん、まあええわ。わかったよ。もぐもぐ。」と言うわけで僕は翌日から3日間はナカシャといっしょに担当地区の朝日町あたりを熊野情報を配り配達場所を覚え4日目からは一人で配った。次の週から月、水、金の3日配った。熊野情報というのは、今の南紀州新聞の前の名前であり、仲の町の万清楼というホテルの前身が金波というホテルであり、その横に熊野情報の事務所があった。僕らは自転車で配った。7月の20日くらいから配っていたので、8月の初めに集金も行った。配っている家一軒一軒昼間に廻った。「すいません、熊野情報です。集金に来ました。」と僕。「ああ、ごくろうさんやね、いくら」と気持ちよく払ってくれるといいのだが、行っても留守や、「悪いよ~、今日持ち合わせないさか、3日後にきてくれるかん」と言われたり、「は~い、ちょっとまってよ」とすけすけのネグリジェ姿で出てくるホステス(やと思った)のお姉ちゃんが金を払ってくれるという何度でも行きたくなるうれしいこともあった。あれは、中学生の純情少年にはあきません。鼻血ブーになりそうでした。未だに脳裏に焼き付いております。そんなこんなで僕は夏休みいっぱいナカシャのお手伝いをし、アルバイト代を頂戴した。まあまあのお金になった。よう考えるとアルバイト禁止やったかもしれん。でも今思うとええ経験やったと思う。雨の日や風の強い日とかもあった。夏休みの間だけやったけど楽しかった。アルバイト代もらうとき僕はナカシャにはっきりと声を大にし目を爛々と輝かせてこういった。「集金やったらいつでもやるで~。」ナカシャがいった。「タケちゃん、集金ほど楽しもんないやろ」僕は、何度もうなづいた。
第81話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第82話『アルミのドカべん』
はい、お久しぶりぶりっこです。(あ~、最初からやってもうた~。そんな冷たい目でみんといて~な~。)プライベートも本業の観光協会のお仕事も忙しく、しばらくぶりぶりっこ(えっ、いいかげんにせぇって。すぅいまぁ~へ~ん。)というわけで、タケちゃんファンの皆様ごめんね、ごめんね。しばらくあってなかったもんね。さびしかったぞや。安心せえよ。まだまだ、100話めざして書きますよ。だから応援のコメント頂戴ね。おっさんのは、いりません。(冗談でっせ~)何か訳のわからん前置きやけど、今回は花の中学生の時の懐かし話です。でわでわいってみよう。
キンコーン、カンコーン、キンコーン、カンコーン「はい、じや、4時間目の授業はこれで終わり。はい、お疲れ。」「きりーつ。れい」「ありがとうございました」ここは、花の那智中学校3年5組、9月のある日のことです。担任でもある、金田先生(通称きんた)の授業が終わったとこである。今日の日直は、三浦ちゃんとTさんである。2人は、すぐ近くの用務員室にクラスの番号の書いた、お茶のたっぷり入った、やかんを取りに行きしばらくして戻ってきて教室の両端の机にひとつずつ置いた。功君、大ちゃん、くにやん等に僕は声をかけた。「おい。弁当くおら。おれ、お茶かりてくるわ。」僕はやかんを取りに行った「うん、くおら。すまんね」と、くにやん。僕らは、くにやんの廻りの机を3つくにやんの机にひっつけて向かい合うように座り弁当をかばんの中から取りだした。僕らは中学3年生。1、2年の時はクラブ等もあり坊主または角刈りだった頭もクラブも夏休みで終わり僕たちも髪の毛をのばしていた。僕も今の髪型と同じような髪型、くにやんもまあ普通の男の子の髪型、しかし功くんは、初めて会った1年生の時はもう野球部に入るので坊主であり3年の2月期になり髪を伸ばし初めて初めてわかったんやけど、癖毛の、そして赤毛であった。これでイケメンやったらもてたんやけど残念ながら顔はガリバーやった。(功ちゃんごめんね)。僕らはいつも功君に言っていた。「髪の毛だけは外人みたいでかっこええなぁ~」と。15歳というのは、もう思春期まっただ中であり、体育祭の練習で学年のマドンナと手をつないで鼻血ブーになりそうやったとか、色んな事にときめいたり、涙したりおもろい時期やった。エレキギターにも目覚め毎日練習したりもした。もちろん食欲も旺盛である。男子はほとんどあの懐かしのアルミのドカべん(デカべんちゃいますよ。デカ弁当箱にごはんもおかずも大盛りやからドカべんです)これに石井のハンバーグや、丸新ハンバーグ、真っ赤なウインナー、ちょっと甘い卵焼き、しゃけ等をおかずだけの入れ物(あの、フタをして左右から取っ手みたいなのでふたを挟むやつ)にいれドカべんの上部1/3のスペースに入れ、あと2/3に、麦飯の混じったご飯をめいっぱい詰めてもらい上から、のりたまもしくは、切らしているときは、ごま塩(これふりすぎるとあきまへん。ごはん塩からてたまりまへん。適量に)をぱらぱら。そしてとどめにどでかいおばあちゃんの漬けた健康食品生唾ぎゅ~の、どでか梅干しをど真ん中にうずめるのである。そのアルミのドカべん実はシルバー色とゴールド色があった。もちろんタケちゃんは仲の町のボンボンなのでゴールドドカべんであった。僕らは中一から弁当持参で初めからこのデカべんだった。このアルミの弁当箱は使ったことがある方は分かると思うが、結構軽く油汚れも落ちやすく、使えば使うほど味のある色に変わっていく。今はこのアルミの弁当箱を持っていっている学生はほとんどいないだろう。今は電子レンジとかでも温められるプラスチック製の弁当箱が主流だと思う。「なあ、大ちゃん、こんどの文化祭でキッスのコピーバンドやるさかグレコのレスポールモデルこうてんと」と功君は、弁当のふたに入れたお茶を器用に飲みながら言った。
僕らはドカべんのフタを湯飲み代わりにしていた。「ほんまか~。ええなぁ~。グレコ か高いやろね。、ナカシャもアリアのストラトモデル4万でこうたらしで~。ナカシャ もディープパープルのスモーク・オン・ザ・ウォーターをバンドでやるらしいで。歌も うたうんやて」と僕。くにやんは、それを聞きながら、もぐもぐ弁当を、かきこんでいる。 しかし、しばらくして弁当箱を置いてこうささやいた。「ナカシャの歌きいたらこの弁当も一瞬で腐るで~、あっははははっ。」僕らはそれを聞き、3人ともアルミのドカべんをかき込みながら、同時に何回もうなずいたのであつた。(ナカシャごめんな~。)
昔懐かしのアルミ弁当箱の話である。
第82話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第83話『小さな小さな日中国交 金の橋 パート1』
はい、お元気ですか。GWも目の前に来て暖かい日が続きますが、僕は相変わらず
あっち行ったり、こっち行ったり忙しい日々を送っております。先日は旧友の年哉くんと会えると思ってたんですが、すれ違いで会えず。ほんま申し訳なく思っております。お詫びに今度思いっきりこのシリーズに登場してもらおうかな。というわけで、今回は那智勝浦町というか僕の昔懐かし話ですが、なんと国と国の事業のお話であります。本年は日中国交正常化45周年の佳節ですし。タケちゃんはまじめに本業もがんばってるのよ~と言うわけで早速行ってみよう。
時は遡り10年前の4月の事である。僕は職場の局長に呼び出され、こう言われた。「なあ、吉野君3週間ほど中国いってくれへんか。」と。僕は「えっ、いきなり、中国へって。俺なんか悪いことしたか。島流しか。えっ、なんか罰か。」と思いながら「どういうことですか」と聞き返した。局長曰く「今日、県の文化国際課の人が来て、中国の貴州省というところと日本の外務省の機関であるJICAとの事業で、観光アドバイザーの派遣があるらしい。貴州省というとこは、中国の南西部(ベトナムに近いところ)で一番貧しい省なんやて。そこに行って観光についてアドバイスしてほしいそうや。」「僕がですか。」と僕。「向こうへ行ったら日本語の喋れる人がずっと世話してくれるし、県の文化国際課の人も一人いっしょにいくそうや。」「局長、とりあえず家に帰って嫁さんに聞いてみますわ。3週間行くんですから。」僕はそう言って家へ帰って嫁に言うと、あっさり「ええよ。いっておいで」と返事。「あなた、私さびしい。行かないで」と言ってくれると思ったのだが。そう言う訳で行くこととなった。出発は約4ヶ月後の8月22日で、それまでの間準備をし、また『とっさの中国語』という本で勉強した。そしてあと1ヶ月で出発という時なんと、文化国際課の人が行かなくなり僕はたったひとりで未知の貴州省へ行くこととなった。ここでちょっと貴州省について紹介しよう。さっきも書いたが貴州省は、中国の南西部に属し英語でGuiyang(グイヤング)といい、省都は、貴陽市(和歌山市くらいの大きさで高層ビルや5つ星ホテルがたくさんある。ちなみに僕も5つ星ホテルに滞在した。) 一年の平均気温は14度から16度で過ごしやすいが、雨が多い。都市部はすごく発展していってるが、少し車で走ると度田舎で貧しい村が続く。中国で一番貧しい省である。中国には56の少数民族が住んでいるがその内の48が貴州省に住んでいる。実は僕が渡中する前年にこの貴州省にある東洋一の大瀑布(瀑布とは、滝のこと)黄果樹(こうかじゅ)と那智の滝が(当時の県知事や那智勝浦町長らが貴州省に出向き)友好提携を結んだ。そのこともあって観光アドバイザー派遣である。自分で言うのもあれだが、和歌山代表で国の事業の派遣である。タケちゃんもたいしたもんである。出発の前日には県庁で副知事に直に激励され僕は空路関空から北京に向かい、北京で5時間待ち(その間勉強した中国語と英語で両替と飲み物の購入をこなし)北京から貴陽空港に降り立ったのである。北京での5時間待ちの間、僕は喉が渇いたので両替した中国紙幣を手に売店へ行った。そして英語で「俺は飲み物がほしい」と定員に聞いた。定員は冷蔵庫の方を指さした。そこには、いくつかの缶に入った飲み物らしきものが。ひとつには牛の絵が書いている。「おお、牛乳やないか。ええやん。乾いた喉に牛乳最高やん。」と店員のお姉ちゃんに「これくれ」と英語でいって見事牛乳を手にしたのである。そして待合室に戻りイスに腰掛けプシュッと開けた。「えっ、牛乳がプシュッというか。あれ。」と僕は思い一口飲んでほほえんだ。「あ~、やられた。牛のマークはそう言う意味やったんか。」北京空港の、ど真ん中でおっきいスーツケースを持った田舎者の日本人が牛のマーク入った缶もって、にやりと笑っているのである。周りの皆はさぞかし気味悪かったろう。その中身は、そう、もうお気づきでしょう。栄養ドリンクでありました。つまりオロナミンCみたいなやつ。でも渇いた喉には、うまかった。ここで2人とかやったら大変なのだが、。なにせ一人ほっち。逆に迷惑かける相方もいない。人間こんな時強いよ~。もう、自分信じるしかないんやから。関西空港での出国手続きも一人で難なくこなしたタケちゃんやで。こわいもんなんかありゃへん。そんなこんなしているうちにトイレ行きたくなってきた。空港の職員みたいな男の人に今度は中国語で尋ねる。
「ザイナール、ツゥオシォ」(トイレはどこですか)その人はむこうやと指さしてくれた。男と女のマークがあった。北京空港でもここは、中国。トイレットペーパーは、水に流しては行けないのだ。便器の横にあるバケツに丸めて入れた。そしてやっと5時間経ち北京発貴陽空港行きの飛行機に乗り込んだ。北京空港での乗り換えも初めてのおっちゃんでもスムーズに行った。俺って天才ちゃうか。一人で世界どこでも行けるで~とアホなタケちゃんは思ったのである。時間は午後5時頃。腹が減っている。ありがたいことに機内食が出た。AとBがあるみたいなんだがアルミ泊で包んでいるので中がなんなのか分からない。説明も中国語やし。周りの乗客が食べているのを見て「あれくれ」と指さした。それは、ご飯はベトナム米みたいに細長くチャーハンみたい。鶏肉の照り焼きみたいな物と
チンゲンサイとミニトマトが入っていた。まあまあうまい。腹が減ってるし。飲み物も欲しかったんで「う~ろんちゃ」とゆっくり言ったが最初通じなかった。なんとか冷たいお茶をもらい飲んだ。そんなこんなで約3時間で貴陽空港へ午後8時頃着いた。北京で待っている時に僕の携帯に貴陽空港に迎えに来る担当の方から電話があった。飛行機に乗る直前だったので簡単に挨拶だけして電話をきったが、その声はまさしく女性で(僕は男性だと聞いていた)しかも若い声だった。貴陽空港に着いた僕は入国手続きを済ませ待ち合わせ場所に向かった。そこには一人の男性とそして美人な若い女性がにっこり笑い、立っていたのである。何か楽しくなりそうやぞと僕は思った。
第83話終わり 84話に続く
那智勝浦町昔懐かし話
第84話『小さな小さな日中国交 金の橋 パート2』
はい、1日ぶりでございます。僕の観光アドバイザーとしての貴州省どたばた視察記も
昨日パート1を書き、貴陽空港で担当のきれいな若い女性と出会うところまで書いたのだが、全国タケちゃんファンの女性達からは悲しみのコメントもひとつもなく寂しい思いをしており、むさんくさいおっさんの同僚からは、この先どうなるのか早よ書けといわれておる僕ちんであります。なんせ前置きが長いとも言われておりますか、全然こたえておりません。この前置きが大事なのであります。今回はパート2ですが、自分でもパートいくつまで行くか分かりません。気分が乗ればこのまま100話までこのシリーズ続くかもしれません。(そりゃないか。)まあ、その時の気分と言うことで、パート2行ってみよう。
薄暗い夜の帳の降りた空港には白い雪のような肌の黒髪の似合う女性が立っていた。男は大きめのスーツケースを押しその女の元に歩み寄った。「お迎えありがとう、君が厳微(げんび)さんだね」男は、向こう側から差す車のライトに照らされた女にそう言った。
「吉野さんですね。お待ちしておりました。お疲れになったでしょう。こちらは、専属運転手の陳です。」「ニイハオ」陳という男は一言だけ言い少しだけ微笑み男のスーツケースを受け取った。男も「ニイハオ」と言い、3人は用意していた専用車で男の滞在するホテルに向かった。女は男に「おなかはすいていませんか。何かお店でお買いになりますか」と訪ねた。男は日本ならホテルに泊まるときはルームサービスを頼むのだが、初めてのそして言葉の分からない異国ではそうはいかない。男は「スコッチウイスキーのボトルとビスタチオと気取って女に言いたかったが、思わすオレンジジュースとパンが食べたいと本音を口走ってしまった」車は、一軒の店の前に止まり女は小走りでその店でオレンジジュースとパンを2つ買い車に戻り男に、にっこり微笑みながら渡した。「ありがとう」男は一言だけ礼を言った。女の笑顔は男の長旅の疲れを夜の闇に消してしまったようだ。とハードボイルド風に書いてみましたが、いかがですか。まあそんなこんなで僕たち3人は空港から約30分走り5つ星のでっかいホテルに厳微(以下厳さんと書きます) にチェックインの手続きをしてもらい僕は自分の部屋に入り2人は、帰っていった。部屋はさすが5つ星だけあり広くトイレも水洗で紙を流せ、生水が飲めないのでミネラルウォーターのボトルが3本置いていた。僕はシャワーを浴び、買ってもらったパンとオレンジジュースを口にし、家と局長に無事着いた電話をし早めに床についた。翌朝は、ホテルのレストランでバイキングの朝食を一人で取り午前10時に陳さんと厳さんにロビーで会うことになっていたのでロビーに向かった。陳さんは、貴州省旅遊局と書いた専用車を入り口近くに停めて10時10分前には来ていたが、厳さんは、10分遅れてやってきた。後で知ったのだが中国では少し遅れるのはあたり前だそうだ。ちなみに厳さんは僕の滞在中全日遅れてきた。ホテルから10分の所に住んでいるのにである。皆さん気にしていると思いますが、厳さんは当時26歳の貴州省旅遊局の臨時職員で大学で日本語を学んだので日本語ばりばり、独身の色白長髪中国美人である。しか~しもうすぐ結婚する素敵な彼氏がいた。
僕は、その彼ともいっしょに食事したし、仲良くなった。3週間の内に貴州省を横断しながら色んな観光地を訪れ色んな視察をし、それを最後にレポートにまとめて提出する。もちろんその場でアドバイス等もした。僕の3週間の行程を簡単に書くと1日目旅遊局訪問、副局長と会談、外事弁公室(省の外務省みたいなところ)の室長と会談。市内視察。
2日目市内視察、3日目休日 市内視察、4日目ろうけつ染め視察、竜宮風景区視察 5日目黄果樹瀑布視察、6日目馬嶺河峡谷視察、7日目ブイ族の村視察、8日目南江大峡谷視察、9日休日 ホテルでレポートまとめ、11日目中間報告 旅遊局にて
12日目 世界遺産れいは 視察、 13日目 ヤオ族の村視察、14日目凱里ミャオ族視察、15日目ミャオ族村視察、16日青岩古鎮視察、17日休日 レポートまとめ、
18日 貴陽市市内ホテル視察、19日目貴陽市から北京へ移動 、中国JICA事務所でレポート発表。その後初めて天安門に行く、 20日北京から関空へそして帰宅というスケジュールだった。市内視察以外は陳さんの運転で1日何百キロも高速道路や山道を車で移動したり視察。その地域のホテルに宿泊。泊まりの視察は厳さんの変わりに陳さん(女性。既婚。旅行会社の日本人担当。後に僕と入れ替わりに勝浦に観光を学びに5ヶ月JICAの事業で派遣された。)と移動、視察した。食事はその移動の途中の店や宿泊のホテルでチャーハンや野菜の炒め物とかやコース料理も食べた。(チャーハンにはまり、どこでも必ずチャーハンは食べた。たくさんの種類がある。)少数民族の村では虫も食べたし、ものすごい、きつい度数の酒も飲んだ。腹を壊したことは一度もなく、かえって野菜が多い健康的な料理なので健康になって帰ってきた。中国の方は、とにかくもてなす。家族で入れ替わり酒をついでくる。それも50度や60度くらいの酒を。5杯ぐらい茶碗のようなもので立て続けに飲む。はっきりいって酒の強いタケちゃんでもまいった。女性の陳さんも僕とほとんど同じ年で日本語ばりばり、今も交流している。旦那さんは旅遊局の偉いさん。いわばエリート家族である。地方に視察に行かない日は、厳さんと食事に行ったり市内観光したり、夜は厳さんの家族や彼氏とかとにぎやかに過ごした。これは書く方がええと思うのだが、中国の若者は初めは言わないが、うち解けてくると必ず南京事件のことを話題にする。子供の時から教えられるそうだ。僕も良く聞かれた。「おまえは、どう思う」と。僕は「よくわからないが、日本は原爆投下された唯一の国である。それを忘れるな」とだけ答えた。僕がこのアドバイザー派遣で一番感じたのは、中国は広いし、一つの観光区取ってみてもスケールが違う。貴州省のたったひとつの観光地区だけでも落差170メートル 級の滝が200ある。200ですよ。考え方変わるし人生観かわるで。ほんま。自分のちっぽけさがよく分かる。すごい観光資源が中国、いや貴州省ひとつとっても数多くある。
これをどういかすか僕なりにレポートにして貴州省に提出した。僕の人生の中で非常に貴重な3週間であり、忘れられない、また必ずもう一度行きたい場所である。書くの忘れてたが、国と国の事業なのでプライベートな費用以外は、お互いの国負担であった。
この視察についてその時にブログを立ち上げ書き込んだ。今でもヨッシーの貴州省視察記で調べると読めます。良かったらご覧ください。
10年前の小さな小さな日中国交である。
第 84話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第85話『僕らの遊び Sけん』
はい、GWの前半最後の日でありますが、皆様いかがお過ごしでございましょうか。タケちゃんは、本業の観光協会がサービス業のため、皆様が楽しく旅行等されているときは、そのおもてなしのため仕事であります。おっさんの加齢臭と、とびっきりの笑顔振りまき皆様のお越しを歓迎しておるのでございます。そしてその仕事疲れの体に、むち打って全国1千万のタケちゃんファンのため、せっせとこの懐かし話を書いているのでございます。偉いでしょ。GWで和歌山に帰ってきた方もおられるでしょう。はじめまして。わしが雁の助だんす。(すいまへん。古いね~、まあこんなアホなおっちゃんです。)よろしくね。都会に、もどっても和歌山のタケちゃんいうおもろいおっちゃんが那智勝浦町の昔懐かし話いう、おもろいもん書きやるでと宣伝するのじゃぞ。では、あいかわらず前置きが長いけど気にせず第85話いってみよう。勝浦小学校の時の話ですよ。
「うわ~、今日の給食カレー汁やぞ。おい、ナカシャ、カレー汁やぞ。おかわりできるかな」僕ら勝浦小学校の優秀6年生である仲の町3バカトリオのタケちゃんとナカシャは、2部屋離れた給食室から漂ってくる、においだけでその日の給食が何か分かる。100発100中である。勝浦の子供はそんな特殊な才能があった。(まあ、仲の町の子供だけかもしれんけど、いつも腹すかしてたからね。)カレー汁とは、勝浦小学校給食メニューの中でナンバーワンの人気で、ちょっと水気の多い、からめのカレー汁の中にジャガイモとにんじんとマカロニが入っているおいしすぎて一口食べたら思いっつきり笑ってしまう。(人は本当にうまいもの食べた時は言葉は発せず笑うものなんですね)まあ、そのカレー汁がメインの給食を僕ら6年5組のほとんどの男子は5分で食べ終わり(僕とナカシャとかは、しかもおかわりしてます。カレーは飲み物です。)運動場にかけだした。「おーい。Sけんしよら。」山ちゃんが皆に呼びかける。「おお、やろら。」と皆。Sけんゆうてもショーけんちゃうで。また志村けんちゃうで。遊びやで。誰とも言わず運動場の端の溝に落ちていた木を拾い大きくS字と小さめの円をそのそばに2つ書く。そしてこれも運動場の隅から、さびた空き缶を2つひろってくる。その空き缶を自分の陣地の中に宝物として置く。簡単にSけんを説明すると地面に大きなS字を書き両方の陣地の奧に宝物を置く。グーパーで2つのチームに分かれ「よーいどん」で相手の陣地にS字の入り口から攻めていく。S字のそばに2つの円が書かれていて、ここが安全地帯。ここでは両足をついて休める。相手も攻められない。安全地帯とS字の内側だけ両足をついてOK。S字の外は片足で移動しないといけない。相手の陣地に引き込まれたり、倒されたり、押し出されたりしたらアウト。相手に宝物を取られるか自分のメンバーが全員アウトになったら終わりというけっこう疲れるハードな戦闘ゲームである。僕らはこれをクラスで分かれてやったり他のクラスと対抗したりして遊んでいた。かなり激しいのでケガをする者もいた。「よーいどん。」「われ、どかんか。なにしやるんな。ナカシャ。はよいかんか。ぼけ。われ、今なぐったやろ。どついたろか。われ。あ、あかん、鼻血でてきた。なんやおまえ、どかんかか。そこつかんだらあかんゆうのわからんのか、ぼけ」と言葉だけ聞いたらものすごい言葉ばかりである。でもこのような会話が毎日昼休みに繰り広げられていたわけであります。まあ、なんとお上品な事。多分PTAのお偉いさんあたりが、この光景と会話を聞いていたら、「ちょっと、こうちょうせえんせい~。なにざますの。あの下品な言葉づかい。まあ~、なぐりあいなんて野蛮なことでございましょ。日頃どのような教育をされているのか疑問に思うでざあますわ~。どうでごさぞましょ。副会長のおくさ~ま~」とPTA会長の三角につりあがった赤めがねの化粧品ぷんぷんのおはちゃまは、いうのだろう。そんなの関係あるかい。わいらは、Sけんと給食に命かけとんのじゃ。じぁかましいわ。(あかん、つい本音を汚い言葉で、はいてしまった)まあ、つまり僕ら勝浦小学校の子供達は、どっぷりとSけんに、はまりこんでしまったのである。他にタッチごっこやドッチボールなどもやったけど、やっぱりSけんが一番であった。僕ら勝浦小学校の生徒が一番燃えた遊びである。
第85話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第86話『思い出の味 たこ焼き』
はい、おうごんしゅうかん、まっただ中の中、皆様いかがお過ごしでありましょうか。酒あおりながらタケちゃんみたいにガラ声張り上げて歌唄ったり、お母ちゃんの手作り料理食べて「おろろ~ん、おろろ~ん。なつかしよ~。」と涙と鼻水と汗流しながら家族水入らずで団らんなんかされておる方もおられるでしょう。タケちゃんは、家にとじこもりせっせと普段出来ないことに汗流しながらこれを書いとります。遊び惚けてる訳ちゃいますよ。まじめに人生を見つめ直しております。まじめに。と言う訳でまたまた前置き長くなりましたが、今回は訳あり勝浦の話ではありません。お許しください。訳はこの後書きますので。とりあえず、あしからずということで。でわでわ第86話です。
はい、皆さんは子供の時とか、まあ最近でもええんですが、忘れられない味という物があるでしょうか。僕にもあります。これから書く話は、那智勝浦町の昔懐かし話ではありません。白浜の話です。僕の思い出の味は白浜での話です。タイトルに違反するのは分かっておりますが、僕の人生の中で、どうしても忘れることが出来ない味です。いつか書きたいと思っていました。お許しいただき次から書きます。
僕が勝浦小学校2年生の時の話である。僕の実家は約100年勝浦で続く老舗の生まぐろの仲買で、僕のお父ちゃんもおじいちゃんの後をついで仲買をやっていた。僕は8歳、弟が4歳の時の話である。仲買とは勝浦の市場で生まぐろを競り落とし東京や名古屋、大阪などの市場に送り向こうの仲買に競りおとしてもらう商売である。目利きだけが勝負でいわば、博打みたいなもんである。(決して仲買をけなしている訳ではありません。ご了承ください)、相手が自分の競りおとした価格より高く買ってくれれば儲かるし、低かったら損が生まれる。男の勝負である。そんな仕事で僕たち家族は育ち、生活している。都会の市場が暦通り休みなのでマグロを前日にこちらから送る関係で暦の休日の前日が勝浦の市場の休みになる。つまり土曜日と祝日の前日が休みである。昔は土曜日も学校があったので、僕たち兄弟は親に、小さいときからどこかに遊びに連れっていってもらったことがなかった。周りの子供達が日曜とかに、あそこに親と行った、夏休みにどこか行ったとか言っているのをうらやましく思ったさびしい子供時代だったのである。でも不満はなかった。その代わり午前中でお父ちやんの仕事は終わるので夕方キャッチボールしてくれたり空手教えてくれたりした。そんな中で今のGWみたいに、連休の時があった。お父ちゃんは、「タケちゃん、こうちゃん(僕の弟)、白浜のハマブランカいうとこに連れったろか。お母ちゃんと。白浜の旅館に泊まるで」と僕たち兄弟は家族そろって初めて泊まりの旅行に白浜へ行ったのである。うちのお父ちゃんは、車が運転出来なかったので、白浜まで列車で行き駅からタクシーでハマブランカへ行った。フラワーショーかなんか見て僕たちは、館内で売っていた、たこ焼きを2つ買った。なんてことない舟形の入れ物にカリカリのたこ焼きが10個入っていてソースと青のり、鰹節をふっていた。(その頃はあんまりマヨネーズかけた、たこ焼きって無かったと思う。) 僕たち
家族はたこ焼きを受け取り、また近くの売店でファンタグレープの瓶を2本買い館内の芝生に腰掛けたこ焼きを食べた。これが外で家族で食べたはじめてのたこ焼きである。なんてことないたこ焼きだが、僕にとっては、ハマブランカと同時に忘れることの出来ない味である。ハマブランカで楽しんだ後、三段壁なども見学し何という名前だったか忘れたが旅館に泊まり家族水入らずの一泊2日の旅行を楽しんだ。今はこのハマブランカは閉館している。白浜に出張とかで行き、かってハマブランカが建っていた跡地を車の中から見るとあの時の光景か目に浮かんでくる。僕にとって忘れられない味である。
第86話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第87話『ワープロ』
はい、87話でございます。87いうたらハナテンみたいやけど。日本中で鯉のぼりが青空の中泳いでいる今日この頃皆様いかがお過ごしでございましょうか、タケちゃんは、あまり外出せず(外出あんまり好きやないんてす)割とおとなしく家の床ワックスかけたり、愛車(車やで、自転車の仮面ライダー号ちゃうで)の掃除したり、風呂掃除したり、なんか掃除ばっかりしてます。その合間に新宮市に出没したり、食料調達に行ったりしています。あか~ん、又、前置き長なってしまう。まあええかな。でも全国にこの懐かし話読んでくれてる方何人くらいおるんやろ。北海道の方とか沖縄の方とかおるんやろか。第1話から全部読んだ方、北海道や沖縄の方ぜひコメントへ書いてください。と言うわけで今回は、僕が超難関面接をくぐり抜けJR紀伊勝浦駅1階にどどーんとそびえたつ那智勝浦町観光協会に入社した時の話です。那智勝浦町だけやなしに全国で懐かしい話です。では、87話いってみよう。(このいってみようのファンも、おるみたい)
平成5年12月5日この日は、将来那智勝浦町の記念日になるだろう。そう僕が那智勝浦町観光協会に入社した日であります。(えっ、うそ~。あたしの誕生日と同じじゃない。うれぴーといっているあなた。あなたは偉い。きっとかわいく美人でしょう。その反面、え~、嘘でしょ。なんで、あんなおっさんの入社日と誕生日同じなの~、最悪だわと言っているそこのあーた、おまえを蝋人形にしたろか~。あ~。)あかん、初めから文章乱れてる。まあ、そんなこんなで無事観光協会での日々が始まったのである。約25年前である。その頃観光協会は駅にはなく、駅前の海産物センターの3階にあり、2階に旅館組合があった。今の観光協会の場所は駅の荷物受け取り場所と駅長室だったのである。今でこそ駅に観光協会があるのは、当たり前みたいになってるが、当時はそんなニーズはあまり無く、観光客は前もってしっかり自分の観光するところを調べて来ていたのである。だから駅に観光協会が無くても困らなかったのである。かといって観光客が今より少なかったわけでなくかえって昔の方が多かった年もある。時代の流れかな。観光協会に会長(いつも事務所にいるわけでなく何かあったときに事務所にくる)、常勤は専務理事、僕、女性の先輩2人(一人職員、一人パート)の4人であった。その4人で経理やったり、まぐろ祭りや、あげいん、そして花火大会の事務局、キャンペーンでのPRとか、こなしていたのである。いかに一人一人が頑張っていたかわかるだろう。そんなある日「吉野くん、悪いけどこの文書ワープロで打ってくれへんか」と専務。「はい、ええですよ」と僕。事務所にはテレビの様なワープロとそれを乗せる専用ラック、そのラックの棚には、大きなB4も印刷できるプリンターが置かれていた。今の若者(この言い方あんまり好きやないねん。おっちゃん、まだ若いつもりやもん)は知らんやろなぁ。ワープロ。パソコンのワードのことと言う方もおるだろう。決して全不正解ではない。ワープロとは、僕のパソコンのアホーで調べると、ワードプロセッサーの略。文書を作成するコンピューターの事。1970年後半から1990年のパソコン普及時まで会社の事務所なとで使われた。最初はテレビのような大型でプリンターが別で、そのうち今のノートパソコンのような形になりプリンターが内蔵された物が販売された。作った文書は、カセットテープやフロッピー(今の若者フロッピーも知らんやろな)に保存出来た。今のパソコンのワードや一太郎はそのワープロの機能がソフトになったものと言えるかな。僕はそのワープロに向かい文書を打ちプリンターにA4のコピー用紙を入れ印刷ボタンを押した。(ワープロのプリンターは今の家庭用FAXと同じ感じでコピー用紙に印刷出来る物と感熱紙に印刷する物があった。)プリンター内蔵型のノートパソコン型になったときは、ほとんどロール型の感熱紙に印刷。会議の時は、それをコピーして使っていた。「はい、できましたよ。どうぞ 」と僕は専務に渡した。僕らは、このようにしてワープロを使いこなし、色々な文章の打ち方を覚えた。上の者に教えてもらうこともあったが、今みたいにインターネットとかないので、自腹で本屋に行き文章の書き方とかいう類の本を買って勉強した。その後デスクトップのパソコン導入となっていくのだが、僕が入社する平成5年のわずか何年前までは、総会の資料等はガリ版刷りである。信じられないかも知れないか、ちゃんと資料として残っている。今は、デスクトップのパソコンから皆ノートパソコンに変わっているが、ガリ版すらないが、デスクトップのワープロ、ノート型ワープロ、デスク型パソコン、ノートパソコンとその歴史と共に仕事が出来たことは大きな財産と思っている。ワープロ懐かしき仕事の友である。
GWなので、もしかしたら1日2話アップあるかもしれません。あんまり期待せずお待ちください。
第87話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第88話『NHKゆかいな家族』
はい、お久しぶりです。といっても4時間ぶりですね。実は、ようそんなにネタありますね。と聞かれるんですが、何でか知らんけどある時ふっと湧いてくるんですわ。もうあかん、ネタない、どうしようと思った時もあります、正直ゆうて。でもこの書き込み待ってくれてるあなたの為に頑張ります。このGWも不思議な事にふっと湧いてきたんですね。体に染みついとるんやろか。書かなあかん使命あるんやろか。初めこれは、小説みたいにと書いたけど、これエッセイいうんですか。その部類に当てはまるみたいですね。
何せ、書いてる本人が楽しいですわ。僕は生来目立ちがたり屋で人前で何かするの好きなんですわ。下手やけど歌うとたり、物まねやったり、司会やったりと人前に立つのが得意なんですね。なんでか全然あがらんのですわ。また、前置きながなりましたね。なんやろ、これ読んでいただいている方と僕が向かい合って会話しやるみたいです。元気かん、あんまり張り切りすぎたあかんで。みたいな。今度の話も僕が観光協会入って勝浦でこんな事あってんで、という話です。では88話(茶摘み、みたいやな)いってみよう。
はい、人にはそれぞれ得手不得手というもんがあります。(なんか、落語のまくらみたいやな。)タケちゃんにもあるんですね。えっ、弾き語りか。って。あれは、不得手やで。友達からは頼むから顔だすな言われてます。あれ聞いた晩うなされる~言われてます。そんな奴らには、今度耳元でうとたるわって返してますが。観光の案内かって。あんさん、それは、あっしの本業でっせ。得手いうか色んな事出来なんだらあきまへん。平成5年に観光協会に入社したタケちゃんは、せっせと色んな仕事に携わっておりました。テレビの取材やラジオの取材対応も僕らの仕事です。何年かに1度NHKの番組も取材とかに来ました。NHKのどじまんも何回か携わらせていただきました。全国廻っているのでそのうち来ますよね。そんな中、平成14年の夏が過ぎ9月の初めNHKのゆかいな家族と言う番組が体育文化会館で11月に生放送されるということになったのである。番組の内容は当時人気のあったものまねのコロッケ氏と歌手の華原朋美さんの2人。この番組のコーナーで那智勝浦町付近でものまねのうまい者を募集して予選会をし2チーム、各3組ずつ対抗戦を行うという内容のものがあった。この番組の制作者から勝浦のPRのため役場か観光協会で予選受けていただけませんか。もちろん厳選なんで本番に出れるかわかりませんけど。とお願いがあった。その時役場のNさんと、うちの観光協会のIさんのコンビで予選を受けることになっていたが予選会前にNさんが訳あり出れなくなりIさんから僕に出演要請があったのである。それまで僕は忘年会などで、たまに人生幸朗や田中角栄の物まね(古いね)をやったりしていたので、2つ返事でOKした。2週間後の予選会。体育文化会館の2階の会議室には、那智勝浦町近辺から物まねを得意とする者たちが約30組集まっていた。持ちねたをNHKの制作者達の前で5分くらいずつ順番に行う。しばらくして僕たちの番、はじめにIさんがポパイのブルートのものまねをやった。相方の僕が言うのも何だがあまり似てない。次に吉幾三の雪国を歌いながらロボットダンスを踊った。僕はおもろかったが、審査員は、なんじゃこれと言う顔をしている。次に僕の番。まずは竹村健一のまね。18番。「まあ~、だいだいやね」次に相方のダイダイ色のネクタイさわりながら「まあ~、ダイダイやね」と。し~ん。うけへん。次に田中角栄。うけへん。人生幸朗。うけへん。笑うセールスマン。うけへん。「最後に、くいだおれ人形のまねします」と後ろを向き子供のオモチャの太鼓にひもをガムテープでくっつけた太鼓を肩からかけ、とんがり帽子をかぶり黒ぶちのめがねかけて、菜箸を太鼓のばちがわりに審査員席に振り向いた。「とことん、とことん」と太鼓をたたたきながら首を左右に振り眉毛を上下に動かす。タケちゃんオリジナルのくいだおれ人形の物まね。うけた。審査員全員わろてる。「ありがとうございました」と僕たちは控え室にもどり結果発表をまった。しばらくして、皆が予選会場に移動し合格発表があった。なんと合格。制作者からは、本番はロボットダンスと、くいだおれ人形で出てほしいと言われた。1週間後の本番に出ることになった。予選会に来ていた中で聖飢魔Ⅱのメイクばっちしの4人組がいたけど予選でも一言もしゃべらず不合格で帰っていった。聞いたところそのメークに4時間かけたそうである。そして11月10日。本番の日。本番午前中に簡単な通しリハーサル、そして本番となった。コーナー名は「コロッケといっしょ、ものまねバトル」であった。華原朋美さん率いる朋ちゃんチーム組(工藤静香のものまね、当時阪神の監督だった星野監督の物まね、川村隆一のものまねの3組)とルート33という芸人率いるルート33チーム(平尾昌晃と畑中葉子のものまね、僕ら、鬼塚ちひろのものまねの3組)
僕らはやりきった。ほんもののコロッケ氏の前でIさんは、吉幾三の雪国歌いながらロボットダンスやりきり、僕はその歌に合わせて、くいだおれ人形のように太鼓をたたき眉毛を動かし続けた。コロッケ氏からは、ロボットダンスセンスある。すごいと。また、くいだおれ人形もすごい。オリジナリティあって面白いとほめてもらった。審査員は、由岐さおりの姉妹。僕たちのチームが勝った。終わってから僕たちは、参加者全員で記念写真したりコロッケ氏や華原朋美さん等と記念写真に納まった。参加記念品はご想像にお任せします。この時のDVDと記念写真・記念品と太鼓は大事に飾っている。
今その時観光協会から参加した2人は、観光協会事務局長と次長である。人生おもろいね。
懐かしき那智勝浦町で行われたテレビ公開番組の話である。
第88話 終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第89話『僕らは、かわいい消防クラブ』
はい、ゴールデンウイークが終わり、タケちゃんファンの皆様お元気ですか。仕事モードに、もどっておりますか。えっ、おまえはどうなんだって。GWも仕事がありましたので大丈夫ですよ~ん。那智勝浦町にもタケちゃんに会いに全世界から、わんさかわんさか観光客の皆々様がお越しくださり心より御礼申し上げまする。(いや、まじめに本当にありがとうございます。)この那智勝浦町昔懐かし話も目標の100話まであと10話になりました。書き初めは、なんか遺書みたいやなとか言ってましたが、100話書いた途端僕は、死んでしまうのでしょうか。あと40年位書くの止めようかな。と、まあ今回も またもや前置きが長くなりましたが (結構この前置きでタケちゃんワールドに入ってもらう体勢にあなたの心を持っていってるのですよ。この前置きのファンもおるみたいです。)今回はかなり遡って約50年前タケちゃん幼稚園の時の懐かし話ですぞ。ては、いってみよう。
「たん、たん、たったったった~。とじま~り~ようじ~ん。ひの~よう~じ~ん」
「とじまりよう~じん、ひのようじ~ん」 花の私立勝浦幼稚園幼年消防クラブの
防災パレードの日である。前にも書いたが、かなりいたずら好きなタケちゃんは普通3年間通う幼稚園に最初の1年入園を断られ(入園の面接の時に先生等に鼻くそつけたりしたらしい。)2年目の白組から通っていた。この時の白組には、おなじみ仲の町3バカトリオの僕とナカシャ、タコちゃん、そして親友の年哉ちゃん、ケンちゃん等今の勝浦をしょって立つ大人材(ほんまかいな)が通っていたのである。この時の園長先生は私立だけあってかなり厳しい園長先生だったが、先生方は非常にやさしかった。僕の初めての担当の先生は。みどり先生。多分当時は20歳前半であったと思う。やさしい先生であった。縁あって何年か前に50年ぶりぐらいに偶然再会したが、昔の面影が残っておられ(先生にとっては僕もだが)涙が出るくらいうれしかった。今も町内で暮らしておられる。まあその白組の時にいろいろな行事とかあったんだけど、11月の秋期全国火災予防運動期間中に勝浦幼稚園児で作っている幼年消防クラブ防災パレードがあった。那智勝浦町消防本部の方々やこのクラブの役員の方々、先生方といっしょに幼稚園児全員がパレードする。
火の用心と4文字の1文字ずつ書かれたミニまといを手にした4人の園児を先頭に鼓笛隊、拍子木を持った(ちなみに白組は拍子木、次の青組の時は僕は小太鼓だった)園児が続く。出発式では役場前で園児達が「僕らは火事を起こしません」と誓いの言葉を言い、パレードを出発する。今は役場からバスターミナルまでパレードする。僕らの時は、もっと長く町内をパレードした覚えがあるが。今も昔もその子供達の姿をカメラに収めようとする親たちの姿は変わらない。たた、カメラやビデオカメラが今は、スマホやタブレットに変わった。僕が幼稚園に入園する前からこのパレードを行っていたので少なくとも50年以上は続いている。私立勝浦幼稚園が閉園されてからは、この幼年消防クラブは、勝浦認定こども園へ移り次がれ今もパレードを行っている。このパレードの時は火の用心の歌を唄いながらパレードする。勝浦では皆知っているお馴染みの歌である。
「とじま~り~ようじ~ん。ひの~よう~じ~ん、とじまりようじん、ひのようじん」
今年の11月にも町中にかわいく、元気な声と演奏が流れるであろう。
いつまでも続いて欲しい、那智勝浦町のパレードである。
第89話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第90話『僕らは、かわいい絵描きさん』
はい、お元気ですか~。幸せですか~。お手紙ください。気にしています~。昔こんな歌ありましたね。僕は本業の観光協会の総会が、せまり鋭意準備中でございます。5月の末頃って、どこもかしこも総会とか忙しいのです。会員様ありきの観光協会なのであります。頑張って乗り切ります。季節も、ちょうどウォークの時期であり、勝浦の方も外人の観光客の方々が大勢来られて観光協会にも「ハロー、キャンユースピークイングリッシュ」とタケちゃん見つけて、ぬかしやがる(あかん、汚い言葉なってるわ。失礼)おっしゃるのですが、冷や汗たらたら涙目になりながら、ボディランゲージと記憶の片隅にある英単語をよいしょよいしょと頭の中から引っ張り出し対応している日々でございます。若者よ英語だけは真面目に勉強しとけよ。ほんま英語しゃべれなんだら仕事できへん日がくるぞ。と今回も前置きの楽しい時間が過ぎましたが、今回は小学生の時の我が仲の町での話であります。あなたの好きなナカシャやタコちゃんも登場するで~。でわでわ、第90話いってみよう。
はい、新宮市にも仲の町はあるけど、那智勝浦町にも仲の町があるんです。旧勝浦地区のど真ん中観光桟橋あたりでございます。字のごとく勝浦の、ど真ん中であります。そのまたど真ん中のあたりにタケちゃんの生まれた実家がございます。前にも書いたけどこの仲の町通り田中フードセンター(フードセンターやで、50年前に横文字の名前付けとってんですごいやろ)から始まり床屋、パーマ屋、肉屋、八百屋、かしわ店、歯医者、タバコや、薬屋、質屋、靴屋、銭湯、酒屋、魚屋、食堂、旅館等そんじょそこらのスーパーのテナント全部を並べたぐらいの店の種類がわずか5、600メートルの通りに並んでいたのである。すごいでしょ。今も営業しやるとこもあります。そんな中で、仲の町3バカトリオのタケちゃん、ナカシャ、タコちゃんは生まれ育ったのであります。僕らは勝浦幼稚園を無事卒園し名門那智勝浦町立勝浦小学校に入学し毎日アホなことばかりし4年生になったのである。僕らは、愛車の仮面ライダー号(自転車です)に乗って勝浦中をショッカーの基地を探し回っていたのであります。そんな僕たちも4年の初めから5年生になる直前まで(5年生になったら少年野球に入ったため)日曜日の午前9時から11時まで、なんと、なんと絵画塾に1年間通っていたのである。これは、初めて書くが、この3バカトリオなぜか、3人とも絵が幼稚園の時からうまかったのである。ほんまやで。だから仲の町のO石呉服店の裏手の部屋で絵画塾やっていると、うちのお母ちゃんが聞いてきて僕らに勧めたので通う事になったのである。先生は男の先生で、どこかの美大出のたぬきみたいな先生だった。結構僕らは真面目に通い、くだものをデッサンしたり、すぐ近くの桟橋に漁船の写生にいったりした。その教室には小学4年生から6年生まで約20名くらいの男女が通っていた。そろばんとか、硬筆とかの塾は、よくあるが、絵画はあまりなかったのではないだろうか。僕らは水彩画を習っていた。僕は結構スケッチは得意であったが、いざ絵の具で色をつけるとあかん。なんか変になる。なんでやろ。この3バカトリオの中でナカシャが全体的に一番うまく、スケッチがうまかったのはタコちゃんであった。タコちゃんは、高校を卒業してからアニメーターになるため専門学校にもいった。最終ならなかったけど。この絵画塾からコンテストとかにも応募したりした。僕はいつも入賞しなかったが、ナカシャは、何度か 入賞した。たった1年間だけだったけど、楽しい1年間であった。その絵画塾は知らない間になくなってしまった。いつまでそこでやっていたかは、定かでない。
那智勝浦町には絵画塾もあったんやでと言うお話であります。
第90話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第91話『僕らは、キックボールが大好きやったんやで~』
はい、いよいよこのシリーズもクライマックスに入ってまいりました。目標の100話
まで、あと10話となりました。全国のタケちゃんファンは、もう会えなくなると涙を流しているかも知れませんが、大丈夫です。新那智勝浦町昔懐かし話があとに100話つづきません。(続きますと思ったでしょう、結構ネタ大変なのよん。)そうです、今度はタケちゃんの青春時代のどたばた東京物語を書くかもしれません。皆様のリクエストがございましたらの事ですが。とマタマタマタマタ前説が長くなりましたが、今回は小学校の時の話ですよ。そこのお父さん、お母さん、懐かしくて涙流しますよ。でわでわ91話行ってみよう。
「キ~ック、キ~ック、キックの鬼だ~」毎週月曜日の夜7時僕は、お父ちゃんと、おじいちゃんと、弟達とテレビの前に集まる。そう、当時の人気30分番組キックボクシングを見るためだ。ごひいきは、当時の人気キックボクサー、真空飛びひざげりの沢村ただしである。そこのお父ちゃん、「そうそう、おった、おった」って奧さんの頭たたきながら言いやったら後で奧さんから真空飛びひざげりくらうで~。でもすいません、今回はキックボクシングの話ちゃうねん。お父ちゃんごめんな。時は、タケちゃんが名門那智勝浦町立勝浦小学校の3年生の時である。1,2年と同じクラスメイトで進んできた僕らは、生まれて初めてクラス替えというものを経験し担任の先生も替わった。僕らはM先生だった。でも1、2年で同じクラスやったタコちゃんと別れ又ナカシャとも又別のクラスやった。でも僕ら仲の町3バカトリオの友達の固い固い絆は、そんなこと関係ない。昼休みも休みの日もいつもいっしょである。これは、なんやろ運命ゆうもんやろか。タコちゃんもナカシャも今も親友である。約50年友達やで~。その頃僕らの中で流行っていたのは、キックボールである。誰からともなく始め、あっという間に皆ルールを覚え昼休みや、土曜日や日曜日運動場とかでやっていた。キックボールというのは、簡単に言うと野球のボールがドッチボールになったものである。キックベース、キックベースボールとかとも言うらしい。ルールも地方により色々だが、僕らは8人2組でやっていた。野球と同じでホーム、1塁、2塁。3塁にベースを置き、ホームベースの所にドッチボールを置いて少し後ろから走ってきて置いているボールを勢いよく蹴り上げる。あとは野球と同じ守っている者がそのボールをノーパン(ノーバウンドの事ね。)で受けたらキッカーはアウト。キッカーは野球と同じく蹴り上げたと同時に1塁から2塁、3塁、そしてホームと廻る。また蹴ったボールが3回ファールボール及び3回空振りしたらキッカーはアウト。ピッチャーはいない。キャッチャーはいる。3人アウトになれば攻守交代。7回制。守り手がランナーにボールをぶつけてもランナーはアウトというルールもあったと思う。8人の2組と書いたが、5人の2組や、11人の2組とかいろいろやり方もあったみたいだ。野球みたいにピッチャーがボールを転がしキッカーがそれを蹴り返すやり方もある。「なあ、昼からキックボールやらへんか。」土曜日の授業終わり頃にクラスの男子の誰かしら言うと午後皆運動場に集まってくる。集合時間は、大体午後1時過ぎ。吉本新喜劇のテレビ終わってから皆愛車(自転車)で勝浦小学校の運動場に集まってくる。いつもチーム名は適当。グレートデラックスキングス(やたらキングとかグレートとか僕らは好きだった。つまりアホやねん)対サル君ズ(サル君が一番先に来たため。この名前付けもアホやね)。僕とナカシャとタコちゃんは、グレートデラックスキングスのメンバーになった。野球や無いけど守る時は「わっきょーい、わっきょーい」エラーしても「どんまい、どんまい」と真っ先にエラーした本人が言う。とにかくうるさい。嫌いなキッカーの時はタコちゃんは後ろ向いてお尻ペンペンして挑発したり。わざと変な顔してそのキッカーがまともに蹴れないよう笑らかす。とにかくなんでもありである。これらが、アホみたいだがオモロイ。とにかく僕らはまじめにやっているのだが、端からみればおもろいのである。このキックボール公式なルールもあり、また協会もあるみたいだ。発祥は千葉県の市川市らしい。今は全然勝浦では子供達がやっているのを見ないが他の地方はどうなんだろう。
僕ら勝浦の子供達がのめり込んだ遊びの話である。
第91話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第92話『ああ、思い出のペーパーボックス』
はい、しばらくぶりでございます。皆さんお元気ですか。タケちゃんはこの5/20、21と伊勢の方に本業の観光PRに行って来て(本人はファンの集いIN伊勢やと思っておりますが)たくさんのおばちゃん達とお話(勝浦の観光説明)を行ってきたのであります。しか~し、暑かったね~。なんなん。この暑さは。ちび黒サンボやないけど溶けてバターになりそうや~。今回も小学生の時の懐かしい話です。でわでわ第92話いつてみよう。
「ジャ~ン、ジャジャン、アッチョ-」と勝浦小学校の6年生になる頃僕らの前に以前も書いたがあのブルースリーが現れた。その時の衝撃は、ほんますごい物で、昔高倉健さんの映画を映画館で見た僕らの先輩の年齢の皆さんは、映画館を出るときは皆、肩で風を切る健さんになって出てくるのである。それと同じで、ブルースリーの映画を見た僕らはその日から腕立て伏せと腹筋を始めて、ライダー号でゆみね(駄菓子屋です)に走りプラスチックのヌンチャクを買って振り回して遊んだのである。それと同時に6年生になる頃にはやったのが、そう、ペーパーボックスである。大人達は、売り上げの伝票入れたり、大事な書類入れたり、僕らは塾の教材入れたりしていた。簡単に説明すると、ちょうどノートパソコン位の大きさで、厚紙でできた箱であり、フタの部分の両端に補強用の金具が着いており、また、フタの真ん中にボタンの付いた部分があり、フタしてその部分でしっかり空かないように固定する。デザインは当時の流行ったアニメのヒーローや主人公、またサンリオやディズニーなどのキャラクター物など何種類もあり値段もいろいろあった。当時僕は勝浦で有名な数学の塾に通っていた(小学校6年生で中一の数学を教えていた高レベルの数学塾である。)今の勝浦認定こども園の辺りにありこの塾には、何とあのK川君、あんちゃん、せいし君、などその後理数系の学部に進む天才グループが通っていた。その塾に僕も何とか入れていただき1年間だけ通った。その時にこのペーパーボックスに数学の教科書を入れていた。僕は文字とかは何て書いていたか忘れたが、水色のペーパーボックスを買ってもらって使っていた。他のメンバーも皆ペーパーボックスを使っていた。他のメンバーは天才グループ、着いていくので精一杯、今考えると何と大それた事をやっちまったのだろうと思う。どう考えても、もともと、文化系の頭。よう1年習ったなと思う。このペーパーボックス結構頑丈にできているので、中学に入り別の数学の塾に通うようになっても使っていた。僕は生涯でこの中学1年の時だけ英語と数学は、5段階で5だった。1年間だけ。中学3年間この水色のペーパーボックス使っていたがその後高校に通うようになり使わなくなりどこかに行ってしまった。この箱の名前も当時はペーパーボックス
と呼んでいたのかどうかも定かでないが、僕らは大事に大事に使っていた。軽くて丈夫。そしておしゃれ。教科書やノートも結構多く入れることが出来た。
おそらく僕と同年代(50歳前半くらい)のお父さん、お母さんはこのペーパボックスを一度は手にしたと思う。今は見ない懐かしき文房具である。
もう一度、出来れば手に入れたいなぁ。
第92話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第93話『思い出の金魚売りのおっちゃん』
はい、相変わらず暑い日が続きますが皆様お元気ですか。今世間では総会という物の時期でタケちゃんの那智勝浦町でも昨日はここで、今日はここ、明日はここでとあちらこちらで総会という物をやっているのであります。タケちゃんの本業の観光協会も明後日の5/26に平成29年度那智勝浦町観光協会総会という物を行います、今最後のチェックをやっていて何とかこのでっかい壁を我々事務局が乗り切ると準備しているわけであります。必死なんであります。えっ、そんなときにこんなエッセイ書いていてもええんかって。まあ、あわてなさんな。タケちゃんは、な~も恐いもんなか。まかしんさい。(何故か博多弁、うちの母ちゃん博多の人です。タケちゃんは和歌山と博多のハーフです。)まあ、またまた前置き長くなりましたが、今回は勝浦小学校の低学年の時の話ですよ。でわでわ第93話いってみよう。
「ナカシャ明日の日曜日遊べるかん」「うん、遊べるで、タコちゃんは」「遊べるで~なにする~」「そうやな~、金魚すくい、いこら~、なあ、タコちゃん、ナカシャ」「ええやん、俺金魚欲しいと思とってん、水槽こうたばっかりやし」とナカシャ。「俺とこも池に金魚ふやしたいさかな。いこいこ。」とタコちゃん。「よっしゃ決まりやのう。明日タコちゃんとこへ2時にしょうか。ええかん」と僕。「あいあいさー」とナカシャとタコちゃん。宿題やるのは遅いが、給食と遊ぶ内容決めるのは早い。我らは仲の町3バカトリオ。私立勝浦幼稚園を優秀な成績(成績いうんかな。僕はあまりに悪かったので1年目は入園を断られた形跡の持ち主であります。面接の時先生に鼻くそ付け廻ったらしい。で、入園拒否)で卒園した3人は、那智勝浦町立勝浦小学校に入学し、よせばいいのにタケちゃんは、入学式の時、よその幼稚園から入学してきた浜地のエー君らに、「俺が今日から勝浦小学校1年の番長や」と喧嘩売り込み、なぐられて帰ったアホであります。しかしそれからは、おまえらオモロイ奴やとエー君らとも仲良しになった。、そして今2年生である。当時勝浦には、新婚旅行や家族旅行で観光客がわんさか来ており、今のバスターミナルの近くのマグロ三昧というお店の隣に駐車場になっているところがあるが、当時はここに立派な壁の建物があり、その壁に面して毎週日曜の午後、金魚すくいのおいちゃんが、軽トラに乗ってやってきたのである。僕の記憶には、おっちゃんは、40歳位で顔の色が薄黒く、角刈りで、左のほほに大きなほくろがあり声は、だみ声で、「いらっしゃい~、頑張ってすくてよ~」と言うのが口癖だった。僕たちは買ってもらったばかりのライダー号に乗りタコちゃんとこからおっちゃんとこへ行った。おっちゃんは近くに軽トラ停めていて、その側に長方形のステンレスを貼り付けた金魚すくいようの桶みたいなのを置いて、その後ろにイスに座りお客が来るのを待っていた。僕らは側にライダー号を並べて停めて「売って~、おいちゃん、金魚すくい売って~」とおいちゃんにそれぞれ100円を渡した。(勝浦の子供はお店で何か手に入れたりするときは、売って~と言っていた)
100円で5回金魚すくいが出来る。桶の中には、黒や赤色の金魚や出目金、そして鯉の小さいのが元気に泳いでいる。おっちゃんから、ぽいを受け取り、ステンレスで出来た金魚受けの入れ物に水を半分ぐらい入れ、ぽいを上手に金魚に近づける。おっちゃんは「ようけすくてよ~」とだみ声で応援する。
僕らは1回で1つのぽいがやぶけるまで大体3匹くらいすくう。だから終わったら約15匹くらい入れ物の中に入っている。すくった金魚は持って帰れる。全然すくえなかったもんにも、おっちゃんは、金魚を5匹くらい袋にいれてくれる。気前のええおいちゃんだった。時には家族連れが、又あるときはカップルがキャッキャ言いながら金魚すくいを楽しんでいた。僕の家とタコちゃんの家には中庭があり小さいが池があった。2人ともそこで金魚や鯉を飼っていた。ぼくとこの池にはその当時取ってきた錦鯉が大きくなり何匹も泳いでいた。今も何匹かいる。ナカシャとこは池はないが大きな水槽に金魚を飼っていた。僕らの成長と時代の流れでいつの間にかおいちゃんの姿も消えてしまった。毎週は行かなかったが、1ヶ月に1回くらいは僕らは行っていた。今花火なんかの金魚すくいを見るとあのおっちゃんを思い出す。僕ら3バカトリオの小学校低学年の頃の懐かしい思い出である。これも良き那智勝浦町の景色であった。
第93話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第94話『ほくらの歌声よ。響き渡れ』
はい、1日ぶりでございます。元気でしたか。このシリーズもあと6話と言うところまで来ました。ようそんなにネタあるなと言われますが、当の本人が一番そう思てます。昨日も書きましたが、明日は総会。こんな時にそんなことしててええんかいと言われそうですが、ここまで来たら煮てでもなんでも好きにしやがれという気分です。なるようになるさという事です。今回の話は前からいつ書こうかなと思とりました話です。相変わらず、タケちゃん色んな事に顔だします。なんなんやろね。目立ちたがりやなんやろね。そんなとこが好きと言ってくれる女性の方、ファンメッセージまってまっせ~。と言うわけで相変わらずの長前置き。今回は、中学1年の秋ぐらいから中2の始めの頃の話です。でわでわ第94話いってみよう。
はい、皆様今回はあまりアホな書き方は出来ないと言うお話であります。でも自分でも思うけどタケちゃんの人生(半生)は、ほんま色んな事に興味もちそれを一生懸命ぶきっちょなりにこなしてきた半生なんですね。つまり恐い物知らずというか、なんとかなるやろ精神が強い男なんですね。女性に対して以外は。うん。まあそう言うわけで那智中学校の1年の秋の事であります、友達のいさお君と辻(なぜか辻だけは、呼び捨て、でも非常に仲が良かった)と、とっちゃんと僕は、音楽の授業で結構張り切って唄う方だった。いさお君は、今もそうだが音楽のセンスばっちり、歌もリコーダーもギターもうまい。顔はオリバー君やけど。辻は中一の夏前に東京から引っ越してきた雪男みたいな奴。(何か、僕の友達サル系の奴多いな。)そしてとっちゃんは、理科系の男だがおもろい奴で歌もうまい。そしてタケちゃん。目立ちたがり屋のスポーツ刈り。その4人が、音楽のS先生の授業中元気いつぱい声張り上げて唄っていたから、授業おわってからS先生に言われた。「ねえ、吉野君等、あんたら元気ええし、声もええから、今度の植樹祭で合唱部の臨時部員として助けてくれへん。あかんかな」と。なんせ目立ちたがり屋の4人衆。女性に頼まれたら嫌とは言えぬ。4人そろってその場で「分かりました。やります」と答えた。僕らはそれぞれクラブに入っていたが、合唱部の練習に重きを置いて練習に参加した。土曜日や日曜日など他の中学校へ行って合唱部の子とかと合同練習したりした。新宮市の中学校の女生徒なんかは那智中学校と違ってあか抜けしていてかわいい子も多かったので純情4人衆は合同練習が大好きでありました。(青春やね~)。僕らは結構まじめに練習に通い、そして2年生になり、その年、昭和52年4月17日に那智勝浦町の那智高原に当時の昭和天皇と皇后様をお迎えして第28回全国植樹祭が開催された。「みんなで育てる みどりの郷土」を大会のテーマとして開催され。天皇、皇后両陛下はスギとヒノキをお手植えされた。僕たちは那智中学校でブラスバンドと合唱部であせて110名の生徒がバスで参加した。たしか「みどりの歌」とかいうタイトルの曲とあと2、3曲唄ったと思う。今その会場には、当時お手植えされた木々は大きく育ち、又会場後は那智高原として憩の場となっている。その後、いさおは君はご存じの通り今も親友で、辻は新宮商業高校へ進み今は東京にいると思う。とっちゃんは、ちょっとどこにいるか分からない。誰か知ってたら教えてください。中学の時の良き思い出であり、那智勝浦町としても忘れることのできない思い出である。
第94話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第95話「再現芝居 絢爛那智参詣曼陀羅シリーズ」
はい、こりシリーズも一応100話完結ということで、ついに95話、カウントダウンの始まりでございます。でもここで油断してタケちゃんが倒れたりしたら完結は、ありません。気を引き締めて、丸タケ印の、ふんどしも締め直して頑張ります。書き上げるには、そうあなたの黄色い応援の声が一番であります。応援コメントくださいね。今回の話は、係わっていた方がお亡くなりになっていたりするので、書くべきかどうしようか迷っておりましたが、後世に伝えるべくすばらしいイベントでありましたので書き残すことにしました。関係者の皆様ご了承ください。と言うわけでまたまた、いつものごとく前置き長くなりましたが、第95話いってみよう。
はい、と言うわけでこの話は、僕が観光協会に入社し12年たった平成17年の話である。その前年の9月頃に観光協会の次の年の予算や取り組みを決めるのだが、今もそうだが、那智参詣曼陀羅の絵解き等の要望が増えてきて、那智参詣曼陀羅の世界を我々の手で再現してみてはどうかという意見がでたのである。そしてその方法は地元の有志が芝居仕掛けで再現するということに決まったのである。脚本は、当時テレビ局のレポーターなどをやっていたI氏。演出もI氏。そして制作助手にカメラマンのK氏と当時の観光協会K局長が受け持った。那智参詣曼陀羅に渡海の部分や大門坂の部分など色々な部分があるが、3年くらいのスパンで1カ所ずつ舞台を移し脚本を書き、役者を決め約1時間の芝居に仕上げようと言うことになった。まず1回目は平成17年11月13日(日)に「補陀洛渡海伝説」と言うタイトルで補陀洛山寺と那智の浜で行う2部形式。なんと那智の浜では補陀洛渡海船の再現船を本当に浮かべ、渡海僧に扮したスタッフが本当に船に閉じこめられて沖まで流された。書き忘れたが、この芝居の役者は地元各団体の素人である。各回とも約3ヶ月前から週に何回か勝浦の北浜会館で練習し本番前には、現地でリハーサルを行った。衣装や小道具にも、とことんこだわり、地元の着物学院の皆さんとかにも協力していただいた。渡海のシーンは、特にすごく見学人は本当に涙を流し、また御詠歌も信徒によるもので、タイムスリップしたようであった。第2回目は舞台は熊野古道大門坂、「熊野比丘尼悲恋物語」というタイトルで熊野比丘尼の悲しい恋の物語であった。第1話と第2話の主人公は、U女史で、なかなかの役者で、どちらの話も見物人の涙を誘っていた。この2話では今の大門坂夫婦杉あたりに関所を建て、またお茶屋の小屋も建てた。2回目は平成18年11月12日(日)に行った。三回目は1回目の渡海シーンが大変好評だったのでぜひもう一度再現をという多くの声に答え、「補陀洛渡海伝説 棺の唱(ひつぎのうた)」と言うタイトルで補陀洛山寺と那智の浜の2部構成。1話とは話の内容も変え、より一層凝った演出で行った。3回目の主人公は観光協会のI氏。勝浦の藤山寛美といわれるほどなかなかの役者で役に入り込んでいた。平成19年11月10日(土)に行った。
僕は、1回目から3回目まで役者で出ている。1回目は補陀洛山寺の取り締まり侍、2回目は大門坂の関所の侍、主人公の比丘尼を斬りつける役。心が痛んだ。3回目は村人。4回目は分け合って制作の裏方スタッフをやった。話しは戻り、4回目は今回も要望の声に答え「補陀洛渡海伝説」のタイトルで平 維盛を主人公にした話であった。この回も渡海船を那智の浜に浮かべたが朝から雨で再現芝居が補陀洛山寺で始まった途端、平 維盛の悲しむ涙のごとく大雨、役者全員ずぶぬれになりながらも演技をした。維盛役のスタッフは、地面にひざまづき、天を仰いで泣き叫ぶシーンがあるのだが、かえって大雨が演出になり、ものすごく感動的な場面になった。那智の浜から補陀洛渡海船が出る頃には雨も小降りになり無事再現芝居は終わったが、どしゃぶりになりながらも最後までやり遂げたスタッフに見物客も盛大な拍手を送っていた。再現芝居は、この4回で終了したが、後年、おりん物語等に受け継がれ地元有志での映画制作へと受け継がれていった。再現芝居の4回はすべてDVDに納められ観光協会に残っており、当時スタッフにも配られた。出来ることなら大きな会場の大きなスクリーンで4話とも上映したいと思っている。この再現芝居は地元の有志がやり遂げた大きな歴史イベントである。いつまでも語り継がれるべきである。
第95話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第96話「母親のぬくもり わたいれ」
はい、皆さん、ちょっとだけご無沙汰していました。お元気ですか。暑い日が続きますね。タケちゃんは、この間伊勢で観光PRし日焼けした腕が皮がむけてきて、より一皮むけた良い男になってしまいました。あっそうそう、本業の5/26の観光協会の総会おかげさまで無事終わりました。これからも一生懸命精進いたしますので関係諸団体の皆様よろしくお願い申し上げます。これからは、夏のイベントなど今まで以上に忙しくなりそうです。この話も今回入れてあと5話の予定です。前にも書きましたが、俺とこの新聞や雑誌、会報等連載したらどうな。と言う方無料で連載いたしますので、メッセージください。100話全部連載いたします。と言うわけで前置き今回も長くなりましたが、今回は小学生から高校卒業の時の話です。でわでわ第96話いってみよう。
はい、今回の話は、主に僕の幼稚園から上京するまで及び上京してからも少しくらいの話しである。勝浦の気候は、冬でも暖かく、ほとんど雪が降らず、雪が積もるとニュースになるという位の冬の気候だが寒いときもある。僕の実家は明治時代に、作られた築100年以上の家で今の脇仲通りでも少なくなってきた作りの家である。そんな昔ながらの家で育った僕は、冬になると風呂(小学生低学年までは、まきの風呂その後ガス)に入り、パジャマの上から綿入れ(わたいれ)を着ていた。綿入れとは、僕のパソコンのアホーによると袷(あわせ) 仕立ての裏と表の間に木綿綿を入れた防寒用和装衣類。ちゃんちゃんこ、羽織、ねんねこ、どてらのこと。とあるが、僕ら勝浦の子供は綿入れと呼んでいた。「タケちゃん、風呂あがったら頭ちゃんとタオルで拭いて綿入れ着とかな風邪ひくで~」とお母ちゃんからいつも言われていた。僕ら家族の着る綿入れは、おばあちゃんとお母ちゃんの手作り。その人の背丈に合わせ手縫いで仕上げていた。また、袖無しの物も作っていた。それは字のごとく「そでなし」と僕らは呼んでいた。「分かったよ。お母ちゃん。いつも同じ事ばかり言わんでもええやん」と僕ら兄弟。お母ちゃんいわく「何回も言わんで済む頭のタケちゃんおぼっちゃまやったらいわんわ。ほんま賢い子や」とお母ちゃん。もちろんお母ちゃんの勝ちである。この綿入れ結構丈夫で、暖かく、そんでもって重くない。寝るときはそれを脱いで布団の上にかけておく。すこしだけふとんの量が増えた感じ。夜中トイレとか行くときは、すぐ羽織れる。便利な防寒具である。この綿入れ僕は小さいときから高校卒業、そして上京の時も高校の時に愛用していた綿入れを持って、あの東京中野の坂本荘にやってきたのである。当然東京の冬の方が寒く時折雪も降るので綿入れが重宝した。今は、僕は着ていないが、冬の時期に実家にいくと年老いたお父ちゃんは、日中でも綿入れを着ている。昔はたまに銭湯とかいくと綿入れを着た親子連れとかよく見かけた物だ。綿入れは、今スーパーとかにも売っているみたいだが、やはりおばあちゃんや、お母ちゃんの手作り綿入れのぬくもりには、かなわない。愛情という特殊作業が施されているからだ。都会で娘、息子を一人暮らしさせているお父さん、お母さん、
今年の冬の為に、子供達にぜひ綿入れを送ってあげてください。喜ぶと思いますよ。
綿入れ、懐かしき、暖かい思い出である。
第96話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第97話「僕らが覚えた最初のギャグは、シェーなのだ。」
はい、お元気でざますか。ミーもお元気ざますよ。お天道さまが、相変わらずミーたちを照らし日本中暑い日が続いているざます。今日は、代休でミーはミーのおうちでくつろいでいるざます。ディナーは、おフランス料理のつもりがミーのワイフの手作りのオムライスだったざます。このおシリーズもあとわずかざます。ミーのお話おもしろいざますか。なにせおフランス帰りのミーざます。お下品な言葉は、大好きざます。今回も勝浦のシャンゼリゼ通り、脇仲通りで育ったミー達のお話ざんす。初めての幼稚園入園前の3歳くらいの話ざんす。では、第97話行くざんすよ。
はい、タケちゃんが3歳の時の話しです。1966年頃、昭和41年でございます。勝浦のシャンゼリゼ通り仲の町あたりを初め桟橋当たりは、格好は本当のパリジェンヌみたいにきれいに着飾った新婚カップルが新婚旅行に勝浦にわんさかわんさか来ていた時です。夜になると各ホテルの名前が入った浴衣に着替えた新婚カップルが下駄の音ならしながら桟橋前あたりを行き来していた風景が思い出されます。その頃このシリーズにも書いたけど勝浦には何軒も映画館、ビリヤード、お土産屋さん、はまちの釣り堀、ボウリング場、ゲームセンター、飲み屋等温泉街に必要な物がたくさんあった。また、ホテル浦島には、今のエレベーターではなく、山上館へは、ケーブルカーがあり、今の山上館の所には、小動物園があったのである。そんなタケちゃんが3歳の頃、あの仲の町3バカトリオは出会うのであります。つまり幼稚園入園以前にタケちゃん、ナカシャ、タコちゃんは同じ仲の町に住んでいるということで出会うのである。3人とも3歳。はな垂れ坊主で、髪型は僕とナカシャは坊ちゃん刈り(いわゆるおかっぱ)でタコちゃんは天パーなので、なんというかおばちゃんみたいな髪型だった。その頃この3バカはじめ勝浦いや和歌山、いや日本中の子供達が夢中になった「おそ松くん」のテレビアニメが放送されだしたのである。
おそ松くんとは、赤塚不二夫氏作で、6つ子の松野兄弟やその周囲の人間が織りなすギャグマンガである。おそ松、一松、カラ松、チョロ松、トド松、十四松の6つ子が中心であある。最初少年サンデーに連載されたが、1966年、昭和41年、僕が3歳の時に
テレビアニメ放送開始。このおそ松6兄弟も面白かったが、何と言ってもイヤミの存在である。名前の通り嫌みな男で漢字で(井矢見)と書くが、僕らはカタカナのイヤミのイメージが強い。自分の事をミーと呼び、相手のことをユーといい、自称フランス帰りで、おフランスでは、とか言う。このイヤミのギャグ『シェー』が僕らの胸を打ち抜いた。一目惚れである。このシェーには、ポーズがある。右腕または左腕まっすぐ上に伸ばし、手首は直角に頭の方へ曲げる。あと反対の腕を胸をさするように手のひらを胸の方に向けて曲げる。あと伸ばした腕と同じ方の足をつま先を反対の足の膝上に付けるように曲げる。
これがポーズで、シェーと叫びながらこのポーズをやる。この頃は、子供はどこもかしこも、男も女も皆このシェーをやっていた。多分僕らと同じ年代(54歳以上)の方々の
子供の頃の写真にはこのポーズの写真が1枚はあるのではないだろうか。ちなみにイヤミは、驚いたときにこのシェーをやっていた。僕らが生まれて初めて覚えたギャグの話であります。 第97話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第98話「僕らは、みんな夏の友で大きくなったのだ」
はい、6月に入りました。正月の番組で馬鹿笑いしていた時期からもう6ヶ月経ったんですよ。今年もあと6ヶ月ですよ。早いですね。そしてこの懐かし話もあと2話であります。昨年の夏頃ふっと「あかん、那智勝浦町の懐かしいことを書きのこさなあかん。俺がやらなあかん。今やらなあかん。あかんのや。」と何かに取り付かれたように書き始めたこの懐かし話。本当に僕の遺書みたいに、何か分からんが、言葉があふれ出てきて、1話書くのに平均30分というおそろしい早さで書いてきたのであります。本当に本人が信じられないくらいであります。パソコンで書いているんですが、本当に指が自然に動くんですよ。不思議です。まあ今回も前説長くなりましたが、それだけあなたと挨拶を交わしたい証拠です。今回は、勝浦小学校の時の話です。お勉強の話です。でわでわ第98話行ってみよう。
「吉野、まあまあ頑張ったな」ここは、勝浦小学校4年2組、1学期の終業式の日である。担任の先生から今まさにタケちゃんは、通知簿(僕ら勝浦の子供は愛を込めて、つうちんぼと呼んでいた。)を授かったのである。閉じたまま席に戻る。こんでもええのに、悪友たちが側に寄ってきて、「吉野、どうやった。俺まあまあやった」とたいしたことのない成績の悪友が言う。俺もまあまあかなと、ほとんど2のアホが自慢気にいう。そんな中の僕の成績、こいつ等とあんまかわらん。ただ体育だけ5だった。1月期は短距離だったので。僕はクラスで1番早かった。そして、通知簿を全員に渡し先生は、「一番前のもん、人数分夏の友取りに来てくれるか」と声をかけた。この夏の友、地方によっては、夏の友達とかいうらしい。歴史は古く明治の末あたりからあったらしい。1冊の中に、国語、算数、理科、社会の1学期の内容の復習が出来るような学習テキストである。僕らは小学1年から6年まで夏休みはこの「夏の友」そして冬休みは「冬の友」を宿題でやった。休み中毎日少しずつやるとちょうど休み中に全部終わるように出来ているのだが、それをやらないのが僕らである。最初の1週間に遊ばないで集中して全部やってしまう強者もいたし、また最後の1週間でやってしまうこれまた強者や、全然やらないバカ者がいた。(僕やタコちゃん、ナカシャは最初にやってしまう。その間遊びに誘わない同盟を固く結んでいたので夏休み2週間目からは、カゴから外にでた鳥のように遊びまくった。最初の1週間は遊ばなかったが僕ら3バカの誰かの家で「夏の友早期終了強化合宿」を行う場合もあった。ほとんど酒屋のナカシャんちが多かった。おやつに、サッポロポテトバーへキュー味とファンタグレープがでるのである。僕らはサッポロポテトバーベキュー味族であり、ファンタグレープのファンである。「なあ、ここの問題分かるかん」「アホか、わかるわけないやろ」と何故か偉そうにタコちゃんが言うのである。
「おい、このマーク万博のマークやったけ」とナカシャは工場のマークを指さす。ほんま天才トリオである。夏休みは、この「夏の友」と自由研究。自由研究はなんとか適当に2月期の始業式までに間に合わせる。冬の友も同じである。僕には休みの前半に集中してやって後で遊ぶ。このやり方が今も根付いている。外食したときも苦手な物をまず食べて一番好きな物は最後にゆっくり味わう。まじめにやれば、1学期の復習が出来きて、その後の2学期もスムーズにスタート出来るが、さぼったらその分自分に見返りがあり、2学期に苦しむ。今も同じような宿題はあるらしい。別の名前で。僕らの時は何と言つても「夏の友」。あまり友達にはなりたくないが。僕らの小学生の時のなつかし物である。
第98話 終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第99話「僕らは、みんなアッパーなのだ」
はい、皆様しばらくのご無沙汰でした。いや~facebookパソコンでやっているんで すが、あと2話と言うところで、書かすまい、終わらさないという天の計らいかパソコンがぶっ壊れまして自分で直そうと思い色々やってましたが度坪に、はまりお手上げになってしまいました。なんとか他のパソコンを借り今これを書いているというわけであります。全国のタケちゃんファンの皆様ごめんね。大丈夫です。あと2話頑張りますよ。パソコンは、あかんやつになりましたが、タケちゃんは、あかんやつではありませんぞ。今回も前置き長くなりましたが、これこそタケちゃんのええとこであります。でわでわ第99話いってみよう。
はい、今回の話は僕らが名門那智勝浦町立勝浦小学校に通っていたときのストーリーでございます。私立勝浦幼稚園を無事卒園した仲の町3馬鹿トリオのタケちゃん、ナカシャ、タコちゃんは、生涯の友達を増やしながら勝浦小学校に入学。ぴっかぴっかの一年生も担任のF川先生に怒られながらも2年生になり僕らの前に、あの仮面ライダーが現れたのであります。日本全国仮面ライダー。そしてこれまた僕らの前にライダー号という、かっこええ5段変速ギアの付いたブラックが基調の自転車が町内にあるI駒自転車店の店頭にならんだのである。まずナカシャが手に入れ、タコちゃんが手に入れ、お母ちゃん、お父ちゃんに「勝浦でもってないの、僕だけやで~、頼むわ、こうて~」と嘘も方便でタケちゃんも手にいれたのである。それからは、どこへ行くのもライダー号。たまにギアがはずれて手真っ黒にして帰ってお父ちゃんに怒られたりもした。そのライダー号も僕らの成長に伴いサドルを上に上げて乗った。そして小学校5年になり変な自転車の乗り方が、どこからともなく流行りだしたのである。そう僕らと同年代以上の方はご存じだろう。自転車のハンドルは普通左から緩やかな山型にさがっているのだが、それを反対につけて緩やかなUの字になるように付け替えるのである。いわゆるアッパー型初期ハンドルである。
このアッパー、ジャイアント馬場やないけど、右も左も僕ら男の子は、ハンドルを付け替えたのである。なんか知らんがそれが、格好良かったのである。ナカシャも、タコちゃんも、タケちゃんも、賢ちゃんも、くにやんも、サルくんも、アンちゃんも、としや君も、馬場も、とっちゃんも皆アッパーハンドルにしていた。まだアッパーハンドル初期型だったので学校から禁止令は出ていなかったのだが、6年生になる頃には、僕らはライダー号からちょっと大人用の自転車に乗り換えており、それになんと片方60センチ以上もある、これはU字ではなくV字型のアッパーハンドル別売り悪ガキ型を取り付けて町中をぶいぶいいわせるようになっていったのである。いわゆるイージーライダー自転車版である。
バイクとかでは、チョッパーハンドルというのだろうか。でも僕らは、アッパーハンドルと呼んでいた。このハンドルが流行っていると、やはり先生方や教育委員会のおっさんたちは、「不良の始まりざます。あんな野蛮なハンドル禁止にするざます。いいですね、校長先生。我が勝浦小学校約100年の歴史に泥を塗るようなことは断じて禁止せねばなりませんぞ。校長」とか言うたかどうか分からんが、禁止になった。でも僕らはそんなん構わずアッパーハンドル自転車を乗り続けた。市販の自転車もどちらかというとややアッパーハンドルの物が多かったようにも思う。さすがに初めからV字はなかったが。これは勝浦の子どもたちのちょっとしたおしゃれ。都会へのあこがれだったのであろう。中にはライダー号にアッパーハンドル付けていたやつもいた。それはそれで格好良かったけど。アッパーハンドル、時代と僕らの成長につれ見なくなった。僕ら小学校高学年の世間へのちょっとしたおしゃれと抵抗だったのだろう。懐かしい思い出である。
第99話終わり
那智勝浦町昔懐かし話
第100話「勝浦の子供たちよ。勝浦のすばらしさを語り継げ」
はい、とうとうやってきました。100話の日です。いつ100話目をアップするか迷ったけど何せ俺ってロックンローラーじゃん。だからロックの日、6月9日になったわけよ。那智勝浦町も元々は6区やったし、なんかこじつけみたいやけど。約1年前からとりつかれたように書きはじめてとうとう100話を迎えました。これもひとえに僕の涙ぐましい努力のお陰です。(うそやで~。)皆さんの本当の応援のお陰です。ここで言いたい。こんな何も取り柄のない腹が出たおっちゃんでも決めた目標達成できたんや。若者よ、このおっちゃんが出来て君に出来んはずがない。なんでもええんやで。最後までやりきってみ。気分ええで~。自信つくで~。今回はこんなおっちゃんから勝浦の子どもたちへの心からのお願いや。今まで書いてきた99話と今から書くことを、今からそして未来にも全国の人たちに語り、そして君たちの子どもたちにも語りついでほしい。そして君らに勝浦に生まれたことに誇りをもってほしい。それは、100話書けるぐらいすばらしいとこがあると言うことでもわかるやろ。おっちゃんがやりたかったのは、これなんや。文章での証明や。それじゃ、最後に勝浦の日本一について書くさかな。頼むでどうか、語り継いでくれよ。でわでわ記念すべき第100話完結編です。
はい、と言うわけで、那智勝浦町にはいくつか日本一がある。1つ目に、これはなんといっても那智の滝、日本一の滝。直下型の落差133メートルの滝だ。華厳の滝、袋田の滝と並んで日本3大名瀑のひとつである。そして世界遺産である。
2つ目に那智山青岸渡寺の大わに口だ。わに口とは、簡単にいうとドラのことだ。豊臣秀吉の寄進による。日本一の大きさのわに口である。直径1、4メートル、重量450キロ。3つ目に延縄漁法による生まぐろ水揚げ高日本一の勝浦漁港だ。延縄というのは、長いロープにたくさんの針を取り付けマグロを取る方法である。年間約1万5000トンの生まぐろが水揚げされる。紀州勝浦産生まぐろとも呼ばれている。4つ目は、日本一短い2級河川「ぶつぶつ川」だ。那智勝浦町の粉白海水浴場の入り口近くにあり、全長13.5メートル。ぶつぶつと湧きい出ているのこの名前が付いた。ちなみに和歌山県には日本一長い2級河川日高川もある。5つ目に富士山西方確認最遠方の地である。妙法山より少し西の色川小麦峠から富士山が撮影された。富士山より西に322、9キロメートル。1999年の元旦には妙法山から日本テレビのズームイン朝で生放送され始めてテレビにて放送された。6つ目に日本一の大きさのおみくじだ。熊野那智大社境内にあるジャンボおみくじ大きさ133センチメートル。那智の滝の133メートルにちなんでいる。あと日本一ではないが、那智海水浴場は環境省が選ぶ快水浴場100選(水質や泳ぎやすさ等の条件)で全国に12カ所しかない特選に選ばれている。和歌山県でも片男波と那智海水浴場だけである。これも胸を張って語れることだ。他にもあるけどこれくらいにする。
どうか、那智勝浦町の良いところを全国に広めてほしい。那智勝浦町のキャッチフレーズは「温泉と生まぐろと世界遺産の町」だ。本年は熊野那智大社御創建1700年、来年は
那智山青岸渡寺西国三十三所草創1300年の佳節だ。おっちゃんも本業の観光協会の仕事で頑張って勝浦のすばらしいとこをこれからもアピールしていきます。
「勝浦の子供たちよ。勝浦のすばらしさを語り継げ」と叫びたい。頼むよ。勝浦の子どもたちよ。
第100話 完結 万歳。
(あとがき)
早いもので、書き始めて1年たちました。初めは10話くらい書けるとええなくらいにしか思ってなかつたんですが、皆さんからの、「よう覚えているなぁ。そうそう、そんなこともあったな。懐かしい。」という昔良き時代を思い出して頂いた事に書き手としても喜びを覚えなんとか目標の100話書き上げることができました。なんの取り柄のないおっさんが、小説家のまねごとをすることに快感を覚えるようになってしまいました。那智勝浦町昔なつかし話は、今回で一応完結しますが、なんせ物を書くことに快感を覚えた小生、今度は東京中野での青春どたばた劇を書いてみたいと思っております。後日からすこしずつfacebookにアップ出来ればと思っています。なんせこれから書くのでいつまで続くやら。乞うご期待というわけで、本当に今まで皆様お読み頂きありがとうございました。心より申し上げます。タケちゃんは、永遠に不滅です。始めて自分をほめてあげたいです。
では、おおきによ。またあおらいよ。あなたのタケちゃんより。
那智勝浦町昔なつかし話 吉村 剛 @yoshee50
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
''共感''新作/@yuka_mori
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 1話
頭おかしい現役JKの日記。最新/そらちゃ。
★64 エッセイ・ノンフィクション 連載中 210話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます