第50話 2019/12/02/月 もったいなや……

 今日はまた、鼻血ものの一日でした。

 そうそうリビングでおもちゃを使うと、テーブルやカウンター、流しに上らないのがわかりました。

 飼い主が利口にならないとね。


 ペットは飼い主に似るって言いますが。

 あれは、ペットが飼い主に似せてるんだと思います。

 だって、スコちゃん、私が寝っ転がって相手をしてたら、今日、ごろんごろん寝っ転がりながらおもちゃにじゃれるようになりましたもん。


 おかしかったわー。

 無防備にお腹をみせて、前脚をわちゃわちゃさせて、小さい犬歯でリボンを噛み噛みするの!

 上体ひねりジャンプもしてくれるし、芸が細かいわー。


 明日は避妊手術の日だから、エサはやっちゃいけないの。

 4:30PMくらいに、裂いたササミを与えて、明日は絶食したまま病院へ。

 きついなー。



「スコちゃんが元気で戻ってきますように!」



 神棚に祀ったお札にお祈りして。

 さて、明日の分のお供えのお酒がもうないや。

 明日、かな……。


 手術の後は、あんまりじゃれたり、触ったりしちゃいけないのかな……。

 あのふわんふわんの体のどこにメスを入れるんだろ……。

 気が重いけれど、そう簡単に割り切れるものでもない。


 割り切ったつもりでも、いざとなると……。

 だって、自分の身体じゃないもんね。

 6か月の赤ちゃんだもんなー。


 つらい。

 けどでも、飼い主の義務だから。

 スコちゃんの家族は、もう望めないけれど。

 25年、生きてくれれば。


 子供を産まない個体が長生きするのって、人間くらいらしいんだ。

 自然界では。

 だから、子供を産まない生に意味を見出す人間って、奇異なんだよね。


 スコちゃんの生に責任を持たねばならないから、彼女の生命としての根幹を切り取ってしまう。

 私が、スコちゃんと長く一緒にいたいがために。

 それは、スコちゃんにとって、どんな意味があるんだろうか。


 子をなさない生命にとって、長く生きることに、なんの意味があるのだろう。

 ペットは、家畜なのか?

 とって食うわけじゃない、愛玩用だ。


 ひたすら飼い主のエゴにつき合う、因果な生きものだ。

 そのことをふまえて、彼女が最期を迎える時は、せめて楽にしてやりたい。

 それが、私のエゴであっても、一過性の感傷であっても。


 胸の内で、手を合わせる。

 さようなら、赤ちゃんだったスコちゃん。

 写真はいっぱい撮っておくからね。






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