乳酸菌ミクロコスモス
山田佳江
乳酸菌ミクロコスモス
指のあいだからはみ出る、にちゃにちゃとしたぬか床の感触を楽しんでいた。キッチンの小窓から、風に乗って「ぱすん」と乾いた音が聞こえた。銃声かもと思い、手を止めて耳を澄ます。小倉とはそういう町だった。例えば市街地で破裂音が聞こえたら、周囲の人々は一瞬身構える。それが子供の割れた風船だと分かれば安堵し「銃声かと思ったやん」と明るい声で口にする。冗談と本気が混在しているのだ。小倉で生まれ育った山田佳江は、子供が生まれたとき「私はごく普通のお母さんになるんや」と誓った。祖母の代からのぬか床を守り続けているのも、よき母親であるためだった。
昼どきのうどん屋は混雑していた。佳江は一人でカウンター席に座り、ごぼう天うどんにしようか肉うどんにしようかひとしきり悩んだ。そして店員が来ると「カレー鍋うどんひとつ」と、淀みなくいった。まただ。自分の行動を深く反省する。迷いがあると、つい思ってもないことを口にしてしまう癖があった。今朝の朝食も、昨晩の残りのカレーだったというのに。
カウンターの隣の席に座っていた男が、佳江のことを見ていた。頭髪の寂しい男の、不躾な視線に苛立つ。こんな顔をどこかで見たことがある気がする。そうだ、出会った頃の夫の目つきに似ている。
「あの、すみません」
「はい?」隣の男に話かけられ、なめられないようにと不機嫌な声を出す。
「天かす、届かないので、取ってもらっていいですか」
「あっ、天かす。はい、どうぞ!」気づけば、天かす容器を隠すようにカウンターに両手を置いてしまっていた。慌ててスプーンで天かすをすくい、隣の男のかしわうどんに入れてしまう。(入れてあげるんじゃなくて、容器ごと渡すべきだったのでは)そう思い恥ずかしくなったが、彼は笑って「もっとたくさん入れてください」と佳江にいった。
「かしわうどん、久しぶりに食べたな。懐かしい」男はひとりごとのようにつぶやく。
「帰省ですか?」
「まあ、帰省みたいなものかな」
やはりなんとなく、彼は佳江の夫に似ているように思えた。
「昔から同じ味ですもんねえ、ここ」
「うん、天かすを入れすぎて、よく親に怒られてた」
唐突に佳江の胸に「この男にお腹いっぱい食べさせないといけない」という欲求が湧き上がる。この感情はなんだろう。自分の心の動きに困惑する。
「あのですね、それ食べ終わったらうちに来ませんか。いわしのぬか炊きが炊いてあるんで」
「ええ? なんでまた」
「なんでかっていうと、ほら、紫川を挟んで東西で、闇口組と久堂会がもうずっと長いこと抗争を続けてて、うちの旦那なんかそんなことも知らないで、この土地めっちゃ安いんやん、なんて調子に乗って紫川の中洲に頭金無しの三十五年ローンで一戸建てを建てちゃうもんだから、目の前を黒塗りの高級車は行き来するし、たまに銃声がするし、通学路に手榴弾が落ちててPTA総出の騒ぎになるし、もしかして町内環境が悪いのは腸内環境が悪いせいなのではそういえば腸内環境は人のメンタルを操るとかってカラパイアかトカナかに書いてあった気がするしなら発酵食品がいいのでは小倉にはいわしのぬか炊きがあるじゃないか祖母から受け継いだぬか床を使ってキッチンカーでも借りてぬか炊き弁当を売ればそこそこ儲かるだろうしなんならフランチャイズにしていわしのぬか炊きを世界に広めて人類を幸福にできるのではなんて思い試食して効能など確認していただければ」
頭に浮かんだ適当な言葉を一気にまくし立ててしまう。またやってしまった。全くの嘘ではない。いつだって冗談か本気かわからない妄想が佳江の頭の中に渦巻いていて、油断すると漏れ出てしまうのだ。
「じゃあ、食べにいこうかな」隣の男はかしわうどんのつゆを飲み干して席を立つ。
「え、正気ですか」
「久しぶりに『お母さん』のぬか炊き食べたかったし」
頭髪の乏しい彼に見下されて、なぜだか愛おしさに胸が締め付けられる。そうだ、夫よりむしろ長男に似ている、と佳江は思う。
「話したいこともあるんだ。もし本当に、人類を幸福にすることができるとしたらどうする?」
彼がポケットから車のキーを取り出す。うどん屋の駐車場に停められた車は、なんだかデロリアンに似ていた。
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