第8話 カインの話、私の話
街まで送ります、というカインの親切を素直に受けることにした私はエルの頭を手のひらでそっと撫でた。
「またね」
エルは嬉しそうに鼻を鳴らす。
華やかな新年を祝うムードもだいぶ落ち着き、週末の街は人の数もそこそこだ。飲食店の賑わいもほどほど、という感じだった。
私はこのほどほど、という感じの賑わいが好きだった。
「良かったら晩御飯を一緒にいかがですか。この辺りは美味しい店が多いんです」
この街唯一の大学のある通りまで来た時に、カインが言った。
今日はよく歩いた。森への侵入者のことを聞いて、考え、そして恐ろしくなったりで結構疲れていた。何よりお腹が空いていた。そのことに今の今まで気がつかなかった。
大学のある通りは学生街で、安くて美味しいお店がいっぱいあることを私も知っていた。
「そう言われてみると、今更ですがお腹が空いていることに気がつきました。なんだか今日はいろいろあって、結構エネルギーを使ったみたいです」
「では行きましょう。リサさんは魚はお好きですか?」
「魚介は好きですよ」
「では魚の美味しい店に。お酒は?」
「ほどほどに」
「では行きましょう」
カインが案内してくれたのは、大学の構内を突っ切って歩いた端にある、小さな店だった。
石造りの2階建、一見すると倉庫のようにも見えるが中に入ると意外と広く、地下室もあってカウンターもテーブル席も学生風の客でいっぱいだった。
私たちは2階のテーブル席に通された。
白ワインと牡蠣の燻製、スモークサーモン、玉ねぎのマリネなどお酒のつまみになりそうなものを頼み、私とカインは向かい合って座った。
「学生時代からよくここに通っていたんです」
「この大学の?」
「はい、僕は獣医学部出身です」
「え?じゃあ獣医さんなの?」
私はびっくりした。
「獣医師免許は持っています。でも実際に動物を診ることはないですね」
「動物を診ない獣医さん」
カインはにっこりと笑った。
「僕は動物から人間へ感染する病気の研究をしています」
森の管理者としての仕事は、その研究の一環なのだとカインは続けた。
「普段は病気の原因となる菌やウィルスの研究、あとはその病原体がどういう経緯で動物から人に感染したのか、その経路の調査とか…ああ、食事中にふさわしい話題ではないですよね。
すみません、この店に来ると学生時代の気分に帰ってしまって、つい」
カインは急にしょんぼりしてしまう。
「いいえ、興味深いです」
「本当に?」
「ええ、それをいうなら私も薬屋ですから」
「そうでしたね」
「私は人が治っていく過程に興味があるんです。でも元を正せば、どうして人は病気になるんだろう、という単純な疑問からこの職業を選んだようなところがありますから。
ただ、これをいうと結構人からはがっかりされることが多いですね」
「どうして?」
「そうですね、世の中の人は私の職業から何というか、勝手な理想像見たいのを作ってしまうみたいです。
薬屋をやっていると、人を病から救うんだ!みたいな何か高潔な目標を持ってやっているんでしょう?的なイメージを持たれることが多くて。
確かに職業的には人の怪我や病気が治るよう、病院に行くほどでもない軽い体の不調を自宅で薬を飲むことで治るように、というために薬を調合して販売しています。
でもそれが、人を救いたい!というような何か素晴らしい志があるか?と言われると、私の場合は答えはノーですね。私は自分自身が、それほど高尚な人間でないと思っていますから」
そこまで話して私は一息つき、グラスのワインをぐっと一口飲み干す。
ぶどうの種の渋みがしっかりと感じられて、とてもすっきりとして飲みやすい白ワインだ。カインのおすすめに従って正解だった。
「もちろん、薬のおかげで痛みが楽になったとか、熱が下がったと言われると嬉しいです。でも私の仕事への動機はもっと別のところにある」
ふとカインを見ると、じっとまっすぐに私を見ていた。私は急に恥ずかしくなった。
「なんだか自分のことを喋りすぎました。すみません」
「いえ、興味深いです。そしてなんだか僕もわかる気がします」
「というと?」
「僕もよく、獣医師なのにどうして動物を診ないの?とよく聞かれますから」
「動物の病気や怪我を治す、という以外に獣医さんにはどういう仕事があるんですか?」
単純な興味から私は尋ねてみた。
カインはわずかに息を止めたように見えた。そして私を正面から見据えた。
「20年前に流行した”悪い風邪”のことをご存知ですか?」
カインは両手を静かに顔の前で合わせた。
「僕はあの”悪い風邪”の生き残りなんです」
そっと息を吐くように、カインは言った。
私は言葉の続きを待った。
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