第2話薬を買った犬はどこへ?

立ち話もなんだから、とりあえずどうぞ、と薬屋のカウンターにある席を勧めた。



男の人は、はっとして、掴んでいた私の両腕を離した。



すみません、と消え入るような声で男の人は言った。



私はお茶を入れると、生姜を少し絞って、シナモンを加えた。砂糖を少し入れる。外はもう冬で空気が冷たい。キリッと角が立つようだった。



森から歩いてきたのであれば、きっと体が芯から冷えているはずだ。



男の人はお茶を啜った。



「温まります」



「よかった」



「犬のことですが、あれは私が飼っているわけではないんです。森の犬ですね。はっきりいうと野良犬です」



男の人…カインと名乗ったが、カインが森の管理者になって間も無く、見張りの小屋に痩せた犬がやってくるようになったという。




大きな犬で、ガリガリに痩せていて、いつも寂しそうな顔で少し離れたところから、じっと見張り小屋を見ていたらしい。



そのあまりのボロボロさ加減にカインは絶句したという。体のあちこちに毛がもつれて玉になったものがブラブラと下がり、全体が薄汚れていた。近くによると、つん、と獣の脂の匂いがしたそうだ。




かなりの間、放浪していたようだか、元は飼い犬だったのか妙に人懐こいところがある。試しに食べ物を、小屋から離れた場所にそっと置いたら、途端に駆け出してきて美味しそうに置かれたパンをガツガツと食べた。



とりあえず凶暴性はなさそうだから、とミルクや、ちょっとした肉の切れ端、りんごなどを与えているうちに、犬はすっかりカインに慣れた。



慣れた頃を見計らって、捕まえて水を張った盥に入れ、ガシガシと洗った。真っ黒なドロドロとした水が出て、水を3回取り替えて、犬からようやく黒い水が出なくなった。



濡れた犬はかわいそうなくらいブルブル震えていたそうだ。かなり大きな犬で3歳児くらいの大きさがあり、そんな犬が尻尾を後ろ足に挟んまま小刻みに震えるので、カインはなんだかひどくかわいそうなことをした気分になった、と話した。




綺麗になった犬をタオルでゴシゴシと拭き、まだ春のはじめの寒い時期だったので、カインは犬を小屋に招き入れて暖炉の前へ連れて行った。犬はまるで、今までもそうしていたみたいに、暖炉の前に座ると、くるりと体を丸めて横になった。



そしてそのまま、すうすうと寝息を立て始めた。




「随分と長い間、眠っていました。ずっとここで飼っている犬みたいでした。久しぶりに安心できる場所に連れてこられて、ぐっすりと眠れたみたいです」




以来、さすがに飼うことはできないが、カインが当番の時には食べ物を持って行って与えたり、小屋の軒先で眠らせてやったり、仕事の合間にボールを投げて遊んでやったりしていたという。



名前がないのも不便なので、カインは犬に「エル」と名付けた。



エルはオスで、とても美しい毛並みをしていた。日に当たると、その毛が波打って、1本1本が銀できた糸のようだった。出会った頃はかなり痩せていたが、カインが食べ物を与えるようになってからは、少しずつ肉付きは良くなり、健康を取り戻して行った。



全身に生えている毛は短いけれど、尻尾は森に住むキツネに負けないくらい、ふさふさとしていたそうだ。




私は、店じまいの直前に訪ねてきた犬の少年の姿を思い出していた。



「あの尻尾…それでは薬を買いに来たのは、エルだったんですね」



「恐らくは…でもまさか、エルが人の姿に化けるなんて」



「確かに、犬ですからね」



そう、キツネであればこの街では、よくある話だ。森のキツネはよく化ける。でも、犬のエルは、犬なのだ。犬が化けるなんて、聞いたことがない。




「そのエルが…実は姿を消してしまったんです」




カインは言った。



その声は、そのまま紅茶の入ったマグカップの中にぽとり落ちて消えるみたいに、なんだかとても悲しい響きがあった。

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