八通目 『夕霞』さんからのお便り

 僕がつい最近体験した出来事です。

 太陽がダイダイに色を変え、西の空に傾き始めた頃。どこからか、祭囃子マツリバヤシの音が響いてきました。

 近所の神社の夏祭りは、先週の土日に盛況のうちに終わったのに。僕の住む町には神社がもう一箇所ありますが、反対方面にまで神輿ミコシは来ないはずでした。

 高校帰りの道で足を止め、僕はついその音をじっと聴きました。

 静かな住宅街にそれはだんだん近づいて大きくなるものの、周りの家からもほかに人が出てくる気配はしませんでした。ただ、あざやかな橙に照らされてたたずむ自分と、道に伸びる黒い影だけが、そこにありました。


 カラン、コロン。


 不意に、下駄の鳴る音もまじりました。

 十字路の右の道から、浴衣を着た小さな女の子が歩いてきて、僕は思わず息を呑みました。

 の名前も顔も、今でも正確におぼえています。

「……どうして、君が」

 僕は、掠れた声でつぶやきました。

 彼女はぱっと目を輝かせて、早足で近寄ってきました。

「よかった、まにあった。このゆかたね、おかあさんにきせてもらったの。かわいい?」

 僕は、うなずくことしかできませんでした。

 彼女がここにいるはずがないのに、目の前の風景を受け入れてしまっていたんです。

 小さなてのひらが、僕の手をくいっと引いた。

「ねぇ、はやくおまつりいこうよ。わたし、わたあめたべたいなぁ」

 そうせがむ彼女の楽しそうな声も、と同じでした。

 足が震えかけるのを、僕はどうにかこらえて。ゆるく首を横に振り、静かに言い聞かせました。

「だめだよ。僕は一緒には行けない。いや、まず君がお祭りに行っちゃいけない」

「どうして? ふたりでいくって、やくそくしたよね」

 そう、一緒に満喫するはずでした。

 神社への道のりで、あんな悲劇ことが起きるまでは。

 彼女の家族も、町からはとっくに引っ越していました。

 れたのか、ぐいぐいと彼女は僕の手を強く引っ張りました。

「ねぇ、いこうってば。おいしいもの、うりきれちゃうよ」

「君は君のいるところに帰ったほうがいい。僕はもう、君のために金魚をとることもできないんだ」

「きんぎょなんてどうでもいいよ。わたしは、きみといっしょに――」

「君は、

 硬い声で、僕は訊きました。

 ふとした瞬間、気づいてしまったんです。


 十字路に立つカーブミラーに映っているのは、僕の姿だけでした。


 僕の質問をきっかけに、彼女の表情から感情がかき消えました。

 今でも心をキリキリと縛りつける過去を、僕は口に出しました。

「君はあの時、車にねられて死んだはずだ。僕の目の前で。それに、あの日の君は、金魚すくいをいちばん楽しみにしてた」

 彼女が言わないはずの言葉をするすると言ってのける女の子は、僕にとっては『偽者』でしかありませんでした。

「……何が目的か知らないけど、大事な幼なじみの姿を借りてまで惑わさないでくれ、迷惑だ」

 彼女の姿をした何かは、目を逸らして嘆息しました。

 するり、と手から指が離れました。その肌に体温を感じなかった時点で、僕は気づいていたんです。


「おまえはか。引き込めそうだと思ったのにな」


 ねたようにつぶやいたそれは、僕の横をすり抜けていきました。

 祭囃子の音も、いつの間にか消えていて。

 小さな後ろ姿に、狐にも似たふさふさとした尻尾が見えました。

 影にとけ込むように、その姿はすぅっと音もなく消えました。

 静まり返った帰り道を、僕はまた歩き出しました。

 自分の靴音だけが、やけに大きく反響して。まるい夕陽が、金魚鉢のようにも見えました。

 あの時、彼女とちゃんと夏祭りに行けていたら、きっと満足するまで何匹でも金魚をすくったでしょう。無邪気に笑い合いながら。

 頭に描いた水槽の中で、白、赤、黒――色とりどりの金魚たちが自由に泳ぎ回っていました。

 彼女の魂も、あんなものに連れていかれずに、どこか遠くで幸せに満ちていてくれたらいい――今もそう願ってやみません。


 自分には霊感なんて少しもないと思っていましたが、ああいう『人じゃないもの』は、たまに誰にでも見えるようになるんでしょうか。それとも、何か別の条件でもあるんでしょうか。

 こっちの記憶や親しい人の姿を利用して、魂ごと連れていこうとするなんて。ある意味、人間の誘拐犯よりもタチが悪いと思います。随分と残酷で怖い『死神』。

 狐は人を化かすとはよく言われていますが、どうせなら、もっと気楽に笑えるいたずらをして欲しいです。

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