最低

 やってしまった。


「おね、さ……ふへぇ」


 ああやめて、そんなふやけた声で呼ばないで、今ちょっと罪悪感で死にたい気分だから。

 私のベッドで幸せそうにふにゃふにゃと寝言をこぼすマキちゃんの顔をまともに見ることもできず、私はベッドの横に座って頭を抱えていた。


 やってしまった。


 ――まだ子供でしょう?

 ――思ってるほど、子供じゃないよ。


 あああああもおおおおお。

 数十分の間にもう何度反芻してしまったかもわからなくなる出来事がまた私の脳みそをぐらぐらと揺らして、罪悪感と興奮の鎖で私を絡め取る。


 マキちゃんを傷つけた。最低なことをした。ずるい大人だ。綾女さんに顔向けできない。そう思う一方で、キスとも言えないくらい乱暴に力任せにぶつけ合った唇がまだ熱いと感じてしまう自分の色ボケ具合に呆れる。あんなの、マキちゃんにしてみればあと数年もすれば忘れてしまったっておかしくないし。ファーストキスの思い出にもカウントされるか怪しいレベルの行為に違いない。ていうか最近の小学生は進んでるって言うしキスくらいとっくに済ませていてさっきのアレに特別な価値なんてないかもしれないじゃん。


 ……初めてじゃないかも、しれないのか。


「やだなぁ……」


 一緒に寝る、と言い張って私のベッドに潜り込み、私がトイレに引きこもって気を落ち着けている間に眠ってしまったマキちゃんの表情を盗み見る。すやすやと静かな寝息を立てる姿はいつもの溌剌とした印象からはかけ離れた大人しさで愛くるしさと同時に少しだけ大人びて見える。……先程の彼女の言葉が、私にそう錯覚させている可能性もあるけれど。


 そして気づけば私の視線はそのぷくっとした柔らかそうな唇に吸い寄せられる。


「初めて、だよね?」


 彼氏とか彼女とか、そういう経験がありそうには見えないし。いや、でもお友達どうしでちゅーとかしちゃうのか? よく話に出てくるアナンちゃんとはだいぶ仲良さそうだし、そのくらいしてるのか?

 いやそもそも、初めてかどうかなんて私には関係……関係、ない。


「関係ないわけ、ないし」


 口を出せる立場じゃない。そういう意味ではマキちゃんにとってはあの衝突事故みたいなキスがファーストかセカンド以降かどうかなんて大した問題じゃないのかもしれない。でも、私にとっては。

 好きな子の初キスをもらったかもらってないかは、やっぱり気にしてしまう。


「好きだー……」


 小さくマキちゃんの方を見ながら呟いてみて、やっぱり死にたくなった。

 何より私に、そんなことを言う資格はないのだ。大人として一線を引いて接しなければならないと自分を律し、そもそも彼女の「好き」の気持ちを大事にしたいだけで恋愛対象ではない、みたいな御託をさんざんこね回しておきながらスプーンとお風呂で勝手に欲情して、引け目を感じていた趣味を受け入れて好きだ、もっと好きになりたいと言ってくれた彼女にころっと気持ちが転んでいる。


「チョロすぎる」


 私の貞操観念がやばすぎる。もう多分、いまマキちゃんに迫られたら喜んでしまう気がする。


「思ってるほど、子供じゃないのかなぁ」


 マキちゃんはそう言って私にキスした。キスというには乱暴で不慣れでそこに幼さはあったけれど、そもそもあんな風にキスをリードされてしまうこと自体、私には完全に想定外だった。まだ子供だから、と油断していたその想像の上をいかれたというのは、彼女の言うように私が思うほど彼女は幼くないということの証かもしれない。


「っ、だめだめ」


 ぶんぶんと頭を振る。

 マキちゃんを大人のように扱おうとすれば、彼女を拒む理由を見失う。それはダメだ。マキちゃん自身がどう言おうと、私がどう思おうと、世間的にはマキちゃんは小学五年生の子供で私はいい年してフラフラしているフリーターだ。無責任に彼女を受け入れるくらいなら、傷つけてでも遠ざけるのが、私にできるせめてもの大人の対応というやつだ。多分。


「おねー……んぅ、しずか、さん……あったかい」


 触ってない、私は触ってないから。マキちゃんがもふもふしてるの私の枕だから。……わ、私のにおいとか、しないよね?

 拙い発音で名前を呼ばれるだけで顔が熱くなる。どうかしてる。どうかしてるとわかっているのに、思考を軌道修正しようとしても上手くいかない。いくつもいくつも気持ちを誤魔化して正しい大人として振る舞う理由や方法を考えるのに、ふと名前を呼ばれてしまえばその声をこぼした唇に触れたいという欲求で頭の中が桃色一色にされてしまう。


 いまなら、いまだけ、なら。

 バレない。バレなければ、何も変わらない。


 ……こんな無防備な、マキちゃんが悪い。


 最低の動機と最低の言い訳で、私は眠るマキちゃんにゆっくりと覆いかぶさる。ぎしりと音を立ててベッドが沈んでも、マキちゃんは「ん」ともぞもぞ動いただけで起きる気配はない。


 寝込みを襲うなんて、人として最低なのに。

 最低でもいいから、もう一度味わいたい、なんて。

 ああくそ、私最低。ごめんマキちゃん。ごめんなさい綾女さん。今だけだから、これで最後にするから。だからお願い、気づかないで。


 そっとマキちゃんの髪を撫で付けるようにして頭から頬へと手を滑らせる。幼い輪郭を手のひらに感じて興奮の火に薪木がくべられる。

 目を閉じたままのマキちゃんにそっと顔を寄せ、彼女に倣って目を閉じる。


「ふ……んっ」


 鼻で呼吸をすると同時に、甘い唇に喉から心地よさが声になって漏れそうになるのをなんとか飲み込む。さきほどのキスでは堪能できなかったつやつやふやふやの唇を味わって、名残惜しさを振り切って口を離す。


 ああ、終わっちゃった。

 二度目はない。これが最後。こんな風にマキちゃんを汚すなんて、金輪際二度としてはいけない。そう、私はマキちゃんへの気持ちに区切りをつけるためにこうしてキスをしたんだ。最後の思い出にするために、唇の甘さを知って――。


「ん、しずかさ……すきぃ」


 気づいたら離れようとしたはずのマキちゃんの顔がまた目の前にある。唇が熱い。だって、マキちゃんがそんな風に誘うから、仕方ないじゃん。無理じゃん、耐えるとか。

 二度目はない、がもう一度だけ、に。一度自分を許してしまえば、あと一回、もう少し、と彼女の唇を求める欲に際限はなく。


 結局、今夜だけと、当初に比べて甘すぎる裁定を自分に許して、私はマキちゃんの唇に溺れた。

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