第38話 雨上がり
目を開けて見えるのは、天国の青空ではなかった。白く清潔で、無機質な天井だ。目をわずかに動かすと、窓の外で小雨が降っているのが見える。
手はしばらく動かしてないからか、力を入れると違和感が生じた。それでも動かし続けていると、足元で気配がした。
「和葉! 和葉! おい、起きたのか!」
気配の主は林太郎だ。和葉の肩を力強く掴み、顔を近づけた。そして幼い子どものように、ベッドの傍のボタンを押し、待ちきれなかったのか部屋を飛び出し、医者を呼びに行った。
医師の診察を、和葉は人ごとのように聞いていた。まさか1カ月も眠りについていたとは思えなかった。ついさっき、周やアーネストと湖に行ったばかりなのだ。
(やっぱり夢だったのかな……。すごくリアルだったけど……)
「もう心配ないでしょう。若いんだから、自殺未遂なんてするんじゃないよ。必要ならカウンセラーもつけますが、どうなさいますか?」
医者は眠そうに林太郎へ問いかけた。診察以外は基本的に和葉の方を見ない。
「自殺じゃないから結構です。湖のぬかるみに足を滑らせただけですから」
和葉の言葉に、医師も林太郎もひどく驚いていた様子だった。林太郎は少し緊張が和らいだようだ。
「そうかい。じゃあ必要ないね。湖にも柵を付けた方がいいでしょうな。あんな危ないところ、またケガ人が出たら大変だ」
「それは駄目!」
和葉は思っていたよりも大きな声が出たことに驚いた。後から来た看護士が目を丸くしている。
「あ、すみません……。なんでもないです……」
「目を覚ましたばかりで不安定なのでしょう。精神科の紹介状も書いた方がいいなら書きましょう。薬を処方することだってできるんですからね」
和葉としては、柵なんて付けたら思い出の湖と離れてしまうと考えたからであったが、今更言うこともできない。さらに日本とは違う国に行った思い出もあって……なんて言ったら、医師に訝し気に見られてしまうと思った。
「和葉の体に異常はないんですね? じゃあ、少し2人にしてもらってもいいですか」
林太郎が少し怒ったように言ったように感じ、和葉は委縮してしまった。医師はさも興味なさげに看護師を従えて病室を出て行った。
「お父さんごめん、本当に私、自殺したわけじゃ……」
和葉が言い終わる前に、林太郎は彼女を抱きしめた。鼻をすする音がして、和葉の体は硬直した。
「よかった、本当に良かった。自殺だろうが事故死だろうが、和葉が死んでしまうことが怖かったんだ。生きていてくれて、本当に良かった……」
林太郎の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。和葉は父が泣いているところを初めて見た。いつも冷静で少し不愛想な彼が、こんなにも感情を露わにするとは思ってもいなかった。
「お父さんごめん、ごめんね! 私、お父さんに酷いこと言っちゃった。お母さんを愛してなかったわけじゃないのに」
「俺こそ悪かった。ごめんな。和葉の気持ちも考えず、自分の考えばかり押し付けて……でもな、これだけは信じてほしい。お父さんは、お前とお母さんのことを愛してるよ。昔も今も」
林太郎は手で顔を拭い、和葉の顔をタオルで拭いた。病院の清潔な匂いがするタオルと、「例の国」で涙を貯めていた目の粗いハンカチとでは使い心地が全く違った。それでもどこか似ている、優しい気持ちになる。
「それにな、お前は泣き虫だが、それはお父さんの遺伝だ。昔はよく泣いてたもんだよ。でも社会の荒波に呑まれて、すっかり泣くことを忘れてしまっていた。いや、忘れるように努めていたのかもしれん。いい年した男が人前で泣くなんて、褒められるべきことではないからな」
「家でくらい、泣いたっていいんじゃない? じゃないと病気になっちゃうよ」
和葉の言葉に、林太郎はきょとんとした。
「なんだか、お前大人っぽくなったか? 寝てる間に何があったんだ!」
「夢の中で成長してたんだよ」
2人は同時に笑った。何だか可笑しくてしょうがなかった。笑い疲れた和葉は、いい加減起き上がろうかと身じろぎをした。すると、何か冷たいものが足に当たる。
「あれ、それ、お母さんのネックレスじゃないか? 今は俺が持ってるのに、どうしてお前が……」
「例の国」で貰ったアクアマリンのネックレスだった。雫の形まで同じだ。体はここにあって、ネックレスを貰ったのだって夢の中での出来事なのに……と和葉は戸惑った。
(本当のことだった? こんなことって……)
「和葉、もしかして……いや、何でもない」
「何? 気になるじゃん」
「いや、昔お前と同じ年の頃、お父さんもあの湖に落ちたことがあるんだ。理由はお爺ちゃんから怒られたからなんだけどな。それで2カ月くらい意識を失ってたんだが、その間日本ではない所に行っていたんだ。おそらく夢だろうな。すごくリアルな。その夢の中でお父さんは大冒険をしていたんだ。マイペースな学者と、戦争が終わったばかりの国で調査をしてたんだ。
小説みたいな夢だろう? その夢の中でアクアマリンのネックレスを買ってもらったんだが、なぜか意識が戻ったとき自分の手元にそれがあってな。今の和葉みたいな状況だったから、つい重ねてしまった」
林太郎は気恥ずかしいのか、顔をわずかに赤くして目をそらしている。和葉は別の理由で顔を赤くした。
「お父さん、その学者さんって、何のために研究していたの?」
話に和葉が食いついてくるとは思ってなかった林太郎は、面食らったように目を瞬かせた。
「死んだ奥さんが、生前何の病気に罹っていたのか調査していたな。確か病名は奥さんの名前をとっていたな……書いていた本の名前も確か……」
「ヘレンの書……」
和葉の呟きに林太郎は勢いよく顔を上げた。4つの濃い茶色の瞳が揺れる。心臓は激しい動きを弱めない。
「お父さんのこと、歌が下手だって言ってたよ」
「なんだ、やっぱり俺たち似たもの同士じゃないか」
2人は緊張が解けたように微笑み合った。
いつの間にか雨はあがり、木の間からは虹が顔をのぞかせている。
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