第21話 希望
ジャンの工場を発つときが来た。工場の従業員たちはいつもより朗らかな表情である。理由を聞くと、ジャンが部屋に閉じこもりっきりで全く監視をせず、サボり放題だったかららしい。
しかし酒盛りになったりすることはなく、いたって健全な雰囲気だと和葉は感じた。仕事をしなくなった彼らは、文字の勉強をしたり、自身の子どもと触れ合ったりなど、穏やかに過ごしていた。
「正直、生活のためにここで働いてるけど、本当はもう辞めたいんだ。昔綺麗だった川を汚すことに加担している自分が嫌いだ……。罪悪感でおかしくなっちまいそうだ。ずっとこのままサボっていられたらいいのに」
従業員の一人はそう言った。周囲の人々も同意見のようで、深く頷いている。
「まあ、暗い話は置いといて、先生たち、今まで世話になったな。ありがとよ。文字を学んだおかげで、働ける場所の可能性が広がった気がする。これからもあの本探しに行くんだろ? ヘレニウム病で死んだ俺の仲間たちのためにも、頑張ってくれよ」
「もちろんです」
彼とアーネストは固い握手を交わした。2人とも体格がいいため、向かい合って握手をする姿は壮観である。
「こちらこそ、ありがとうございました。そうそう、南部地区の役所が川の清掃業者を募集することに決めたそうです。戦争も終わってしばらく経つし、戦後復興にかけてきた分のお金を環境整備に使うみたいですよ」
アーネストの言葉に、従業員たちはあっけにとられたようだ。
「なんだい、今更だな。まあこのままサボってばっかりってのもなんだし、応募だけでもしてみるかな。せっかく文字を覚えたけど、しばらく使うことはなさそうだ」
「事務職もあるみたいですよ。でももし文字を使う機会がなくても、ちゃんと覚えててくださいね。……これ、俺たちが次向かう屋敷の住所です。よかったら手紙を書いてくれませんか? 近況を知りたいので」
そう言ってアーネストはメモと便せんを手渡した。受け取った者の周りの人々も、物珍しそうに見ている。
「長くて1カ月程しか滞在しないので、できれば早めに出してくれると嬉しいです」
「ああ分かった! ちゃーんと書くさ! これが住所だね? うーんと……北部地区……ヒガシ……」
「住所は難しいですよね? 封筒に書き写すだけでいいですよ。……それじゃあ、もう行きますね」
アーネスト、周、和葉は頭を下げ、食堂の出口に向かって歩き出した。和葉が名残惜しそうに後ろを振り返っていると、従業員の1人が大きく手を振って寄ってきた。最初に出会った中年の男だ。
手には紙切れを持っている。
「渡し忘れてたんだ。あんた、だんだん教えるの上手くなってたぞ! 自信持て! ほら、こんなに書けるようになったんだ」
紙にはぎっしりと文字が書き込まれていた。中でも目立つのは「希望」の2文字。これから働くのにもっと重要な言葉がありそうなものを……と和葉は不思議そうに男を見つめた。
「『希望』って良い言葉だよな! 昔からこの言葉は好きだけど、書いてみるともっと好きになった。ありがとう、俺たちに希望を教えてくれて」
男はそう言うと、「ああ! 恥ずかしい! ガラじゃねえ」と言いながら従業員たちの中に戻ってしまった。
周りの従業員たちは、男の横腹をつついたりからかうような言葉をかけたりしていた。
一方ジャンはすっかり部屋に閉じこもってしまい、顔を合わせることができなかった。3人の目の前には豪奢な扉がある。いつも通るたびに「だっせえドア!」と言っていた周も、今日ばかりは口を閉じている。
アーネストが何度も説得しようと試みたが、ジャンは顔を出さなかった。彼曰く、目が腫れているから見られたくないらしい。
「家賃はいいよ。周君、ありがとうね。途中八つ当たりしちゃってごめんね。もう前を向くよ。西部地区は俺たちの工場の製品がないと、成り立たない街だからね。これからもこの工場で頑張り続けるしかないさ」
いつもとは違い随分素直な様子に、周の眉が困ったように動いた。アーネストも同情するような表情を見せているが、目は鋭い。鈍感な和葉でも、彼がジャンの「何か」を疑っているのだろうということが分かった。
案の定、ジャンは数秒もおかずに話し始めた。
「……1つだけ、お願いしていいかい? 彼女の家に手紙を届けてほしいんだ。どうせ北部地区に行くんだろう? 通り道だから頼むよ」
言い終わると、ドアの隙間から手紙が出てきた。薄緑の封筒だ。表には「親愛なるアントワーヌのご両親へ」と書かれている。日本語なのに英語のような書き方で書かれた封筒を、和葉はじっと見つめた。
「郵便局に頼めばいいじゃないか」
アーネストが言うことは尤もだった。
「花もよろしく。黄色か青色の綺麗なやつね。彼女の墓に供えてほしい。途中に花屋くらいはあるだろう。もしかして、あれ? お花代も渡した方がいい感じ?」
「いや、いらないよ。今まで泊めてくれたんだからな。むしろお前さんにもっと金を払ってもいいくらいだ」
ドアから返事の声は聞こえない。和葉たちはジャンに礼と詫びの言葉を言って、殺風景で特徴のない工場を去った。
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