第3話 人たらし学者
それから数分後、和葉と青年は赤いレンガの門に到着した。この門をくぐったところにいくつか古い建物がある。それがこの国の大学であるらしい。その建物の中に、一際目立つ横長の建物があった。使われている赤いレンガは門のものと同じだろう。
古い建物だと一目で見て分かったが、その古ささえ長所になるような瀟洒な建物だ。しばらく和葉が見とれていると、「研究室はそこじゃねえ」とまた猫のような目で睨まれてしまった。
「レンガ造りの建物が珍しいか? ここら辺はいい粘土が採れるらしいからな。ほら、行くぞ」
彼の先生がいる「研究室」が入った建物はすぐ傍にあった。近くに小さな、あまり透明度は高くない池がある。赤レンガではなくコンクリート製で、しっかりとした造りだが、よく見ると外壁に何かが当たったように凹んだ痕がある。
「あの、ここなんですか? なんかデコボコしてますけど……」
「ここで合ってる。崩れないから安心しろよ。ここら辺は1回だけ空襲に遭ったんだよな。防空壕に入りきれなかった奴がたくさん死んじまった」
和葉はとんでもないところに来てしまったと、顔を青ざめさせた。
中に入ると、そこは冷房が効いているのかひんやりとしていた。長い廊下に沿って同じ大きさのドアを持つ部屋が並んでいる。青年はその内の一つの部屋のドアをノックし、返事が返って来る前に中に入った。
中には妙齢の女性と、一人のがたいのいい顎髭を生やした男がいた。男の艶のある黒髪はオールバックにしてあり、彫りの深い顔は整っている。和葉の知っている言葉で例えるなら「ラテン系」である。線が細くて全体的に色素の薄い青年とは違い、こちらの男は肌も日に焼けており、健康そのもののような見た目をしていた。
「いやあ……お前さんはいい女だと思うよ。俺にはもったいないくらい。他にいい男見つけなよ。お互い新しい恋を始めよう?」
「そんなこと言って、どの女とも真剣に付き合わないくせに……あなた、私のこと弄んだんでしょ? 最低! 私は真剣だったのに。あなたはいつも酒、研究、タバコ、酒、研究、タバコ……その繰り返しで私の入る隙なんて無いじゃない!」
「タバコはずいぶん前に辞めたんだけど……」
「それも
そう言って彼女はドアの方を見た。青年と和葉と目が合い、しばらく気まずい沈黙が訪れる。「周君……」と呟き、顔を真っ赤にして涙目になった。どうやらこの美青年が
彼女は言い争っていた男を振り返り、大きく平手打ちをした。
「アーニーの馬鹿! もういい! 周君もさっさとこんな男から離れなさいね!」
「待て、今泣いてなかったか? ハンカチを持ってくるから、ちょっと待ってろ。試験管でもいいか」
「そういうところも嫌い! この駄目男!」
彼女は再び男の頬を平手打ちした。先ほどとは反対側だ。彼女が部屋から出て行ったあと、男は立ち尽くす和葉と周君と呼ばれた青年の顔を見て、にやりと右の口角を上げた。
「ははっ、いい男度が増しただろ?」
「笑いごとじゃねえよ先生。あの人とは結構長く続いただろ。追いかけなくていいのか?」
「いやあ、なんか合わなくてさあ。結構いい女だったんだけど、恋愛に対する熱量にギャップがあったっていうか。もういいかな?みたいな」
「はあ、せっかく学者同士気が合うと思ったんだがな。そもそも先生が人たらしなのがいけないんだろ。誰もかれもその気にさせちまって」
周は年上に対する態度とは思えない様子でソファに腰かけた。
「そんなつもりはないんだけどなあ……」
「前の彼女の時もそれ言ってたじゃねえか。そうだ、そんなことより例の湖の噂があって、先生調べてただろ。覚えてるか?」
「ああ! 覚えてるよ。なんだお前さん、今までただの都市伝説だと馬鹿にしていたのに、信じることにしたのか?」
「違う! ……とは言い切れねえ。さっきその湖でこの女を見たんだ。『ニホン』から来たらしい」
その瞬間、男の表情が大きく変わった。
「なに! 『ニホン』だって? お前さん、それは本当かい? 俺たち大人をからかってるんじゃないだろうな?」
「からかってません。本当に私にも何が何だか……この国は何なんですか? 日本じゃないっていう割に日本語通じるし、私、夢でも見てるのかな。もし、これが現実だったらこれからどうしよう。もう家に帰れないのかな……」
今まで心のうちにとどめておいた思いが、次々と口からあふれ出る。同時に涙も和葉の目から溢れ出る。立ってられなくて、とうとうその場にしゃがみこんでしまい、嗚咽が漏れた。
「大丈夫だよ。必ずお前さんを元の世界に戻してあげるさ。30年も前の話だけど、君みたいな子が『ニホン』ていうところからこの国に来たという話が伝わっているんだ。その子も君みたいに泣いていたらしい。でもちゃんと国に戻れたから大丈夫。その時その子が『ニホン』に帰ることができた方法を、当時の学者が『ヘレンの書』という文献に残したんだ。それを実行すれば……」
「日本に帰れるんですか? 帰れるんですよね? どうすればいいんですか!」
和葉は近くに来た男の肩をがっちりと掴み、前後に揺らした。
「まあ、まあ、待て。続きがあるんだ。この国でずっと戦争が起きていたことは、周……彼から聞いたかい? 30年以上前にあった戦争が終わっても、この国はずっと終戦と開戦を繰り返していてな。15年前に2回目の戦争があって1年後に終戦したんだけど、そのあと今から2年前に戦争が始まって、ちょうど1年前に終わったばっかりだ。さっき言った『ヘレンの書』は前編と後編で2冊に別れていて、後編の方は1年前の戦争でどこかに行ってしまったんだよ。この大学は結構都心にあるからね。ここが空襲の的になることは誰もが分かっていた。だから大学所蔵の文献を地方に分散させて空襲を避けようとしたのさ。貴重な資料だったのに、紙をケチって写本を作らなかったからこんなことになってるんだよなあ」
和葉は分かりやすく落胆した。せっかく方法が分かったのかと思ったのに、少しでも期待をした自分を恥じた。涙は止まることを知らない。
「まあまあ、そう落ち込みなさんな。ちょっと待ってなさい」
そう言って彼はハンカチを取り出し、和葉の涙を吸い取った。存分に泣いていいと言われ、我慢することなく泣いている。久しぶりに感じる人の優しさに、心が温かくなるのを感じた。父に泣くなと言われたばっかりだったのでなおさらだ。
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