第2話 天使との出会い
目を開けるよりも先に、小雨の音と感触で和葉は意識だけを取り戻した。助かったのかとも思ったが、周りの景色がさっきまでいたところと違う。すぐ隣には同じ湖があるが、周囲がどう見ても住宅街ではない。
青々とした木々に囲まれていた。地面は雨が降っているからか湿っており、ひんやりとした感覚に和葉は慌てて起き上がった。
立ち上がると、木の狭間から僅かに赤茶色の建物が見える。耳をよく澄ませてみると、雨の音のほかに乗り物のような音も聞こえる。さっきまでいた場所との共通点は乗り物の音が聞こえるという点だけだ。
やけに自然が豊かな湖周りも、見覚えのない赤茶色の建物も、和葉は知らない。
彼女は血の気がさっと引くのを感じた。
(これ夢だよね? でも感覚がリアルな気が……もしかしてここって「あの世」ってやつ?)
取り返しのつかないことをしてしまった。感情のままに動いた結果がこのざまだ、と和葉は後悔しながら、最後に交わした父親との会話を思い出した。最後の別れがこれなんてあんまりだ。もしここが「あの世」というものなら、会いたがっていた母とも会えるかもしれないが、絶対に会えるかどうかなんてわからない。
(え……本当に私、死んだ?)
不安な気持ちよりも後悔の気持ちが勝る。和葉はしばらく状況が理解できず呆然としていたが、数分も経てば嫌でも自分の置かれた状況を受け入れなければならない。自然と涙がこぼれては土に落ちていく。泣くことを咎める父親がいないことが、今となってはひどく辛く、心にぽっかり穴が開いたようだ。
(本当に死んでたらどうしよう。天国と地獄ってあるのかな? あるなら私は地獄だろうな……。お父さんに酷いこと言っちゃったし。お母さんは絶対天国でしょ……絶対会えないじゃん!)
和葉は絶望に心が押しつぶされそうになりながら、さめざめと泣いた。
「おい、お前、この国の奴じゃないのか」
突然、戸惑ったような男の声が聞こえる。すっかりしゃがみこみ、下を向いて泣いていた和葉は、目の前の気配に気づかなかった。そこにいたのは、亜麻色でなめらかな髪の青年だった。大きくややつり気味の猫のような瞳は琥珀色で、白い肌はきめ細かい。自然な紅色に色づく小さな口は、神経質そうにきゅっと噤まれている。端正で愛らしい顔立ちと先ほどの荒い物言いがミスマッチで、和葉はしばらくぼんやりと青年の顔を見ていた。
「返事くらいしろよな。……もしかして言葉が通じないのか?」
訝しげに青年は尋ねた。彼の格好は袴姿に学生帽といった、近代日本の書生風である。
「いえ、あの、通じてます……私ってやっぱり死んじゃったんですか? あなたは、天使?」
「はあ? お前何言ってんだ? 頭ケガでもしたんじゃねえか。死んだら話せるわけねえだろうが」
和葉はますます混乱した。死んでいない? だとしたらここは一体どこなのだろうか。夢にしては意識が随分はっきりしている。
「もしかして……いや、あれはただの迷信だろうし……でももし本当だとしたら……」
青年は何やらブツブツと一人で呟きながら顎に指を添えて和葉を見ている。
「とりあえず、俺の先生のところに一緒に来てもらう。あんたみたいな怪しいのが30年くらい前にこの国に来たことがあったという噂があってな。多分与太話だろうが。そういうのを信じてる先生がいるんだ」
「え? この国? ここって日本ですよね?」
「ニホン! そうだ、その30年前に来た奴は『ニホン』から来たと言っていたらしい。やっぱりあんた、この国の奴じゃないんだな。この国では最近戦争が終わったばっかっていうのもあって、他の国から来た奴に厳しいんだ。死にたくないならフラフラ怪しいことはしねえことだな。『ニホン』から来たなんて、間違っても口滑らすんじゃねえぞ」
あまりに非現実な現実に、和葉は頭が痛くなった。青年は彼女のことを怪しんでいるが、彼女からすれば青年の方が十分怪しかった。見た目は高校生くらいか。先生と言っていたが、それは彼の高校の先生なのだろうか。何で明治時代の人のような恰好をしているのか、聞きたいことはたくさんあった。
「おい、ぼーっとすんな。そこに住むか?」
そう言われて我に返り、青年の背を追いかけた。いちいち嫌みな言い方をする人だと、さっきまで泣いていたことは忘れて和葉は憤った。
日本ではないと彼は言ったが、街の様子は少し古風であっても大きな違いはなかった。しいて言うなら、人も建物も様々な国の文化が混ざったような雰囲気を出していた。レンガの家があれば瓦屋根の家もある。金髪もいれば黒髪もいた。
「他の国の人間を受け入れないって本当ですか? なんか、多国籍な感じですけど」
「多国籍? なんでそんなの分かるんだよ。見た目だけでそいつの生まれた国が分かるわけねえだろうが。お前の国では分かんのか」
「はあ……まあ、大体は。でも最近はグローバル化?みたいなのが進んでいて、そのうち見た目だけじゃ分かんなくなるかもって先生が言ってたような……」
「なんで疑問形なんだよ。さては勉強苦手だろ」
図星を指され、和葉は言葉に詰まった。彼女は勉強が好きではなかった。何をやっても将来役に立たない気がして、やる気が起きないのだった。だから父親にも日頃から口酸っぱく言われていた。今頃どうしているのだろうか。勉強もしない、泣いてばかりの娘がいなくなって清々しているのかもしれない、と考えたところで涙が出そうになった。
「別に嫌味で言ったわけじゃねえよ! だから泣くのは待て! もうすぐ研究室に着くから、ちょっと我慢してろ」
青年はひどく焦った様子で言った。単なる「女の子が泣いたことへの困惑」ではなさそうだった。
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