第10話 模索・5

 ポルトが本を閉じて立ち上がったのは、腹も膨れ、レダとラバスがウトウトとしかけた頃だった。

『何か収穫はあったか?』

「うん」

 半分寝ぼけながら呟いた天竜の言葉をポルトは感覚だけで正確に聞き取ったようだ。いつものパターンというだけかもしれないが。

「ここの図書館、びっくりするほど大きくてさ」

 ポルトはベッドの上に腰掛け、膝の上にレダを乗せた。オージにしていた時の癖が抜けないのか、中身がレダだとわかってからもポルトは時折こうして体を撫でる。

 親友である男に小動物のように可愛がられるのは正直戸惑う。しかもどちらかといえばレダがポルトを可愛がる方だったのだ。

 けれど、くすぐったい気分にはなるが、悪くはないのでおとなしくされるがままでいる。オージがこうされて喜んでいた気持ちもレダの中には残っている。

 レダの硬い表皮を撫でながら、ポルトは目を輝かせて自分の見た光景を語った。初めて見る違う町の風景を、自分の目では見られないレダに伝えたいのだろう。小さな自分たちの町しか知らないレダに、新しい世界を見せたかったのだろう。本当ならば共に肩を並べて体験するはずだったのだ。

 自分の知らない世界を見たいという願望はもちろんレダにだってある。ただポルトを守るためだけについてきたわけではない。共に広い世界を見たかったからだ。ポルトはそれをちゃんとわかっている。


 煉瓦造りの巨大な建物の中に数えきれないほどの本が綺麗に並んでいる。ポルトが語る光景をレダは想像した。ポルトのピカピカに輝いた表情を見ていたら、それは色鮮やかにレダの頭の中に広がり、自分がその場所にいるような錯覚を覚える。

 ポルトが探すのは天竜、そして地竜について書かれた本だ。


 天竜に関する本はそこそこの数が存在した。しかしそれらは天竜を狩るための生態調査であったり、あるいはうまく食す方法だったり、いわゆる実用的な部分だけであり、天竜という生物について突き詰めた記述が見つかることはなかった。

「天竜の子どもの生態だとかさ、そんなことは誰も興味を持たないんだね」

 彼らがどのように生きているのかなんて誰も突き詰めて調べたことがないのだ。ただこうすれば倒せるとか、この部分が美味しいとか美味しくないとか、そんなことばかりが事細かに書かれている。人にとって必要な情報はそれだけなのだ。詳しい生態すら知らないのに魂云々なんていうことまで書かれているわけがない。

「残念ながら天竜語を解説した本も存在しないみたいだ」

 おそらくそれはこの世界のどこにもない。どんな変わり者がいたとしても、そもそも人間の耳には言葉として認識できないのだから無理に決まっている。最初から期待すらしていない。ポルトだってそれは同じだ。それはただの皮肉であり、何も得られなかった落胆だった。


 そして、地竜に関する本はさらに輪をかけて少なかった。皆無と言っても過言ではない。

「見つけられなかったから管理してる人に聞いてみたんだよ、地竜に関する本はないかって」

 そんなものを探しているなんて、おかしな子だと思われただろう。基本的に、地竜の話はタブーなのだ。レダとポルトが育った町だけでなく、きっとどの町でも似たようなものだろう。それは忌み嫌うものとして、恐怖の対象として、あまり表立って口にすることではない。地竜に食われると狂ってしまうから近づいてはいけないよと、子どもの頃におとぎ話みたいにそう教わるだけだ。なぜ、とか、どのようなメカニズムで、とか、そんなことを考える人もいない。研究している人だっていない。何もわからないままにただ怯えているだけなのだ。だから本にだって書かれていない。

「ただね、そしたらひとつ面白いことがわかったんだよ。綺麗なお姉さんだったんだけどね、その人僕が尋ねたらこう言ったんだよ。『あなたも地竜の本を探しているの?』って」

『他にも誰かいたってことか?』

「そうなんだよ、レダ。そんな珍しいことが、つい5日ばかり前にもあったって言うんだよ」

 なぜ会話が通じているのかわからないが、そこは幼馴染の成せる以心伝心というやつだろうか。はたから聞けば、あるいはポルト自身の耳にも、ポルトの喋りに相槌みたいに天竜の鳴き声が呼応しているだけに聞こえるのだろうが、うまいこと会話はしっかり成立しているのが面白い。

「ねえ、これって偶然だと思う?」

 問われてレダは首を横に振った。前述したように、地竜のことを知りたいという人はほとんど存在しないのだ。たとえ興味があったとしても、そんなことを口に出せばそれだけで周りから白い目で見られる世の中だ。ポルトのような年端もいかない子供ならまだしも、髭もじゃのおじさんだったらしいその人物が、わざわざ人に声をかけてまで地竜のことについて探すなんて普通では考えられない。そんな人がたった数日前に現れたなんておかしな話である。あり得ないことであるからこそ、図書館の女性も驚いたのだ。

『だけど偶然じゃなかったとして、何なんだ?一体どんな関わりが?』

 疑問だらけの顔で膝の上からポルトを見上げると、ポルトは自慢げな表情でふふんと少し笑った。

「地竜に関する本が図書館には一冊だけあったんだ。お姉さんはそれを探してそのおじさんに渡したんだけど、それがね、その人、字が読めないから読んで聞かせてくれないかってお姉さんに頼んだって」

『なあ、それって、もしかして…』

「そう、元地竜の人、ブラドさんなんじゃないかと僕は思うんだよね」

 文字が苦手というのが全地竜に共通することかどうかは知らないが、耳が発達している彼らはおそらく耳に頼りがちになるだろうし、ブラドにもらったあの地図に書かれていた文字と呼んでも良いのかどうかわからない拙さの字を見るに、決して得意ではなさそうだ。難しい本を読めるほど文字に精通しているとは思えない。

 人間の中にも字の読めない者が全くいないわけではないが、子供の頃には学校に通うというのがどの町でも普通なので、そんな大人はほとんどいない。言語が違うほど遠くから来た旅人ぐらいである。

「僕らの足ではここまで一週間近くかかったけど、僕たちより一足早く出発したブラドさんが2、3日でここに来ることは可能だと思うんだ」

 ポルトが考えた通り、それはブラドであった可能性が高いとレダも思う。元地竜であり、かつ理性的な人間として行動できるものなど、そうたくさんいるとは思えない。この近距離でこの短期間にまた別の個体と遭遇する可能性などまずないだろう。

(俺たちと別れた後、彼は急いでここにきて本を調べたんだ。なぜだ?)

 いろんなところを行き来している彼ならば、この町に大きな図書館があることも知っていただろう。何かを調べたいという目的を持ってやって来たはずだ。

 そもそも彼はあまり町に近づくことはないと言っていた。あの時もしばらく町には行っていないから話を聞かせてほしいということだった。その彼が慌てて町に向かった理由は何だろうか。


「彼が、なぜここに?」

 これまで黙ってポルトの話を聞いていたラバスが初めて口を挟んだ。ブラドのことは同族として気になっていたのだろう。他人にはあまり興味を持たないと言っていたが、自分と同じように人間の体で人間として生きている彼に関しては何か特別な関心があるのかもしれない。ブラドの名前が出た途端に急にそわそわし、そして何かを考え込み始めた。

「そう思って、この本を読んでいたんだ。この本を読み聞かせたらすぐに帰っていったって言うからね、ブラドさんが何を知りたかったのかこれを読めばわかるかと思って」

「何が書いてあるんだ?」

 少し文字の勉強はしたとはいえ、まだ自由に扱えるレベルには程遠く、その本を見ても何の本だかラバスにはわからない。

「これは地竜に食われた人の観察日記だよ。地竜に食われた人がその後どんな末路を辿っていったか、複数の症例が載ってる」

「それはつまり、人間の体を奪った地竜、俺のような奴がその後どんな行動をとったかということだな」

「そうだね。もちろんラバスみたいに理性的な例はどこにもないけどね。どれも狂人になってしまい、追放されたとか、幽閉されたとか、殺されたとか、そんなのばかりだ」

 ポルトはちらりとラバスの顔色を窺った。けれど特に変わった様子はない。彼らにとっては同胞の行く末になど別段何の興味も湧かないのだ。個人的に知りもしない本の中の彼らがどれだけ人間に虐げられようが、同情することも恨みを抱くこともない。人間のような集団的意識は存在しないのだ。

 気にしないのならばそれでいい。その方がいい。ポルトは一つ息を吐いて続けた。

「ただひとつ、気になる結末があってね」


 狂人となった人間が町の外に出たがるのはよくある傾向だった。彼らの中身が地竜であると知っていればそれは当然の話だ。彼らの住処はもともと森の中にあるのだから、そこへ向かおうとするのは自然な流れである。

 町を出てそのまま何かに食われてしまったり、あるいは行方不明になってしまったりすることは多々ある。人は町の外で生きていくには弱すぎる生き物なのだ。そうしていつの間にか消えてしまうことは町の人間にとって都合がよく、追いかけるようなことはほとんどなかったようだ。町からいなくなったというところで終了している記述が多い。ただ、中にはそれでも大切な人だからと、何とか引き止めようと後を追った事例もないわけではない。

「何に食われたわけでもない、どんな事故が起こったわけでもない、ただそれまで普通に森に向かって歩いていただけの人が突然倒れてそのまま死んでしまったというのが2件ほど見つかったよ」

「それは、魂が…」

 入り込んだ地竜の魂がその体を抜け出し、魂のなくなった体、つまり死体だけが取り残されたのだろう。

「どちらもその後すぐに近くで地竜が発見されて目撃者は慌てて逃げ帰ってる」

「まさか、元の体に戻った…?」

「そんなことができるのかい?ラバス」

 ポルトに見つめられ、ラバスは目を伏せてかぶりを振った。

「わからない。伝説レベルで耳にしたことはあるが、実際戻ったやつを見たことはないし、見たことのある奴に出会ったこともない。今その話を聞いて初めて、もしかしたら本当に可能な話なのかもしれないと思ったぐらいだ。その方法も知らない」

「そうか、また地竜の体に魂を戻せるなら、ラバスもレダも自分の体に戻ることができるんじゃないかなと思ったんだけど、そんなに簡単じゃないか」

 ポルトはレダの翼を弄りながらうーんと唸る。結局何の手がかりも見つけられない。けれど、希望がないわけではない。実際の例があるのだから、少なくともラバスは自分の体に戻れる可能性があるということだ。それが可能ならば同じ原理でレダだって自分の体に戻れるかもしれない。問題はその方法がわからないことだ。

「俺自身も魂の移動の仕組みを理解しているわけではないんだが、感覚的には地竜の体から魂が抜け出すのはわりとスムーズなんだ。けど人間の体からは魂が抜けにくいんだよ。だから人間の魂を追い出すとかではなく食らってしまうんだ。つまり人間の体に入った状態だとそこから抜け出すのは簡単じゃなくて、一度移動してしまったらそれまでというのが一般的なんだと思う」

「もしかしてブラドさんは戻る方法を探してずっと旅をしてるのかな」

「そうかもしれない。人間として楽しく暮らしているという感じではなかった。俺と違って、生きるために仕方なく人である生活を受け入れているんだろう」

「なりたくて人間になるなんてラバスぐらいだろうね」

 ポルトの言葉に照れたように笑ったラバスを見て、褒められたわけじゃねえぞとレダは突っ込みたかったが、やめた。もしかしたらポルトは褒めている可能性もある。常識は通じない奴らだ。


『何かその2件に共通点はないのか?』

 まったりと緩み始めた空気をレダは引き締める。似た者同士の二人の軌道修正をするのはレダの役目だ。

「その2件に共通点はないかと聞いてる」

 ラバスがはっとしてレダの言葉を通訳すると、ポルトは置いてあった本を再び開いた。俺にも見せろとレダが主張するのでベッドの上に広げて置く。

「1件目はこれ」

 嵐の中、四つ足で奇声をあげながら町を走り出た男は、一直線に森に向かったかと思うと、森に入る手前で突然倒れ、息絶えた。ぬかるみに足を取られて転倒した、などということはなく、傷はどこにもない突然死だった。

「で、こっちが2件目」

 ポルトはペラペラといくつかページを繰って指し示す。

 こちらは馬車で移送中、街道で突然飛び降りて森に突っ込んだ。慌てて追いかけると、雨で増水した川の近くで倒れているのを発見した。しかし水に浸かった様子もなく、水難事故というわけではない。綺麗なままで心臓だけが止まっていた。

「共通点ねえ…。魂が抜けた時の状況でしょ?」

 この本の中にブラドが何かを見つけたのだとしたら、どこかに必ずあるはずなのだ。

『どっちも雨降りだな』

「なあに?レダ」

「どちらも雨が降っていると」

 レダの呟きをラバスが通訳する。こんな三人の会話もだいぶ慣れてきた。

「そうだね。しかも結構な大雨っぽい。増水した川とか、キーワードは水?」

『それだ!地竜は水が苦手だ。嫌なものから逃れようとして魂が飛び出るとか』

「確かに水は苦手だが、雨に打たれることぐらいは普通にあるし平気だ。水の中に入るのは無理だが、この人たちは別に川に突っ込んだわけでも水溜りに飛び込んだわけでもないんだろう?」

「そうだね。むしろ雨に打たれるのは自然界で生きている地竜の方が多いぐらいだもんね」

「第一、それだとしたら俺がこの前川に飛び込んだ時点で魂抜けて大変なことになってる」

『確かに』

 あの時は深く考えていなかったが、何かがきっかけでレダの体からラバスの魂が抜けてしまうということがあれば、魂を失ったレダの体はそのまま朽ちてしまうのだ。そう考えると恐ろしい。その体にレダの魂が戻れる確証がない段階で、ラバスの魂が抜けてしまうようなことは避けなければいけない。そのためにもこの「きっかけ」というものを知らなければいけない。突然なってしまったでは困るのだ。

「ブラドさんには何かピンとくるものがあったんだよね。慌てて町を出て行ったみたいだから。追いかけて聞いてみるっていう手もあるけど、どこ行ったかわからないしなあ」

 ポルトはレダを抱えたままベッドに体を横たえる。正直体も頭もクタクタで、そろそろ限界だった。とりあえず今日は眠りたい。




 瞼が閉じかけた頃、ラバスがあっと叫んで現実に引き戻される。

「俺の体だ…あの人の目的」

 ラバスは怯えるように自分の体を抱く。けれどもちろん、ラバスが言う俺の体とは今のこの体のことではない。

「捨ててきた俺の本当の体だ。戻るために一番必要なのは中身の抜けた体だ。俺たちの話を聞いて、近くに俺の体が放置されているだろうと気づいたんだ」

「だから急いでその方法を探して、慌てて戻った?」

「多分そうだ。自分の体に未練がなさすぎて失念していたが、レダにこの体を返そうとするなら俺には元の体が必要だ。あの人に取られたら困る」

 珍しくラバスが動揺していた。ポルトは体を起こし、宥めるようにトントンと軽くラバスの背を叩く。ラバスの本体を見た事のないポルトやレダはともかく、本人までもがまるで忘れてしまっているとは、何ともラバスらしい執着のなさだ。しかしここへきてその捨てた体が必要であると気づき、急に慌てているのだ。しかも自分のためではなくレダのために。

「そもそも魂の抜けた体はどうなるんだ?死体と同じなのか、あるいは仮死状態で生きているのか。考えたこともなかった」

「戻った例があるんだから、大丈夫なんじゃない?」

「だけど期限があるかもしれない。体は徐々に朽ちていくかもしれない。その人たちは狂人になってから何日目に戻ったのか書いてあるか?」

「ええと、二日目と、五日目だね」

「つまりそれ以降は何の保証もないわけだね」

 ラバスが体を捨ててからもう10日は経つ。ラバスは青くなった顔を両手で覆った。

「大丈夫、それでもちゃんとレダの体は必ず返すよ」

 掌に覆われくぐもった声でラバスはそう言って、空いているベッドにそっと身を横たえた。

「夜が明けたらすぐ出発しよう。ラバスの体を確認しに行こう。ね?」

「ああ」


 部屋の明かりを消し、ベッドでぎゅっと目を瞑るポルトが眠れずにいることはレダにはすぐにわかった。小さな手で頭を撫でてやると、ぎゅっと体を抱きしめられる。

(もう、ポルトにとって君の心配事は自分の心配事と同じみたいだよ、ラバス)

 レダが悩んでいる時もいつもそうだった。レダ本人よりも不安になったり悲しくなったり、親しい人に対する共感性が高いのだ。我が事のように怒り、泣き、笑う。そこまでラバスに心を許しているのだ。少し、嫉妬する。だけど嬉しくもある。

 そんなラバスはといえば、もうすっかり眠っている。いつもながらオンオフが早い。野生の性だ。

『ラバスは大丈夫だよ、ポルト。あいつは強いやつだ』

 そっと囁くと、ポルトは小さく「うん」と答えた。言葉は伝わらないが、気持ちは伝わる。





 ———必ず見つけるから。諦めないで。

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