第8話 蕩然・1
心の整理がつかない。つくわけがない。
ポルトには、別人であると告げたラバスに返す言葉が見つけられなかった。自分が何を言いたいのか、いや、自分が何を思っているのかすらわからない。ただただ混乱していた。
とりあえず、何かしていないとどうにも無限に湧き上がる正体不明の感情に飲み込まれてしまいそうで、ポルトは無言のまま旅支度を始める。
ラバスのことを無視しているみたいな態度だったが、そうしないと自分を保てなかったのだ。視界の端に困惑したような顔で佇むラバスが見えてはいた。
あんなにしおらしくなったレダの姿を見るのは、一緒に祭りに出かけてはぐれたポルトを見つけられず、一人で家に帰って両方の母親にこっぴどく叱られた時以来かもしれない。悪いのは途中で好奇心につられてはぐれてしまったポルトの方なのだけれど、レダが母たちの心配を一身に背負ってしまったのだ。何も考えずに帰宅したポルトはそんなレダの顔を見て初めて悪いことをしたと反省したものだ。
そんな思い出に浸って一瞬気が緩む。けれども、あれはレダではないのだ。レダと同じ表情をしていたって、レダではない。その事実がなかなか受け止められない。だってレダの体は確かにそこにあり、暖かく、動いているのだ。それなのに、レダではない。
どうしたらいいのだ。
いっそ、他の地竜に食われた人と同じように、狂人のようにでもなってしまえば諦めもつくのかもしれない。それはそれで、想像してみただけでかなり辛いのであるけれど。それでも自分を害するものとは一緒にいられないと、腹をくくることは可能かもしれない。あるいは自分を殺してくれれば楽になるかもしれない。
たけどどうだ、彼は理性を持って生きている。普通の人間と同じように。ともすればレダ本人だと錯覚してしまうぐらいに。
どうしたらいい。
理解が、気持ちが、現実に追いつかない。
それでも現実は待ってくれない。
オージが肩の上に飛び乗り、ギャと小さく鳴いた。気まずい雰囲気を感じているのだろうか。ポルトを慰めようとしてくれているのだろうか。
少しだけ頬を緩め、ポルトはオージの頭を撫でた。肩の上に動かした視線のその先に、ラバスがいた。
「ポルト…」
おずおずと、ラバスはポルトに話しかける。彼がレダではないと告げてから、初めて二人の視線が絡んだ。
「俺を、君の旅に同行させてくれないか」
頼むと頭を下げられ、ポルトは息を飲む。どういうつもりなのだろう。彼が何を思ってそうしているのか、ポルトには全くわからない。人の体を奪い、人のふりをして、人として暮らしていこうとでもいうのか。
「俺は戦える。ただ利用してくれて構わない」
「…なぜ?」
ふと言葉が紡がれる。混乱して言葉が見つからなかった中で一つだけ確たるもの。
知りたい。
何が起こったのか。どうしてこうなっているのか。何を思っているのか。
ただ、知りたい。
何もわからないままなのは嫌だ。
何も知らずにただ喚くのは嫌だ。
ちゃんと現実に向き合いたい。
空気を読んで目を瞑る、なんていうのはポルトが一番嫌悪してきたことだ。
(僕が僕であるために)
想像で補ったものではない正しい事実を知らなくてはいけない。
「ポルト、俺は君を守りたい」
「どうして?僕と君との間には何もない。君はレダじゃない」
「俺は、人間が好きなんだ」
ラバスの言葉に衝撃を受けた。ラバスはようやく言葉を返してくれたポルトの心を離すまいと必死だった。それは伝わってくる。だって体はレダなのだ。思考と表情はつながっている。レダがこれまで培ってきた筋肉の動きは体に記憶されている。同じ顔をする。ポルトには、わかってしまう。
「だったらなぜ、レダを食ったんだ。君の言うことは矛盾している。信じられない」
「食ってない!俺はレダを食わない。誰も食わない。レダの魂は、もうそこになかったんだ」
「嘘だ。死ぬほどの怪我じゃなかった」
「内臓が損傷していた。だから回復するのにずいぶん時間がかかってしまった」
はっとして、ポルトは自分の口に手を当てた。怪我の割に苦しそうな顔をしていたレダを思い出す。背中を強く打ち付けたと言っていた。外傷はなかったが、その時に内臓に衝撃が行っていたのかもしれない。口元が血で汚れていたのは、口が切れていたわけではなく、血を吐いたのかもしれない。
思い当たる状況はこんなにあるのに、なぜあの時気付かなかったのだろう。医者ではないのだから仕方がない。けれど。
「くそっ」
込み上げる悔しさに、そばにあった木の幹に拳を打ち付けた。
「仕方がない。たとえわかっていたって、内臓を手当てすることはできない」
ラバスはポルトの拳を両手で包んで打ち付けた部分をさする。温かい手だった。ポルトのよく知る大きくて男らしいけれどまだ少し子供の柔らかさを残した手だ。
目頭が熱くなり、視界が滲む。ラバスから顔を背けるように俯いた。足元の丸太にひとつふたつとシミが広がる。
「…レダ…ごめん…ごめんね…」
助けてやれなかった。あんなにも助けてもらったのに。
(僕のせいだ)
旅に出たのも、天竜と戦ったのも、傷を治してやれなかったのも、全部。
迷惑をかけるばかりで、何もしてあげられなかった。
(僕なんかと関わってしまったばっかりに)
まだたった14年しか生きていない。レダは町の英雄にだってなれたはずなのに。幸せな未来があったはずなのに。
(僕が全部壊してしまった)
何よりも大切なものを、この手で壊してしまったのだ。
「守ってくれなくていいよ。僕も天竜にやられてしまえばいい。そもそも死ぬべきだったのは僕だ」
レダと一緒だから外の世界は楽しかった。レダがいない今、ポルトの旅はただ生きるためだけのものになってしまった。それが当初の予定と言ってしまえばその通りなのだが、それがレダの犠牲の上に成り立っているなんて、それだけの価値がポルトの生にあるのだろうか。
「そんなこと言わないでくれ。レダがそんなことを望んでいるとは思えない」
「君にレダの何がわかるって言うんだ。その体にレダの心が残っているとでも言うのか?」
「いや、そんなことはない。ただの想像だ。だが俺はずっと君たちを見てきたから、そう思う。レダは絶対にポルトを死なせない」
「だとしても君には関係ない。君はレダじゃない」
「俺は、レダがしたかったことを引き継ぎたい。自分を捨てて、この体を蘇生できた時にそう誓った。少しでも君に悲しい思いをさせたくなくて痛みを我慢していたその思いを俺だけが知っている」
「君は…レダの何を知っているの?」
「たくさんは知らない。でもポルトが知りたいなら全部話す。だから同行を許してほしい」
ずるい、と思った。知りたいに決まっている。そんな事を思わせぶりに言われて、聞かずに死ねるわけがない。生きる気力が沸かずにはいられない言葉だ。偶然なのかわざとなのか知らないが、ポルトのいちばん芯の部分を突いてくる。
「わかった、一緒に行こう。とりあえず君から聞きたい話を全部聞くまでは死ねない」
ポルトの言葉を聞くとラバスの顔はぱあっと光り輝く。近年はあまり見なくなった幼い頃のレダの全開に喜んだ時の顔だ。そんな顔をされるとポルトの方が戸惑ってしまう。まだラバスに心を許したわけではない。道すがら話を聞くだけだ。どれだけ長い話になるかわからないが、生きるのならば進まなければいけない。食糧だって必要だ。だから共に進むだけだ。
「君を置いていって僕の知らないところでレダの体を好き勝手されたら嫌だしね」
決して許したわけではないのだと、そういうつもりで付け足したのだが、ラバスは表情を一転、キリッとさせ、一歩距離を詰める。
「この体はポルトのためにしか使わない。最初からそのつもりだ」
全くの逆効果だったようで、ポルトは詰められた距離の分だけ体を後ろに引いた。
肩の上のオージがプキュッと鳴き、小さな手がポルトの頬に触れた。柔らかくて少し冷たい手のひらでペチペチと、ポルトの注意を引くように数回叩く。そして、涙の跡をペロペロと舐めた。
泣いていたポルトに気力が戻ってきたことをオージも喜んでいるのだろうか。
「そうだね、オージを置いて死ぬわけにもいかなかったね。ごめんね」
話を聞くまでじゃない、せめて、オージが一人で生きていけるようになるまで、ポルトは生きなければいけない。自分の使命を思い出した。そのためにポルトは町を出てきたのだ。ここでそれを放棄してしまったら、町を出た意味がない。レダが無駄死にしたことになってしまう。そんなのは駄目だ。
(まだ僕はちゃんと生きなくてはいけない)
そのためには、ラバスの力を借りるのが最善である。一人ではとても生きていけないことは実感している。向こうがそうしたいと言うのだ。利用すればいい。とりあえずはそれでいい。
「俺はオージのことも守る」
ラバスはオージの小さな手を取り握手をする。
「君の天敵だけどいいの?」
「構わない。ポルトの大事な子で、レダが守りたかったものだ」
「大きくなったら君を食うかもしれない」
「地竜の体はもう捨てた」
「そう…」
ラバスの覚悟が見えた気がした。そして、ラバスの思考の柔らかさを感じた。敵と見たら全て排除する町の人間と同じで、天敵に対するその思いは生物の本能のようなものであるのに。そういう凝り固まった思いがラバスにはない。
少し怖かった。レダの体を奪ったラバスを、全力をもって憎いと思えないことが。
「じゃあ行こうか」
真っ直ぐに見つめてくる視線を避けるようにポルトは自分のリュックを背負った。
「一つだけ約束してほしい。二度とレダの真似はしないでくれ。君は君だ、地竜のラバス。僕も二度と君をレダとは呼ばない」
決意はしたが、まだ全てが受け入れられたわけではない。黙っていれば本当にレダが変わらずそこで生きているようで、混乱するのだ。その上真似などされたらおかしくなる。
「わかった。約束する」
頷いたラバスはレダの物だった荷物を背負う。そうしているとやっぱりレダにしか見えない。
できるだけ違うところを見つけよう。ラバスをよく見よう。レダではないのだと体に染み込ませよう。
ポルトはともすれば現実逃避しようとする自分の心に言い聞かせた。
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