宝物

遠山李衣

第1話

(どどど、どうしよう……っ!)

 二回目の二学期中間考査。最終日の三限目、古典B。

 シャーペンが、折れた。


 もう一度言おう。シャーペンが、折れた。シャー芯ではない。シャープペンシル本体が、ぼきっと折れたのだ。ディズニーのキャラクターがあしらわれた、中学の時からの愛用品。この一本だけを愛してやまず、予備という名の浮気相手を手に取ることは、一度もなかった。

 クラス中のシャーペンが走る音が、ひと際大きく聞こえる。右半分が真っ白な解答用紙に目を落とした。私は、いつも後ろの方から問題を解く。項王の宴に樊噲が乱入するシーン。心は、沛公と同じくらい危機に波打っている。指先が冷たいのは、空調のせいではないはず。

 カラン。

 その音は、小さいながらも私の耳によく響いた。

 左を向くと、頬杖をついた彼の瞳が私を捕らえた。そして世界から、音が消えた。この人の目は、こんなに強い力があっただろうか。それとも、そう感じるのはずっと気になっていたから? 瞬きもできず、じっと彼を見ていると、くいっと片眉が上がるのがわかった。あ、こんな表情もするんだ。いや、見惚れている場合じゃない。彼は何が言いたいのだろう。意図が分からず眉をしかめていると、すらりとのびた指をタクトのように振り、床へと向ける。小麦色をしたしなやかなそれを目で追うと、シャーペンが私寄りに落ちていた。さっきのは、シャーペンが落ちた音だったのか。

 なぜ拾わないのだろう。目をぱちくりさせると、彼は苛立ったように口をぱくぱくさせた。

(そ、れ、つ、か、え、よ……? 「それ、使えよ」?)

 瞠目し、シャーペンと彼を交互に見ていると、彼は、早くしろとでも言うように、しっしっと手を払った。

(あ、り、が、と、う)

 私も同じように口を動かすと前を向き、すっと真っ直ぐ手を挙げた。

 光の君が若紫を引き取るところまで行きつき、解答用紙に最後の句点を付けた時、ちょうどチャイムが試験の終わりを告げた。

 彼の解答用紙は、真っ白だった。


「さっきはありがとう!」

 シャーペンを返そうと、両手を添えて彼に差し出す。

「いらねえよ。オーキャンでもらった安物だし」

 なんということはない、大学名だけが白く印字されたシンプルな黒いボディ。

「あ、ありがとう」

 有難く押し頂くことにする。筆箱に入れていると、隣で彼がぷっと噴き出すのが見えた。

「な、なに?」

「いや、さっきの思い出してさ。シャーペン本体を折る奴、初めて見た」

 肩が小刻みに震えている。ツボに入ったのか、なかなか笑いやまない。

「そんなに笑わなくたっていいじゃない」

「ごめん、あんまり面白かったから」

 目尻に涙まで浮かんでいる。この野郎。そこまで馬鹿にするなら感謝の気持ちを返せ。

「解答、白紙で出したくせに」

「見たのかよ、カンニングだな……ってそんな睨むなよ、悪かったって。詫びにチーズバーガー奢ってやるよ」

「ダブルチーズバーガーで手を打ってあげる」

「お前な……」

 憂鬱な試験は終わった。明日からまた授業と部活で忙しくなるだろう。

「ほら、行くよ! 代わりにソフトクリーム、奢るから」

 自然に――自然だっただろうか。手汗、気付かれてないだろうか――彼の手を取り教室を飛び出す。クラスメートから彼の笑顔を隠すように。

 

普段ぶっきらぼうな彼が、すっごく優しい人だってずっと前から知っている。雨の日に、橋の下に捨てられた子犬にミルクをあげていたことも、財布を拾って、持ち主を必死で探していたことも、痴呆の入ったおばあさんを、二時間かけておんぶで家まで送っていったことだって知っている。今は怖いって遠巻きにしている女子も、彼の魅力を知ったら……、見ているだけでよかったはずなのに、一回優しくされると足りなくなってしまう。もっと話したいと、心が求めてしまう。

(絶対、もっと仲良くなってみせる)

 知らず握った手に、力がこもった――。



「なあ、明らかにそれ、浮いてないか」

「えっ?」

 彼女がきょとんとした目でこちらを見る。反則だ、可愛すぎる……って、そうじゃなくて。俺は筆箱の中からひょいとあるものを手に取った。

「このシャーペン」

 大学名が白く印字されただけの黒いシャーペンは、ディズニー好きな彼女の、見るからにファンシーな持ち物から完全に浮いていた。それに、大分年季が入っていてぼろい。

「俺、お前がそれ使うとこ、見たことねえもん。汚いし、もう捨てるぞ」

「だめっ!」

 華奢な見た目からは想像もつかないくらい強い力で取り返された。

「これはっ、私の大切な宝物なのっ!」

「宝物? いや、どこにでもある普通のシャーペン……」

「高校の時に好きな人からもらった、大切なものなの! これがあったから、辛い受験勉強の時もお守り代わりに握って、頑張って来れたんだから」

 彼女は頬を真っ赤に染め、目を涙で潤ませた。

「貴方のことなんて知らない! もう帰る!」

 そのまま部屋を出ていってしまった。

「まじか……」

 ベッドに頭をもたせて溜息をつく。

「期待しても、いいのかな」

 もちろん、シャーペンを彼女にやった時のことははっきり覚えている。高校二年の二学期中間考査、最終日。教科は古典Bだった。


 定期考査に価値を見出せない俺は、いつも白紙の答案を出していた。模試で結果を出していたから、先生たちも文句は言わない。内申点を上げる、友達よりもいい点数を取る、上位五〇位以内に入る……明確な目的を持つクラスメートと違って、この時間は単なる空白でしかなかった。

 にもかかわらず、学校を休むでもなく、空き教室で他のことをするでもなく、緊張感で溢れたこの教室に居続けたのは、ひとえに彼女がいたからだ。彼女と隣になるのは、試験期間の三日ないし五日間。そんな短い期間に彼女を見るのが楽しみだった。

 例えば数学。隣の机には消しカスの山ができる。簡単な計算でミスしては、消しての繰り返し。ミスが続くと、柳のような眉の間にシワが寄っていく。そうそう、解答欄を全部ずらして泣きそうになっていたこともある。

 例えば英語。タンタンタタタン、タンタタン。隣のシャーペンは楽しげに、リズミカルに踊る。それと同時に美しいブロック体が紡がれていく。彼女の口元も楽しげに弧を描いた。

 そんな中で、俺が一番好きなのは古典だった。彼女の表情は、くるくる動く。先人の書いた物語や随筆、和歌に感情移入しているのだ。客観的に読もうと、敢えて後ろの方から問題を解いていることは知っていた。だが、気付けばシャーペンは止まり、微笑んだり口をへの字に曲げたりしている。その表情から、中宮に仕える清少納言の喜びや、夫とすれ違う道綱母の愛への苦悩を想像するのはとても楽しく、換え難い時間となっていった。

 だから。ずっと見ていたから、シャーペンが折れて困っている彼女に代わりの物を授けるのは自然なことだった。シャーペンごときにその表情を曇らせてほしくなかった。

彼女のためじゃない。俺は、自分のために、彼女を助けた。


「まさか、あの時のシャーペンだったとはな」

 彼女とは三年でクラスが分かれ、それから隣り合わせることはついぞなかったし、互いに受験勉強で忙しく、連絡を取り合うことも無かった。

(辛い受験勉強の時もお守り代わりに握って、頑張って来れた、か……)

 入学式で再会するとは思わなかった。当時の彼女の成績では、この大学に入ることはおろか、二つ三つ下のランクさえ絶望的だった。自分の楽しみのために落としたシャーペンが、彼女を変えたのか。可愛いものに囲まれた彼女に似合わない、古いシャーペンを思い出し、知らず口元が緩むのを感じた。俺に再会するために嫌いな勉強を頑張った。その事実がただただ嬉しかった。

「あのバカ。んなこと知ったら、余計好きになるじゃねえか」

 ただ、ひとつ引っかかることがある。『高校の時に好きな人からもらった』という彼女の言葉。『好きだった』と言われなかったことで期待していいのか。それとも『今』は別の奴が好きなのか。頭の中がぐるぐるする。思考が悪い方に向かう。

「ワン、ワン!」

 突然の耳元での鳴き声に、がんじがらめになっていた思考がたちまち霧散する。見ると、犬っころ――名前はまだない――がつぶらな瞳をこちらへ一身に向けていた。

 二年前、橋の下に捨てられていた子犬。ミルクをあげているうちに懐き、やがて家まで付いてきたこいつは、ずいぶん大きくなっていた。最近は再会を果たして以来ちょくちょく家に遊びに来るようになった彼女の方に、べったりな気もするけれど。

「ワン、ワン!」

 犬っころがもう一度吠える。――つべこべ言わずに告れよ、ヘタレめ――そう言われた気がした。

「そう、だよな。今度は俺が、頑張る番だよな」

 犬っころをわしゃわしゃ撫でると、――頑張れよ――と言うかのように、手をペロペロ舐めてくれた。

 立ち上がって机の引き出しから綺麗にラッピングされた箱を取り出す。彼女に似合いそうなハート形のネックレス。

 逢ったら最初になんて言おう。『ごめん』? 『そろそろ付き合おう』? それともシンプルに『好きだ』?

 未だ怒っているはずの表情は、どんな色を浮かべるだろうか。



 二年越しの想いが通じ合うまであと二〇分。ふたりの宝物は、きっとこれからまた増えていく――


――Fin――

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宝物 遠山李衣 @Toyamarii

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