それは、失恋にも似た何か。
観月
それは、失恋にも似た何か。
視界が霞んでいた。
お通しの小皿を灰皿代わりにしていた酔っぱらい客に注意をして、殴られた拍子に眼鏡が割れてしまったのだ。普段は従業員の身を気遣うということを知らない店長も定時での帰宅を許してくれた。もしもまだ働いていたら今度は自分が店長の眼鏡を割っていたかもしれないと思いながら、不明瞭な手元に目を眇め、苛立ちをぶつける様に扉に鍵を差し込む。
水回りに囲まれた廊下の突き当たりの私室に入る時に、散らかしていたゴミ袋に足を取られ腰の高さ程の箪笥に身体をぶつけた。
パリンと何かの砕ける音がした。
溜息を吐きながら電気を点けると足元に陶器で出来た子犬の置物の胴体部分だけが転がっていた。割れてなお艶を失わないそれは数年前にリサイクルショップで気に入って買った物だった。頭を掻きむしりながらしゃがみ込み適当なビニール袋を掴むと、胴体と、少し離れたところに落ちていた頭を放り込んで袋の口を固く縛った。
もう今日はシャワーを浴びることすら気怠い。ふらふらと布団に潜り込んで先程ぶつかった箪笥の上を眺める。
いつも疲れて帰ってきてこうしていると、視線の先にはあの犬がいた。特別手入れをしていた訳でもないし、常に意識していた訳でもない。しかし、ただ常にそこにあって、寝る前のぼやけた視界の中でいつもしっぽの流線や耳の突起を眺めていた。それに癒されていたとは思わないが、ただ今はそこにその犬がいないことが何故だかどうしようもなく悲しいことに思えた。
きっと疲れているんだと携帯を見ると、いつもなら仕事を終えて帰宅準備に取り掛かっている時間だ。こんな時間に眠れるなんて、なんて贅沢だろう、明日は早めに起きて眼鏡を買いに行こうとぼんやり考えて携帯を充電器に挿して閉じた。再び横になってみてもやはり犬はそこにはない。
明日眼鏡を買って、もっと惹かれる置物に出会ったら、もしかしたら、今日の犬のことなんてもう思い出しもしないかもしれない。なら今日眠るまでは、このまどろみの間だけは、この悲しさを覚えておきたいと思った。
きっとこの光景が悲しいと思えるのも今の内だということが何故か虚しかった。
ただぼんやりと犬がいた場所を眺める。
視界が霞んでいた。
それは、失恋にも似た何か。 観月 @miduki0403
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