道のり

 冷蔵庫は脆弱なおーけすとらだ。若しくは呼吸が苦手な生き物。低い音で常に唸る音が部屋を浸食して、私は電灯を消した夜の台所で冷蔵庫に寄り添う。内側は冷たいであろうそれは、側面は熱い。熱があるのかも知れない、と思う。それで唸っているのかな。

 眠れなかった。冷蔵庫の音が気になるの、と理由を付けて台所に立った。本当はそんなことのせいではないことくらい分かっている。

 私は考える。思考する。定義する。抽象化する。

 言葉たちがコトコトと異なる案を持ち出し始めて、私は冷蔵庫の傍から動けない。

 私は見る。逢う。わらう。歓ぶ。

 私は眠る。夢をみる。辿る。

 私ははにかむ。くちずさむ。

 私は走る。浮かぶ。回転する。

 私はいつも、理由を欲しがってばかりだ。

 私は冷蔵庫を開けて水の入っているピッチャを出して直接飲んだ。扉を開けた冷蔵庫から橙の光が弱々しく洩れて、台所の一角を仄かに照らす。冷蔵庫はまるで、黒い夜のなかの小さな救命ボートだ。

 私は喩える。考える。そして納得する。落ち着こうと努める。証拠が欲しいのだろうか。

 水が喉を落ちてゆく数秒のあいだだけ意識が遠のいた。本当は、眠いのだ。眠くないふりをしている。私はただ、夢をみるのが怖いのだった。否それは語弊がある。私は巧妙な夢の操作方法を知っている。夢は現実世界と違ってチャンネルを替えられるのだ。ただ、幾らチャンネルを替えても逃げ切れないものがある。テレヴィジョン・ドリームのチャンネルは無数にあって、私は逃げ惑い、よろめき、躓き、新しいドアを開く。しかしまた新たな暴風雨の部屋に出遭うだけなのだった。


 夢は少しずつみる。


 昨日は泣いた。誰にも見られないように。あの子を救いたかったことを思って泣いた。救いたかっただなんて傲慢極まりないと思う。でも繰り返し思う。あの子を救いたかった。グレーテル。いとしい私のグレーテル。

 タナトスは私の心にしんしんと降り積もり、上手に敵対しながら味方につけて生きてきたつもりだった。あの子にもタナトスは同じくしてやわらかに落ちていた。グレーテルは優しい子だった、なんて云うのは卑怯な話だ。死んだ少女だからと云って優しい子だったとか気性がよろしかったなどと云うおとなたちを、葬儀場で心底憎んだ。憎しみとはこんなに苦しいものなのか、ならばひとを憎んだのは初めてだったのかも知れない。グレーテルのなかのタナトスは、黒い石だったのだろう。グレーテルはポケットに黒い石を入れ過ぎた。だからあの日、三階の踊り場から均衡を崩して落ちたのだ。グレーテルが落ちたときは周りに沢山のひとがいて、集まってきてすぐに救急車を呼んだと聞いた。そのあいだグレーテルは、ううん、と小さく声を洩らしたと聞いている。それについて思い出すとたまらなく躰中が痛む。私のグレーテルは、どれほど苦しんだのだろう。何分後に息を引き取ったのだろう。私の躰はあの子のものではないけれど、痛みは何人とも共有出来ないだろうけれど、でも、確かに私の躰中が痛くなる。本当に、こころが痛い、とか胸が痛い、とかではなくて、躰が、反応する。細胞のひとつひとつが、あわ立つかのように捻まがるかのように。

 グリム童話のグレーテルは、老婆を燃盛る窯に突き飛ばした記憶をたずさえて、そしてそのまま生きていけたのでしょうか、という、私は今でもあの深い青の本を大事に持っている。両親も兄のヘンゼルも知らない、グレーテルだけの記憶。本当に、どうやってサーヴァイヴすれば良いのか、全くわからない、この世界。グレーテルの話を貸してあげた、私の友人のグレーテルは死んでしまった。私はまた記憶がひとつ増えた。見えない傷跡はあの深い青色をしているだろう。さあどうやって生きてゆこう? 理由や証拠や価値を作って自分を誤摩化したくない。


 話がアンドロメダ星雲まで昇ってゆき、そして戻ってきた。


 冷蔵庫は黒い夜のなかの小さな救命ボートだ。そして、私の躰ひとつ分くらいは容易く入れられるように見える。水を飲み終わった私は、つかの間冷蔵庫のなかを眺めてそして扉を閉じる。こんな棺桶を望むのは醜いことだ。わきまえなければならない、と自分に云い聞かせる。私は冷蔵庫の傍らにもたれて目を瞑る。夜は黒い薄紙を幾枚も少しずつずらして重ねてゆくかのように、長いときを経てから見返すと緩くカーヴを描いてねじれている。優しい。正しい。そして、捩れる。長いカーヴの道のりを、まだ歩いてゆく。さようならの云い方が分かるまでは、まだ歩いてゆく。まだ歩いてゆく。

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