「ごちそうさま」


「ありがとう」


「おいしかったです」


 シンプルに一言だけ。大した言葉じゃない、メモ書きのような手紙。


 それでも男にとって、毎日積み重なっていくそれはかけがえのない宝物だった。


 今朝の朝食を下げた時に添えられていた新しい手紙を、大切そうに眺めている。


 するとその時、コンコンと扉を叩いて家来の少年が現れた。


「魔王様! お仕事がこーんなに溜まっていますよ!」


 早く返さなければならない他国への重要な書簡、目を通すべき諸々の報告書、自分が書かなくてはならない書類。それらを山のように抱えて、家来の少年は口をとがらせていた。


「ここ最近熱心に人間の料理の勉強をされていますが、これ以上魔王としてのお仕事が滞るようであれば、僕たちは料理の勉強を止めざるをえませんからね!」


 そんなことをされては困る、と男は慌てて手紙を机上の小さな棚にしまった。「迷惑かけるね」と家来の少年から書類の山を受け取ると、机の上に順に広げた。


 早速仕事に取り掛かろうとした時、家来の少年がふと尋ねた。


「……また、人間の女からのメモ書きを見ていたのですか?」


 そう言われて男はほのかに頬を紅潮させてから、ぎこちなく首肯した。


「魔王様は本当に、女のために熱心ですよね。他国の魔王がこんな風にしているだなんて、僕も長いこと生きてきましたが聞いたことがありませんよ」


 家来の少年の素直な言葉に、男は困ったように照れをにじませ、苦笑した。


「他国とはほとんど個人的な交流がないから分からないけど、もしかしたら同じようにしている魔王もいるかもしれないよ」


 そう言って男は、机上の本棚に並ぶ人間の生活に関する本を示してみせた。


「これが亡き父上の書物庫にあったのも、同じく人間の世界から連れてきた母上を父上も大切にしたかったからなんだと思う。母上は私が物心ついた時には既に病死してしまっていたからほとんど記憶がないけれど、父上の代からこの城に仕えていた君たちだったらきっと分かるだろう?」


 懐かしく優しいものを想うような男の眼差しに、家来の少年は一瞬困ったように言葉に詰まってから、コクンと一度だけうなずいた。


 その時ふと、男の頭にある疑問が浮かんだ。


「そういえば、彼女はこの城に来て大分経つのに、まだ誰とも一言も口を利いていないそうだな」


 滅多に会わない自分は勿論のこと、世話係を務めている家来の少女でさえ、彼女の声は聞いたことがないという。


「もしかして、何か悪い病気なのではないだろうか?」


 人間の母親を病で亡くしている男は、どうしても不安を拭えなかった。


「話を聞いている限り、特に体調が悪い様子は見られないと思いますが……。ああでも、人間は精神が揺らぎやすくもろいと聞きます。もしかしたら環境の急激な変化で口が利けなくなったのでは?」


 家来の少年がなんとなく口にしたその言葉に、「それだ!」と男は勢いよく立ち上がった。机からバラバラと書類が舞い落ちる。


 呆気に取られる家来の少年に向かって、男はとんでもないことを言い放った。


「今から人間の国に行く! 私は彼女の声を取り戻してやるぞ!」


 普段は女々しいまでになよなよとしていることもあるというのに、一度そう決めたらてこでも動かない頑固さが、男にはあった。


「き、危険すぎます! 人間が沢山いる場所で、もし魔族だと、ましてや魔王だとばれたりしたらどうなると思っているのですか?!」


「大丈夫、ばれたりしないよ。少しばかり人間の医学書とかを探してくるだけだから」


 必死に止めようとする家来の少年の言葉など意に介さず、マントを脱ぎ、人間の着るものと変わりない外套に身を包んだ。


「それに一応私だって魔王だから、擬態は皆より上手にできているはずだ」


 そう言ってみせる男の見た目は、完全に人間と相違ない。


 召使たちは人間の姿を長く維持することは出来ないし、魔物の中では力が強い方である双子竜でさえ、服に隠れた体幹の一部に鱗模様が浮いて、背には小さな翼がついている。


「しかし……」


「そんなに言うのなら、君も一緒についてきたらいいよ」


 にこりと笑ってそう言う男をもはや自分が止めることなど出来ないということに、家来の少年は気づいてしまった。


 だから仕方なく、「はい」とうなずくしかなかった。




 魔族の国を出て人間の国に行くこと自体はすんなり出来た。それは彼が魔王だということもあるし、見た目だけでは全く魔族だとは分からないハイレベルな擬態のおかげでもあった。


 しかし、隣を歩く家来の少年はずっと冷や冷やしていた。


「早く帰りましょう、やはり人間の国は空気が合いません」


 街に着いた瞬間そんなことを言う家来の少年に、男は小さく肩をすくめた。


「まだ着たばかりだ。本が沢山あるところを探して歩こう」


 ぽかぽかとした昼の穏やかな陽気の中、二人が石畳を歩く。男は綺麗なレンガ造りの町並みや整備された花壇を眺めていた。


「きれいだな」


 まぶしい何かを見るときのように目を細めそう言うも、同意する言葉は返ってこない。


 すっかり不機嫌な様子の家来の少年に、男はぽつぽつと語りだした。


「実は、まだ幼かった頃に一人でこの街に来たことがあるんだ」


 家来の少年はちらりと主を見上げると、


「あなた様が突然居なくなって城じゅうが大騒ぎだったこと、僕が忘れているとでもお思いですか?」


 とトゲのある口調でそう言った。


 はは、と困ったように男は苦笑し、言葉を続ける。


「私は父上のように威厳ある魔王になれるとは思えなかったし、それ以前に気弱すぎてまともに友達も作れなかった。情けなくて、寂しくて。もしかしたら私の生きる場所は魔族の世界ではなく、人間の世界なんじゃないかと思ったんだ」


 すれ違う人間の子供たちに視線をやって、昔の自分を思い出しながら切なげにほほえんだ。


「幼い頃から力はあったし、擬態は完璧だった。それでも、気が弱くて周りの顔色ばかりうかがってしまう私に、友達なんて出来なかった。私に友達ができないのは種族のせいなんかではないと分かっただけだった」


 そしてかたわらの花壇の前におもむろにしゃがむと、その白い花弁にそっと指先を触れさせた。


「私がこの街中で一人泣いていた時、ある優しい少女が話しかけてくれた。そしてこの花を私にくれた」


 この白い花に、家来の少年は見覚えがあった。


 自分の主は、魔王としては相当不似合いな趣味だが、城の周りの庭に手作りの花壇を持っている。そこは魔族の特殊な力など一切使っていないけれど、いつも白い花が一面きれいに咲いている。


「あの花壇の一番はじめの一本は、その時の少女がくれた花なんだ。あれから私はその花のことも、その少女のことも、片時も忘れたことはない。優しい言葉と暖かなまなざし。いつか人間の誰かにお嫁さんに来てもらわなければならないのなら、あの子がいいとずっと思っていた」


「その花とは、あなた様が毎日女に送られているあの花束、ですね? そしてあの女は……」


 男はうなずいて、静かにこう言った。


「いくら魔王だって、好きでもない女性と夫婦になりたいだなんて、思わないよ」


 そう言って、家来の少年に小さく笑顔を向けた。


「相手の意思も確かめず強引に連れてくるという方法しか、魔王である私には選ぶことができない。でも、その分私はいくらでも彼女に尽くすつもりでいるよ。彼女の声だって私が絶対に治してみせる。必要とあらば人間の医学の勉強だってするさ」


 無邪気にそう言うと、街並みに本屋を見つけて意気揚々と足を進めた。


 そんな主人の後姿を見つめながら、家来の少年は不安げに瞳を曇らせていた。

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