第22話「グリーンの香りの車内で」






   22話「グリーンの香りの車内で」




 テニス部の練習は厳しいものの、大学の忙しさもあるため、そこまで拘束されるものではなかった。短い時間で、重点的に練習するため、とても効率的だったのだ。

 もちろん、自主練習をする部員もおり、朝練や夜遅くまで部室にいる生徒もいた。

 斎と夕映は、そのときの忙しさに応じて、伸び伸びと練習に参加してした。

 斎は入部してすぐに1年でレギュラーになったし、夕映も補欠には入ることが出来ていた。


 

 斎と夕映は部活以外でも頻繁に会うようになっていた。夕映は彼に会うのを遠慮していた部分もあったけれど、斎はそんなことはお構い無しの様子だった。



 そんな大学生活のある1年の夏の事だった。

 

 昼休みが終わりそうな頃、夕映は斎に声を掛けられた。



 「夕映。午後から講義あるのか?」

 「今日は休講みたいだよ。斎は、部活に顔出すの?」

 「いや……。アメリカの友人から前に貸した洋書の新刊届いたんだけど。読まないか?」

 「読みたいっっ!」

 「じゃあ、決まりだな。」



 そう言うと、斎はニヤリと笑った。

 彼の笑顔を見るのが好きだったけれど、まさかこんなに間近で見れるようになるとは思ってもいなかった夕映は日々ドキドキして過ごしていた。


 数年に1度しか会えない関係だったのに、今や毎日のように会える関係になっているのだ。不思議だなと思いながらも、幸せな日々を送っていた。


 いつも本を読んだり、話しをしたり、翻訳の勉強に付き合ってもらう時は、図書室を使っていた。

 大学で友達になった南もよく図書室にいるので、もしかしたら会えるかもしれない。そう思い、自然と図書室に足を向けていた。


 けれど、何故かこの日は斎がそれを止めたのだ。

 

 「待って!そっちじゃない。」

 「え……図書室は。」

 「車の中に本を置いてきたんだ。……車の中じゃだめか?」

 「………車の中?」

 「おまえ、また興奮して司書に怒られるかもしれないしな。」

 「なっ………!」



 斎が話しているのは、つい先日の事だった。夕映が大好きな小説の続編について、斎に熱く語っていた時に、中年の女性にトントンと肩を叩かれた。そして、「図書館ではお静かにね、お嬢さん。」とにっこりと微笑んで注意されたのだ。 よくよく周りを見ると、勉強している人や読書をしている人が苦笑しながらこちらを見つめていた。注意してくれた人が司書さんだったと知り、夕映はその後また謝りに行った事があったのだ。



 「もう……それは恥ずかしいから言わないで。」

 「じゃあ、車でいいな。いくぞ。」

 「う、うん。」



 さっさと歩いて行ってしまう彼を追いかけながら、夕映は少しだけ緊張していた。


 これから、斎と2人きりになるのだ。

 彼と2人きりになった事は今までもあった。けれど、それは部活だったり、図書館だったりと、狭い密室ではなかったのだ。小さい頃だって、そんな事は経験していない。

 ずっと憧れ続けていた彼との急接近だけでも戸惑っているのに、2人きりで車に乗る、という事で更に胸が高まってしまう。きっと、今自分の顔は、赤くなっているのだろうなと夕映は鏡を見なくてもわかるぐらいに、顔が熱くなっていた。



 「これが俺の車。」



 そう言ってキーボタンを押して鍵を開けると、斎は躊躇いもなく助手席のドアを開けてくれる。



 「あ、ありがとう………。」

 「何赤くなってんだよ。社長令嬢の夕映お嬢様なら、これぐらい慣れっこだろ。」

 「………そんな事ないよ。」



 斎はエスコートされているのが恥ずかしいのだと勘違いをしてくれたせいで、夕映はホッとしつつも、少し切ない気持ちになった。

 車の中という空間で、緊張してしまうのは自分だけなのだろうか。彼は、2人きりになるという時にドキドキもしてくれないのだろうか。

 斎は、自分の事をただの友人としか見ていないのだろう。最近、常にそれは思っていた。


 女として、優しくエスコートはしてくれるし、配慮もしてくれる。けれど、友達以上の関係ではないのだろうと思っていた。

 ………大学で再開して約3ヶ月にもなるのに、彼は今までと変わることはない。

 

 信頼して、傍にいてくれるのは嬉しい。

 けれど、彼ともっと近くなりたいと思ってしまう自分がいるのだ。九条家の跡取りとして、彼が将来結婚しなければいけない恋人がいるのかもしれない。小さな会社の社長令嬢なんて、彼の何の特にもならないのだから。


 そんな事を考えてはいつも悲しくなるだけだった。



 「………夕映、どうした?ボーッとして。」

 「あ、ごめんなさい。……あ、本ってどのシリーズの事なの?」

 「あぁ………何冊か持ってきたんだ。友人が沢山送ってくれてね。どれがいい?」

 「じゃあ、これを。」

 「わかった。………少し読むとするか。俺はこっちにするかな。」



 そう言うと、斎は夕映に一冊の本を渡した後、違う本のページを開いた。

 彼の車は外車で、そして内装も豪華でとても広々としていた。それなのに、隣にいる彼がいつもより近い気がしていた。それに静か過ぎて、彼の息づかいやページを捲る音までもが、鮮明に耳に届いてくるのだ。

 

 そして、車内には彼の香りが漂っていた。彼の瞳のようなグリーンの葉っぱのようで、そして、フルーティーな爽やかな香りだ。柑橘系の香りとウッドやグリーンの香りが交ざり合い、自然の中にいるような気持ちにさせられる。初めは彼はもっとクールでスパイス系の香りが似合うのに、と思っていた。


 けれど、それは違った。


 彼の優しさやちょっとした心遣いに癒されている所から、グリーン系の香りは彼にピッタリだと感じるようになったのだ。


 その斎の香りと、彼の呼吸の音、そして横を向けばすぐ傍に整った顔の彼の横顔がある。

 彼を感じてしまうこの場所のお陰で、夕映は全く本に集中できなかった。




 「なぁ、この英文の訳なんだけど………。」

 「ひゃっ………。」



 彼の事を考えている時に声を掛けられ、夕映は驚きのあまり変な声を出してしまった。

 慌てて口元を押さえてもすでに遅く、斎は驚いた顔でまじまじとこちらを見ていた。



 「………おまえ、なんて声出してんだよ。」

 「突然声掛けてきたからビックリしただけ。」

 「………そーかよ。で、この文章だけど。」



 なんとか誤魔化せたと思い、ホッとしたのもつかの間。今度は彼がこちらに体を寄せて、本を差し出してきた。

 肩と肩とが触れ合い、そこから斎の体温が伝わってくる。お互いに薄着なので、直接肌質を感じてしまいそうで、ドキッとする。



 「で、俺はこんな風に訳したんたけど。お前はどう思う?」

 「…………。」

 「…………おい、夕映。聞いてんのか。」

 「……………え。」



 彼の体温に気を取られていたのか、呆然としていた夕映の頬に彼の手がいつの間にか添えられていた。そして、その手の親指が夕映の唇に触れた。



 「い、斎…………。」

 「おまえ、無防備すぎ。これなら、いつでもお前にキス出来る。」

 「…………な、何言って……。」

 「どんな男の前でも、おまえはそんな感じなのか?顔を赤らめて緊張しながらも、こうやってすぐ傍にきて、無防備な姿を晒す。どんな奴でもそうなのか?」

 「………違う。これは斎がここに誘ったからっ!」

 「なら、俺だから?」



 斎は真剣な表情で、夕映を見つめ、そしてどんどんと顔を近づけてくる。彼のグリーンの瞳に自分が写っているのがわかるぐらい近い。そして、彼の香水の香りが今までで1番濃くなったのは、もう少しで鼻と鼻が触れそうなぐらいになった時だった。


 いつものいたずらに微笑む表情でも、泣きそうな顔でもない。とてもまっすぐとした瞳で、男らしい顔つきのまま斎は夕映を見ていた。



 「………それは。」

 「俺だからって言えよ。………俺は夕映だから、ここに連れてきた。」

 「………え……。」

 「おまえだから、俺の車に乗せて、そしておまえだからこうやって触れてる。………おまえは、どうなんだ?」

 「斎……私は………。」



 彼の言葉が信じられなかった。

 車に乗せたのは私だから?他の女の人は乗ってないの?

 こうやって近くで見つめあって、頬や唇から彼を感じられるのは私だけ?

 私は彼の特別なの?


 それが、信じられなかった。

 信じられないほど、幸せだった。


 まだ、返事もしていない。彼からはっきり言われたわけでもない。

 それなのに、嬉しさで目が潤んできてしまう。



 「俺はおまえが好きだよ。夕映………ずっと昔から。」



 斎の澄んだ声、そしてハニカミながらそう口にする彼の顔。

 すべてが、自分に向けられている。それを理解した瞬間。


 夕映は、瞳かは涙が溢れだした。



 「おい………泣くなよ。泣く前に返事を聞かせてくれ。」

 「………だって。嬉しすぎて止まらないんだもの。………もう、言わなくたってわかるでしょ?」

 「………お前の声で聞きたいんだ。おまえは、俺の事、どう思ってる?」



 両手で夕映の涙を拭いながら、斎は優しく問いかけてくれる。そこには、いつもの俺様の彼はいなくて、優しくて紳士的な彼がいる。


 どんな彼も愛しくて、大切だ。

 けれど、その優しさが自分だけに向けられている事が、とても幸せだった。


 夕映は泣いたままのボロボロの顔で、彼の瞳をジッと見つめた。



 「斎が大好き。………ずっとずっと昔から好きだった。大好きだったの。」

 「…………知ってる。」



 斎は嬉しそうに笑うと、そのまま優しく顔を近づけた。夕映は自然と瞳を閉じて、彼の唇を受け止める。


 初めてのキスのはずなのに、戸惑いもなく斎の唇に触れた。

 それはずっとずっと夢に描いてた事。



 一目惚れをしてから、初恋を知り、ずっと片想いをしていた。



 それが叶ったのは、2人が大学1年生の夏の日の事だった。




 


 

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