第3話「懐かしい背中」
3話「懐かしい背中」
斎がすぐ近くにいる。
こんなにも近くにいるのは、恋人同士だった以来だろうか。
まだ、相手はこちらに気づいていない。
それなのに、鼓動が激しくなり、顔が火照ってきたのがわかった。
呆然としてしまっていた夕映を見て、南は焦った様子で話しを掛けてきた。
「夕映ちゃん、ごめんね。大学の集まりって言ってたんだけど、実は部活の集まりだったなんて………。夕映ちゃん、部活の集まりにはいつも来てなかったから、みんな来てほしがってて私が頼まれたの。」
「そう、だったんだ………。南ちゃん、テニス部じゃなかったのに、こんな事させてごめんね。」
「………夕映ちゃん、自分が会いたい人としっかり会って話した方がいいよ?」
「南ちゃん………?」
南はニッコリと笑うと、幹事らしき人に話しを掛けていた。
南が何を言いたかったのか。
それは、自分でも気づかないフリをしていたものなのだと、すぐにわかった。
「あ、夕映が来たぞー!久しぶりだな。」
「本当だ。変わらず美人だな。」
「みんな、お久しぶりだね。」
夕映の登場に気づいた部員達が、次々に声を掛けてきた。久しぶりの雰囲気に、オドオドとしながらも、懐かしい仲間と話すのが少しずつ楽しくなっても来ていた。
そんな時、背が高い男性が声を掛けてきた。
その相手を見た瞬間、ドキッと夕映の胸が鳴った。奥の席で座っている彼の次に会うのを躊躇ってしまう相手だった。
「夕映先輩、お久しぶりです。」
「……依央くん。」
「夕映先輩にずっと会いたいと思ってました。……会えて嬉しいです。」
そう言って微笑む彼の笑顔は、とても幼くて、昔と変わらないなと夕映は思った。
「少し緊張したけど、依央くんの声を聞いたらなんかホッとしたよ。」
「本当ですか?よかった………。」
ニッコリと笑う依央につられるように、夕映も微笑んでしまう。
成瀬依央は、夕映の大学テニス部の後輩で、元恋人だった。
斎と別れた後、依央が何度も告白をしてくれて、夕映がそれに応じたのだ。斎の事が忘れられないとわかった上で、依央は恋人になってくれた。
彼は夕映をとても大切にしてくれて、付き合っていた約1年は、とても心地のよい時間だった。
依央の仕事を知りたいと、洋書を読むために英語を勉強したり、初めて翻訳した雑誌のインタビュー記事では、わざわざ発売日の朝に本屋に走って何冊も買ってお祝いしてくれたのだ。
そんな依央を優しい人だと思ったし、付き合い続ければ幸せになれるだろうとわかっていた。
それなのに、彼に本心で「好き」だとは言えなかった。彼に「僕の事好きになってくれましたか?」と聞かれては、躊躇わずに返事が出来たことがなかった。
そんな事が続いて、夕映は彼に申し訳なく別れを切り出したのだった。
その別れから、夕映は依央に会っていなかった。こういう大学の食事会に参加するのを避けていたのは、2人の元恋人がいるからだった。
「あ、そういうば……。」
「どうしたの?」
「僕、先輩が翻訳した本、ずっと買ってますから。」
「えっ………。」
依央が耳元でそう囁く。
急に距離が近くなったのに驚き、顔が赤くなるのを感じる。元恋人というのもあり、久しぶりに彼の顔をまじまじと見れる距離は、緊張してしまう。
だが、彼が耳元で囁いた言葉は、恋人同士が囁き合うようなものではなかった。
それでも、自分の仕事を応援してくれている彼の気持ちが嬉しくて、顔が弛んでしまう。
「子ども向けのお話は、すごく読みやすかったし、小説もスラスラ読めて、異国の土地の描写も知らない場所なのに頭にしっかり浮かんできて………素敵な作品でした。」
「本当!?最近のものは、私もすごく頑張ったから嬉しいな。褒めてくれてありがとう。」
「いえいえ。……夕映さん。僕の席の隣、空いてるです。一緒にお話ししませんか?」
「あ、うん………。」
彼の手がこちらに伸びてきて、手を掴みそうになった時だった。
「おい、夕映。」
「………えっ。」
依央がいる場所とは反対側の腕を強く引かれて、夕映は体がよろけてしまった。
転んでしまうと思いながらも、直前に聞こえた声に、夕映は意識をとられていた。
ずっと聞きたかった声。
その声で名前を呼ばれるのが、堪らなく嬉しくて、それだけでドキドキしてしまう。
そんな特別な彼の声だった。
トンッと優しく支えてくれた肩や腕から、温かい体温が感じられて、それはとても懐かしい感触だった。安心出来るのに、少し恥ずかしい気持ちになる。そんな懐かしく、ずっと待っていた感覚だ。
「斎………。」
「久しぶりだな、夕映。……話すのは、だけどな。」
「え……?」
「ますます綺麗になったな。」
そう言って、ほっそりとした指でなぞるように、夕映の頬に触れてニヤリと笑う彼を間近で見て、依央とは違ったゾクリとした体が震える感覚に襲われた。けれど、それは恐怖ではなかった。
次を期待してしまっている、恋人の頃に感じた体が疼いてしまう感覚だった。
「い、斎………。」
自分の顔が真っ赤になり、目が潤んで、声が震えているのが夕映自身でもわかった。
きっと、彼は私が感じている気持ちがわかってしまっているのだろうと、夕映は企むような微笑みを浮かべる彼を見ながら思った。
「依央、こいつ借りるぞ。」
「………わかりました。」
先輩である斎にそう言われると、反論が出来ないのか、依央は悔しそうにしながら伸ばした腕を戻して、夕映を見つめていた。
他の部員から、「さすが九条先輩!」や「一人占めはずるいですよー。」などとヤジを飛ばされてしまったけれど、斎が突拍子もなくて、自分の思ったことを突き通す事を知っている人たちばかりなので、斎の後を追う人はいなかった。
「カウンターで話すぞ。」
「………うん。」
斎に手を引かれながら、彼の背中を見つめて歩く。
彼とこんなにも近い距離で話せるなんて思ってもいなかった。
キラキラと光る綺麗な髪と、スーツを着た男らしい背中を見ながら、夕映は少しだけ泣きそうになってしまった。
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