異世界転生した彼は我が道を突き進む

伊月夢衣

《プロローグ》

《「にげ、ないと……何処か、遠くへ……」


 息を切らしながら深い森の中を闇雲に駆ける。

 その少女へ執拗に迫る巨躯の獣は黒い瘴気を纏う。

 巨木を薙ぎ倒しながら少女を喰らおうと追い続ける。

 そもそもこの場所は十五、六の少女が足を踏み入れられるような場所ではない。

 人類の支配領域内でも特質的な領域だ。

 その内部は過剰な魔力素濃度の影響で変異した魔獣や魔物が跋扈する魔境と成り果てた。

 人という器でそれらから逃げようとするのは無力な子供には難しい。

 現在進行形で逃げられている事実を奇跡と呼んでも差し支えは無いだろう。

 が、限界も近い。

 巨木から僅かに伸びる小さな幹に足が引っかかり躓いた。

 小さな身体が空中で一回転し、硬い地面に落下した。


「ぐっ……はっ……」


 一瞬呼吸が停止し、苦痛による呻き声が漏れた。

 途切れそうになる意識の中でも自分を助かる術を探すのは人が持つ本能的な反応だろう。

 だが、彼女にはこの絶望的な状況を打破するだけの力はない。

 逃げるという行動で一秒でも長く生きる事程度しかできない。

 最終的な顛末は変わらない。

 倒れ込んだ少女を覗き込む不気味な赤い眼がギョロギョロ動く。


 "死にたくない"


 脳内を埋め尽くす感情はそれだけだ。

 死ぬことを望まれた。

 生きる事を否定された。

 死にたいと思った。

 最終的には自らの意思で死に場所を求めてこの場所に来た。

 なのに死ぬ間際になって自分の心意に気づく。

 無様に。

 滑稽に。

 生きたいと生に縋る。

 それがどんなに醜く下等な思考であっても人が持つ本質の一部だ。

 後悔しても手遅れ。

 目前に広がるのは弱肉強食の世界。

 自分の命が消える。それだけを理解させられる。

 黒い瘴気を纏う魔獣も本質的には下等動物と変わらない。

 本能のままに行動する。

 言葉による説得は意味を成さない。

 魔獣は口を開く。

 鋭く尖った牙。地面を濡らすほどの消化液を撒き散らす。

 獲物の恐怖する様を愉しむようにゆっくりと捕食しようと口を近づける。

 肥大していく恐怖心は留まる事を知らない。

 その恐怖は臨界点を突破し、下半身から生暖かい液体が溢れる。

 と、同時にアンモニア独特の臭いが空気と混ざり合う。

 その鼻に突く臭いに魔獣は卑しく顔を歪める。


「死にたくない……死にたく、ないよ……」


 少女の目には絶望しかない。

 その淀んだ瞳から溢れる涙(しる)が頬を伝う。

 運命から逃げようとした。

 死ぬことで楽になろうとした。

 乗り越えるべき壁に背を向けた。

 これはその報いだ。

 恐怖心と後悔。

 非力さと無力さ。

 それを今さらに痛感する。

そんな感情を心の内側を這いずり回る。


(誰か、助けてよ……)


 自分勝手な願いだ。

 死を求められ、それを望んだ。

 だが、いざその瞬間がきたら恐怖で足が竦んだ。

 自分の心の脆さや弱さを、本心を気づかされた。

 心の底からの生きたい、という悲痛な感情を吐露させながらその意識を手放した。

 意識を手放した少女を丸のみしようと魔獣。

 刹那、風切り音が響く。

 魔獣の強固な牙が綺麗な断絶面を残して地面に落ちた。

 それに気づいた魔獣は痛みを自覚する。


「――たくっ、異世界ってやつは。どれだけ危険なんだよ、メンドくせえ」


 その攻撃者――芹澤ナツキは吐き捨てるように呟く。

 魔獣は怒りを露わにする。

 その威圧感はかなりのものだ。

だが、ナツキは平然とした態度を崩さない。


「まだこの力には慣れてないんだ。オーバーキルになっても恨むなよ」


 ナツキは左手に持つ禍々しい長剣で一閃。

 それが斬撃となり、魔獣を覆う黒い瘴気ごと切り裂き、瘴気が霧散する。

 この魔獣は特に魔力素に生命すらも依存させていた。それは切り裂かれ、霧散されてしまえばひとたまりもない。


「……魔にも対する絶対的な力、か」


 刀身に付いた血液を拭い取り、鞘に納める。

 意識消失させた少女に近づき息があることを確認する。


「生きてはいるか。――さてと、これからどう生きていくか?」


 ナツキは自身の運の無さに呆れつつこの世界に転生させられた経緯を思い出す。




◇◆◇


「はっ?」


 芹澤ナツキは見慣れない場所で覚醒した。

 何処までも続く空白。

 現実ではあり得ない程の白さ、広さの世界で目を見開かせた。

 記憶を探ろうとするが、それを拒絶する様にズキリと頭をカチ割らんばかりの痛みが脳天を突き抜ける。

 その痛みを無意識に沈めようと頭を抑える動作をしてしまう。


「俺が、誰かっていうのは分かってるな……」


 自分という人間の個別情報(パーソナルデータ)の欠損はない。

 少なくともナツキは自分を認識は出来ている。

 思い出せないのは此処に至るまでの経緯に関係する短期記憶だけのようだ。

 一部にせよ、記憶の欠損がある事に不安を覚えるが、一先ずそれらを頭の片隅に置いて、辺りを見渡す。

 見渡せば見渡す程に見知らぬ場所だという結論に至る。

 まるで夢を見ているような感覚だ。

 夢というのは何処までも続く。

 それに似た様な場所である此処で無闇に動き回るのは自殺行為になり得る。

 風景による特徴もない以上、この場所に戻って来れるという確証もない。

 だが、この場所に居続けるのも現状に何の進展ももたらさない。

 どうするべきかを思案する。

 戻れない覚悟で動く、というのも一つの選択ではある。

 しかし、ナツキには踏み出せない理由があった。

 年齢で言えば十八であるナツキは大抵の事をそうなくこなす器用な学生だ。

 一つの欠点を除いては。

 それはかなりの方向音痴という点だ。


「えーと、芹澤ナツキくん、かな♪」


 無垢な声がナツキの名を呼んだ。

 その声の主はその幼い声通りの容姿を持つ少女だ。

 だが、ナツキはその少女の形を為した存在が人ではない者である事を認識させられる事となった。


 ——なぜなら、


「白い、ツバサ……?」


 神々しさを醸し出す純白に輝く十二対の翼を持っている。

 その容姿通りの子供らしい口調だが、慈愛に満ちた瞳でナツキを見る様は、大人びた印象を抱かせる。

 その人の形を模した少女に警戒心を強める。


「そんなに警戒しなくてもいいのに、別にとって食おうって訳でもないしさ」

「警戒するなってのは無理な話だろ。こんな訳の分からん状況で、明らかに俺とは違う存在が目の前にいるんだからよ」

「まあ、君が言うのも分からなくはないかな。私がそっちの立場ならきっと同じ反応してるだろうし。でも芹澤ナツキ君。君をこの場所に喚んだのは私なんだよ♪」

「喚んだってどう言う事だよ?」

「まずは紹介から始めようか。私は……<熾天使してんしの呼ばれてるルシエとでも呼んでよ。君を喚んだのには理由があるんだよ」


 恫喝するような威圧的な言葉をナツキに投げ掛けられても一切の態度を変えようとはしないのは、神の側近とされる役職を持つ天界の住人だ。

 ナツキにも今更天使の存在を否定する気も起きない。それを否定すれば今自分の身に起きている事象そのものを否定しなければならなくなる。


「端的に言えばナツキ君には、私が管理を任されているとある異世界に転生して欲しいんだよ」

「嫌だね、なんで俺がその願いを聞き入れなきゃいけないんだよ」


 明確な拒絶をした。


 ナツキは誰かに使われるような人生を歩む事に嫌悪すら抱いていた。

 社会不適合者と呼ばれたとしても唯一の自分らしさ。

 傲慢さだけは捨て去る事が出来ずに今もなお持っている。


「確かにね。でも、君には選択肢があるようでないんだよ。此処には私が喚んだって言ったでしょ」

「元の世界に還せよ! 今すぐに」

「それは無理」

「なんで!」

「君は既に地球では死者だから」

「はっ? なんだって」

 冷静さを掻こうとした頭がその一言によって冷たく冷え切っていくのを感じとった。

「そんなの……あり、得ねえよ」


 力なく反論する。


 心理的にはその言葉は到底受け入れられる類いのものではないが、此処に至るまでの記憶の欠損がある以上、その全てを否定出来る要素をナツキは持ち合わせていなかった。


「此処は器の喪った魂のみを喚べる場所。君達で言うところのあの世とこの世を繋ぐ狭間に存在する世界だよ」

「証拠は、あんのかよ……?」

熾天使してんしである私とこの場所で会話してる事こそが君が現世で死を経験した唯一無二の証拠だよ」


 ナツキのこの反応は当然だ。

 当然死んだと言われてそれを受け入れられる人間は極稀だろう。

 いまの事情が既に現実離れした体験である事は疑い様はない。


「じゃあ、俺の記憶がないのもお前の仕業なのか?」

「うん、そだよ! 君が死んだ瞬間の事を憶えていたらこんな風に冷静には話せないだろうからね、一時的にブロックを掛けさせて貰ったよ」

「なら、還せ。俺の記憶を」

「ええ! どうしよっかなあ?」

「お前なあ!」

「知らなくても良いことだって世の中にはいっぱいあるんだよ?」


 最後の言葉の時は今までの弛緩したような雰囲気ではなく、遙か遠くを見据えるような慈愛的な眼差しを感じた。


「少なくとも私は君が死んだ時の記憶を思い出す必要はないよ。記憶とは言ったけど、それは辛いものを追体験するのと同義だ。それによって心が擦り切れる事だってゼロじゃない。それでも君は記憶を取り戻すべきだと言うつもり?」

「ああ、どんな酷いものでもそれは俺のだ」


 ナツキは記憶——思い出というものを強く大切にしている節があった。

 それは何かしらの原因となる事があった訳ではない。

 ただ、偶に考えてしまう事がある。記憶という目の見えないものがなくなったら今この瞬間隣にいる友達すらも顔を知らない赤の他人に成り果てる。

 それに堪らず恐怖を感じてしまう。

 記憶というのは芹澤ナツキという人間を構成する重要なものだ。

 故に失ってなるものかという思いも強く持っている。


「そこまで言うなら、君の最期を返すよ」


 ルシエは人差し指をナツキに合わせて、氣の塊を飛ばした。

 それを肉眼で捉える事は愚か回避するのも不可能。不可視の氣弾がそのままナツキの身体へと入り込むように溶けていく。


 ドクンッ!


 心臓が飛び跳ねる。


 明らかに異常な鼓動を繰り返し、徐々に速度を早めていく。

 身体全体も熱を帯びたように熱い。

 意識が揺らぐ。

 その熱が圧倒的な痛みへと変わる頃には立っているのも困難でその場で倒れ込んだ。


「うっ……うわぁぁあ——————ッ!」


 痛みに耐えるように転げ回る。側から見れば酷く滑稽な姿だ。

 しかし、いまのナツキにはそれを顧みる余裕はない。


「聞こえてはいないだろうけど、一度記憶の封印を解いたらもう私でも止められない。その記憶に心が、魂が負けないように……——頑張ってね!」




 数十分という時間が経過した。


「ゼェ……ゼェ……全部、思い出した……か」


 息を切らし肩呼吸になりながらも小さな声でそう呟いた。

 ナツキは自分が死んだ時の記憶、痛み、感情のそれら全てを余す事なく思い出した。

 人の死は決まっている事が多いと何かで読んだ事があることを思い出す。


「なあ、俺の死は決まってたのか?」


 そうであるのならば寿命とも言える。


「悪いけど、それは私にも分からないよ。私も世界を統治する者の一人ではあるけれど、君の世界の管理者じゃないから。——でも、君がした事は立派な事だよ。誰かの為に、その命を賭けるなんて誰にでも出来る事じゃない」


 天界人らしい答えだ。


 人であるナツキから見れば目の前にいる熾天使のルシエは超越した存在であると言える。


「よし、君が自分の死を認識して元の世界へは戻れない事を自覚して貰ったから、そろそろ本題へ入ろうか」

「確か、管理する異世界に行って欲しい、だっけか?」


 ほんの少し前の会話だが、この短時間での情報量が多すぎて暫くぶりのような錯覚に陥る。


「これだけの事があってそれを憶えているのはなかなか優秀だねえ。ナツキ君のいう通り君には私の統治する異世界に行って欲しいんだ」


 既に自分が死んでいるという事実を自覚しているナツキにとって熾天使と名乗ったルシエはその言葉の通りなのだろうと認識はしている。

 ならば何かしらのするべき事。

 すなわち役割があるはずだ。


「何をすれば良い?」

「受け入れが早いと助かるよ。今は君にして欲しい事はないよ、異世界に転生して欲しいって事以外はね」

「何かあるから俺を此処に喚んだんじゃないのか?」

「幾ら天界の住人といえど未来全てを見える訳じゃないからね。もし、何かが起こった時の抑止力となる存在が必要って結論に至っただけだよ! 君達の言葉で言えば、念の為、というやつだよ」

「……ふざけてんのか?」

「私は凄く真面目だよ! ただ、私の世界で生きて欲しい。君の好きな様に生きればいい。それ以外にいま、君に求める事はないよ。悪人を演じるのも善人を演じるのも全ては君次第さ」


 ナツキはルシエのその言葉を真正面から鵜呑みする事が出来ない。

 ルシエが人ではないとはいえ、何かしらの自身が得する要因がなければこんな事をする必要性はない。

 なによりもナツキは無償の善意というものはこの世にはないと考えている節があった。

 世界とは損得勘定によって成り立っていると言っても過言ではないだろう。

 だからこそルシエの内側にあるものが読み取る事が出来ず全てを信用は出来ない。


「ふふっ、君は疑り深いなあ。確かに無償の善意という訳ではないよ。私はとある条件下では君を利用するしね。君は二度目の人生を歩める。私は必要な時は君を利用出来る。これこそがウィンウィンの関係だよ」

「……分かったよ、乗ってやるよ」

「良かった良かった。これで先の話に進めるよ。私の異世界っていうのは君達の世界で迷信とされてた魔法が存在するんだ」

「魔法だって……?」

「そう、地球がある世界は科学が発展した次元だとするのなら、私の世界は魔法が発展した世界」

「なら、俺も……?」

「残念だけど、君は魔力操作程度で発動するものは出来るだろうけど、厳密に魔法と分類されるものは扱えない」

「ならそんな世界で生き残るなんて難しくないか?」

「ナツキ君の言う通り今のままじゃ厳しいだろうねー!」


 ルシエもナツキのこの言葉に肯定を示す。

 無力なまま世界を渡るのは死ににいくようなものである。


 ——だから、


「私が魔法ではない力を貸してあげるよ」


 ルシエは異次元に繋がるゲートを目の前に顕現させて、その中から禍々しい覇気を纏う長剣を取り出した。


「これは魔断刀と呼ばれる武器だよ。名は天縁あまより。魔を断ち切る事に特化した武器だよ。そして、使い手によって強さを変える神器でもある。これの使い方も君の脳に直接入れるから、使いこなせないなんて事もないよ」


 ルシエは掌をナツキに向け、なにかを身体へと入れる。

 すると力が溢れていくような感覚があった。


「それに君には先天的な力も眠ってるようだ。本来は持ち得ない筈の力だけど、その力はきっと異世界で生き抜く手助けになる筈だよ」

「その力って?」

「おおっと、もう時間みたいだ。じゃあ、私の世界を頼むだよ」

「おい!」


 ナツキは閃光に包まれる。空白に染まる世界からその異世界へと旅立った。

 この場所にはルシエがいるのみだ。


「さてと、芹澤ナツキ君があの世界にどんな影響を及ぼしてくれるのか楽しみだな。期待してるよ!」


 一人となったルシエはナツキが今までいた場所を見て、そう言って笑っていた。

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異世界転生した彼は我が道を突き進む 伊月夢衣 @Masayuki08

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