<小学生編>ep1

「おーい! ジャイ子!」

 突然、そう呼ばれた。今まで話したこともない、隣のクラスの男の子だ。誰かを呼ぶ声は聞こえていたけれど、まさか私をさしていたとは、思いもしなかった。名前は知らないけれど、やんちゃで有名で、目立っていたから、顔は知っていた。

「おい、ジャイ子。お前、今日からジャイ子な」

 さっぱり意味が分からなかった。男の子は、私の前で仁王立ちして、真っ白な歯をニカリと見せた。何がそんなに面白いのか分からなかったけれど、困惑する私を他所に男の子は、駆け足で去って行った。私が男の子の背中を茫然と眺めていると、後ろから怒鳴り声が響いて、肩がビクンと跳ねた。

「こらあ! リュウ! てめえ、いい加減にしろ!」

 私の傍を何かが猛スピードで過ぎていった。驚いて体を小さくした。呆気に取られていると、猛スピードで駆けていった少女が、ため息交じりで歩み寄ってくる。

「ダメだ。逃げられた」

 どうやら、同じクラスの女の子が、先ほどの男の子を追いかけて行ったようだ。そして、諦めてトボトボと帰ってきた。私は女の子の顔を見て、チラリと廊下の壁に目をやった。『廊下を走ってはいけません』と書かれた張り紙を見て、心臓が高鳴った私は、辺りをキョロキョロ確認した。先生は見ていなかっただろうか? 目撃した生徒が、言いつけたりしないだろうか?

「ごめんね。合田(あいだ)さん。私のせいだ」

 クラスメイトの時枝(ときえだ)ルミさんが、顔の前で手を合わせて、お辞儀をした。時枝さんとも普段は挨拶を交わすくらいで、まともに会話をしたことがなかった。背が高くてすらりと伸びた手足、男子並みに短い髪、男子並みに活発な女の子。そんな時枝さんは、クラスだけでなく、学年内、いや学校内でも目立つ存在だ。去年の四年生の時の運動会で、クラス対抗リレーのアンカーを任され、ごぼう抜きして一番になっていた。去年は、クラスが違ったけれど、とても印象に残っている。その運動会の後に六年生の男の子に告白され、しかも振ったという噂もあった。そんな女の子に、訳が分からず謝られたものだから、あたふたした私は思わず、深々と頭を下げた。

「私の方こそ、ごめんなさい」

 眉毛を上げて、上目遣いで時枝さんを見ると、彼女は首を傾げながら笑っていた。

「どうして、合田さんが謝るの?」

「え? あ、ど、どうしてだろう?」

 時枝さんは、私の両肩に手を当てて、私の体を起こした。

「もう一回やり直し。本当にごめんね」

 時枝さんは、もう一度、顔の前で手を合わせて頭を下げた。私は首を傾けることしかできない。

「あいつさ、さっきの変な奴。リュウっていうんだけど。家が隣同士で、幼馴染って奴なんだけど」

 時枝さんは、言いながら体を起こして、私の目を見つめる。私は、反射的に視線を下へと逸らした。

「あいつが、合田さんのことを色々聞いてきたから、武志君のこととか、私しゃべっちゃったのね。ああ、武志君とは、ミニバスで一緒だったから」

 へーそうなんだ。二歳年上のお兄ちゃんは、バスケをやっているけれど、時枝さんもやっているのは、知らなかった。ミニバス出身で、中学校のバスケ部では、期待の新人のようだ。と、時枝さんが教えてくれた。私は、時枝さんの話をウンウン頷きながら、真剣な眼差しで話を聞いていた。すると、時枝さんが、少し言いづらそうに、苦い顔をする。

「それでね、合田さんのお兄さんが武志君だって教えたらね。あいつが、『じゃあ、ジャイ子じゃん!』って、言い出してね」

 私はやはり首を傾げるしかできない。そんな私を見た時枝さんは、頭を掻きながら遠慮がちに続けた。

「あのね、その・・・合田って『ごうだ』とも読むでしょ? 『ごうだ たけし』の妹で・・・」

「ああ! ジャイアン!」

 私はまるで、クイズに正解したようなテンションで声を上げた。私の声に、時枝さんは驚いたような表情を浮かべた。なるほど、ジャイアンの妹でジャイ子か・・・ちっとも、うれしくない。私の顔色は急転直下した。自分でもそれが、良く分かった。

「だから、本当にごめんね。私が余計なことを言ったから。あいつ馬鹿だからさ。合田さんに迷惑かけちゃうと思うんだよね。だから、あいつに何か嫌なこととかされたら、私に言ってね。あいつの首根っことっ捕まえて、あいつの親の前に突き出してやるから。緊急家族会議を開いてもらって、フルボッコにしてやるからね」

 時枝さんは、体の前で握りこぶしを突き出した。私は、両手を彼女に向けて、苦笑いするしかできなかった。

 それからだった、朝の廊下や休み時間、下校途中の道端。私を見かける度に、彼は『ジャイ子』と、私を指さし笑うのだ。彼の名前は、上川(かみかわ)リュウ君。時枝さんに教えてもらった。良く言うと活発で、オブラートに包んで悪く言うと、やんちゃな男の子だ。時枝さんの言った通りになった。上川君に変なあだ名で呼ばれることは、たいして苦ではなかった。毎度毎度何が楽しいのだろう? と、不思議な生物を見る気持ちであった。私が最も心配していたのは、上川君に便乗して変なあだ名が浸透することと、エスカレートしてイジメにあってしまうことだ。だけど、その心配は、無駄であった。

 時枝さんが、あの日以来、毎日私に気遣って声をかけてくれたからだ。私を変なあだ名で呼ぶ上川君を目撃しようものなら、烈火の如く怒り、成敗してくれていた。その奇妙なご縁で、時枝さんとは、急接近した。『ルミちゃん』、『奈美恵』と呼び合うまでに、そうは時間がかからなかった。やんちゃで目立つ上川君からの攻撃で、周囲の特に男子が悪乗りで、私にちょっかいをかけてくることもなかった。それは、やはり目立つルミちゃんが、完璧なディフェンスを披露してくれたからだ。だから、次第に『ジャイ子』という変なあだ名に対しても笑って過ごすことができた。

 そうすると、何故だかジャイ子ちゃんが気になって、色々調べてみた。すると、ジャイアンは、あだ名だが、ジャイ子は本名だということが分かった。理由は、イジメを防止する為だそうだ。例えば、ジャイ子の本名が、剛田奈美恵だったならば、奈美恵ちゃんがジャイ子と呼ばれイジメられるからだ。これは、作者である藤子先生の配慮のようだが、まさか合田武志の妹ということで、ジャイ子と呼ばれるとは、思いもしなかっただろう。上川くんは、藤子先生の斜め上を行く発想力の持ち主のようだ。

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