七瀬は沙希の持っていた本を通じて自分が見えたものを店主に話して聞かせる。

 大人になったジョバンニの物語。


「ぼんやりとだけど映画みたいな映像が本の後半に重なって見えました」

「なるほど、七瀬にはそうやって見えるわけだ。羨ましい。いい話だね」


 ほんの少しだけ目を緩めて店主が微笑む。そして、すっと七瀬から目をそらすと窓辺に近寄ってわずかに開けた隙間から空を見上げた。七瀬もつられて空を見上げる。

 

 煌々と明るい夜空は闇夜には程遠いけれど、それでも銀河に憧れを抱かせる魅力はまだ健在だ。夜空を見上げる店主は七瀬よりもずっと身長が高いはずなのになんだかどんどん小さくなってそのまま夜空に溶けて消えそうにみえた。


「このままいくと『続篇』が描き上がるのは・・・数日以内かな?」

 窓を見上げたまま静が七瀬に問いかける。

「そうですね。明らかに速度が増しています」


 七瀬は先ほどの少女を思い出す。青い暗闇の中に同化しそうなくらいに白い肌をした子だった。青白く弱々しい顔をこわばらせて七瀬を見返したときの目にはまだ力があった。でも、このままで行けば……


「蟲に食われてしまうねぇ。人が一人消えて、僕の素晴らしいコレクションが増える」

 店主は七瀬に向かって婉然と微笑み、なんでもないことのように言った。あらかじめ用意されていたようなその言葉に対し、七瀬は自分の中から思いもよらない感情が湧き上がってくるのを感じた。


「なんだよそれ」

 口元が震えるのを抑えられず、続けたい言葉がなんだったのか感情の海に溺れてわからなくなる。店主は懐かしいものを見るように微かな笑みを浮かべた。しかし、自分を律するようにすぐにその微笑みを押し殺すと、代わりに七瀬を嘲るような笑みを口元にのせた。


「七瀬、君は自分の仕事を忘れたの? おじいさんとの約束も?」

 七瀬はぐっと言葉に詰まる。そんな七瀬を視線だけで転がすようにして、店主は続ける。

「君に出来るのは蟲本を回収すること。他になんにもできやしない。違うかい?」

 なんの反論もできない。自分にまだ力はないのはわかっている。でも、だからこそ、

「俺はあんたのとこに来たんだ。ちゃんと働いて力をつける。いつか、蟲本から人の心を解放する」

「怖いなぁ。僕のコレクションがいつか台無しにされちゃうんだ。まぁ、いいや。わかった。七瀬に任せるよ。そうだ、光一郎は元気かい?」

「光一郎?」


 七瀬は同い年の少年の顔を思い浮かべる。ほんの一月ほど前まで、彼はここで店主と一緒に暮らしていた。装飾師と言われる仕事の修行をここで行っていた。もちろん、『蟲本』専門の。


「ちっとも顔を出してくれやしない。薄情だねぇ」

 そう嘆くように言って見せてから、すーっと、目を細めて店主は七瀬を見つめた。

「彼にちょっと渡したいものもある。頼めるかい?」


 七瀬が曖昧にうなずくのを見ると、店主はいつも通りの穏やかな表店用の笑顔を浮かべ、七瀬を促すように一度だけ振り向いてから歩き出した。相手が受け止める素振りすら見せずに見捨てた七瀬の感情は、不完全燃焼のままどこかに消えていってしまった。七瀬は毒気を抜かれたように仕方なく店主について歩く。飄々と表の店に向かって歩く店主を見て、七瀬はいつか彼に聞いてみたいと思っていることを思い出した。


 蟲の姿や影響された物語を見るときに、彼には一体どのように見えているのか。聞いてみたいけれど、それはとても大きなタブーな気がしていた。

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