29.ユーリの病室

 桐生診療所に戻ってきた菊塵。ある病室の戸を開く。

「えーっと、キク……何だっけ?」

 ユーリの部屋を訪ね、一番に言われたセリフがこれである。

「菊塵だ。しかし、随分と馴れ馴れしいね」

「いいじゃねーか、昨日の敵は何とやらだ」

 ベッドに座り込んでいるユーリにとって自分が昨日まで敵の立場に居た事は、さほど大きな事ではないらしい。桐生の治療である程度、体の自由が利くようになり、口もよく動く。

「やっぱ、契約を結んでいない籠女の血だと、治癒が遅いな」

 ゆっくりと肩をまわしながらユーリが呟く。

「……だから、自分の籠女を呼べば良いと桐生さんも言っていただろう」

「いや! それだけはマジで勘弁!」

 余程、自分の籠女と会いたくないらしい。自分の籠女に関する質問は返事が異様に早い。顔をしかめて首を振る。





 菊塵がこの口の軽い狗鬼の病室を訪ねたのは勿論見舞いではない。

 菊塵はベッドの横に立ち、ユーリを見下ろした。

「一つ、聞きたいことがあって来た」

「何、そのコワイ顔」

 おどけた様子で首を傾げるユーリ。

「……答えようによっては、こうして面を合わせて暢気に会話なんか出来なくなる」

 メガネの奥の瞳が、冷たい光を放ち始める。




 菊塵の気迫にユーリの笑みが静まった。

「……何だ? 聞きたい事って」

「お前は比良野家から直接、色把を攫ったと聞いた」

 色把が話していた外国人という外見、そしてユーリを見た色把の様子からその人物はユーリと見て間違いは無い。

「あぁ、彼女を屋敷から連れ出した。間違いないぜ」

 ユーリも素直に受け答えをする。菊塵に対する警戒心はもう無いらしい。



「その後、比良野家に居た人間、全員が虐殺されている。……それもお前の仕業か?」

「……なんだって?」

 菊塵の質問に、ユーリの碧い目が大きく見開いた。

「答えろ。お前がやったのか?」

 なおも冷静に問う菊塵。

「知らねぇよ! 何だって!? あの家の人間、殺されてるだと!?」

 菊塵に掴みかかろうとして、腕は空を切った。痛みに顔をゆがめる。まだ傷は完治していないのだ。

「僕の部下が救援に行った時にはもう遅かった。家の中は荒らされ、色把の祖母、使用人が絶命していた。……こちらで厚葬させてもらったよ」

「……」

 肩が痛むのか、手で押さえているユーリの表情は硬い。微動だにしない落とされた視線、菊塵の言った言葉が飲み込めないのだろうか。




 暫くの沈黙の後、ユーリは静かに言葉を発する。

「……知らねぇ。俺はあの子をビルに連れてくるように言われただけだ。俺と一緒に、社長……結城ゆうきが数人部下を遣わせて来たが、無関係な人間に手はかけないように言い聞かせてある。勿論、俺だって、あの屋敷の人間は、誰も殺してなんかいない。一体誰がそんな事……!」

 ユーリの目が真っ直ぐ菊塵を見据える。その目に偽りは無かった。

「……そうか。なら、いい」

 菊塵は頷き、聞き質すのを止めた。




「……そういやあの子、本家に攫われたんだろ?」

 暫しの沈黙の後、ユーリが口を開いた。

「今は哭士が本家に行き、連れ戻そうとしている」

「あぁ、あの氷の奴、コクシってのか。あの子はそいつの籠女なんだろ?」

 ユーリは、痛む肩を気遣いながら、ゆっくりと体勢を変えた。

「いいや。彼女はまだ狗鬼と契約を結んでいない。哭士も彼女の狗鬼ではないよ」

「……自分の籠女でもないのに取り戻しに行くのか?」

 疑問の表情が浮かんでいるユーリ。

「ま、こっちにはこっちの都合があるんでね。余計な詮索はこれ以上はしないで貰いたいね」

「なんだよ、つまんねー」

 ユーリは起こしているベッドに背もたれた。



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