20.哭士の変化

 哭士との契約が失敗してから、二日が経った。色把は哭士が最後に自分に放った「出て行け」という言葉が残り、どうしても哭士が臥している部屋へと立ち入る事はできなかった。

 二日間は、マキの家事の手伝いをしたり、屋敷内を歩き回って過ごした、屋敷内は大方の場所は見終えた。が、とても広い。自分に用意された離れの部屋に戻れなくなり、マキや菊塵に助けてもらったのは一度や二度ではなかった。

「色把さん、三回左折すると元の道に戻るんですよ」

 同じところを壁沿いにぐるぐる回っていた色把を菊塵が救済するのはこれで二回目。顔を赤くしながら、菊塵の後ろを歩く色把。

「マキさんもここに来たての頃は良く迷ってましたよ。……たまに今もやってますけど」

 マキにもかれこれ二回助けられている。マキは、屋敷で遭難しかけている色把を見つけると、マキの私室になりつつある使用人の部屋に連れて行き、みかんやらお茶やらを出しては部屋で話をする。「アタシは一度も迷った事ありませんよぅ」なんて話をしていたのが今になって可笑しい。




「ところで」

 菊塵が歩くスピードを緩めた。色把が菊塵に並ぶ。

「ここ二日間、避けてますよね? 哭士の部屋。まぁ、契約が失敗した方も、どんな顔をすればいいのか分からないと思いますが」

 メガネの奥の瞳が、緩やかに笑む。菊塵にはお見通しらしい。

「……もう、五年も前ですかね。貴女の許婚、友禅さんが行方不明になってからすぐ、本家では哭士を本家へと召し上げる事が決まりました。だが、哭士が契約を結べない事が本家に知られてからは、その計画は棄却された。そして、その事を理由に彼を始末しようとさえした。只の狗鬼として生まれていれば、このような事は無かったはずですがね。力が強かったばかりに、早池峰の血を継いで生まれてきたばかりに、理不尽な虐げを受けてしまったのです」

 隙や弱みを他人に見せず雄々しいはずの哭士に、脆さを見出してしまった理由がようやく分かった気がする。



「それからもずっと哭士は祖父の手足となり、文字通り機械のように奔命ほんめいし続けてきました。哭士は狗鬼の中でも桁外れに能力が高い。早池峰の血を持つ者は皆そうです。……今こそ落ち着いてきてはいるものの、僕が出会った頃は、特に暴虐でしてね。奴の体から血の臭いばかりしていました。本家を忘れようとしていたのか、見返そうとしてそうなったのかは分かりません。だが、明らかに違っていたのは、人間らしい感情を一切顕にしていなかった事……ですね」

 遠い目をして、菊塵が左手にある大きな庭に目を落とす。

「だけど、貴女が来てから哭士はなんだか違う。祖父の命令に背く事、自身で誰かのために行動するなんて事、奴には無かった。貴女に出会ったことで、何かが変わりつつあるのかもしれません」

 色把は黙って聞いていた。




「色把さん、貴女は哭士を恐ろしいと思いますか?」

 菊塵の思いもよらない質問に、驚きつつも、色把は頭を振った。

『どうして、そんな事を?』

「あの男、烏沼克彦が言っていたから少しはご存知かと思いますが、哭士は、生まれた時から母親が居ない。勿論、世話をする家政婦はいたけれど、狗鬼の子はやはり人間の子供とは違う。気味悪がってすぐに辞めてしまう。ああいう性格になったのも、そういった経緯(いきさつ)が一つの要因になったのかもしれない」

 色把は、静かに頷いた。




 この家にやってきてから、沢山の出来事があった。その出来事の中には常に哭士が居る。

 自分を守り屋敷まで伴ってくれた事、傷の手当を許し、僅かながら体を預けてくれた事、契約を仕損なった哭士の苦しげな表情が、浮かんでは消えていった。

 まだ、自身が傷を癒やす事のできる籠女だということを、そっくり受け入れてはいないものの、色把自身が、狗鬼である哭士、菊塵達に信頼を置けるようになった。『家』を失った自分に居場所が出来たのだ。

 もっと彼らのことを知りたい、そう思い始めている。

「哭士のこと、気になります?」

 考えている事が菊塵に読まれてしまったのか、色把は耳まで真っ赤になり、勢い良く首を横に振る。

 菊塵は、冗談ですよ、と悪戯っぽく笑った。



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