7.うごめく影

 用意されていた部屋に戻った色把は、マキの夕飯の誘いも断り屋敷内が落ち着くのをひたすら待ち続けた。

 真夜中になるとあたりはしんと静まり返った。廊下をそっと抜け出す。日中に屋敷内を歩き回っていて上手い具合に松の木が外壁に上りやすくなっているところを見つけていた。

 何も得る事が出来ないのであれば自分の目で確かめるしかない。色把を動かしているのはこの思いだけだった。部屋にあった外用の靴を履き、庭園へと向かった。




 松の木に足をかける。案の定、力の無い色把でも外壁に上ることができた。そろりと外壁の上でバランスを整える。外壁の高さは二メートルも無い。ぶら下がるようにして外側に下りる。

『痛っ……』

 割れた瓦で手を切ってしまった。物音を立ててしまったが屋敷内からは何も聞こえてこない。自分が出たことは、気づかれていないようだ。

 まずは、ここがどこか調べなくてはいけない。辺りを見回すと閑散とした住宅街のようだ。

 屋敷の外壁に背を向け、反対方向に歩き出す。コンビニに入れば、地図を見ることができる。

 深夜のせいか道を歩いているのは自分のみ。まったく分からない道に不安になりながら、等間隔に街灯が寂しく照らす道を早足で歩いていく。



 ざざ



 後ろで何かざわめく音が耳に届く。風は無い為、何かと不審に思い振り返るが何も見えない。

 きっと気のせい、そう言い聞かせて歩みを進める。



 ざざ ざざざざざ



 だが、その音は気のせいではない。何かが近づいてきている。

 恐怖心を押し殺し色把は振り返る。目に映るのは街灯の光と、近くで不自然な動きをする小さなよどみ。

 目を凝らすと黒いシミがうごめいている。真っ黒く、もやのようなその物体には瞼のない目玉が二つ。

 猫くらいの大きさだが、ズルズルと電灯の明かりの元に出でたのは、実体の無い影だった。影はざわざわと動いている。

 背筋が凍る。

(……一体、あれは何!!)

 得体の知れない生き物を目の前に一気に身体わ恐怖が駆け巡る。

 数歩後ずさると、その生き物も同じ距離を保ち近づいてくる。

 体中を恐怖と嫌悪が入り混じったものが這っていく。




 ざざ ざざざざ ざざざ




 不気味な音を立てて縮まる距離。助けを求める声は、色把には出すことが出来ない。

 この世の者とは思えないその生物は、近づくスピードを更に上げる。目玉は色把をしかと捉えている。胸の奥で警鐘が鳴っている。

 すくんだ足を必死に奮い立たせ、身を翻して駆けた。

(恐い、恐い……恐い!)


 突如、右足からがくんと崩れ落ち、したたかに地面に身体を打ちつけた。

 遅れてやってくる右足の焼け付くような痛み。一本の切り傷が走っていた。鮮血が溢れ出る。

(あの影は……!?)

 咄嗟にあの影を探した。



 ざざ ざざざざざ



 不気味な音の主は民家の塀の上から見下ろしていた。足を負傷し動けなくなった色把との距離を、じわじわと縮めてくる。

 手で後ろにずり下がりながら、色把は必死に影との距離を遠ざけようとする。

 アスファルトに溜まった色把の血だまりに影が辿り着くと、まるで喜びを表すかのように体を大きくざわつかせた。




 ざざざ ざざ ざざざざ




 テレビの砂嵐のような耳障りな音だった。影は色把の血を啜(すす)っている。

 影の動きが止まったと同時に、ずりながら色把は道の隅まで辿り着いた。背中にカタン、と音が鳴る。それは細い木の廃材だった。

 必死に手で掴む、何も無いよりはましである。



 血を舐め終えた影は、また新たな潤いを求め色把ににじり寄った。

 色把の血を取り込んだからか先ほどよりも影の色は濃く、進んでくる様も先ほどより力強い。

 大きさは猫位から二周りほど肥大し、中型犬くらいの大きさとなっている。



 ざざ ざざざ ざざ



 角材を構えた。色把の様子を窺うように、影はじわりじわりと進んでくる。

 角材を思い切り振ってみた。少し掠った手ごたえはあったが、影はひらりと色把の攻撃をかわす。

 色把が反撃をしてきたことで、影が更なる警戒心を抱いたようだ。

 影は一定の距離を保ち、色把の動向を窺っている。

 足を負傷し、逃げるすべの無い自分は、影から目を逸らした瞬間に餌食となってしまう。

 色把は恐怖と戦いながら、にじり寄る影へ角材の先を向けた。



『!!』

 突如、色把に衝撃が襲う。

 手元の角材が弾き飛ばされた。色把は突然のことに驚愕する。

 あの影はまだ色把から数メートル離れた場所に居る。一体どういう事かと視線だけを巡らせた。




ざざ ザザざざ ざざざザざ




 弾き飛ばされた角材の先。もう一体の影が蠢いていた。

(また一匹現れたんだ)

 自分が背にしていた塀の上から襲われたらしい。新たに現れた小さな影は、角材に付いた色把の血を美味そうに啜っている。

 色把に絶望が襲い掛かる。標的の手から抗う武器がなくなったことを察した大きな影が、たちまちのうちに身を翻し、色把に躍りかかった。彼らが言っていた「危険」とはこの事だったのだ。なるほど、これでは一言に説明など出来はしない。

 影が近づいてくる様は、一瞬のことであっただろう。だが、色把にはまるでコマ送りのように見える。恐ろしく開いた影の口の中はなお、真っ黒い闇だった。

(もう……私は……)

 身体は恐怖で鉛のように動かない。右にも、左にも避けることはできない。色把はその場に竦み上がった。



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