嘯く羊~ウソブクヒツジ~

桐崎 圭

第1部

1.真夜中の侵入者

 時刻は既に深夜の二時を過ぎているものの、街の喧騒けんそうは静まることを知らない。

 眠らない街の中でも一つ、群を抜いて高いビルの上に一人の人物が立っていた。

 暗闇に紛れる黒いウェア、胸には防弾ベスト。身体は細いがしっかりとした筋肉。男性にしては少し長い伸ばしっぱなしの髪。不機嫌そうな目つきは鋭く、近づこうとするものを受け入れない、そんな雰囲気を醸し出していた。

 夜風が彼の頬を撫でる。

 彼の足元、七十メートル先にはさまざまな色の小さな光の粒が点滅し移動している。

 もはや一つ一つの光が何によるものなのか、判別は難しい。

 黒ずくめの服を身に纏い、彼はその時を待っていた。




哭士こくし、準備が出来た。来い」

 肩に付いた通信機から雑音の混じった声。

 哭士と呼ばれた彼は僅かに眉をひそめた。




 通信機の雑音が途切れると同時に哭士は何も無い空中へ踏み切る。

 遥か下はコンクリートの地面。命綱など無い。

 重力に引き寄せられ、身体はビルの壁と平行に落下していく。

 長めの髪が激しくなびき、風が身体を強く撫で付ける。

 如何なる時でも体が反応できるように緊張をみなぎらせていた。






 ――見つけた






 動体視力が人間の範疇を越えている彼は、垂直な壁から鋭角に押し開かれている窓を見つけた。哭士の仲間――先ほどの無線の男――が開いておいた窓である。

 落下をしながら、壁を軽く蹴り、体勢を整える。

 窓の縁に手をかける。

 重さを感じさせない軽やかな動作。窓の縁は手をかけた重みでかたり、と鳴ったのみである。そのまま身体を隙間へと滑り込ませ、ビルの内側へと侵入した。


 落下から僅か数秒の出来事。


「毎度ながら……恐れ入るよ」

 侵入した窓の近くに立っていた男。

 彼の名前は菊塵きくじん。スーツにメガネを身につけ、清潔そうに整えた黒色の短髪、胸元にはこのビルの会社の社員証をつけている。哭士より先に諜報員として侵入していた男だ。

 「まさか、超高層ビルに命綱無しで窓から侵入する人間が居るとは誰も思わないだろうね。まったく……お前の身体はどうなってるんだか」

「エレベーターは何処だ」

 余計な話は必要無いとでも言いたげに哭士は菊塵の顔を見ず言い放った。菊塵はそんな哭士の態度も気にしていない様子だ。菊塵は廊下の先を示す。

「この後は、昨日話をした通りだ。護衛は目に付くものだけ始末してくれればいい。九分三十四秒後の停電復帰までに、一番奥の部屋の男を捕捉。その後、例の『目標』を探す」

要点のみの指令。菊塵が言い終わるか終わらないかのうちに、哭士の姿は消えていた。

 暗がりの中で、菊塵は一人残された。

「……流石」







 暗い直線が続く。今、このビル丸ごとが停電している。だが、哭士にとっては昼間の視界と変わらない。

 哭士がいる区間は、ビル内では上層部。ビジネス業務を主に行う中層部とは大きく内装が変わり、重厚なインテリアが視界に入っては消えていく。足元もタイルではなく、分厚い絨毯が廊下一面に広がっている。

 視界の奥で人影がちらついた。護衛である。


 彼の目は良く見える。人影は二人でまだこちらには気づいていない。

 身を屈めて壁に沿って素早く近づく。そのまま壁を蹴り、中空へ跳ね上がる。

 壁を蹴った音で、護衛の二人が異変に気づく。

 跳ね上がった哭士は回転をかけ、両手を護衛の一人の首にかけながら そのまま床へ引き倒した。

 一瞬首を後ろに引かれた護衛は醜く唸ると気を失った。自分に何が起きたのか分からなかっただろう。


 着地し、しゃがんだ哭士の前にはもう一人の護衛。まさに異変に気づき、腰に装着している無線機と武器に手をかけていた……が遅かった。

 立ち上がりと同時にまだ哭士を捉える事ができずにいる相手の顎を殴りつけた。

 分厚い絨毯は、屈強な男が二人倒れる音をも吸収してくれる。




 振り返ることなく歩みを進める。呼吸は乱れていない。

 何人もの護衛が彼の途上に点在していたが、目に付く者から哭士は次々と伸していく。

 音も無く接近し、気が付いた時には護衛は床に倒れている為、哭士が侵入したことはビル内に伝わる事は無かった。仲間を呼ばれる事も無く、着実に目的地へと進んで行く。侵入してまだ五分と経っていない。




 ようやく壁に突き当たり、哭士の足が止まった。直角に右に折れた廊下の角から数メートル先に見えるのは護衛と目的の扉だった。

 相手は扉を背にしている、正面から突破するより道は無い。

 手には照明を携え、突然の停電にもその場を動くことなく背後の扉を守っていた。照明が一瞬、哭士の影を捉え、護衛は拳銃を構えた。

 躊躇することなく、哭士は突き当たりの角から一歩を踏み出す。銃の照準は迷いも無く哭士の胸に合わさった。




 フン。




 口元だけに笑みを浮かべると、護衛との距離を一直線上に縮めていく。

 哭士は腰に装着している小型のナイフを手に取ると、慣れた手つきで、護衛の手元に向けて投じた。

 小気味良い金属音が鳴り渡り、拳銃は絨毯に沈む。

 あっけに取られる護衛を尻目に、充分に距離を縮めた哭士は相手の鳩尾(みぞおち)に拳を突き入れた。

 突然の衝撃に相手は激しく吐瀉しながら、膝から崩れ落ちる。

 後ろ首を掴み男を引き上げる。細い体からは想像もつかない腕力で振り下ろし、床に叩き付けた。護衛はそのまま動かなくなった。





 実際のところ、重厚な扉には何重ものロックが掛かっていたのだろうが、哭士にはまったく意味を成さなかった。ドアノブは握り潰せば良いし、開かなければ蹴り破れば良いのだ。それだけの力が、哭士にはあった。

 力任せにドアを押しやると後は滑らかに開いた。非常電源であろうオレンジの小さな明かりが天井から降り注いでいる。狭いスペースが眼前に広がり、またもや扉が立ちはだかっている。おそらくこの先に目標の私室があるのだろう。

 今度の扉はドアを押したが動かない。ガチャガチャと取っ手を動かすうちにちぎれてしまい、哭士は扉を蹴破った。



 部屋は内装からして寝室のようだった。扉の内部は床が大理石、素人目で見ても、高額だと分かる家具がいくつも置いてある。

 哭士は入り口から動かず、その双眸で広い室内を見渡した。



 目標を見出したときには既に体が動いていた。

 扉を蹴破った音に驚き、部屋の真ん中で立ち尽くしていた男がうろたえる。指令にあった男に間違いない。

「な、なんだお前は……! 何……!」

 先ほどまでの騒ぎで目は覚めていたようだが、非常の事態に頭が回らないらしい。寝巻き姿で男は慌てている。答える必要は無いとばかりにつかつかと近寄ると、慣れた手つきで男の首根を掴み上げ、そのままベッドの上に押し付けた。

 男はうつ伏せにばたばたともがいているが、哭士の右腕に首根を押さえつけられている体はびくともしない。

「捕捉した」

 肩口に付いている通信機に一言、要件のみを伝える。数秒の後、またもや雑音の混じった声が届く。

「後続隊、すぐに向かう」



 菊塵と、菊塵に引き連れられた数人の男達が到着する数分間、押さえつけられた男はなにやら騒いでいたが哭士の耳にはまるで届いていないかのようだった。

「ごくろうさん、後はこちらがやる」

 菊塵は哭士にそう告げると、後方に待機していた者達が男を捕らえ始めた。

「さあ、教えてもらおうか。どこに隠してあるんだ?」

 菊塵の部下達は、男に尋問を始めた。




 そういったことに興味はないのか、哭士は身柄を引き渡すとベッドの横に備え付けてあったソファに腰掛けた。

「残っていた護衛もすべて片付けた。だが、ずいぶんと地味な攻略だったな」

 菊塵が続いて向かいのソファに掛ける。哭士の倒した護衛たちを見たのだろう。護衛たちは気を失ってはいるが、死んではいない。

「お前の力を出すまでも無かったわけだ」

 哭士は答えない。ただ黙りこんでいるだけだ。

「『目標』が無事見つかれば、さぞや祖父様じじさまも満足されるだろうね」

 祖父様、という言葉にだけ、哭士は少しの反応を見せた。傍目には分からないほどであるが。




 菊塵がつれて来た部下の一人が彼の元にやってくる。

「部屋内には、『目標』は見当たりません」

「……そうか、このビル内というのは確かなんだがな……」

 部下からの報告に、菊塵が首をひねる。


 一瞬、哭士の耳が小さな音を捉えた。人間の身体能力を遥かにしのぐ彼の聴力である。

 不機嫌そうに――実際に哭士は不機嫌だったのだが――ソファから立ち上がり、薄暗く広い室内を見渡した。

 何かこの部屋の近くには別の気配がする。

「哭士、どうした?」

 菊塵は、哭士が答えないのを知りながらも話しかける。

 真っ直ぐに部屋の隅へ歩み寄る。

 一見、何も無い壁のように見える。だが、夜目の利く哭士の目は僅かな異変をも捕らえていた。

 壁に触れると一筋の線が縦に走っている。線は哭士の目線の上で直角に曲がり、今度は横に伸びている。壁を叩いてみると中が空洞になっているような軽い音が返ってくる。壁の別の場所とは明らかに音が違う。隠し扉だ。

「そこはっ……!」

 尋問にも答えず沈黙を続けていた男は、哭士が隠し扉に気づいた途端にあからさまな狼狽を見せた。

 哭士には男の言葉は耳に入らない。扉の開け方など考えず、一挙に蹴り破る。


 乱暴な音と共に、隠し扉は奥へと倒れ、細い廊下が現れた。いくつもの扉が並んでいる。

 間違いない、感じた気配はこの先からだ。

 拓かれた道をくぐり、先へ進む。

「ははあ、なるほどね。こんな所に隠していたわけか。でかした、哭士」

 後から菊塵が続く。

 哭士は迷い無く一番奥の扉の前で立ち止まる。他の部屋には何も居ない事が何故だかはっきりと分かる。気配の元はこの先に居るのだ。

 哭士は自身の感受する、この奥の何かに「呼ばれている」という感覚に戸惑っていた。

 扉の前に立って鮮明になるこの知覚は、自分の感性をほぼ完全にコントロールしてきた哭士を狼狽うろたえさせるのに充分な材料であった。

「どうした? お前、さっきから妙だぞ」

 「目標」が何かは事前に哭士も知っている。だが、それが何であれ哭士には関係の無いことだった。

 指令を受け、機械のように遂行する。意思や自己などは存在しない。そうやっていつもやってきた。

 任務の遂行に邪魔になる者はすべてこの手で潰してきたし、それによって何かを感じることは無かった。

 だが今、目の前の扉の中にある気配に自分でも驚くほど戸惑っている。

 自分に訴えかける、このざわめく本能は……。

 扉に手をかける。鍵が掛かっているものと取っ手に力を込めたが、それはあっさりと何の抵抗も無く動いた。







 白い肌、黒く長い髪を下ろした、裸足の少女が部屋の中に立ちつくしていた。

 目を引く大きな瞳をさらに見開き、部屋の隅に背中を押し付けた。先ほどからの荒々しい音に怯えていたのだろう。

 少女と目が合う。吸い込まれるような大きな黒い瞳に映され、哭士は何故か目を逸らすことが出来ず、数歩後ずさった。

「『目標』だ。間違いない」

 菊塵は哭士の耳元で囁き、一歩踏み出す。菊塵は哭士の異変には気づいていないようだ。

「安心してください。貴女に危害を加えるつもりはありません。貴女のお婆様からの依頼を受け、貴女を助けに来ました」

 菊塵の言葉に、僅かに肩の力を抜いた少女。菊塵がいくつかの言葉を少女にかけると、暫くの間、思考を巡らせている様子だったが、ゆっくりと頷いた。

 特に抵抗する様子もなく、少女は菊塵に促されるまま部屋を出る。廊下へと出た少女が、哭士を見上げた。するとまた、哭士の胸がざわざわと騒ぎ出す。今までに無い感覚に哭士の中に動揺が広がった。




 ――この女は……一体何なのだ……

 少女の目が脳裏に焼きついたまま哭士はその場を動くことが出来なかった。




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