愁いを知らぬ鳥のうた~Wings~

猫柳蝉丸

本編

「いつだって護ってやるさ」

 そいつは言った。

 長い黒髪を風に靡かせて、妙に大きく見える夕焼けに照らされながら。

 何故だか今にも何処かに消えてしまいそうな儚さを感じさせて。

 何だか鳥みたいだな、っておれは思った。

 そうだ、鳥なんだ、こいつは。

 こいつはいつだってそうして世界を飛び回って色んな物を護ってるんだ、きっと。

 まるで――



      *



「どうなってるんだよ……!」

 姉ちゃんの手を引きながらおれは吐き捨てる。

 分かんねえ……、全然事態が呑み込めねえ……!

 さっきまで普段通りの放課後だったはずだ。学校の眠い授業を終わらせて帰ろうとすると、うちの中学から結構離れてる高校に通ってる姉ちゃんが普段通り迎えに来てて、もう小学生じゃないんだから迎えなんか必要ねえよ、っていつもいつも言ってるのにおどおどとぼとぼ姉ちゃんがおれの後ろに付いて来る本当に普段通りの放課後。中学校の友達に微笑ましいって笑われるのにもそろそろ慣れてきたそんな普段の放課後のはずだったのに。

 おれと姉ちゃんは追われている。得体も知れない変質者に追われている。

 いや、変質者かどうかは分からない。もしかしたらおれと姉ちゃんを狙ってる暗殺者かもしれない。だけどおれには暗殺される覚えなんてないし、ワカメみたいに長いだけの癖っ毛をしてる鈍臭い姉ちゃんが暗殺される理由があるわけなんてないから、やっぱり暗殺者じゃなくて単なる変質者なんだろう。

 追われる直前、変質者の顔を見ておれは直感的にこいつはやばいと思った。何しろ目が死んでいる。ぶつぶつわけの分からない事を呟いている。漫画でよく見るような異常に背中を反ってる姿勢も変質度倍増だ。しかも見た目は三十歳くらいの普通のおばさんだった。おっさんやおれたちくらいの中学生ならともかく、そんな事やってるおばさんなんて変質者以外の何者でもない。

 嫌だなあ、姉ちゃん変に怯えて目を付けたりしないかなあ……、なんて考えていたら変質者は案の定すれ違う瞬間に姉ちゃんの手首を握っていた。ひぎゃああっ! なんて可愛らしさが欠片もない悲鳴を上げた姉ちゃんだったけど、放っておくわけにはいかなかった。こんなブスな姉ちゃんでも一応は血の繋がった姉ちゃんなんだ。何かあったら寝覚めが悪いし、宿題だって教えてもらえなくなる。だからおれは変質者の顔を学生鞄で殴って、その隙に姉ちゃんの腕を引いて逃げ出したんだ。

 こうして夕暮れの放課後の通学路を逃げ回っているんだ。

「何……、何なの、たっくん、何なの、あの人……っ?」

 息も切れ切れで姉ちゃんが俺に訊ねながらどうにか走る。

「知るかっ! とにかく走れっ! 振り向かずに走れっ、バカッ!」

 そもそもたっくんって呼ぶのはもうやめろ、っていっつも言ってるだろうが。

 中学生の弟がたっくんなんて呼ばれて喜ぶなんて思ってるのかよ、このクソメガネ。

 でも、そんな事を言ってる場合じゃない。

 逃げなきゃいけない。何はともかく逃げなきゃいけない。誰かに助けてもらわなくちゃいけない。姉ちゃんは帰宅部だし、おれだって単なる卓球部なんだ。運動をしない一般人よりは体力はあるだろうけど、それ以上は何も出来ないし出来そうもない。

 ああ、それにしてもどうして誰の姿も見えないんだ。五分は逃げ回っているはずだけど、人どころか猫の姿すら見えない。どんなに田舎とは言っても、放課後の通学路にここまで人の姿が見えないなんて事があるんだろうか。

 どうにも仕方がない。おれは息を切らしながら学生鞄の中に入れているスマホを何とか取り出した。走りながらだけど、見る限り変質者との距離は三百メートルはありそうだった。少しくらい走る速度を落としたって電話くらいなら出来るはずだ。

 そう考えながらスマホの画面に目を落としたおれは思わず叫んでしまった。

「嘘だろ……っ?」

 圏外だった。それこそ人の姿が見えないよりありえない。おれの住む町は田舎ではあるけど道端で県外になった事なんて一度もない。何なら短いトンネル程度なら圏外にならないくらい感度良好な土地柄なんだ。こんな道端で圏外になるなんて絶対にありえない。

 背筋が凍る感覚がした。単なる変質者がやる事にしては度が過ぎている。

 これはもっと幽霊とか怪物とか妖怪とかそんなオカルト的な事件だ……!

 思った時には学生鞄を変質者に思い切り投げ付けていた。卓球部で鍛えたおれの制球力はさすがのもので、学生鞄は狙った通り変質者の顔面に直撃していた。辞書やら何やら入っているから相当痛いだろうけど知った事じゃなかった。単なる変質者ならともかくオカルト的な何かに容赦してやる余裕なんてない。

 変質者が学生鞄の下でもがいている内に、おれは更に姉ちゃんの手を引いた。

 ここからおれの家まではまだ遠い。周りにぽつぽつある一軒家に助けを求めてもいいけど、何となくそれは無駄な行動のような気がした。こんな道端で誰ともすれ違わないんだ。家の中にも誰もいないような気が……、いや、間違いなくそうだ。今、この周りにはおれと姉ちゃんと変質者しかいないんだ。確か、そう、前にもこんな事が――

「たっ、たっくん……、前にも……前にもこんな……」

「分かってる!」

 酷い顔で姉ちゃんが言おうとした言葉を押し留める。姉ちゃんに言われなくても分かってる。あれは確かおれが小学一年生だった頃の話だ。よくは覚えてないけれど、姉ちゃんとこうして逃げ回った記憶だけは確かにある。その時もおれと姉ちゃんと追い回した誰か以外周りに誰もいなくなっていたはずだ。

 いや、それはいい。詳しく思い出すのは後でいい。重要なのはその時のおれと姉ちゃんがどうやって助かったかだ。今よりずっと小さかったおれたちで変質者相手にどうやって逃げ切った? どうやって立ち向かった?

「アベ・ミグラ……」

「たっ、たっくん……?」

 ふと思い出した。アベ・ミグラ……何とか。その言葉だけは思い出した。よく意味の分からない言葉。耳に何故か残っている言葉。そして、その言葉を発したのは確か……。

「姉ちゃん」

「なっ、何っ、たっくん……」

「アベ・ミグラ……って言葉覚えてるか?」

「しっ、知らない……っ! 安部みくって誰っ? たっくんの好きな女の子……っ?」

「もういい」

「えーっ……?」

 おれは姉ちゃんと話すのを諦め、何となく思い付いたあの場所に向けて走り出した。あの場所ならもしかしたら変質者をやり過ごす事が出来るかもしれない。時間はほとんどない。変質者がもがいている内に少しでも距離を稼がないといけない。

 それにしても姉ちゃんはやっぱり覚えていなかった。

 アベ・ミグラ……って言葉は確かに姉ちゃんの口から出たはずなのに。



     *



 五分くらいは走っただろうか。

 一般人より体力があるとは言ってもそろそろおれも限界だ。

 帰宅部で運動音痴の姉ちゃんはもっと限界みたいだった。不細工な顔で息を切らせて汗まみれでどうにかおれに付いて来てるだけの状態だった。まあ、姉ちゃんにしては頑張った方だと言えるだろうけど。

 ともあれ、おれたちの体力が完全に切れる前に目的地に辿り着けてよかった。

 おれが倒れ込むように汚い段ボールの上に座ると、姉ちゃんはその隣に崩れ落ちた。

「たっ、たっくん……、こ、ここは……」

「まずは息を整えろよ、姉ちゃん。すっげー不細工だぞ」

「ううう……、冷たいたっくん……」

 冷たくても何でもよかった。とにかくおれと姉ちゃんには休息が必要なんだ。

 とにかく息を整えて、後の事を考えよう。

 ああ、それにしても喉が渇いたな……、と思った瞬間、姉ちゃんが水筒にお茶を注いでおれに渡してくれた。ありがたいけど、最近いないぞ、水筒を学校に持ってく女子高生なんて。いや、女子高生なんて姉ちゃん以外知らないけど。

 温かいお茶だったのが残念ではあったけれど、どうにか喉は潤せた。飲んだ後になって姉ちゃんとの間接キスだった事を気付いたけど特に気にしない事にした。家じゃ箸だって固有の物を決めずに使い回してるんだ。今更だった。

 姉ちゃんがお茶を飲んで一息吐いた後、小さく喋り始める。

「ここ、懐かしいね、たっくん。秘密基地だよね」

「そうだよ、よく遊んだだろ。まあ、姉ちゃんは絵を描いてばっかだったけどさ」

「運動苦手なんだもん……。よく知ってるでしょ」

「その話は置いといて、ここなら色々あると思ってさ、ほら」

 おれの家から中学校までの通学路の脇の山道、小学生の頃によく使っていた秘密基地は残っていた。おれが小学校の後輩に引き継いだんだ。飽きてなければあいつらがまだ使ってくれてるはずだった。おれたちが使った遊び道具も。それが目的でおれはここまで苦労して走って来たんだ。

「うわあ……」

 おれが手に持った物を見て姉ちゃんが少し引いたように呟く。

 おれだって少しどうかと思うが、こんな状況では四の五の言っていられなかった。

「その釘バット、まだあったんだね……」

「おれたちが使う前からこの秘密基地に置いてあった釘バットだからな、ある意味で主みたいなもんだ。賢治たちちゃんとメンテナンスしてくれてたみたいだな」

「本当だね、釘だけちょっと新しい。……使う気なの、たっくん?」

「しょうがないだろ、他に使えそうな武器なんてないんだから」

「そっか……、そうだね……」

 意外にも姉ちゃんはおれが釘バットを持つのを止めなかった。いつもの気弱な姉ちゃんなら、そんなの使っちゃ駄目、って怯えながら怒りそうなもんだけど、そういう場合じゃないって姉ちゃんも気付いてるんだろうか。

「どうなるか分からないからな、身を護るために必要なものだろ?」

「うん、分かってるよ、たっくん」

「それならいいけど……」

 何だか拍子抜けだった。説得に時間を掛けるよりずっといいけど。

 何となく気の抜けたおれは、せっかくだから気になった事を訪ねておく事にする。

「姉ちゃん、あの変質者に見覚えはあるか?」

「ううん、知らない……」

「変質者に追われるような事をした身に覚えは?」

「ないよ……。わたし、可愛くないし……」

「分かってねえな、姉ちゃん。姉ちゃんみたいなブスを襲う変質者だっているんだよ。と言うかそっちの変質者の方がやばい。だから、姉ちゃんが可愛いかブスかは関係ないんだ」

「それはひどいよーたっくん……」

「それは置いとくとして。だったら覚えてるか、姉ちゃん? おれが小学一年生の頃、今と同じような事が起こったの。おれと姉ちゃんと変質者――いや、今追って来てるおばさんとは別の変質者だけど――以外誰もいなくなってたあの日の事を」

「覚えてるよ。たっくんと変質者に追い掛けられたのだけは覚えてるけど……」

「どうやって助かったかは覚えてないんだよな?」

「うん……」

 分かっていた事だった。姉ちゃんはあの日の事をはっきりとは覚えていない。

 おれだってあまり覚えていない。気が付けば姉ちゃんと二人秘密基地で倒れていた。覚えているのはアベ・何とかって姉ちゃんが言ったはずのよく分からない言葉だけだ。変質者もいつの間にか消えていた。

 ただ、覚えている。誰かに護られ、誰かに救われ、とても頼もしかった事だけは。

「でもね、たっくん」

 ふと姉ちゃんが軽く微笑んで口を開いていた。ブスのくせにちょっとだけ可愛かった。

「何だよ」

「こんな時だけど、お姉ちゃん、よかったって思ってるんだ。いざという時、たっくんの近くにいられなかったらやだなっていつも思ってたから……。お姉ちゃんの知らない所でたっくんが痛かったり辛かったりするのなんて嫌だったから……」

「そうかよ」

 おれは姉ちゃんから視線を逸らして吐き捨てたけど、本当はおれも分かってた。小学一年生の頃のあの日、変質者に襲われてから姉ちゃんがおれをいつも心配に思ってくれていた事を。それでわざわざ結構離れてる高校からおれの中学まで迎えに来てくれてる事も。それは頼もしくて嬉しい事だったけど、申し訳ない事でもあった。姉ちゃんもおれから離れて姉ちゃんの人生を楽しんでほしい。だから、おれは姉ちゃんと少し距離を取りたかったんだ。

 おれの気持ちを知ってか知らずか姉ちゃんが話題を変えた。

「でもね、たっくん。これって何なんだろう……?」

 これとは今の状況の事だろう。姉ちゃんには悪いけどおれにもそれは分からなかった。

「分からない。でも単なる変質者じゃないのは確かだと思う。ただの変質者なら他に人がいなかったりスマホが圏外になったりするもんか。オカルト的な何かだよ、絶対。それが何なのかは分かんねえけどさ」

「だよね……、オカルト的な何かだよね……」

 何も分からない。分かっているのは、前に姉ちゃんが残した言葉だけだ。姉ちゃん自身も覚えてはいない言葉だけど。それとこの状況がどう関わってるんだろうか。もしかしたら全然関わってないんだろうか。

 少し沈黙の後、姉ちゃんが立ち上がってセーラー服の袖をまくった。

「ねえ、たっくん。釘バット、お姉ちゃんに貸してくれない?」

「いいけど、どうするんだよ」

「ちょっとね……」

 釘バットを渡した瞬間、姉ちゃんはそれを思い切り振りかぶった。

 凄い速度で振り下ろされる。

 おれを殴るつもりか……と一瞬思ったけど、姉ちゃんがそんな事をするはずがなかった。

 鈍い音が山中の秘密基地に響く。

 姉ちゃんの釘バットはいつの間にかおれの後ろに迫っていた変質者のおばさんの頭にクリーンヒットしていた。気付かなかった。いつの間に迫っていたんだろう。そして、姉ちゃんはどうして変質者に気付いたんだろう。ずっと気を張っていたおかげなのか?

「たっくんには……手を出させない……っ!」

 鬼みたいな凄い形相だったけれどおれには分かる。これは姉ちゃんが泣きたい時の表情なんだって。泣きそうになりながら、怯えながら、それでもおれを護るために釘バットを振り下ろしてくれたんだ、姉ちゃんは。

 釘バットが直撃した変質者の頭はかなりへこんでいた。死なないまでも重傷は免れない。そんな大怪我に見えたのも一瞬、変質者の張り手が姉ちゃんを横薙ぎに吹き飛ばしていた。秘密基地の壁に姉ちゃんの全身が叩き付けられる。

「平気なのかよ……っ?」

 おれは思わず呟いていたけれど、平気どころの話じゃなかった。気が付けばへこんでいたはずの変質者の頭はすっかり元通りになっていて、何のダメージも負っていないようだった。これはもう単なるオカルト的な何かですらない。これはもっと頭がおかしい超常的な何かなんだ。

 どうする……? どうすればいい……?

 このままでは姉ちゃんが殺されてしまう。

 おれをずっと護ってくれていた姉ちゃんが死んでしまう……!

 変質者の奴が迫る。多分、姉ちゃんを殺そうと迫っていく。

 どうすれば。おれはどうすればいい……!

「誰か……っ!」

 誰もいない事は分かっている。それでも誰かに助けを求めずにはいられなかった。

「誰かっ、姉ちゃんをっ! 姉ちゃんを助けてくれ……っ! 誰でもいいっ! おれの姉ちゃんを助けてくれっ!」

 喉の奥から全身全霊で叫んだ。祈った。祈る事しかできなかった。誰もいなくても、誰にも届かなくても、おれは叫ばずにはいられなかった。そう。そうだ。あの時、前に変質者に追い詰められたあの時と同じように……!

 走馬燈のように目まぐるしく過去の出来事が脳裏を奔っていく。姉ちゃんと遊んだ事、姉ちゃんに護られた事、姉ちゃんを馬鹿にしながらも悪く思えなかった事、もっとカッコいい姉ちゃんであってほしいと我儘にも思ってしまった事、それから……。

 走馬燈とは死の間際にこれまで積み重ねた記憶から、助かるための情報を引き出す行為だと何かの本で読んだ事がある。本当にそうなのかは分からない。そうでなくても構わない。けれどおれは思い出した。やっとの事でおれはあの言葉を思い出していた。

「助けてくれっ! アベ・ミグラトリア――ッ!」

 叫ぶ。全身で。あの時、おれを救ってくれた存在に向けて。

 そして――

「応よ!」

 聞き覚えのある声だった。よく聞いた声だった。ただ喋り方も口調も全然違っていた。声が聞こえた先には姉ちゃんが立っていた。眼鏡を草むらに放り投げて、自信に満ち溢れた表情の姉ちゃんが。いや、違う。これは……。

「久し振りだな、タクミ! デカくなったな、おい!」

 そうだ、これは……、こいつは姉ちゃんじゃない。あの時、確かにおれと姉ちゃんを助けてくれた、姉ちゃんじゃない姉ちゃんの姿をした誰か。アベ・ミグラトリアと名乗ったおれたちの希望――!

「危な――」

 アベ・ミグラトリアに飛び掛かろうとした変質者の存在をおれが教えるまでもなかった。

 視線を変質者の方に向けもせず、アベ・ミグラトリアが手の平だけ差し出した途端、変質者のおばさんが苦しみ出した。姉ちゃんが釘バットで頭をぶん殴っても何ともなかったのに、もがくみたいに手足を動かして口から泡まで吹いていた。アベ・ミグラトリアが変質者に何かをやっているんだろう事だけは分かった。

「いい加減、こっちの世界に迷惑掛けるのはやめようぜ。……な?」

 一瞬の閃光。

 変質者がもがくのをやめ、動きも呻き声も沈黙させた。

 途端、何かが晴れていくのを感じた。

 周りを覆っていた重い空気だろうか。とにかくそういう何かが消え去った感覚がした。

 何となくスマホをポケットから取り出して視線を下ろしてみる。

 予感はあった。思った通りスマホの電波は圏外から回復していた。

「まったく、閉鎖空間なんて余計な技術を覚えやがって」

 憎々しげに呟くアベ・ミグラトリアにおれは気付けば訊ねてしまっていた。

「閉鎖空間……?」

「ああ、あいつらが獲物を逃さないためと俺達に見つからないために作る空間の事だよ。探知しにくいったらありゃしねえぜ。最近はかなり閉鎖空間の技術も発展したみたいでよ、前みたいに助けを求める声も聞こえづらくなってきた。タクミみたいに俺の事を知ってる奴じゃなきゃやばかったかもな」

「アベ・ミグラトリア……だよな?」

「ああ、そうだよ、久し振りだな、タクミ。ツグミ姉ちゃんと仲良くやってるか?」

「まあ、そこそこ仲良くやってるけど……」

「そりゃ何よりだ。あータバコ吸いてえ」

「吸うなよ! 姉ちゃんの姿で吸うなよ!」

「分かってらあ」

 くっく、とアベ・ミグラトリアが意地悪く笑う。おれの記憶に微かに残ってる仕種と全く同じだった。どうやら本当に姉ちゃんの姿でおれを助けてくれたアベ・ミグラトリアで間違いないみたいだった。ああ、それにしても呼びにくいな、アベ・ミグラトリアって。

「て言うか何なんだよ、アベ・ミグラトリアって」

「教えなかったっけか?」

「教えられてない」

「『渡り鳥』って意味だよ、スペイン語の」

「何でスペイン語なんだよ」

「何でかって? カッコいいからだ!」

 アベ・ミグラトリア――もう渡り鳥でいいか。渡り鳥は姉ちゃんの姿で胸を張った。姉ちゃんは胸だけ大きいから妙にそれが目立って何となく恥ずかしくなる。やめろよな、姉ちゃんの姿でそういう事やるの……。

「で、何なんだよ、おまえは。どうして姉ちゃんの身体に憑依? してんだ」

「んー、まあ、憑依っちゃ憑依か。それも前に説明なかったっけか?」

「説明されたかもしれないけど、小学一年生だったからよく分からなかったんだよ」

「今なら分かるってえのか?」

「……分かる努力はする」

「そりゃ何よりだ。別に難しい話じゃねえよ。そこで倒れてる変質者のおばさんがいるだろ? そりゃそこのおばさんが変質者だからじゃない。そこのおばさんに憑依してる奴がこの世界のエネルギーを狙ってる盗人変質者だから、俺らみたいなのがそれを止めに来てるってわけだ」

「この世界のエネルギー?」

「生気? とか? 霊圧? とか? 感情エネルギー? とか? まあ、そういう感じのエネルギーだよ。こっちの世界の人間にゃ無価値かもしれねえけど、俺らの世界じゃ莫大な財産になる。それを狙って悪い盗人がこっちの世界にアクセスして来てるんだよ。タクミはその中でも特に強いエネルギーを持ってるから、前も今回も狙われたってわけだな。危なかったぜ? エネルギー取られちまったら廃人みたいになる奴だっているからな」

「それを止めるために渡り鳥が頑張ってるって事なのか?」

「そうだよ、分かりやすい理屈だろ?」

「大体分かった。大体分かったけど、一つだけ分からない。どうして姉ちゃんに憑依してるんだ? おれが狙われてるんならおれに憑依すれば二度手間じゃないだろ?」

「あるんだよ、相性ってやつが。盗人どもはこの世界に不満を持って違う世界に夢を見ている人間に憑依しやすい。それと同じく、俺ら渡り鳥だって憑依しやすい相性がいい人間がいるんだよな」

「それがおれの姉ちゃんだったって事なのか?」

「ああ、ツグミ姉ちゃんは鳥の名前を持ってるからな」

「それだけかよ!」

 おれは思わず大声で突っ込んだ。からかわれているのかと思ったけれど、渡り鳥の表情を見る限りは大真面目なようだった。本当に姉ちゃんの名前が『つぐみ』だったからって理由で憑依しているのか……。

「そう馬鹿にした話じゃねえさ。鳥の名前を持ってる奴らは多少なりとも自分が鳥の名前だって事を意識してる。良くも悪くもその名前みたいにいつか飛び立ってやろうって考えてるものだ。そういう意識が俺らアベ・ミグラトリアの感覚とぴったり合うんだよな」

「そういうもんかね……」

「そういうもんさ」

 そういうもんかもしれなかった。

 渡り鳥がそう言う以上、それを疑ってみたってしょうがない。

 ただもう一つだけ気になる事があった。

「渡り鳥はさ」

「何だよ?」

「どうしておれやこの世界を護ってくれるんだ? 別に渡り鳥には関係ない話だろ? いや、仕事か何かでやってるのかもしれないけどさ」

「仕事じゃねえ、趣味だよ。俺は趣味でタクミやこの世界を護ってる」

「どうして?」

「この世界が気に入ってるからさ。おまえらの中にはろくでもない世界って言ってる奴も多いけど、俺らみたいなあっちの世界の住人にとっちゃ瑞々しい刺激に溢れた眩しい世界なんだ。そんな世界を盗人どもの勝手な理屈で荒らされたくないんでね」

 そう言った渡り鳥の表情は真剣そのものだった。本気でそう思っているんだろう。

 何だろう……。とても心強い気持ちになれた気がした。

「そんなわけだからよ?」

「うん」

「ツグミ姉ちゃん、大切にしろよな、タクミ」

「分かってるよ」

 分かった。分からされた。

 それこそ渡り鳥の護りたい物の一つでもあるんだろう。

「これからどうするんだ、渡り鳥?」

「いつまでもツグミ姉ちゃんの身体に憑依してるわけにもいかないからな、次の盗人を止めるためにまた色んな場所を渡るさ。俺たちゃアベ・ミグラトリアだからな。そこのおばさんも怪我はしてないからそのままにしておいてやれ。一時間もすりゃ目を覚ますだろ」

「ああ、分かった。でも……」

「何だよ?」

「いや、何でもない」

「変な奴だな……」

 訊ねようとして訊ねられなかった。

 渡り鳥は寂しくないのか、と。

 渡り鳥は独りでこの世界を飛び回って盗人たちの芽を潰していく。

 おれには姉ちゃんがいる。姉ちゃんにはおれがいる。渡り鳥は独りだ。

 独りでこの世界を護るなんて、寂し過ぎておれに出来るかちょっと自信がない。

 それでも、と思った。

 それでも、きっと渡り鳥は飛んで行くのだろう。

 悲しい顔一つ見せずに、気に入ったこの世界を護るためだけに。

「じゃあ、そろそろ行くぜ、タクミ。今度は俺の事忘れんなよ?」

「渡り鳥こそ今度はもっと早く来いよな」

「生意気な事言いやがる。ま、心配すんな。タクミが呼べば超特急で飛んで来てやる。あっ、でも一つ頼まれてくれるか?」

「おれに出来る事ならいいけど」

「十ミリのタバコ、ワンカートン買っといてくれ」

「吸うなよ! 姉ちゃんの身体で吸うなよ!」

「へへっ、冗談だよ。じゃあな」

 それだけ言うと、渡り鳥はあっと言う間に姉ちゃんの身体から去って行った。

 その場に崩れ落ちる姉ちゃんの身体を抱き留める。

 まったく、せめて座った状態で姉ちゃんの身体から出てけってんだよ。

 散々な一日だった。

 でも、おれは不思議と嬉しかった。この世界を見守ってくれてる友達がいる事がよく分かったから。今度こそおれは渡り鳥の事を忘れない。渡り鳥に言われなくても、姉ちゃんを大切にする事を誓ってやる。どんなに臆病でもおれを護ろうとしてくれた姉ちゃんなんだから、今度はおれが護る番なんだ。

「……あっ、あれっ?」

 おれの腕の中で姉ちゃんが目を覚ました。前の事を考えるに今回も姉ちゃんは渡り鳥の事を何も覚えていないんだろう。何から説明するべきだろう。おれは首を捻る。

「たたた、たっくん……! お姉ちゃんを抱きしめてどうするつもりなの……?」

 ……そこから説明しなきゃいけないか。

 おれは苦笑して、秘密基地に置いてあったフリーペーパーを手に取って丸めると、姉ちゃんの頭を思い切り叩いてやった。

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愁いを知らぬ鳥のうた~Wings~ 猫柳蝉丸 @necosemimaru

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