第7話 ヒマワリ畑で
そっと旦那様の腕が緩んで、馬が回頭した。
「ほら、ヒマワリ畑だ」
横座りしていたから見えていなかった。自分の背中側は一面のヒマワリだった。
「綺麗……」
「今が満開だ。下りてみるか?」
「はい」
当初の目的を思い出した。ここに来ればヒマワリがまた呪文をかけて、元の世界に返してくれるかもしれないと思ったのだった。
お台場のヒマワリ迷路に、
馬上から見て、花が上を向いていると思った。それもそのはずだ。草丈が自分の背よりも低い。
迷路の、あの息詰まるような上から見下ろされる感覚がない。小学生の黄色い帽子に取り囲まれているように微笑ましいのだ。
「あの、いつもこのくらいの背丈に咲くのですか?」
馬を立ち木に繋いでいた旦那様に訊いた。
「ああ、毎年、収穫し易い高さの株の種を採取して、次年に蒔くように指導している。ハサミで切って、腰につけた籠に自然に入る高さがいいから」
「ナルホド」
気の長い品種改良が施されているというわけだ。
とはいっても。
それは自分にとっては都合が悪い。ヒマワリに呪文をかけてもらうには、圧倒される中を歩き廻って花に酔って、花芯を覗きこんで。
膝立ちで移動してみた。でも圧し潰される感覚なんてどこにもない。
「綺麗だね、今日も元気にお日さま浴びたね」
なんて会話している気分にしかならない。
「ダイ……、大丈夫か?」
旦那様が後ろから声をかけた。
放っておいて、私がいなくなればきっとあなたは、あなたの妻を取り戻せる。
ヒマワリ同士でパラレルワールドが繋がってしまっただけで、もしかしたら奥様は東京に行っちゃったのかもしれない。
そのほうがきっと大変だから。私がここにいるより、奥様が日本の東京の殺伐の中にいるほうがつらいだろうから。
「お願い、ヒマワリ、もう一度私に術をかけて!」
花を覗きこんでも何も起こらない。眩暈もしなければ焦りもしない。ざらつく葉っぱを触っても痛くもない。
おねがい……、旦那様のためにも……。
「気分が悪いのか?」
くるっと振り向いて男の顔を見た。
無表情に戻っているが心配してくれているのはわかる。だから、だからこそ、私は日本へ帰らなくちゃ。
立ち上がってヒマワリの間を走った。
圧倒して、充満して、私を息苦しくさせて。花に酔わせて。あのときみたいに。私をこっちに引っ張ったとき、みたいに。
走っても走ってもヒマワリは無くならなかった。広い畑なんだなあと思った。思ったところで地面の窪みに足をとられた。
転んで寝そべって、花を見上げた。
「術を……かけて……」
「ダイ、ダイ、待ちなさい……、どこだ?」
旦那様の声がする。
「ダイ」というのはもしかして、私の名前?
寝転がったまま、ヒマワリと見つめ合ったまま、背中の下の地面に足音を聞いた。
「大丈夫か? 倒れたのか? 怪我はないか?」
駆け寄ってきて上半身を抱き上げた。
見つめ返すと……、
キスされていた。
アイツにも「していいよ」と言えなかったキス。
許したらその先どこまで求めてくるかわからない、それが恐くてできなかったキス。
旦那様は柔らかく口唇を離すと「嫌だったか?」と囁いた。
私は身体から骨が無くなったかのように動揺して、相手の胸元を掴んで身を起こした。
嫌じゃない、嫌じゃないけど、好きかどうかわからない状態でしてしまった。
東京に返してと思う心でしていいことじゃない。
この世界で生き延びる引き換えに、させてあげることでもない。
「嫌……」
というしかない。立ち上がって背を向けた。
「そうか……」旦那様の声は足元に落ちた。
「馬はあっちだからついてきなさい」
だんだん暗くなるヒマワリの間を、私は叱られた子どものようにとぼとぼと従った。
あなたがキスしたい相手は私じゃないハズ。
私は21世紀の東京ってとこに住む高校二年生。あなたのダイじゃない。
私はニセモノで身代り。
これが私のファースト・キスって間抜けだけれど、旦那様は嬉しかったのだろうか?
帰路、馬は速駆けした。
私は両腕を廻して抱きつくしかなかった。密着しているのに、往路より倍がけに心細かった。
屋敷前で馬を止めると彼は私を降ろし、
「礼拝堂へ行くから食事は失礼する……」
と、うわの空で唱えてまた馬に乗った。
独りで食べる冷たいハムは侘びしかった。プロシュートのように美味しくても悲しい。昨晩嗅いだ、獣脂のろうそくの匂いが鼻についた。
給仕長さんに「ベックスのスープ」をお願いした。
うちに帰りたい。
母は、父は、兄はどうしている?
「ダイ」さんを娘と思って仲良くしていたりして。ヘンな言動も倒れたせいだろうと大目に見て、結構うまくやっているかもしれない。
帰りたくても、ヒマワリは返してくれなかった。
私はどうすればいい?
その夜旦那様は私の部屋に来なかった。キスを嫌だと言ったのだから、その先も無理そうだと思ったのだろう。
これでいい。身を守る心配から逃れられる。
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