第9話 浦和の駅には新幹線が止まらない

「君さ」

 白雪さんは私をいつも君、と呼ぶ。部長のことは先輩、上遠野さんのことは上遠野さん。

「今日、一緒に帰ろ」

 白雪さんから誘われるのは初めてだった。

「何、決闘でもするの?」

 部長が茶化し、上遠野さんは意外そうな顔をしている。

「決闘、それもいいね」私を見据えて白雪さんは言う。

「いいよ、分かった」

 お茶会が終わり、刻一刻と陰りゆく夕照りの道を白雪さんと共に歩く。二つの影は長く長く、黒く引き伸ばされては段々と闇に消えていく。

「黒鳩空」

 最初は何のことだか分からなかった。その言葉が発せられて何秒かしてから、ようやく私の名前が呼ばれていることに気付いた。

「えっ、私!?」

「他に誰がいるの」

「だって、白雪さんが私の名前を呼ぶなんて初めてだから」

 愛しい相手に初めて名前を呼ばれた記念すべき瞬間の到来に、戸惑いながらも私は浮かれた。

「そうだったかな」

 彼女は無表情のまま首を傾げた。首を傾げるだけでも、絵になる美しさと雰囲気の暴威。彼女を産んだお母様には感謝しなくてはならないだろう。

「えへへ」

「君は、私が部室に来て先輩と話してる時、耳元で何か囁かれたの見てた?」

「うん」

「あの時何て言われたと思う?」

 難しいクイズだった。クイズですらないかも知れない。全くの憶測で答えるしかないからだ。何の推理材料もないので、私はすぐに考えることを放棄した。

「分からない」

「親殺し」

 また何を言っているか分からなくなった。そしてすぐ噂を思い出す――虐待された復讐に両親を殺したという。部長は何故そんな事を言うのだろう。噂は事実なのだろうか。

 親殺し――まさか、と思った。ありそうなこととしては、親との何らかの確執の比喩として、部長がそう表現している。これは楽観的だが現実的な推論ではないか。

「どういうことなの」

 白雪さんが私の前に立つ。私よりも身長が少し低いその身体はか細く頼りない。そんな彼女を目の前にすると重く心を締め付けられるような切なさを感じる。

 彼女は剃刀を取り出し――私に向けた。さっきまでの浮かれた気分が一転し、狼狽しそうになった、何かが何もかもが身の内で焦慮し始めた。

「どうしたの」

 精一杯声を発するけれど、か細く弱々しい。誰かに見られたらまずい。

「欲しくなった」

「血?」

「うん」

 後生だからやめて欲しいと思った。こんなところでするなんて。

「どうしても?」

「うん」ならば仕方ない。私は彼女を放っておけなかった。

「どこがいい?」「お腹」

 私はコートとブレザーのボタンを外して、シャツとインナーを捲りあげてお腹を出した。冬の寒風が私のお腹を冷たく撫で、そして白雪さんは臍の横の辺りに剃刀を当てる。紙で切ったような些細な傷から血がじんわりと滲み出るのを感じ、その部分が急速に熱を帯びる。

 白雪さんが私の腰に手を回し、お腹に顔を埋めて、それから血を舐めはじめた。

 啜るように丁寧に、時折舐めあげたり、傷口を穿るように。かすり傷より僅かばかり深いか、その程度の傷だったから血はすぐに止まった。

 舐めるのをやめて、私のお腹に顔を埋めながら言った。

「黒鳩空は……」

「黒鳩空は良い人だね」

「もう……いいの?」

 こんなところでなければ、もっと血を与えたい。そんな倒錯的な気持ちになっていた。

「うん、ありがとう」そう言って白雪さんは私のお腹に埋めていた顔を離す。

 絆創膏を傷跡に貼ってから、再び服装を整えていた。さっきまで彼女に血を吸われていた感覚を反芻し軽い恍惚感を覚える。自分が聖母にでもなったかのような陶酔。

 呆然としていると、

「私はね、親殺しじゃないよ」

 無表情は崩さず、でも絞るように出た声だった。

「知ってるよ」

 本当の事は知らなかった。でも私はパスカルのように賭けると決めていた。何度でも繰り返してみる。事態が良い方向に進むまで反復する。

「君は何も聞かないんだね」

 白雪さんは僅かばかり残念そうに微笑んで、呆然と立ち竦む私を置いて足早に去っていった。次の日から彼女は学校に来なくなった。



「ブンブンハローぼく!浦和の駅には今日も新幹線が止まらない!しもぼくちゃん様だよ~!皆は運命って、信じる?赤い糸で繋がれた運命の出会い!もしそれが実在するのなら……どきどきしちゃうね。でもね、運命の赤い糸の逸話って、本当はすっごく酷いお話なんだよ。知ってる?唐の時代の韋固という人が、現世の人々の婚姻を司る不思議な老人に出逢うの。韋固が自分が赤い糸で繋がれてるのは誰か、って聞いたら、それは野菜売りの老婆が育てる三歳の醜い幼女だったんだ。怒った韋固は召使いに幼女の眉間と刃を一突きさせた。縁談がまとまらないまま一四年が過ぎて、上司に美しい娘を紹介されつい結婚した。この娘の眉間には傷があって、以前乱暴者に襲いかかられて傷つけられたというよ。韋固は昔のことを打ち明けて二人は結ばれてめでたしめでたし――ね、酷い話でしょ?こんなのが運命だったなら、凄く理不尽で残酷なんじゃあないのかな」

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