第1章 ブリュメール18日
第1話 ワルシャワのレーニン
1章 ブリュメール18日
迷信は不幸をもたらす。
(レイモンド・スマリヤン『紀元前五千年』)
「神は存在するか、しないか。きみはどちらに賭ける?
―いや、どちらかを選べということがまちがっている。正しいのは賭けないことだ。
―そう。だが、賭けなければならない。君は船に乗り込んでいるのだから。」
ブレーズ・パスカルの『パンセ』の断章を読むならば、既に退路は絶たれている。賭けるか、賭けないか――その選択肢は存在しない。我々は、神の存在を信じたときの損失と利益を考慮して、自らの幸福にしたがって判断しなければならない。パスカルは「得る時は全てを得、失うときは何も失わない」として神が存在する方に賭けるという判断が正しいと主張した。
だが――どうやって神の存在に懐疑的にならないでいられる?パスカルは、信仰を得たいのに、それへの飛躍がどうしても出来ない非信者への助言の中で、こう述べている。「跪いて祈り、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰は自然にやってくるだろう」
あなたはそれが今すぐに出来るだろうか。跪いて祈り、信じているかのように行動すること――それが出来るのなら、既にすっかり信仰しているのではないだろうか。
プロテスタンティズムに話を移そう。16世紀のマルティン・ルターはキリスト教の歴史において最大の革命を成し遂げたが、彼自身は、数世紀にわたるカトリックの堕落によって不明瞭になっていた真理を掘り起こしただけだと考えていた。彼は何よりも真摯で誠実だった、キリストの為に膨大なる熱意と才覚を捧げた。ゆえに教会の堕落の中で思った。聖書とは異なる世界の秩序が狂っているのか、それとも聖書を読む自分が狂っているのか「私は罪人を罰する正義の神を愛さなかった。いや、憎んでいた」
準拠たるものが存在しない世界で、わたしたちはそれでも賭ける。
*
すっかり空気が冷たくなり始め、つい先月まで熱気で私達を汗ぐませていた世界は今や残り香さえ消え失せている。
穏やかに優しく、冷たい風が吹いてくる中で、私は立ち入り禁止の屋上でぼーっと空を見ていた。風に吹かれながら物思いに耽っているからといって、こういった習慣がある訳でもなかった。名前が空だからといって、青空に特段思い入れがある訳でもなく。
かといって何か用事があるからここにいる訳でもなく、ようはサボりだ。疲れて面倒臭くなったから、手すりを肘鉄をついてジュースをストローでちまちまと吸って、無為に時間を潰しているだけに過ぎなかった。
私の名前は
スマホを弄り、昨日の放送部のラジオのアーカイブを再生する。
「ぼくおっはー!しもぼくちゃんねるの、超絶カワボ美少女しもぼくちゃん様だよ!今日も地球はしもぼくちゃん様の為に回っているんだからはよひれ伏せ!!! 今日もカワボ振りまいちゃうんだけどね!だってチヤホヤされたいもん!」
埼玉のローカルアイドル兼、本校の放送部副部長たる
「さぁ下僕ども!しもぼくちゃん様が今日の運勢を占ってやろう!地面に三度額を擦りつけて伏し拝み奉ってから聴くがよい!!!」
私はズボラなので、地面に三度額を擦りつけて伏し拝み奉って聴くことはしなかった。心地よい風に髪を揺らされながら、アーカイブの音に耳を傾ける。
「蠍座の君は……おめでっとん!素敵な出会いがあるかもしれないよ!このしもぼくちゃん様が保証しよう!それっぽい人に出逢ったら……墓場を案じるな!骨は多分誰かが拾ってくれる!突撃だ!粉砕だ!玉砕だ!」
私は蠍座だった。
私が授業を抜け出して、一応立ち入り禁止ということになっている屋上でサボっているのはこれが初めてのことだ。私は決して問題児という訳ではない。例えば非行に走ったこともないし遅刻常習犯でもない。決して品行方正ではなかったけれど、要は普通の人間だった。平々凡々な、それゆえに派手な物語の主人公は荷が重い。そんな私も、いやそんな私だからこそ、時たま少しばかりよくない事もしてみたくなる。ミシェル・フーコーの皮相浅薄な信者達には分かりそうにもないことだが、人間とは不合理で訳の分からない衝動――まるで運命のようなものに突き動かされるものなのだ。
学校という場所にいながら、何にも翻弄されない静かな時間。それにアクセントを加えるように強めの風が吹いて髪の毛がたなびく。青春って感じがした。
その時、立て付けの悪さゆえにきぃぃぃと不協和音を立てながら扉が開く音がした。まずい、と思った。もし教師の見回りだったら面倒な事になる。冷や汗をかきながら扉の方を向く。
そこには教職員ではなく――気怠そうな雰囲気を湛えた、表情の薄い女の子が、真っ白なセミロングの髪を旋風に揺らしながら私を見ていた。
おおっと、おおっと。
ほんの刹那の視線の交錯。彼女の手は魅惑的に淑やかに軽やかに翻った。それは胡蝶の戯れのように美しく、何気ない仕草はたいへん魅力的だった。人はよく美しい女性を花に例える。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花といったふうに。彼女を美しい花に例えるのならば、儚い勿忘草が相応しいと思った。
私は胸がしめつけられた。その痛ましいような雰囲気に心を捕らえられていた。
我々人間の中にある身体から切り離された例外的な、そして独創的な何か。時間に左右されない彼女の魅力の本質がはっきりと現れたような気がしてならなかった。
この瞬間、私は彼女の存在に驚きを覚え夢中となった。
見つかって叱られるという可能性が消えてほっとはしたけど、存外教職員が見回りに来て現れた方がびっくりしなかったかもしれない。
私は彼女のことを知っている。一年生の中でのちょっとした影の有名人、とでも言うのだろうか。表のしもぼくちゃんとするなら、影の彼女といったところだろうか。同学年の子達の間で彼女について噂話がよく流れている。それはまことしやかに囁かれたり、流言飛語の嵐が吹いたり、でも私は彼女をきっとそんな人間ではないと思う。
モデルをやっているという。目に掛かった長い前髪で隠れているが、とんでもない美少女だという。親に虐待され捨てられたという。その復讐に親を殺したという。剃刀と救急用品を常に持ち歩いているという。表情を顔に出さないという。多重人格者だと言う。壮絶ないじめを受けていたという。時たま普段の姿からは想像も出来ないような笑顔を見せるという。一人暮らしをしているという。援助交際をしているという。学校に真面目に通わないとか、森羅万象研究会とかいう怪しげな部活動に勤しんでいるという。精神病院に入院していたことがあるという。付き合っていた恋人を自殺させたことがあるという。
本当のところは、きっと誰も知らない。知っているのは彼女だけ。彼女は人に心を開かないという。友達がいないという。
――そんな彼女の名前は、
屋上に現れた彼女は私と一瞬目が合ったあと、すぐに目線を逸らしてそっぽを向いて、先客なぞ知らんとばかりに屋上の隅っこまで行って青空を眺め始めた。一瞬で私に興味を失ったか、あるいは最初から興味など欠片ほども抱いていなかったか――そんな彼女と違って、私は彼女に興味津々だった。
隅っこに行った彼女を追って近づく。横から眺める。私の目は釘付けになっていた。
風にたなびく白色の髪は艶があって美しく、青白い粒子が舞っているようにすら錯覚する。隠れていた、青白くて透き通るようにきれいな肌が露出する。眠たげだけど精彩を放つ大きな瞳。長い睫毛に、少し下がった眉。肩も腕も骨が細くて、触れれば壊れてしまいそうに華奢で、儚げな雰囲気が零れ落ちる彼女。こうして並べ立てた形容は大袈裟でもなんでもなかった。とんでもない美少女、という噂はどうやら事実のようだった。そして外見的な魅力とは別の、何か幻惑的な力が私を魅了していた。
「はじめまして、あなたはいつもここでサボってるんですか?私は今日が初めてで」
あの白雪さんにいきなり話しかけるだなんて、とんだ蛮勇が居たものだと思ったら、私でした。しもぼくちゃんの占いを思い出し、勇気を出して話しかけてみた。
「………………」
彼女はほんの少し不機嫌そうな顔でこちらを一瞥して、再び空を見始めた。まるで相手にされていないみたい。というかされていない。空吹く風と聞き流す。
「ごめんなさい、気に障った……?」
「障った」
こちらを向きもせずに感情の乗らない声で呟く。冷たそうに見える中に、犯し難い気品のようなものがあって、これ以上声を掛けるのを躊躇してしまいそうになる。
ファーストコンタクトの感触はあまり良いとはいえないようだった。でもこれで会話の糸口は掴めた。怯まずに話しかける。
「いきなり話しかけてごめん。でも折角の機会だから。あなた白雪楓さん、だよね?私は黒鳩空っていうんだけど」
彼女はようやく空を見るのをやめて、やれやれといった感じで私の方を見た。気怠そうな所作にもどこか独特の優雅さがある。パーカーを羽織って着崩した制服がとても様になっている。
「君も私についてあることないこと噂して楽しんでるクチ?」
「違うよ、と言ってもクラスの子達が白雪さんについて噂してたのは聞いた。でも折角こうやって一緒の時間に一緒の場所でさぼる仲なんだから、話したくて」
「あっそ」
「私なんかに構っても面白くないよ」
「でも私は白雪さんと友達になってみたい」
「私は友達は作らない」
淡々と、でも誰にも心を開かないという前評判に違わぬ、随分と突き放した物言いだった。
でも、私はもうこの時には噂を確かめる事を決意していた。突き放しつつも、真っ直ぐに私の目と向き合う白雪さんの星のような瞳を見て―― 時たま普段の姿からは想像も出来ないような笑顔を見せるというあの噂を確かめる事を。私は、彼女の姿に心を奪われていた。
「白雪さん、こんな話を知ってますか」
「何を」
「ロシアの美術館にある絵が展示されていました。そのタイトルはワルシャワのレーニン。そこにはレーニンの妻クルプスカヤが若い青年将校と浮気している姿が描かれていました。ワルシャワのレーニンを見て疑問に思った客がガイドにこう訪ねます。『レーニンはどこに?』ガイドが答えます。『ワルシャワです』」
かましてやった。少々の羞恥心と、やってやったという高揚感が湧き上がる。顔がぽっと火照って、むずむずと身体が落ち着かない。ついついテンパって、一番やってはいけないことをやってしまう。
「あ、その、ここにいるのに心ここにあらずというか、逆にここにいない方がここにいるみたいな……はい!つまりは、だいたいそんな感じです!」
ギャグの解説をセルフでするのは恥ずかしい!しかもテンパってるから要領を得ない。
白雪さんは少し驚いたような顔をして、ぽつりと漏らすように言った。
「君は馬鹿なの?」
そうだ、私は。
「きっと、そうだと思う。私は黒鳩空。よろしくね、白雪さん」
かつて王様が絶対の権力を誇っていた時代、唯一無二の王を弁舌ふるって嘲笑する事が出来る存在がいた。その名も宮廷道化師。愚者を演じ、滑稽さで王を笑わせ――そして馬鹿ゆえに神より力を受けた王すらコケにして、国民を巻き込んだ愚かしい契約ごっこを宙ぶらりんにしてみせる。
そんな風なアプローチで、私は二人の物語の主人公を演じてみせようと思った。その理由は、初めて覚えた感情にいてもたってもいられなくなって、彼女を見ているとなんとなく、自分の人生に喝采を浴びせてやりたくなったから。
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