8
刹那の後に、じゅぶりと気色悪い音を立てて、柔らかいものに全身を包まれる感触が襲ってきた。ゴラン・ゴゾールはこれを知っているような気がした――例えるなら、砂漠に放逐された最初の日、カール……否、マローノを庇って対峙した砂長竜の、口腔内の弾力とねばつき――
次の瞬間には、ぬらぬらと光る粘液と共に、砂の上にべしゃりと投げ出されていた。どこか高めのキシキシという音に、顔に貼りつく気持ちの悪い感触を腕で拭ってそちらを見れば、ゴラン・ゴゾールの目の前にあるのは砂長竜の頭の部分である。カストーノの方が声なき悲鳴を上げたのが聞こえた。
「無事そうじゃな? あの時は痛くしてすまんかった、歯は引っ込めたがどうだった、だそうじゃ」
「――ラモ翁」
その背から三人を覗き込んでいるのはラモ翁だ。
「助かった、恩に着ると伝えてくれ」
ゴラン・ゴゾールは二人の王子がそこにあることを確認し、相当緩んでいた縄を解いてやりながら、ラモ翁の方を向いて言った。思った通り脱臼していたカストーノの腕を嵌め直し、皮膚が剥けていたマローノの手首に、己の服の裾を引き裂いて作った布を巻く。
「――砂長竜に変化せねばならぬか」
その声が聞こえてきたのは、ゴラン・ゴゾールがふたりの王子の腕を引き、砂の上に立たせた時だった。
「刹那に舞え、双子の巫よ……砂漠の秘宝の力に従い、我が身を竜へと変えよ!」
レミとルパの目から理性の光が消えている。双子の巫は、もがくリタを抱えたままの宰相の命令通りに、手を打ち、回り、跳んだ。伝説のチーズを宰相が食ったことにより、その支配下に入ってしまったように見受けられた……この力を孕んだチーズを献上したのは、レミとルパの父であるジン・タオモの母にあたる者だったというから、取り込まれてしまったのだ。そのジン・タオモは己の子に向かって突進していったが、宰相の腕に払われて後方へ吹っ飛ばされ、起き上がってこない。
ゴラン・ゴゾールは王子たちを離し、宰相に向かって突進した――まずは命の危険に晒されているリタを救い出さねばならない――いけ好かない緋色の服の胸倉を掴んだと思った瞬間、弾き飛ばされた。
「我は砂漠の頂点に立つ!」
目の前には、粘度の高い唾液を分泌する肉色の口腔。無数の鋭い歯。ラモ翁の砂長竜なのではないか、と、ゴラン・ゴゾールは思って、何とか宥めようと近付いた。しかし、こちらに向かって開いていた口がすかさず襲ってきたのを避けた瞬間、もう一頭の砂長竜が背にラモ翁を乗せて混乱したように首を振っているのが、視界に入った。
「宰相どの……?」
「如何にも、如何にも! これが砂漠の秘宝の力!」
長い尾が砂を蹴散らし、視界を奪う。光も闇も岩も砂色に沈んで消えた。
細かい粒子が目に入って、ゴラン・ゴゾールの涙腺から涙が湧いてきた。気配と音だけで迫りくる太いものを感知し、闇雲に避けることしかできない。退け、という声に被さるようにして、王子殿下をお守りしろ、というヴェンゼの怒鳴り声が聞こえる。だが、相次いで響いてくる悲鳴を聞く限り、砂長竜へと変化した宰相は、人間の形をしているものを無差別に襲っているようだ。
と、人では到底出せないような、どすん、という音がした。薄目を開けてみれば、背に色々なものを括りつけている砂長竜が、一回り大きな砂長竜に絡みついている。鞍の上には人影。ラモ翁だ。
「そのまま締め上げるのじゃ!」
二頭の砂長竜がのたうち回る。一回り大きな方が宰相だろう……尾に近い方がぐるぐると巻いていて、そこには、いつの間にか二人の王子とリタが拘束されている。人質のつもりはないらしかった。砂長竜の宰相は、首も尾も遠慮せずにしならせ、ラモ翁の砂長竜を容赦なく打ち据えた。
哀れ、小さな方の砂長竜は胴を絞られ、筋肉を打たれ、弛緩してしまった。砂の上に投げ出されたラモ翁は、悲鳴を上げて転がった。腕が変な方向に曲がっている――折れてしまったのだ。
「強大な力の前にひれ伏すがいい! したらば許してやろう! ジョルマ・フォーツは我が国となる!」
「恐怖で国を統治できると思うのか、ネーロ・ヴォプロ!」
ヴェンゼがラモ翁に駆け寄りながら叫んだ。意識を取り戻したジン・タオモが、何も反応を返さないレミとルパを抱いて、悲壮な表情で身体を揺さぶっている。
「笑止! 力こそ、抑止力にして最大の防御手段!」
ゴラン・ゴゾールは、下唇を噛んだ。砂長竜宰相の尾には王子たちとリタが捕らえられている。あそこからどうにかして三人を助け出したかった。しかし、歯が立たない。巨大なあの口の中に侵入して歯を抜いてしまうことも考えたが、ラモ翁の砂長竜と違って、歯の大きさも段違いである。抜く前に噛み砕かれて死んでしまっては、誰にも対処できない。
何か現状を打開できるものはないか、と、あたりを見回した時だった。
岩に彫られている糞丸虫。愉快な隊列を組むその生き物が、ゴラン・ゴゾールの目に飛び込んできた。
「……宰相殿は、何故、この場所にこの石があるかご存知でないようだ」
「何だと?」
ゴラン・ゴゾールは、己の身分がもう騎士ではないことを、一瞬のうちに百回、己に向かって言い聞かせた。もう近衛騎士ではない。身分の高い者に逆らい、守るべき者を危険に晒し、己の命に代えて何かを守らない。嘘をつく。誤魔化しもする。
それでも、大切な人の傍にいられるのは、何も近衛騎士であるからではない。
「砂長竜が一番強いなら、どうしてここの岩には糞丸虫が彫られている?」
「……貴様が何を言いたいかわかったぞ、だが、その手には乗らん」
糞丸虫に変化しろと念じたゴラン・ゴゾールの企みは、一瞬にして暴かれた。だが、ゴラン・ゴゾールは諦めなかった。ヴェンゼが砂長竜の向こうでにやっと笑ったからだ。
だから、できると思った。やるしかないと思った。
「そうか、残念だ。糞丸虫にならないと、真の力は得られない」
だから、ゴラン・ゴゾールは、語った。
「これは、双子の巫から聞いた話だが……糞丸虫は、元々空に住んでいて、不思議な力を使って太陽を正しく導く仕事をしていた。だが、太陽はいつも足蹴にされるものだから、しまいには怒ってしまって、糞丸虫を地上に落としてしまったそうだ。でも、糞丸虫の持っている不思議な力は地上に落ちても健在で、生き物を正しい流れに導く仕事を、命を懸けて仰せつかっているらしい。正しい流れに導く力は、糞丸虫こそ持っているだろうと、おれは解釈する」
それは、砂漠を旅している間に、レミとルパから聞いた話だった。
砂長竜宰相の動きが止まった。
「一理あるな」
ゴラン・ゴゾールの胸は、どきどきしていた。だから、それが聞こえた時、訳もなく口角が上がった。
「刹那に舞え、双子の巫よ……砂漠の秘宝の力に従い、我が身を糞丸虫へと変えよ!」
ええ、と、誰かが呆れた声を出したのが聞こえた。レミとルパが、呆然とした表情のジン・タオモの腕から逃れて、踊り出す。
ひょっとしたら、宰相ネーロ・ヴォプロは、強大な力を手に入れたことに興奮して、冷静さを失っていたのかもしれない……さながら、青年期に差し掛かり、剣がもう重くないと気付き、うぬぼれていた頃の、かつての己のように。ゴラン・ゴゾールはそう思うのだ。だから、眩い光が放たれて、その影がどんどん収縮していって、やがて小さな糞丸虫になった時、胸に湧き上がってきたのは、怒りでも哀れみでもなく、妙な仲間意識と愛しさだった。
「立派な雄だな」
ゴラン・ゴゾールは、その胴体を右手でそっと持ち上げる。脚をじたばたさせているのを見ると、十代の頃にひたすら努力を重ねていた己を何故か思い出して、親しみを覚えた。左の掌の上に乗せてやると、小さすぎて声を出せないのだろうか、糞丸虫宰相は何か言いたげにこちらを見上げてくる。どうやら憤慨しているということ以外は、何も伝わってこない。見事に嵌めてしまったのだ。
さてどうするか、と、糞丸虫宰相を掌に乗せたまま左腕を曲げたゴラン・ゴゾールは、胸元の衣嚢の中に何か硬いものがあることに気付いて、そうして、思い出した。
「そうだ」
右手で、衣嚢の中から、硬いものを取り出した。それは小瓶だった。奇跡的に落ちずに入っていたのは大変に幸運であったとしか言いようがない。しかも、栓はきっちりと突っ込まれている。
中には、数滴の液体。
下剤である。
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