葵の花は散らない

椿

プロローグ

 自分の名前を地味だと蔑まれても、婚約者を取られても、黙って微笑んで受け流すことができる教育が受けられるのならば是非ともその先生に教えを請いたい。でも、それより前にどうか何かしらの格闘技を身につけてあの女をぶっ飛ばし...失礼、床に無様に転がしたいところね。それくらいに今の私は腸が煮えくり返っていた。


 でも、私はそんな殊勝な人間でも無いので自分の名前と容姿を嘲り、尚且つ婚約者を寝とったあの女を私は許すつもりは無い。ありふれ、地味だから殿下に捨てられたのだと、そう言い、勝ち誇ったような笑みを浮かべたあの顔だけは美しい女を。...誰が許すものか。幾ら名と顔が美しくとも、あの本性が世に出回ったらどうなることか...。まあ取り敢えずどうにかなれ。消えてしまえ。


 どん、と目の前の彫刻が美しい机に淑女らしからぬ音を立てて拳を落とし、また悶々と考える。殿下からの贈り物である其れは大層丁寧に使っていたのだが、婚約破棄された今では正直どうでも良い。いや、今でも殿下の事は大切に想ってはいるけれど、それどころでは無い。


 たしかに今まで己の手入れを怠ってきた自覚は存分にある。というか自覚しかないわね。殿下からの愛は無条件に与えられるものと信じきって美しさに胡座をかいていたのだろうと思う。成程、あの女の指摘にも一理あるわね。腹は立つけれども。然しこれでも淑女としての教育は怠っていないし、何より婚約者の居る複数人の殿方をはべらせる程脳内が腐敗しているつもりもない。ああ、本当に腹が立つ。お陰で刺繍が完璧に出来たわよ!もう!

 というかあんな顔だけの女に誑かされる殿下達も相当よね。誇りある伯爵家の長女の癖に男ったらしでマナーの一つも真面に出来やしないあんな女に...。私の敬愛するあの慎ましやかで可憐な伯爵夫人の子供なのかさえも疑いたくなる。たしかに無意識に殿方を惹き付ける御方ではあるけれども、一途であられるから伯爵様といつも仲睦まじく居られて...正直なところ羨ましい。私もあんな風に殿下と一緒に居たかった...。


 というかやってもいないいじめで糾弾されて、精神磨り減って私いつか死ぬわよ?


「マリー。夜遅くにごめんなさい。...紅茶を淹れていただける?」


 すぐ傍に控えているメイドのマリーにお願いして紅茶を淹れて貰い、こくこくと飲み下した。公爵家御用達の茶葉を使っているだけあって美味しかったし、カフェインで少々目が冴えた。まあどちらにせよ、私は怒っているから当分眠れないけれども。

 寝るつもりも無いし殺る気に溢れているから今は元気よ!今はね!多分明日の夜辺りになったら悲しすぎて夜も眠れないわ。勿論よ。愛していた人に捨てられたんですもの。これで傷つかない御仁が居たら会ってみたいわ。

 いや、恋愛小説とかでよく婚約者に捨てられて復讐するものがあるけれど、私はあんな元気は無いわ。でもあの女に呪詛を吐く程度の元気は未だあるわね。当たり前よ。こちらは疲れているの。でも怒っているの。女の怒りは根強いのよ。勿論ね。


「さて、...どうしようかしら」


 先ずはこの婚約破棄の事を陛下とお父様にお伝えしなくてはならないわね。陛下、相当お怒りになられると思うのだけれど...私としてはもうどうでもいいわね。ぶっちゃけるとあの女は伯爵家から勘当されると思うわ。人様の婚約者に手を出して、その品性の乏しさが直ぐに明らかになるはずよ。ええ!

 淑女たるもの、婚約者が居るのであれば複数の殿方と関係を持つなど言語道断。ましてや、その殿方達にも婚約者が居たのだから...はあ。其れに勉学の成績も芳しくない上にマナー等の基本はなっていない。ダンスは辛うじて踊れるようだけれど、あんなのならうちの3歳の妹の方が余っ程上手に踊るわ。

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葵の花は散らない 椿 @himeonna

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