第2話「デカいクマを拾う」
重い足取りで
店舗の明かりに俯いて、威勢の良い店主と客の会話をやり過ごして。暗い住宅街に飲まれるようにずるずると足を引きずる。
賑やかで明るい商店街から見ると暗く静まりかえった住宅街は深海のようだ。街灯や窓からこぼれる灯りが深海生物の放つ光のように思えた。さしずめ秋穂は光ることさえ出来ぬ底辺の深海魚だろう。
帰り道、夜の暗さの濃い場所にコンビニの明かりが目に染み入ってくる。
『虫は街灯に集まり、
心に穴の空いた女はコンビニに誘われる』
そんな事を考えて「私は蛾か・・・」と自分に突っ込み、乾いた笑いを漏らしながら秋穂は店に入る。
発注のあった商品を集めるロボットの様に缶ビールとつまみを手に取ってレジへ向かった。
レジのお兄さんが手際よくレジ袋に缶ビールを2つ入れ、何も言わずにつまみをもうひとつの袋に入れるのを見ていた。いつもなら3缶取るところを2缶にしたのはわずかながらの懺悔の気持ちからか。
コンビニでビールを3缶とおつまみを買って帰る、それがルーティーンになってどれ位経つだろう。
ビールと一緒に入れてつまみの袋に水滴が付くのが嫌だと、いつか言った覚えが微かにあった。きっと、裏でビール3缶女と呼ばれていてもおかしくないくらいの常連客になってしまったのだ。
でも、それも今の秋穂にはどうでもいいことだった。
レジのテーブルの上に置かれた小さい物に秋穂の目が止まる。それは懐かしさを感じさせるローカルな物だった。
「あっ、これ。スッパイイマン、沖縄で売ってる甘酸っぱい梅干しです。食べてみてください、元気になりますよぉ」
店員がつまみを入れた袋に1個放り込む。
「おい、私物を押しつけるなよ」
店主だろうか中年の男性の声が突っ込んだ。
「いいさー、僕の応援の気持ち、ねっ。疲れたときに酸っぱいのは体に良いさぁねぇ」
「言葉、ことば」
「田舎のこと思い出したら訛り出ちゃうよねー」
沖縄出身か・・・。
そんな事を頭の隅で思いながら袋に手を伸ばす。
「今日は缶ふたつですか。飲み過ぎも良くないですからね」
標準語に戻った店員の言葉へ秋穂は曖昧に頭を下げてコンビニを後にした。
沖縄という単語が心の隅に引っかかってぶらぶら揺れる。あたたかさと温もりとゆったりした空気、そして海の匂い。
(眩しいなぁ・・・)
深い海から帰った浦島太郎には海面の明るさはどう感じられたのだろう。
玉手箱を開けておじいさんになった後、竜宮城を懐かしんだりしただろうか・・・。何故かそんな事を思い空を見上げる。空に数個の星が見えたが、小さく遠く少なかった。
光の届かない深海から海面を見上げたらきっと星など見えないだろう。深海から見えるのは星ではなく魚だろうか。
(深海魚が遠くで光ってる見たい・・・)
秋穂は店を出て暗い町並みを歩く。
心や体が重くても出勤の時には下り坂、足を踏み出せば自動ロボットの様に駅へと向かえる。しかし、朝より重みを増した心と体に、この緩やかな登り坂はきつかった。
重い足を一歩一歩と踏み出して進む。
帰ってもお酒を飲んで寝るだけだ。誰かが居るわけでもない独り身の部屋に何のために帰るのか。久しぶりにいとこに電話してみようかな・・・と顔を上げる。部屋への道のりはまだ遠い。
坂道の途中に目が止まった。
道の左側、街灯のスポットライトを全身に受けて街灯に体を預けて座り込む者がいた。
酔っぱらいだろうと思い進む歩道を右側に変えて秋穂はゆるゆると坂道を上って行った。深い水をかき分けるように重い足取り。
街灯の横を通り過ぎる時にチラリと見ると、寄りかかっているのは人ではないことが分かった。焦げ茶色の大きなクマのぬいぐるみだった。
街灯に立て掛けるように置かれた大きなクマのぬいぐるみが俯き加減に頭を垂らしている。濃厚に落ちる顔の陰が悲しそうに見えて秋穂は足を止めた。
「あんたも捨てられちゃったか・・・」
何気なく口から言葉がこぼれた。その言葉の「も」がブーメランになって自分へ返って来て痛かった。
秋穂はいったん素通りし、しばらく立ち止まっていた。・・・が、クマのぬいぐるみを引きずって部屋へ帰って行った。
大きなクマの腕に手を回しずるずると足を引きずって、階段の角にぽこぽことぶつけながら3階まで上っていく。秋穂はこの段階で少し後悔し始めていた。
(なんで拾っちゃったんだろう・・・)
広いとは言えない廊下を通り、もたもたと鍵を開けて中へ入る。入り口でもクマは邪魔になった。
「あんた太りすぎッ、お腹引っかかってるの? マジ?」
今出せる力で引っ張り込んだ瞬間、すぽっ! と熊が抜けて、
「うわっ!」
秋穂は玄関先で尻餅を付いて転がった。
のし掛かるクマを抱きしめて「なんて格好よ」と愚痴をこぼしながら起きあがる。クマがすまなそうに秋穂を見上げている。
「はぁ・・・・・・。いいよ、いいよ。しょうがないわよ、拾ったの私だしね」
引きずっても重いと感じたクマは持ち上げると重みを増し、どっこいしょと掛け声と共に椅子へと掛けさせてドアを閉める。
電気のスイッチを入れて顔を上げるとクマの背が目に入った。
暗い奥の部屋をバックに、明るいダイニングテーブルに向かう焦げ茶色の大きな背。やはり淋しそうに見えた。
「あんた、いつからあそこにいたの?」
声をかけながらクマの背を叩くとクマがテーブルへ突っ伏する。謝るように落ち込むように、俯いたまま顔を起こすことはない。
「捨てられたらしょうがないよ・・・」
そう言った途端、秋穂の頬を涙が一筋駆け下った。
瞼が熱くなり喉を悲しみが締め付け・・・次の言葉をかけることが出来なくなった。秋穂は奥歯をぐっと噛んでクマの背をぽんぽんと叩き続けた。
「飲もう! 飲んで忘れよう!」
勢いよく缶ビールを取り出してぷしゅっと開け喉に流し込む。炭酸のチリチリとした感覚とビールの冷たさが全てを流してくれる気がして一気に一缶を飲み干した。
家に帰って飲む習慣は速人に振られてからではない。その前からありはした。
速人が来る日は必ずそうしていた。彼に3缶自分に1缶。
酒に弱い訳ではなかったが、酔って気配りの出来ない女だと思われたくなくて、弱い振りをしていつも1缶だけ飲んでいた。
頬の涙をぐいっと拭いて歯を食いしばる。
次の缶へ手を伸ばす前につまみを・・・とテーブルの上を見ると、もうひとつあるはずのビニール袋が無い。
床に目を走らせ玄関先を探し、ドアを開けて外廊下まで見たが、無かった。
「嘘でしょぉ・・・・・・」
情けない・・・。
何処で落としたのだろうかと記憶を手繰る。店を出るときには確かに持っていた。店員の入れた梅干しのスッパイイマンも入ったあのつまみの袋。
「あっ・・・」
ふと思い当たった。
「まさか、クマを拾ったとき?」
片手で持とうとして上手くいかなかった。一端持ち物を置いてクマの体制を変えてからビニール袋に手を通したのだ。
「あぁああ・・・、あの時だ」
きっとそうだ・・・と思うと全身の力が抜けて、秋穂は椅子に崩れ落ちテーブルに突っ伏した。重い体にビールを流し込み、霞んだ頭がとろんとしている。
今更階段を下りあそこまで戻るなんて考えられない。緩いとは言え、坂を登り3階まで階段を上るかと自分に問い、秋穂は首を振った。
最後の最後までミスだ・・・。
自分の情けなさに涙が出て、テーブルに水たまりが出来た。横を見るとクマも突っ伏している。
クマのぬいぐるみと一緒になってテーブルに突っ伏している姿は、他の人間が見たら滑稽に見えることだろう。
「他の人って・・・誰さ・・・」
自分に突っ込みクマの横っ腹に一発みまう。重みのあるクマは流石にビクともせず、椅子に座ったままじっとしている。
「あんたのせいよ、つまみ無いじゃない」
クマを小突く。
「拾ってあげたのにッ! 教えてくれたっていいじゃない」
秋穂の責めを一身に受けてクマのぬいぐるみはテーブルに突っ伏したまま謝り姿勢を解かない。その姿はまるでこのところの自分のようだった。
ミスを重ね何度も呼ばれて頭を下げて・・・。惨めな姿だと思うとまた涙がこぼれた。
「あんた、私の話に付き合いなさいよ。最後まで聞いたら許してあげる」
泣き声を叩きつけてクマの背もひとつ叩いて座り直させる。
勝手に拾っておきながら・・・と霞む頭の遠くでまともな秋穂が突っ込んでいる気がする。まともに現実を見たくなかった。酔っていたかった。
「あいつ、突然言ったのよ。前触れなんて無かったんだからッ!」
クマの腕を叩く。
「このままじゃ駄目だって! どうして欲しかったのよぉ!」
二度三度とクマの肩を叩いた。
「突然よ、とつぜん。いきなりだったの、酷いでしょ!?」
話し始めたら止まらなくなった。
今まで話を聞いてもらっていた友達にさえ、こんなにキツい言い方をしたことはなかった。手品師が口から国旗の着いたひもを引っ張り出すように、次から次へと今までの事をクマにぶつけていく。
クマはじっと秋穂の話を聞いている。黒目がちな目をうるうるさせて秋穂の話に耳を傾けているように思える。
クマは何も言わない。ただ聞いているだけ。
それでもよかった。クマは秋穂に叩かれながらいつまでも話を聞いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます