熊にすくわれたフラれ三十路の深海魚
天猫 鳴
第1話「ループの結び目を探して」
「失恋は誰でも辛くて悲しいものだけど、30代に入ってからの別れは全然違うから気をつけなさいよ」
大学の頃から付き合っていた彼と別れた・・・と話したときに、会社の先輩にそう言われたのを覚えている。仕事を始めて数年後のことだった。
仕事を始めてすれ違いが増え別れる。
そんな話はちらほらと耳にしていたからか、
(まさか、自分がこんな風になってしまうなんて・・・・・・)
それなりに失恋も経験し、
「浅川・・・、ちょっと来い」
もう呆れを通り越してそろそろ首を言い渡されるのじゃないか・・・と覚悟を決めて、秋穂は香坂課長の後を着いていく。机を間に課長に叱られるのが何度目なのかすら、もう分からなくなっていた。
(先輩として後輩に示しが付かない・・・)
きっとそんな文句の後に首を言い渡されるのだろう。秋穂は頭の上に重石を乗せたように俯いて歩く。
私の何が駄目だったの?
私、何で振られたの?
理由を教えてよ・・・。
こんな状況でも頭の中にお決まりの文句が流れる。
分かってるよ、こんなんじゃ駄目。
でも、頭から離れない。
どうしたらいいの?
吹っ切りたい、だけど・・・どうしたら忘れられるの?
疲れが濃厚に漂う香坂課長の背を前に、秋穂は俯き加減に後を着いて行く。
「課長の気を引きたいんじゃないの?」
などとこれ見よがしに話している後輩達の声をこれまでにも何度か耳にしていた。
移動していく2人を周囲の視線が追って来る。
周りの女性同僚の冷たい視線に加え、男性同僚の痛ましそうに見る視線も付いてくる。視線がびりびり伝わって来て痛かった。
自分の招いた結果とは言え、この居心地の悪さに秋穂の自責の念が強くなる。
今日もミスをしてしまった・・・。
これまでのミスが大事になる程で無かったのは幸いだ。しかし、これほど度重なると叱る方も言葉が尽きてくる。淀んだ気配をまとって付いてくる浅川を会議室へ入れ、香坂は深く溜め息を付いてドアを閉めた。
会議室を包む夕日の赤が、秋穂には血の色のように見えた。
速人と別れてからどれ位経ったのか・・・。
彼に捨てられて、会社からも首になって。そしたら私、もう駄目だ・・・。
いつ別れたのか、別れてから何日経つのかすら直視できずに過ごしてきた日々。ネガティブな言葉ばかりが頭をよぎる。
これでは駄目だと分かっている、友達にも同期の仲間にも言われたことだ。前を向かなければ・・・と口では言える。
「さっさと忘れて前を向こう!」
「そうだね」
「あいつだけが男じゃないじゃないよ」
「うん」
「失恋で空いた穴は恋で埋めよう!」
「そうね」
他にも沢山の励ましをもらった。
でも、翌日にはまた同じ話を繰り返し堂々巡り。話を聞いてくれる人がどんどん減っていった。
「秋穂、別れよう。このままじゃ駄目だと思うんだ。ごめん」
よく待ち合わせする喫茶店での事だった。「じゃぁ、またね・・・」と席を立つように何気ない口振りだった。そこには悲しみの気配もなく、謝る言葉に切なさもなければ誠実さも感じなかった。
「何が駄目なの? 言ってくれたら直すから。ね、言ってよ。教えて」
食い下がったが、
「上手く言えない、ごめん」
速人は秋穂の目も見ず席を離れて行く、振り返りもせずに。
「他に好きな人が出来たの?」
諦めるきっかけさえあればそれでも良かった。
しかし、投げかけた秋穂の言葉に答えはなく、喫茶店に居合わせた人々の視線を集めただけだった。ただ呆然と秋穂は突っ立って、力なく椅子に体を落とした。
青天の霹靂とはこの事か・・・と心の端で考えていた。
あの時、追いかけていたら引き留められただろうか・・・?
タラレバを繰り返し思い返してはミスを繰り返し、酒浸りで駄目な奴だと自分を責め、見つからぬ答えを探してずるずると未練を引きずる。
「この人と結婚しようかなって」
少し恥ずかしげに両親に紹介したのは帰省した今年の正月。
彼は笑顔だったし「その方向で・・・」と両親を前に言ってくれた。29歳で出会った彼と3年付き合って半同棲のように行き来して、具体的にこんな家庭がいいねなどと会話もしていた。
(何がいけなかったの?)
会社を首になるのは自分の責任だ、分かっている。失恋を引きずってミスばかりの自分が悪い事は分かっているから諦めもつく。しかし、彼に捨てられたのは何故なのか・・・答えが見つからない。
「浅川・・・」
香坂の声に秋穂は現実に帰る。
「なぁ・・・これ以上、俺にお前を叱らせないでくれないか?」
腕を組み、机に腰をかけた香坂課長が渋い声でそう言った。
「・・・え?」
「替えならいくらでもいる・・・かもしれない。でもな、1から育てるのは時間がかかるんだぞ」
秋穂が顔を上げると苦笑いしている香坂の顔があった。
テーブルに軽く腰をかけた香坂の目線が、突っ立ったままの秋穂よりほんの少し高い位置から彼女の表情を捉えている。
甘いマスクの香坂は仕事が出来てスリムな体型で、女子の1番人気に返り咲いたのは離婚後の事。
「最近、酒の臭いがしなくなってきて少し安心してたんだけど・・・。まだ浮上できないか?」
え? 酒臭かったか?
秋穂はそっと自分の肩に鼻を寄せて臭いを嗅いでみる。
「ぼぉーっとした顔して、いつまで引きずってるつもりだ?」
( ああ、誰かが香坂課長に失恋の話をしたんだな )
霞む頭の片隅で秋穂はそんな事を考えていた。
「後どれくらいそうしてるつもりだ? お前が頑張りやで仕事の出来る奴だって俺は知ってる」
秋穂が新人だった頃、7期上の香坂が教育係として付いてくれていた。
香坂は誉めて伸ばす指導が得意なのか、秋穂は楽しく仕事をする事が出来た。仕事も恋いも一生懸命。30代には結婚して働きながらお母さんになって・・・、そんな明るい未来を思い描いていたと秋穂は記憶している。
この人ならと決めた人に30代に入って捨てられるとは思いもしなかった。結婚は目の前だと思っていた。
「・・・気を引き締めて頑張れ。 ーーーそろそろ俺も庇いきれないぞ」
しばし黙って秋穂を見つめていた香坂が、彼女の肩をポンとひとつ叩いて会議室を出て行った。
イエローカードは何枚目だろうか。香坂がレッドカードを切らなかったのは救いだが安心など出来はしなかった。
どう挽回すればいいのか、もうミスだけは出来ない。
秋穂は見えぬ紐を感じて首もとに手を伸ばした。首に巻かれた紐の先がひっかける先を探して蛇のように揺れている気がした。
気持ちを切り替えて仕事に打ち込もう。吹っ切って立ち直してより良い人生に目を向ける。よくある事だ、失恋した後キャリアウーマンに徹して見返してやろうというのもひとつの手だ。20代の時には出来たじゃないか。
「秋穂、ストーカーにだけはならないでよ」
沖縄にいる仲良しのいとこに言われた。
やり直したくて答えが知りたくて電話をしたら着信拒否を食らった・・・と話した時のことだった。改めて発信履歴をスクロールして見ると彼の名前が長蛇の列をなしていた。
(私・・・、やばい奴になってるかも・・・・・・)
忘れるために酒を飲み変なテンションで酔っぱらって、とうとう飲みにすら付き合ってもらえなくなっていった。
話したい、聞いて欲しい。でも、これ以上迷惑をかけたくない。友達からも見捨てられたらどうしよう・・・。誰かに話を聞いて欲しい、誰かに共感して欲しい。ぐるぐると気持ちがさまよう。
忘れよう思い出さないようにしようと酒の力を借りる。
どんなに飲んでも、心の穴は埋まらない。
ほんの少しの隙間に彼の言葉が入り込んでくる。
「秋穂、別れよう。このままじゃ駄目だと思うんだ。ごめん」
どこが駄目なの?
言ってくれたら私変わるよ。
ねぇ・・・。私、どうしたらよかったの?
今夜も言葉を酒で流し込んでやり過ごすのだろう。誰もいない独りの部屋で。
そんな時に見つけたのだ。大きな、大きなクマのぬいぐるみを。
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