偶然ではなく必然で出逢い

 百人近くが収容できる大きな部屋の壁にある時計は、もうすぐ夜の七時半を回ろうとしていた。人影はなく、利用者は出口から出て行ったあと。


 ただ一人動くものがいた。薄手の白い着物と漆黒の長い髪。背の低い文机の前にかがみ込んで、床の上をのぞきながら右に左に移動してゆく。 


「ん〜〜?」


 さっきまで敷いてあった座布団は全て、部屋の隅に山積みにされ、一人残された塾の講師――孔明は聡明な瑠璃紺色の瞳で、毎日恒例のあと片付けをしている。


「あった。子供たちの忘れ物」


 塾を開いたのはいいが、学びたい人々のためにをもっとうしたため、爆発的に数を増やしている小学生の生徒がどうしても多くなった。考え方には感心させられるところもあるが、やはり子供で、孔明は頭を悩ませていた。


 大きく生地の取られた袖口を肩で片手で押さえながら、机の上に腕を伸ばし、丸っぽい小さなものを取ろうとすると、


「あれ? あっちにもある」


 ひとつ回収して、瞬間移動で斜め前の机でかがみ込み、黄緑と緑色の小さな布みたいなものを大きな手で握った。


 三十分以上さっきから同じ繰り返し。いつも冷静な孔明先生は少しばかりイラッときて、ちょっと強めに机の上に置いた。


「あぁ〜、もう! どうしてこんなにばっかり忘れていくんだろう?」


 机の上には、雨でも降ったのかと思うほど、カエルのぬいぐるみやキーホルダー、バッチやペンなど様々なものであふれかえっていた。


 フェルト生地で作られたものをひとつ取り上げ、膨らんだ体を押すと、ピューっとおもちゃにありがちなコミカルな音が鳴った。


「何かあるのかな? 子供たちがカエル好きなんて……」


 政治などの役立つノウハウを学びに塾へやってくる子供たち。学校の先生とは違って、私塾の講師が、受講生に日常生活を尋ねることはなかった。


 今や中毒に近い携帯電話をポケットから取り出して、漆黒の髪を指ですきながら、ブラウザの画面をスクロールする。


「ん〜〜? 小学生の書き込み……。数が少ないけど……」


 才能のある子供はどんな分野いもいるもので、大人顔負けのことをしてくる。得意分野の科目だけは、大学に行っているなんて小学校一年生はよくいる。


 パソコン関係にも強い子はいて、それぞれのパーツを自分で組み立てて自作のコンピュータを持っているほどだ。その子たちが綺麗なホームページを開いて、小さな人たちの社交場のひとつとなっていた。


 唯一子供らしいのは、ウサギやパンダなどのキャラクターが採用されているところだった。ある文字で、聡明な瑠璃紺色の瞳は立ち止まった。


「ん? ちびっ子辞書? 流行ってる言葉とかが書いてあるのかな?」


 探し物のページをクリックし、孔明は生徒からもらった棒つきのアメをなめながら、ひとりで読み出した。


「カエル――。意味はみっつ。ひとつは、地球にいる生き物。ふたつ目は、カエルの歌という輪唱曲が学校で流行ったため」


 薄手の白い着物は教室の真ん中に佇み、さらにスクロールしてゆく。


「みっつ目。ある先生がテレビゲームのモデルとなり、それがカエルだったため、先生がその被り物をして学校へ来た。陛下がゲームをプレイしたため、さらに人気に火がついた」


 受講生でも着ぐるみをしてくる子供はよくいる。大人だってたまにいる。そんな世界にも慣れてしまっていたが、仕事場となると話は別で、孔明はアメの棒をくるくる回して、小首を傾げる。


「カエルをかぶる先生? 子供のことがとても好きなのかな? ボクとは違うみたい」


 小学校教諭の募集はいつもかかっているが、教えることをしたいだけで、子供との距離はできるだけ取りたい孔明は、会ったことはないが、この教師とは相違点を感じずにはいられなかった。


 百歩譲って、自身が同じ立場であったとしても、生徒のためにカエルの被り物をする――人から笑われる側になる。という想像が出来ないどころか、孔明はしたいとも思わなかった。気持ちを入れ替えるように、


「とにかく、忘れ物チェックはこれで終わり!」


 元気よく言って、ポケットに携帯電話を戻した。アメを噛み砕いて、残った棒は上へ投げると、自動回収で消え去った。


「注意しても減らない。かといって、おもちゃの持ち込みを禁止するのもかわいそう」


 自分がそうだったらどうだろうと、孔明は考える。自分が子供の頃と同じように、カエルで悪戯をしようと考えている子もいるかもしれない。その楽しみまで失くしてしまうのは、大人として気が引けた。


 斜め前にある一人用の文机に近づいていき、正座して座った。漆黒の髪を慣れた感じで背中に落とし、そばに山積みになっていた紙を一枚取り上げる。


「次は添削」


 塾講師の一日はまだまだ終わらない。時計の針は左から頂点を目指して、八時を過ぎてゆく。答案用紙の上で筆がさらさらと揺れる。


「ん〜? 合格……。もう少し上を目指そう」


 家から持ってきた硬いせんべいをバリバリ食べながら、子供たちの添削の最後に手をかける。


「これは、見る視野を広げる」


 丁寧に教えることが、学びを与えることではない。その人の口まで答えが出かかった時に、手を差し伸べるのが師の役目だ。


 散らばった紙をトントンと机の上で整えて、一束を左側の床へ下ろした。そうして、まだ残っている山から、再び一枚紙を取り出す。


「大人の人たちの分」


 綺麗な字で書かれた理論的な回答文を読む、視界がせんべいを噛み砕く衝撃で縦に激しく揺れる。


「ん〜〜? 相手に合わせて、自分の性格などを変えるのもいいかもしれない。ボクはよくやる」


 神々をうならせた天才軍師は、当たり前のように自分の呼び方を変える。私、ボク、俺などなど……。


「そのほうが相手が油断して、情報が引き出しやすいし、策略が成功する可能性が断然上がるから」


 人間は他人に理解されたがっている傾向が強い。つまり、自分と似ているところを相手に見つけると、嬉しくなるものだ。実はそこが、孔明にとっては罠なのだ。感情をデジタルに切り替える元軍師は、言葉どころか性格まで巧みに操ってくる。


 次の一枚を取り上げて、聡明な瑠璃紺色をした瞳の前で、ダメ出しをする。


は、理論じゃない。これは、に変更する。自分を中心にして考えると、負ける可能性が高くなる。視野が狭くなるから。だから、神様みたいに上からたくさんの範囲を常に見ることをしないと、失敗しちゃうかも?」


 可愛く小首を傾げると、漆黒の長い髪は床の上で少しだけ揺れた。


「勘ははずれる時がある。自分の感情が入るから」


 理論派の孔明はよく知っている。勘がどんなものかを。なぜなら、自分も直感を持っているからだ。ただそれは普通のものではないが。


 刻々と時間は過ぎてゆき、最後の添削を終えると、壁にかけてあった時計は九時を大きく回っていた。


 孔明は文机に突っ伏して、ため息をもらす。


「はぁ〜。陛下のお子さんが来てくれたお陰で、宣伝になったみたいで、生徒の人数が一気に増えたのはありがたいこと。あっという間に全ての講座は満員御礼。それでも、クラスを増やしたけど、空きがほとんどない……」


 自分の望んだ通り、仕事仕事の毎日。静かな教室に、衣擦れの音が儚く舞う。


「でも、お陰で、忘れ物探し。大量の添削。手紙の整理……」


 新しい情報をパソコンで調べたり、遠方へセミナーで呼ばれ、主催者のパーティに参加したりの大忙し。知り合いは増え、外出する回数も多くなり続け、自身の勉強をする時間を取るのがなかなか難しくなっていた。


 大量に配達されてくる手紙の宛名をひとつひとつ見ていたが、珍しいところからのもので手を止めた。


「ん? 界会かいかい? 出版社からだ。ボクに何の用だろう?」


 ペーパーナイフで綺麗に封を割いて、事務的な白い紙に印字された文字を、聡明な瑠璃紺色の瞳で追ってゆく。


「何々? 先生のご活躍のほど、あちらこちらで目にする毎日でございます。お元気でいらっしゃること、心から嬉しく思います。さっそくではございますが、恋愛シミュレーションゲームへのモデル出演依頼をお願いさせていただきたく、お手紙差し上げました。今回は、先生を主役として……」


 塾の宣伝になると思い、過去に二度オッケーを出したテレビゲームのモデル抜擢の話。しかし、孔明にとっては少々頭の痛いことだった。


「恋愛……。女の人……」


 手紙で飛行機を折り、誰もいない教室に飛ばした。それを眺めながらため息をついて、両手を腰の後ろに置き、天井を見上げる。


「はぁ〜。どうして、女の人はあんなにおしゃべりなんだろう?」


 全てを覚えている頭脳から、該当する事項をひとつ取り出してみた。回想し始めようとすると、教室を照らす電気のひとつが、塾のすぐ近くにある街頭に変わった――


「先生、いつも息子がお世話になっております」


 塾が終わり、子供たちを迎えに来たお母さん方に、孔明が丁寧に頭を下げていると、


「お迎えお疲れ様です」

「先生聞きました?」


 人の良さそうな羊の女性で、孔明は的確に聞こうとしたが、


「どのようなこと――」


 途中で話をさえぎられた。


「また新しい宇宙が統一されたそうで、何でもそこにはおいしいフルーツがあるそうなんですよ」

「それはよい――」

「お肌にもいいと言われるものもあるそうで、何でしたかしら? え〜っと……?」


 頬に手を当て、母親は小首を傾げて考え出した。生徒は全員帰ってしまって、あとは忘れ物探しと添削と手紙の整理が残っている。孔明は春風のように穏やかに微笑みながら言葉を紡ごうとするが、


「家に戻られて――」


 また途中でさえぎられてしまった。


「名前は忘れてしまいましたけど、とにかく素敵なところなんだそうです。先生、行ってみたいと思いませんか?」


 孔明は心の中で嘆息した。


(感覚的で、意味が相手に伝わってないって、気づいてないのかな? どうして、フルーツの話が、その宇宙へ行くことにつながったの?)


 現実へと焦点が戻ってきて、孔明は盛大にため息をつき、床の上に大の字で寝転がった。


「――と言ってしまいたいボクがいる……」


 合理主義者の孔明としては、文句が次から次へと出てくるのだった。


「気を使って、話してくれてるのはありがたいんだけど、はっきり言って時間の無駄。ボクが欲しい情報を持ってるわけでもないからね」


 シルバーの細いブレスレットをくるくると回して、くすぐったいような感触を味わう。


「話そうとしても、自分が話し出しちゃうし。情報を欲しがってるボクの願いは叶わない。だから、感覚の女性は苦手」


 床の上で手足をジタバタさせて、しばらく暴れていたが、ふと静かになって、小首を可愛く傾げた。


「ボク、頭のいい女性が好きかも?」


 いつの間にか恋愛モードになっていた自分に気づき、孔明は気持ちを入れ替えるために床から起き上がった。


「それはいいから、助手が欲しいなぁ。求人を出そうかな? 最低条件はボクの思考回路についてこられる人。そうでないと、添削を代わってもらうことが起きるかもしれないからね」


 ほどほどに整理整頓して、出口へ瞬間移動をし、教室の自動点灯照明が消えて、真っ暗になった。


「とにかく鍵を閉めて、どこかで夕飯を食べて帰ろう。今日も遅くなっちゃった」


 正面玄関が施錠されると、九時半を回った街を見回して、孔明はさらに瞬間移動をかけようとした。その時、背後から女性の声がかかった。


「――先生、夜分遅く申し訳ありません」


 振り返ると、塾に関係ない女が一人佇んでいた。評判が大切な商売である以上、孔明は春風のようにふんわり微笑む。


「いいえ、こんばんは」

「こんばんは。カエルが外に落ちてましたよ」


 散々見た黄緑色のカエルが女の手のひらによって、目の前に差し出された。外でカエルを見つけるなど初めてだと思いながら、孔明は頭を下げた。


「あぁ、わざわざありがとうございます」


 しかし、彼はカエルを回収することもせず、女は念を押すように前へ差し出した。


「可愛らしいですね、子供は。自身の好きなものを肌身離さず持っているのですから」

「そうかもしれませんね」


 カエルを受け取る、二百三十センチもある大きな孔明の後ろにある扉を、女はのぞき込んだ。


「今まで、カエルの忘れ物を探していらっしゃったんですか?」


 孔明の脳裏である言葉が色濃く浮かび上がった。


 疑問形――。


 好青年の笑みで真意を隠し、


「なぜ、そのようなことをお聞きになるのですか?」


 同時に情報を整理する。カエルの忘れ物の質問をしてくる、相手の本当の狙いはどの可能性が高いのか。


 カエルをすぐに受け取らなかった男を、女は真正面からじっと見据えた。


「塾へ持っていくためにカエルを子供たちは持ってきた。そうなると、最終目的は塾の中で遊ぶ。外に落ちているとなると、中にはさらに多くの数のカエルが落ちている可能性が高い、になる……」


 探偵が犯人でも探すように、理論的に説明してきた女。孔明の中である可能性が急上昇してゆくが、彼はクールな雰囲気をまとって意見を求める。


「あなたなら、忘れ物をなくすためにどのようなことをしますか?」


 女は考える仕草をして、女性ならではの方法を口にした。


「そうですね? 私なら、生徒を数名、塾が終わったあとに残して、理論を使って忘れ物を探した子には、お菓子を上げます。子供は遊びが好きですから、ゲームにしてしまえば、忘れ物を先生が見つける時間はなくなります」


 孔明は女の狙いが何なのか完全に読み切った。だからこそ、うなずいて、去っていこうとした。


「そうですか。それでは……」


 用があって話しかけてきた女は、孔明の手に未だに握られているカエルをじっと見つめた。


「先生、私の話はまだ終わってません。助手が必要ではいらっしゃいませんか?」


 以前から塾が終わると、この女と顔を合わせた。それは仕事帰りなのかもしれないし、そうではないかもしれない。しかし、今の会話で理由がはっきりした。


 孔明が振り返ると、漆黒の長い髪が宙を横へ舞った。


「タイミングを図るために、キミは今日までここで見ていた。そうでしょ?」


 そうして、言葉遣いを変える。この女の年齢と服装、言動などから、一番最適なものを今までの情報から導き出して。女はにっこり微笑んで、急に砕けた口調になった。


「そうかもしれないわね」

じゃなくて、そう」


 女は右手をカエルへと差し出した。


「どうして、そう思うの?」


 疑問形――。


 孔明は持っていた黄緑色の小さなものを、へと返した。


「ふふっ」


 生徒の落としていったカエルなど嘘なのだ。子供の宝物。今日初めて見つけた。いつもと違うことが起きている。そうなると、相手の罠の可能性が高い。


 孔明は少しだけかがんで、女に近づいた。


「それより、お腹空いてない?」

「どうしてその話になったの?」


 聡明な瑠璃紺色の瞳を持つ男に、女は質問し返してやった。瞬間移動で手元に出した扇子を、唇にトントンと当てながら、孔明は左右に行ったり来たりする。


「これは偶然じゃなくて必然だから、日時込みでどんな出来事の可能性が変わったのかの話をボクはキミから聞きたい。だから長くなるでしょ?」


 話しかける口実を作るために、カエルを持ってきて、自身をアピールしながら必要最低限の会話だけをした女。仕事ばかりの孔明が望む出会いだった。


 そうして、女の口から、こんな言葉が出てきた。


「そうね。一年前の十二月十一日金曜日、十三時十四分二十二秒、城の廊下で、最初に会った時の話からね」


 塾の講師は優秀な助手と彼女を見つけ、素敵なレストランへと向かってゆく。二人の頭上には、摩天楼の谷間から見える、大きな紫の月と星々が祝福しているように輝いていた。

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