カエルの歌はママから
畳んだ洗濯物をタンスにしまいながら、今は
「あぁ、最近、一日のうちに何度も魂が入れ替わる。サイクルが短すぎて、好きな食べ物も追いつかない」
一人きりの悩み。人は見た目で判断しているからこそ、誰にも知られることなく、彼女は目まぐるしい日々を送っていた。最後の洗濯物をしまって、タンスの引き出しを勢いよく閉める。
「しかも、魂を磨くために入ってくるから、厄落としばかりだ」
ぼうっとする時間がほしいと人間の女は思った。霊感を持つ前の、一日の終わりを味わいながら洗濯物を畳む幸せをひどく懐かしむ。
冬の儚い西陽が入り込む部屋へ振り返ろうとした時、コウの声が突然響き渡った。
「よし! その厄落としが何か答えろ」
専門用語が出てきたが、女は気にすることなく、今求められている定義をきちんと説明する。
「いいことがある前には、厄落としという辛いことや苦しいことが起きる。これが世の常である」
「そうだ。いいか? これは絶対に避けられない。神でも避けられないことだ」
「そうだよね。だから、受け止めるしかない」
女はうんうんとうなずいた。しかし、人間というものは視野が狭く、大変なのはこの物質界にいるものだけで、霊界や神界は違うと信じて疑わなかった。ちょっとしたことで、あっという間に道が開ける。いわゆる理想郷。
人生を甘く見ているものは、自分が一番大変だと思い込んで、現実から目を背ける傾向が強い。コウはそう思いながらタンスの上に腰掛け、人間に女に神の教えを説く。
「知ってるか? こんな話がある。幸せという山と悲しみという谷があった。悲しみはいらないから、谷を一生懸命埋めていた。気づいたら、幸せの山も悲しみの谷もなくなり、平らになっていた。悲しみがあるから、幸せだと感じるんだ」
「いいことばかりじゃ、いつかそれが普通になるよね。おいしいものを食べ続けるのと一緒だ」
そうは言いつつも、女は心の奥底で、悲しみの谷はいらないと願ってやまない。幸せと普通だけでいい。
室内で風もないのに、コウの銀色をした髪はさらさらと揺れた。
「それに耐えたお前に、朗報だ」
「え?」
いつの間にか視線が畳に落ちていたことに気づいて、女はタンスを見上げた。
「また、澄藍に戻るぞ」
「そうか、よかった」
肉体と魂が合っていない違和感から来る苦痛も、いつしか慣れてしまって、冷静な彼女を肉体も認め、帰還を感嘆するほどまでになっていた。
「それから、お前の子供も来るようになるからな。しっかり母親として話せよ」
「子供……?」
ずいぶん現実離れした話をされて、人から見たら一人きりの部屋で、澄藍はコウがいる宙をじっと見つめた。
「じゃあな」
赤と青のくりっとした瞳は珍しく笑みをもらして、すうっと消え去った。澄藍は急に力が抜けたように、西陽が入り込む畳の上に座り込む。誰もいない部屋で、現実の厳しさの前に心が立ち尽くす。
――この世界には自分の子供はいない。それは、配偶者にこう言われたからだ。
「あなたみたいな人に育てられたら、子供がかわいそうだ」
確かにそうだと思う。
自分はひどく落ち込んだり、ものすごくテンションが高くてスキップしてはしゃいだりする。もう三十歳も過ぎたのに。どこか子供っぽい。
昔親からも、喜怒哀楽が激しいってよく言われてた。
それを直そうと、本を読んだりして実行したけど、気づくと落ち込んでて、気づくと笑いが止まらなほど楽しくて……。
それって、自分の性格が欠如してるんだと思う。だから、子供は作らないって決めてた。
「――ママ〜!」
澄藍は幼い声で我に返り、いつの間にか服の裾を指先でいじっていたが、うつむいていた顔を上げ、
「は〜い!」
自分へ向かって走ってくる小さな子供を珍しく微笑んで出迎える。波画が溢れるほどの幸せに包まれ、両手を広げて。
*
あの日から、澄藍の心は豊かさで埋め尽くされていっていた。自分を頼りにしてくれる存在がいるとは、こんなには素敵なものなのかと彼女は思った。
学校での話を聞いたり、遊びにきた子供の友達に、冷蔵庫や洗濯機を得意げに説明する我が子の後ろ姿を見て、微笑ましくなったり、充実した日々を送っていた。
そんなある日、洗濯物を畳んでいると、いつも通り子供が遠くから走ってきた。
「ママ〜!」
「は〜い!」
兄弟は多く、顔もよく似ていて見分けが難しいが、澄藍には雰囲気で誰だがよくわかっていた。お菓子を食べながら、話の続きを得意げに答える我が子。
「今日ね、学校で『カエルの歌』をみんなに教えたよ」
「え……?」
しかし、出てきた内容に、澄藍は手にしていたタオルを思わず畳の上に落とした。
*
時間は少し巻き戻って、その日の姫ノ館、初等部。
休み時間が終わると、待っていましたとばかりに、あちこちの教室から子供たちが出てきて、横一列に並び、最初の子が大きく息を吸って童謡を歌い出した。
「♪カエルの歌が……♪」
一小節遅れで、次の子供が歌う。
「♪カエルの歌が……♪」
知らない子が思わず立ち止まって、面白そうな遊びを眺める。そうして、次の子供が歌う。
「♪カエルの歌が……♪」
自分の席に座っている他の子供たちが手招きされたり、歌を聞いて廊下へ出てきて、次の子がまた歌う。
「♪カエルの歌が……♪」
終わりそうになったが、一番最初に歌った子が、列の最後尾に並ぶを繰り返し始め、どこまでも童謡が校舎中に響いてゆく。
子供心をがっちりとキャッチした童謡は、たった一日で初等部の生徒全員に知れ渡り、今や授業中を省いて、カエルだらけとなっていた。
窓の外からも廊下からも、さざ波のように押し寄せてくる生徒たちの歌声を聞きながら、先生たちは頭を悩ませていた。
「どうしたんでしょうか?」
「困りましたね。生徒同士に広まってしまったみたいで……」
「何という歌なのでしょう?」
ヤギの女性が先生たちを見渡したが、全員首を横に振った。
「聞いたこともありませんね」
単純だからこそ脳にこびりつく印象的な曲を、音楽教師は専門的に説明をする。
「曲目はわかりませんが、このような曲調は輪唱というんです。初めの人が歌い、何拍か遅れで、次の人が歌い出せるように、曲が作られているんです」
「生徒数が兆を超える学校で生徒が歌うと大変なことになると、親御さんは気づかなかったのでしょうか?」
ここまでくるとさざ波ではなく、爆音と言っても過言ではなかった。
「生徒が気に入ってると思うと、禁止するわけにもいきませんし……」
生徒の自主性を重んじる姫ノ館。授業中に歌ったや、誰かが困るというのなら、何らかの対処をするのだが、子供が楽しんでいるものはどうすることもできない。
そこへ、凛とした澄んだ女性的でありながら男の声が響き渡った。
「出どころは先ほど突き止めましたよ」
「
誰に教わったのかを聞くことを繰り返していき、
「地球に分身を置く親御さんからだそうです」
先生たちは盛大なため息を職員室につもらせた。
「はぁ〜、別次元から歌を持ち込んできてしまった〜」
注意のしようがなかった。守護をしている神様なら、人間界にも手の出しようがあったが、ここにいるのは全員、小学校教諭であって、守護神ではない。
対処のしようがなかった。たとえ相手は人間であったとしても、親子関係がそこにある以上、家庭での会話とみなすしかなく、
「収まるまで待つしかありませんね」
「そうですね」
閉口した教師たちとは正反対に、神がかりな造りの校舎に、子供たちのカエルの歌がどこまでもどこまでも続いていた。
*
放課後の我が家に戻ってきて、澄藍は思わず両手で顔を覆い、畳の上に打ちしがれるように横ずわりを崩した。
「あぁ〜、やってしまった。先生ご迷惑をおかけして申し訳ないです」
人間の女は神の御前で深く深く懺悔をした。学校中の生徒を幸せにできたと思っている我が子は、右に左に嬉しそうに体を揺らしながら、カエルの歌を熱唱していた。
親としても、子供の自主性を摘むようなことをしたくない。かと言って、このままではいけない。澄藍は母親として子供を導いた。
「とりあえずさ、何人でやるか決めて歌おうよ。他の遊びをしたい子もいるかもしれないでしょ?」
「オッケー!」
子供は両腕で頭を囲むように円を作り、にっこり微笑んだ。見たこともない返事の仕方を前にして、持ちつ持たれつつの学校生活をママは想像した。
「それも学校で流行ってるの?」
「そう! みんな、オッケーってやってる」
子供はまた両腕で円を頭の上に作った。何かの話をしていて、中庭や教室で小さな子たちが合図みたいにしているのかと思うと、澄藍は微笑ましなくなった。
「かわいいね。小学生って」
遠くのほうで別の子供が呼ぶ声が聞こえた。そばにいた子供は慌て出し、小さく手を振って走り出す。
「あ、アニメが始まる時間だから、急いでリビングに戻らないと! また来るね、ママ」
あっという間に、あの世の自宅にあるテレビへと行ってしまった子供を見送って、澄藍は幸せの吐息をもらす。
「はぁ〜、神様の世界も人と変わらないんだ。アニメを楽しみにしてるなんて……。明日、学校で友達と話すのかな?」
邪神界が倒されてから、急速に人間の世界に近くなった神界。今頃、神様たちも洗濯はないが、テレビでアニメを見ている子供たちと話をしたりしながら、夕飯の支度をしているのかもしれなかった。
そうして夜――。
畳の上に布団を二枚敷いて、あとはお風呂に入って眠るだけとなるころ、子供がクマのぬいぐるみを抱えて、眠そうな目をしてこっちへやって来た。
「ママ?」
「どうしたの? こんな時間に」
「今日こっちで一緒に寝てもいい?」
自分は分身をしていて、本体は向こうで暮らしている。それでも、こっちに来たがって、やって来たのだろう。しかし、あの世でも配偶者がいる。
「それじゃ、パパに聞いてこないとね。何も言わないでくると、どこに行ったのかなって心配するよ」
「わかった、じゃあ言ってからまた来るね」
五歳の小学校一年生でも、言葉はきちんと覚えていて、漢字まで使える。きちんと話せば理解もする。
澄藍の視界は一人きりの寝室で、涙に揺れる。
「私は幸せだと思う。この世界では違うけど、本当に幸せだと思う。まわりの人からそう見えなくても、私は幸せだ」
神世を見られる人が少ない霊感。物質界には共有できる人がいない。瞬きをすると、頬に一筋の涙がこぼれ落ちていった。
「永遠の子供がそばにいる。永遠に愛する人もいる」
この世界ではどんなに努力を重ねても、心が通じ合えない夫婦仲。責められることはあっても、認められることのない日々。
義理の両親は優しいけれども、結婚に本当に大切なのは配偶者との相性。それが合わないとお互いに思う。何とか前向きに解釈しようとして来たが、ついにたかは外れ、涙が次々とこぼれ出した。
「私の心の支えは、向こうの世界の家族だ。死んでからも続いてゆく家族。大切なものはみんな向こう側。だからと言って、現実から逃げるつもりはないけど……」
配偶者が部屋へ戻ってくると入れ替えに、澄藍はお風呂の用意をして、襖を閉めて廊下を歩き出した。
入浴剤もアロマオイルも入れられない湯船に、一人で浸かる。既成概念を捨て、差別をも捨て、神様の恋愛事情を考える。
「神様は自分勝手だったり、肉体の欲望がない。だから、自分たちが付き合うことで、他のみんなも含めて幸せであるかを見極めてから結婚する。そうなると、陛下はたくさんの人を愛することが個性のひとつなんだろうな。他の神様たちは男女の一対一で結婚してるんだから」
お湯を肩までかけると、チャポンと水の音がこだまする。どこかの空想物語も真っ青な、実在している夫婦の形。女である自分には、ハーレムなど興味もないが。
お湯をかき上げ、澄藍は湯船に背を預け、ゆったりを足を伸ばした。
「人間の自分には真似できないけど、何人も運命の人がいることもあるんだね。神様が嫉妬するなんて想像つかないし、女性同士でも協力して夫婦をしてるんだ。本当に綺麗で素敵な世界だ」
人を――いや神を受け入れる。大人の神様と会いたいのなら、彼らと価値観が通じるように理解をすることが、着実な一歩。
素質を持っていることを証明するように、陛下のお宅がハーレムを前向きに解釈をした。そんな澄藍は、閃光が脳裏を走るようにひらめいた。
「あ、今ピンと来た!」
奇跡は目の前にいつもある。ただ自分が見逃しているだけ。
「自分の心の声かと思ってたけど、これが女性の神様の声だったんだ。聞こえてたんだ、今までずっと」
姿が見えず、声だけ霊視すれば、それが自分と同じ周波数のものであれば、なおさら心の声かと信じ込んでしまう。
澄藍は万歳をするように、両腕をお湯の中からざばっとかかげて、大きく伸びをした。
「やっぱり決めつけちゃいけないんだ。心と思考を柔軟にするんだ。姿は相変わらず見えないけど、声は聞こえてた。あとは見るだけだ」
コウの他にもいつもそばにいて、自分を見守ってくださっているのかもしれない。それならば、姿を確認してきちんと話をしなくてはと、澄藍は思った。
そこで、極めて重要なことを思い出し、上げていた腕を力なくお湯の中に落とした。
「あれ? もしかして見逃してた? 他にも大人の神様たちの言動があるかもしれ――!」
落雷したような衝撃を受けた。心は自由に過去へと戻れる。ある日の買い物で、レジで清算中、背後から男が瞬間移動してきて左斜め後ろに立ち――
「
その時の様子を、スローモーションで追ってゆく。驚きすぎて悲鳴を上げる暇もなく、霊体は気絶し、それを支える彼の腕だと思えるものが視界に入り込む。
「それは私じゃなくて、
まだ地球への出入りに厳しい規制が敷かれていなかった頃。奇跡来に悪戯をしに来たのだとわかっている。彼女が光命の母親に似ているものだから、驚く姿を見て堪能しようということだったのだろう。
神々の遊びに、人間である澄藍は、いや魂が宿る器――肉体は翻弄されるだけ。どこかずれてるクルミ色の瞳は、急に影が差した。
「もう関係ない……。私にじゃないんだから。魂を見ている神様には、肉体の記憶は必要ないんもんね……」
人間の女の中では記憶は全てつながっている。どこかの物語みたいに、都合よく記憶が切り替わってくれたらいいのだが、そうもいかなようだった。自分の人生なのに、誰かの人生のように扱うしかない、そんな感覚。
矛盾が生まれる。それでは一体誰が恋をしたのか。今も必死で耐えているのは誰なのか。魂が入れ替わるたび、関連する神々も変わり、自分の呼び名だって変わる。
「それって、会ってないのと一緒」
一人空回り。神界という心の世界の住人――青の王子にしてみれば、人間の女などどこにもいないのだ。
「自分はカエルの被り物と同じ。それも、見えない透明の被り物……」
今もみんなにとって大切な人は、澄藍であって、人間の女ではない。心が大切とはそういう意味だった。
話もできて、姿を微かに見たとしても、人間からすれば、やはり遠い存在である神。そこへ一歩近づこうとしたのが、何かの間違いだったのだろうか……。
「霊感なんていらなかった。そうすれば、普通の人と同じように、自分の気持ちだけを考えて生きていけたのかもしれない」
人と違う。霊感を持っている人はいるだろう。しかし、霊界に本当の家族がいて、魂が入れ替わるたび、関係性も変わる。そんな話を信じる人がいるどころか、奇異な目で見られる。
揺れる水面に、自分の悲しげな顔が映っているのを見つけ、苦しそうに目を閉じると、涙が波紋を作った。
「じゃあ、見えても聞こえても無視すればいいと思う。だけど、五歳の子供が声をかけてきてるのを無視するの?」
いろいろな小さな人と話をしてきた。人間の子供の比にならないほど、心がとても澄んでいて、純真な瞳で楽しげにあれこれ言ってくる。
澄藍は両手をギュッと握り合わせて、おでこを抑える。
「それはできない、できないよ……。あんな純粋な子たちに、聞こえない振りをしたとしても……」
次々に涙が落ちてゆく音が風呂場に響き渡る中で、脳裏に鮮やかに蘇る。見えているとわかっている神様の子供の話を聞かず、視線をそらし続けても、おそらく彼らは、
「どうしたのかな?」
と言うばかりだろう。澄藍は胸が引き裂かれそうになって、顔を覆って静かに泣き始めた。
「悪意にも取らず、責めることもせず、ただただ不思議に思うだけの姿を黙って見ていられる人って、どれだけいるんだろう?」
澄んだ心を踏みにじる――。
彼女の三十三年間で培ってきた信念のひとつ――自分がされて嫌なことは他人にもしない。そこに反する問題で、澄藍は首を横に振った。
「ううん、私にはできない……」
だからこそ、彼女に神まで見える霊感が宿り、今の運命を歩いている。未来が見えない人間の考えとは浅はかで、数十年――生きている間でしか物事を見ていないものだ。
大切なものは時には、手を離したくなる苦痛をともなう。それでも何かの理由で手を離せない人だけが、その大切なものを手に入れるのだ。
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