第6話 愛の変化

 ルールなんて破るためにある。

 どこで聞いたか覚えていないけど、そんな言葉が頭に浮かぶ。ここで破ってしまえば、彼女のこれからも私の人生も終わる。

「ありがとうございます」

 何に対してのお礼かも分からないまま言葉だけが先を急ぐ。好きだと伝えた相手から「ありがとう」と言われるのは、もしかしたらはっきりと断られるよりも辛いことなのかもしれない。そんな酷な事を私は今、目の前にいる彼女に投げつけてしまった。

「……」

 寂しそうに微笑む夏目さんにこれ以上どんな言葉を伝えればいいのか分からない。きっと今は、どんな言葉も優しさも彼女を傷つける。それでもちゃんと向き合わないといけない気がする。逸らしてしまった目と心をもう一度彼女に向ける。

「……好きな人がいるんです」

「えっ……」

「だから、夏目さんの気持ちは凄く嬉しいんですが……すみません」

「……どんな人?」

「……」

「佐野さんの好きな人って、どんな人なんですか?」

「頑張り屋さんです」

「……見た目は?どんな感じなんですか?」

「肌が白くて、優しく微笑んでくれる人です」

「……その人って――」

 彼女が何か言いかけた時、それを阻止するかのように事務所の電話が大きな音をたててフロアに鳴り響く。このフロアに今いるスタッフは私だけ。取引先からの連絡かもしれない、新しい案件の案内かもしれない。すぐに受話器を取らなければ……

「夏目さん、すみません。電話出ますね」

そう一方的に一言断りを入れて受話器に手を伸ばす。

「はい、あー、その案件でしたら担当者が今不在で。えぇ、はい」

 先輩が担当する案件の連絡だった。なにやらトラブルで企画が変更になるかもしれないと焦っている声。早口で話続ける見えない相手の声を片耳で受け取りつつ不安がよぎる。メールで送ってくれればいいものをこの人、全部電話で話して済ませるつもりだ。これはしっかり伝えないと面倒なことになるな。それにしても話が長い。

「はい。では、担当の者に伝えておきます」

 やっと終わった。そう思ってゆっくりと受話器を置いた時、不意に甘い香りがして背中に柔らかく熱が集まる。振り向きたくても振り向けない。後ろから伸びてきた綺麗な腕が私の首元に巻き付いて身動きが取れないからだ。きっと今、顔を横に向けただけで彼女の紅い唇に触れてしまうだろう。さっきまで受話器越しに耳にしていた声とは比べ物にならないほど擽ったい声で名前を呼ばれる。

「佐野さん」

 ゾクッ。言葉にするならそんな感じだ。心臓がやけに痛い。背中よりも熱くなった耳は彼女の些細な息すら敏感に感じ取り怖くなる。

「……夏目さん、どうしたんですか?」

「私より仕事が大事?」

「ッ……」

 耳に触れたか触れないか分からないくらいの感覚を与えてくる彼女は相当のやり手だと思う。

「あっ、グロス付いちゃった。取ってあげる」

「…ッ!」

 反射的に体を反らしてしまった。耳に残る湿り気が今の一瞬を嘘じゃないと主張する。さっきまで熱かった耳は湿り気のせいか空気に触れてひんやりする。急いでそこに触れて拭き取り、動揺を隠す余裕もないまま夏目さんを見れば、ふふっと悪戯っ子のように微笑む彼女。

 間違っていなければさっき耳に触れたのは、彼女の舌。どうしてこんなことを…

 全く意図が分からず恐怖心だけが増していく。夏目さんは一体なにを考えているんだ……

「どうして」

「どうして?」

「どうしてこんなこと……」

「うーん、だって佐野さんが相手してくれないから」

「えっ」

 彼女はぎゅっと腕に力を入れる。それはさっき体を反らしてできた少しの隙間すら許さず、それを無くすようにぎゅっと。

「私が一番じゃないと嫌……」

 綺麗な手で頬を撫でられこのまま心を持っていかれそうな気がする。離して欲しい、やめて欲しいと言いたいのに彼女の瞳から目が離せず意思すら言う事を聞かない。

「……理佐にだって負けないから」

 確かにそう小さな声で聞こえたかと思えば、柔らかい感触と共に目の前には吸い込まれそうなほど綺麗な瞳。その瞳に映る私は自分でも感情が読み取れないほど無色に映る。そんな私をのみ込むかのようにゆっくりと閉じる瞳。そして、触れている唇から彼女が今、微笑んだことが分かった。

 ねぇ理佐、今すぐ君にアイタイ

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