第3話 暗黙のルール

 あと十分くらいで到着します。と、このメッセージが着てから丁度十分。そろそろ着いてるかなと思い、部屋を出て駐車場へ向かう。

「おはようございます」

 室内から駐車場に出る扉を開けると同時に爽やかな声と笑顔がこちらに向けられる。

「おはようございます」

「荷物持ちますよ」

「あっ、ありがとうございます」

 自然な流れで私が持っていた荷物を手に取り、車に乗せていく姿に戸惑う。グループに居た時は、スタッフさんよりもメンバーの人数が多いこともあって、自分の荷物は自分で運んで管理すると教えられ過ごしてきたから他のタレントさんからしたら普通の事かもしれないけど、私はその何気ない優しさが嬉しくて戸惑ってしまう。

「今日は、このまま汐留に向かいます。取材と番組打ち合わせが一本ずつ。その後は事務所に移動して、社内打ち合わせを二時間程予定してます」

「はい、スケジュールは昨日送ってもらったメールで確認しました」

「ふふっ、ありがとうございます。じゃ、出発しますね」

「はい」

 実は、昨日の夜、佐野さんが送ってくれた今日のスケジュール詳細メールは、すぐにチェックしていた。今日から本格的に一人での活動が始まる、ある意味、仕事始めだから気合い入れなきゃってメールをじっと見て今日一日の流れをイメージして備えていた。わくわくするし、不安なことだってある。

 でも、佐野さんが居てくれたら何とかなる気がする。不思議と佐野さんとなら大丈夫って思える。そんな事を後部座席に座りながらひっそりと考えていた。

 家から汐留の道なんて、今までも何度も通ってきたのに、何故か今日は窓から見える景色がより綺麗に感じるのは気のせいかな……。

 そうだ、この先にある大きな歩道橋が見える交差点は、殆ど毎回と言っていいほど赤信号に掴まってしまう。きっと今日も掴まるんだろうな。……あ、やっぱり、赤信号。あれ、でも……

「佐野さんって運転上手ですね」

「えっ?」

「ブレーキとか上手だなーって」

「そうですか?初めて夏目さんに褒められて嬉しいです」

「初めてって、まだそんなに一緒にお仕事してないじゃないですか……酷いですよ」

 ルームミラー越しにこちらを見ている佐野さんが悪戯っぽく言う。そんな姿が可愛くて、その笑顔を見ていると優しい気持ちになれる。

「眼鏡、似合いますね」

「えっ」

「め、が、ね」

「あぁ、パソコン作業と運転する時は眼鏡なんです」

「普段は掛けないんですか?」

「掛けませんよ」

「どうして?」

「日常生活だけなら眼鏡無くても大丈夫なんです」

「でも、眼鏡似合ってますよ?ずっと掛けてればいいのに……」

「今日は、凄く褒めてくれますね」

 視線を前に戻した佐野さんは、微笑みながらゆっくりとアクセルを踏み車を走らせる。運転にも人柄が出るのかなんて分からないけど、佐野さんの運転は今までのスタッフさんの誰よりも優しく感じる。

 停まるとき、曲がるとき、動き出すときに振動や揺れを殆ど感じない。まるで、私自身が優しく運ばれている気持ちになる。真剣な表情で運転する佐野さんは、さっきの悪戯っ子みたいな時とは違って、とても大人に見える。元が整った顔だし真剣な表情だと尚更、格好いいなぁ……。

 優しい顔、笑った顔、真剣な顔、もっと色んな佐野さんの表情を見てみたい。

「佐野さん」

「はい」

「佐野さんって彼氏いるんですか?」

「いませんよ」

「それじゃ――」

「もうすぐスタジオに着きます」

 彼女いたりして、なんて軽く揶揄おうとした瞬間にそれは遮られてしまった。まるで聞かないでくれと意思表示をするように。

 一瞬だけ、佐野さんに突き放された気がして怖かった。嫌われてしまうと思った。お願い、嫌いにならないで……。

 佐野さんは着きましたよっていつもの優しい声で一言言うと、先に降りて後部座席の扉を開けてくれた。嫌われたくない、一度そう思ったらもう頭の中はそれでいっぱいで動けない。涙が出そうになる。これから取材なのに、メイクもしなきゃいけないのに、泣いたらメイクさんに迷惑かけちゃうのに、今は涙が溢れないようにグッと目を閉じて耐えることしかできない。

「夏目さん?」

「……」

「どうしました?気分悪いですか?」

 上手く声が出なくて、でも心配してくれている佐野さんに体調が悪い訳じゃないって伝えたくて頭を横に振る。それを見た佐野さんは困った顔をして車に乗り込んで隣に座って扉を閉めた。

「どうしたんですか?」

「……」

「夏目さん……」

 困らせたくないのに、これ以上嫌われたくないのに、上手く言葉が出てこなくてどうしたらいいのか分からない。

「…全く」

 ため息も出そうな声で佐野さんがそう言うからもう本当に嫌われてしまったと思った。でも、そのすぐあとにふわっとあの香りがして私はすぐに抱き着いた。佐野さんが離れていってしまわないように。見捨てられないように。

「またそうやって一人で抱え込んで……、仕事の事以外でもいいです。夏目さんが 困ってる事も悩んでる事も全部聞きますから。そうやって全部一人で抱え込まないでください。一人で泣かないで、ね?」

 優しく包み返してくれる佐野さんに安心して涙が頬を濡らしていることに気付く。

「……ごめんなさい」

「えっ」

「嫌いに……ならないで……」

「急にどうしたんですか?」

「お願い……佐野さん……」

「嫌いになんてなりませんよ」

「……でも」

「絶対に、絶対に嫌いになったりしませんから。どんなことがあっても夏目さんの味方です。傍

にいますから」

「佐野さんに嫌われるのが怖い……」

 嫌いにならないで、何処にもいかないでって思いながら佐野さんの着ているシャツを強く掴むしかなかった。

「嫌いになるとか、そんな心配しなくても大丈夫ですから。前にも言ったでしょ?私の全てを夏目さんにかけるって」

 優しく包んでくれていた佐野さんの腕に力が入り、今度は鼓動が分かるくらいにぎゅっと抱きしめられる。安心する。佐野さんの肩に顔を埋めてもう少しだけこのままで。誰にも気づかれない私たちだけの時間をもう少しだけ……。


 そろそろ楽屋に入らないとメイクや準備の時間が無くなってしまうからと声を掛けられて離れていく体に寂しさを感じるけど、自分の中にはっきりと芽生えた気持ちに嬉しさも感じる。誰かにこんな感情を持つなんていつぶりだろう……。

アイドルとしてグループに入ってからは、絶対に犯してはいけないルールだったから、無意識に自分から遠ざけていたと思う。握手会も格好いい人や可愛い人は何人も来てくれたけど、やっぱりファンの人って思うとそれ以上の感情は生まれなかったし、持たないようにしていたから。

 でも、私はもう恋愛してもいいんだよね。

 もし恋ができるなら、私は佐野さんと恋がしたい。タレントとマネージャーの恋愛も犯してはいけない暗黙のルールなのかもしれないけど、この気持ちに気付いてしまったから、もう我慢なんてできない。私は、佐野さんが好き。

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