第10話 馬之上 秀穂
六薬堂に戻ってきていた。
小上がりに岡 征十郎と佐々倉が腰を掛けて並び、詩乃は定位置にある火鉢を抱きかかえるようにして座った。
番頭が生姜湯を差し出してくれた。
「それじゃぁ、その
佐々倉が岡 征十郎に詰め寄る。
「まだ解らん。それに所在不明なので、今、捜させているところだ」
「馬之上 秀穂ねぇ。バカバカしいほど怪しい名前だわ」
詩乃はそういってキセルを燻らせた。
「でも、まぁ、そいつのところに
詩乃の言葉に「なぜだ?」と岡 征十郎が聞き返す。
「その帳面のどこからに、桜の絵が描いているだろう? 季節時期問わず。桜てのは馬肉の隠語だからね、馬に関わりのある事なり、人の名や素性を明かせないが、……いや、でも、そうかぁ」
詩乃が顔をしかめる。
「なんだ?」と岡 征十郎。
「剛健さんは、その馬之上 秀穂が好きだったんだね。
最後に書かれたらしい書きかけの帳面の字が、ひどく動揺したり、字が乱れているだろう? 患者に対する接し方の
たぶん、しばらくは、剛健さんはその所業を黙認していたんじゃないかしらね?」
「……、でも、剛健はいい医者だと、」と佐々倉、
詩乃が指を立て、「そこだよ」と言った。
「ものすごい葛藤だったのだろうよ。最初は誤診程度。薬間違いなら、あとで追いかけて正しいものを渡す。なんてことで
だけど、そのうち、手術なんてものをやり始めた。しかも、勝手に腹なんかを切って、慌てて措置に回ったが助からなかった。てことが続き、その、鳥瀬? とかいう学生たちが大騒ぎをして殺されたのを見て、自分の行動はどうすべきか悩んだんじゃないだろうかね?」
「すぐに番所に行くべきですよ」
「だけどさぁ……、好きな相手なんだよ」
詩乃がめったにないほど色っぽく、艶っぽく言ったせいもあって、そこに居た男三人は唖然と黙った。
「あたしには経験などないけどさ」とけろっと言い、「だけど、世の中じゃぁ、そういう事で悪行の道に進む人だっているじゃないか。
人としていけないことをしているけれど、この人を好いているがために止められないってね」
詩乃はそういってキセルを叩いてたばこを捨てた。
馬之上 秀穂の居場所が解ったのはそれから三日も経った後だった。岡 征十郎は岡っ引きの虎の案内で、下流岡場所の一つ、柳座岡場所に向かった。
また逃げ隠れしないようにと、その家の入り口でもう一人の岡っ引き辰が張り込んでいた。
「奴さん、今朝方こっちに来たようです」
「家ではないのか?」
「いくつかの岡場所を数日ごとに移動しているようです」
「風貌は?」
「医者らしく総髪で、ちょいといい男ですが、話すと感じのいい男ではありませんね」と辰。
「評判もあまりよくはないが、ほぼ無料に近い金子で見てくれるし、薬をくれるので、岡場所では重宝されていますが、それが効いているか、どうかは不明ですよ。まぁ、一応、六薬堂のような薬草の匂いはしてましたけどね」と虎が言う。
「あそこです」と指した家は、看板も掲げていない、ただの家で、あそこが診療所だとはだれも思わないような戸口だった。
「学生などの出入りは見ておりません」
と見張りの辰が言うのを背に受け、岡 征十郎は家へ向かった。
「ごめんよ、邪魔するぜ。ここは、馬之上 秀穂って町医者の家かい?」
ごとっと障子の向こうで音がして、
「ええ、そうです。少々待ってくださいな。あいたたた、本を片付けねば、いかんなぁ」
などとのんきそうな声のあと障子が開いた。
床には平積みされた本がいくつも山を作り、その一つをさきほど蹴り倒したのか崩れていた。
壁にくぎを打ってそこに医療道具のいくつかがかかっていた。あれは、医術学校や小早川養生所でも見たことがあった。机の上に置いておくには大きすぎるが、よく使う道具の収納場所としてこうしておけば邪魔にはならない。と変わった収納方法だと以前思った。
岡 征十郎は玄関から見える室内を一巡で見た後、馬之上 秀穂の顔を見上げた。
なるほど、優男で、総髪でなければ女に持てたかもしれない、今どきの細面の顔をしていた。
町医者というので中年男を想像していたが、やっと、25を超えたぐらいのころだと思う。
「なにぶん、男一人なもので、掃除も行き届きませんで」
そういって馬之上は玄関先に座る。
「それで、お役人さまがどのような御用で?」
「新田 剛健という医学生をご存じか?」
「もちろんでございますよ。私のところに実習に来たいと申してくれましてね、とても良い手伝いをしてくれましたが、この、五日ですか? いや、六日ですかな? まったく来なくなったのですよ。このような部屋ですので、急ぎの患者の用向きのこと以外は、どこかにすぐにやってしまって、下宿先を書いていてくれた紙を無くしましてね、連絡の取りようがなく困っていたのですが……、新田君が如何したのでしょうか?」
と不安げな顔で岡 征十郎を見上げてきた。
「亡くなったよ、女郎と一緒にね」
「な、そんな……あれほど、女に入れあげるなと忠告してましたのに。相手は、芝松ってところの小梅でしょうか? そうでしょう、そうでしょう。好い仲になったと話していたけれど、女郎というのはそういう手段で男をたぶらかせるんだと、あれほど言い聞かせましたのに」
馬之上は悔しいとか、剛健はちょっと甘い思考を持っていて、先行きが不安だったとか、技術的には今一つだったとか、そのくせ、医者の先輩である
岡 征十郎は思った―こいつは、我々が新田 剛健の身辺を調査せずに来ていると思っているのだろうか? それとも、本心で、新田 剛健を役立たずだと思っていたのだろうか? こいつは、馬鹿なのか? それとも、そういう演技をしているのか?―
馬之上は剛健のことを馬鹿にしながら、涙を流し、「これは愛を持った暴言なのですよ」と
「新田はいい師匠を持ったようだ」
とつぶやくと、馬之上は肩を震わせて泣き出した。
馬之上を泣き止ませ、剛健の私物を探させると、数冊の帳面と、道具入れを持ってきた。
「道具は医者にとって大事ですのに、手入れをしませんで困っていたのですよ」
そういって箱を開けると、のみや、金槌、匕首といった大工道具のようなものが出てきた。しかもどれもが錆びていた。
「道具を大事にしないものはいい医者にはなれないと言っていたのだが」
と言いながらため息を落とす。
帳面を見れば、よほど汚い字で、診察における受け答えなどを走り書きしていた。
「まったく、何を書いているか解ったもんじゃありませんね」
と首をすくめる。
「そうそう、新田君は、どういいますかな? ああ、内弁慶なところがありましたね」
「と、言いますと?」岡 征十郎が聞き返す。
「見栄っ張りと言いますかね、親にもですが、学校の教員や、同士たちにいいところを見せたいのか、常に外面はよかった。私もそれに騙されたのですがね。
おとなしく、成績優秀で、物腰の柔らかそうな、今どき珍しいくらいな男でしたが、その内情はひどかったですよ。私のところに居ましても、実習をちゃんとしていると書かせて遊び歩くような男でね、そのままの恰好では、誰に会うか解りませぬから、ほっかむりなんかして出かけていくので、気付いた人が居るかどうか……。
ですからね、お役人さまは先ほどから信じられないような顔をしますが、本当なのでございますよ。嘘だと思うのならば、芝松屋に行って聞いてごらんなさい。ほぼ毎日小梅に会いに行っていましたからね」
馬之上は怪訝そうな岡 征十郎を前にさらに続ける。
「新田君は、私の前では本性をさらけ出していたのですよ。私と、新田君とは、本当に師弟だったのですから」
と、自分のいう事がすべてだと言わんばかりだった。
たしかに、帳面の殴り書いた言葉はどれもひどいもので、その日の患者の様子を馬鹿にしたり、蔑んだりしている文句が並ぶ。道具も粗末に扱っている。
「学校などでは将来に関わりますからね、誰だっていい子で居たいものですよ」
といった。
「先生は手術はしますかい?」
「手術? いいえ、私は内科医です。漢方医とも言いますがね、症状を聞いて薬を処方するだけです。
……死んだものを悪く言いたくはないが、新田君はその、体を開くことに執着していたかもしれない。その中にある匕首で開くと傷が大きく目立つので、どうにかして細いものを手に入れなければ。と話していました。
まぁ、おとなしい見た目の子なので、皆は知らないのでしょうけどね」
といった。
何とも薄気味の悪い笑みを浮かべるものだ。岡 征十郎は職業がら表情を崩さず、それを見ているようなそぶりもせず、だが、視界の端でさえもしっかりと記憶する能力を身につけていた。
それは、同心になりたての頃、捜査に同行を許された先輩から、あれこれと首や目を動かせば、犯人に悟られてしまう。視界の端の、うすぼんやりしているところであっても気を抜かずにいれば、見えてくるものだ。そういう脳力を習得するよう心掛けろ。と言われたのだ。それから、目ばかり神経を注ぐ訓練をした。そのおかげだ―などとどこか遠くで思いながら、岡 征十郎はちょっとため息をついた。
「いやなに、ここに来る前に医術習得学校へ寄っていたのだが、どの連中もいいやつだとしか言わぬ。だがな、俺は思うのだよ、女郎と死んでいた奴が、いいやつだとは思わねぇとね」
「そう、その通りですよ。あんな子供のような顔をしているのですからね、すっかり騙されるってものですよ。
だいたい騙される方が悪いのですけどね。ええ、そうですよ。人当たりがよくて、ちょっときれいな顔立ちをしていて、それがちょっと微笑んだらすぐに人は寄ってくる。なおよくないのは、医学生だと聞くとすぐに信用されてしまうんだ。奴らは若く、私はずっと修行を重ねているのに」
「……先生は医術学校を出ていませんか?」
「え? ……私は、上方の……ご存じないだろうが、有名な医師に師事をして学んだのですよ」
「そこで開業しなかった?」
「あ? あぁ、実家が大江戸なものでね、でも、修行して帰ってきたら、両親は死んでしまっていて、兄弟はその後の流行病で次々に。私が、他の患者を診ている間にです。ですから、天涯孤独でしてね」
「それは、知らぬこととはいえ、」
「いえいえ、もうずいぶん前の話しですから。
それよりも、早く下手人を探してくださいね。いくら、あまりいい弟子ではなかったとしても弟子に変わりはないのですから」
「もちろんです。
ところで、鳥瀬も先生が面倒を?」
「鳥瀬? いいえ、知りません」
「そうですか……、ところで、あの手拭い、きれいな黄色の手ぬぐい、どうしたんです?」
「え?」
思いもよらぬ質問に馬之上が首を振って手ぬぐいを探す。窓のそばに置いた机の上に手ぬぐいを干し掛けていた。少し強めの黄色地に絞りが入った物だ。
「さぁ、どこで買いましたかね。そうそう、正月に手ぬぐいを新調しようと、酉の市に並んだ手ぬぐい屋で買いましたよ」
「なるほど、では去年ですね。今年の市はまだ先ですから」
「ええ、そうです。去年です」
馬之上が微笑んだ。岡 征十郎も微笑んだ。
「奥方に送られますか?」
と馬之上が言うので、岡 征十郎は首を振り、
「いえいえ、ほれている女にでもと。いやはや、みともないところを。
さて、帰るとしますか。いやぁ、先生のお話が一番新田を知れると言いますかね、私が思っていた通りの男で、私も安堵しました」
岡 征十郎は立ち上がる。その視界の端、玄関の土間の隅に捨てているのか、置き去りののみが見えた。
「そうですか。まぁ、よくある話ですよ。鳥瀬や高柳だって、志ばかり高く、医術の向上など無縁で」
「え?」
「いえいえ、今どきの学生は。という話しです」
といった。
岡 征十郎は頷き、「今どきの子供は解りませぬ」と言って同意して家を出た。
岡 征十郎は角を曲がり、見張りをしている辰に合図を送ったのち、
「芝松屋に行って、小梅という女郎の話を聞いてきてくれ。女郎にだ」
と虎に言うと、頷いて走り去った。
「鳥瀬も、高柳も、か」
岡 征十郎は苦々しい顔をした。
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