泥人形

 私が幼い頃、公園で遊んでいた時の記憶は10年以上経った今でもまざまざと思い出せる。



 そこは当日私の住んでいた団地内にある公園だった。建物と建物の間の敷地に作られた広場。だから遊具も少なく、あったのは滑り台とジャングルジムだけ。


 それでも4、5歳の自分には十分楽しくて、幼稚園の友達も一緒に、親に連れられてよく遊んだ。



 あの日は、ちょうどイチョウの葉が黄に変わる季節だった。

 空気は乾燥し肌寒くなってきたので、母親は私と公園で遊ぶ時、マフラーを巻かせてくれた。


 友達の女の子と何をしていたのか、よく思い出せないけれど、ジャングルジムで遊んでいたのは確かだ。

 2人で、縦横に伸びる柱の間に入って、中心あたりでアニメの話とかをお喋りしていた。



 必死に明るく振舞っていたが、会話の途中で私は気づいていた。



 ジャングルジムの外の風景が真っ暗になっていたことに。



 5歳の私は――19の今でもわかっていないが――どうして外が暗いのか、訳が分からなかった。


 隣の友達も普通にしているし、真っ暗な景色の中、公園の端にあるベンチで互いの母親はいつも通り談笑している。


 今にも泣きそうな程怖かったが、幼心に"これは他の人に言っちゃいけないことなんだ"と思い、普通の態度でいようとした。



 毎日訪れる夜の暗さとは違う。


 ねっとりした黒に覆われた空。見慣れた団地の建物は手入れされていない毛髪のような塊がまとわりついていた。


 やがて左右の建物を覆い尽くしたそれは公園にまで迫ってきた。広場の砂地に触れる頃には火口から流れ出た溶岩ように変化した。

 プシューと雑草やブロックを巻き込んで溶かしていった。臭いにおいがジャングルジムまで漂ってきたのに、母親達も友達も相変わらず無反応だ。



 母親達が談笑しているベンチの裏までが迫る。


「あ、あ、あぁ……」



"危ない"


 そう伝えたいだけなのに喉がすぼまって声が通らない。



 ゆっくり、ゆっくり、ベンチ裏の生垣を飲み込む。


 ベンチの脚を、背もたれを、溶かして飲み込み同化していく黒い泥。



 私と友達の母は笑いながら濁流に飲まれてしまった。



「…………」


 目を点にしてその光景を私は見ていた。


「? ○○ちゃん、どうしたの?」


 それを見た友達はようやく私の様子がおかしいのに気づいたらしい。


 呼びかけに応じず、じっと親の方を向く私を不安に思ったんだろう。

 友達は腰掛けたジャングルジムの支柱から降りて、黒々に変貌したベンチへと駆け出してしまった。



「! だッ……」


 私の視界に友達が入ってきて気がついた。彼女が私の隣からいなくなっていたことに。


 引き止めることも出来ず、彼女は泥まみれの母達に駆け寄った。


 もはや人の形をした泥に過ぎない母達は私に対して何か喋っていた。口からは声の代わりに白い霧の様なものが噴出した。



 それに気を取られていたら友達も泥に覆われていた。


 それどころじゃない、ジャングルジムの下一面は黒い泥にすり変わっていた。

 どんどん量が増え、残った私を狙っているように上へ上へと山型に伸びてくる。


 頭を支柱にぶつけても止まらずに頂上まで登った。


 靴裏に尖った泥が触れた途端、真下へ強く引っ張られた。私は咄嗟に両手でてっぺんの支柱を掴んで耐えた。

 幼稚園児が宙吊りでは長時間もたない。腕に痺れが出てきた時、泥がくっついていた左の靴が脱げ、その隙に全力で体をジムの外に出した。



 息切れの中ジムの上に立った刹那、景色が一変。


 粘性のある黒い空と泥は見慣れた団地と青空に置き換わった。



「ちょっと○○、大丈夫ー?」

「○○ちゃーん!」


 下から母と友達の声がした。


 姿はいつも通り、飲み込まれる前の外見に戻っていた。





 その後まもなく私たち一家は団地から引越ししたので、公園には行っていない。


 友達とは離れた後にも何度か会って遊んだし、年賀状のやりとりは今もしている。




 誰も死ななかったし、いまだに同じ体験はしたことない。



 でも、ずっと後悔している。


 あの時、私がちゃんと母や友人に危ないと伝えていたら……。





 母と友達とその母親は今も、元気に暮らしてはいる。





 けどあの日以降、3人は――大好きだった母は、中身が母ではない"何か"になってしまった。






 母達はどこに行ってしまったんだろう。





 二度と帰ってこないことだけは、はっきりと理解できる。



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