ヒバシ

 一晩経っても、しんしんと降り積もる雪。

 ああ、太平洋側のこの地方にも本格的な冬が来たんだなと小学生ながらに当時の私は実感した。


 まだ数日は雪が降るとテレビの天気予報士が話しているのを、朝食を食べながら耳にした。


 うずうずと心に抑えきれない衝動が現れる。


 何を隠そう私は雪遊びが大好きなのだ。だから毎年降雪を楽しみに待っていた。



 食パンとヨーグルトを口に運ぶ速度が上がる。味わう余裕などなく、とにかく噛んで飲み込むを反復する。


 数分で平らげた。


 ごちそうさまの挨拶も曖昧に食卓を離れる。


 はしゃぐ心を抑えず、その足で玄関へ。


「おかあーさん、手袋とマフラーは〜?」


「えー? 自分の部屋じゃないの?」

 玄関から呼びかけるとキッチンの方から返事が聞こえた。

 凍える屋外に出るのだから首を晒して素手は厳しい。


 もうっと母に八つ当たりしつつ履き掛けの長靴を脱いで、2階の自分の部屋へ向かった。階段を駆け上がり、机の上に置きっぱなしの手袋とマフラーを掴んで身につけながら階段を降りていった。


 これで準備万端だ。


「いってきまーすっ!」

 すばやく長靴に両足を通す。

 私はわーっと扉を開けて飛び出した。


 一面いっぱいに広がる白に飲み込まれた街並み。

 毎日見ているはずなのに別世界に来た印象を今でも覚えている。



 ドアから出ると玄関から、いや正確には家の門扉より外から雪に足跡がついているのに気づいた。


 とても大きな足、小学3年生の私の2回りはあったから長さだけでも40cm以上はあった。

 形も人の素足や靴底と違った。動物園で見た熊かライオンのような、指が短く先端が深く沈んでいる足跡。爪が太く鋭く長い足の生き物だ。


 こんな足跡がいくつもあって、所々重なり合って跡をつけていた。町に敷かれた雪のカーペットは私が踏むより前に踏み荒らされていた。



 足跡を辿ってみると、家の前の左右に伸びる道路に延々と続いているようだった。


 そして門扉付近には、赤く染った雪と沼底の泥のような液体が溜まっていた。夏場の腐った生ゴミの臭いがした。




 夜の間に"何か"が私の家に来ていた……?



――想像したら急に鳥肌が立って怖くなり、私は家に逆戻りした。



「おかあさん、おかあさん!」

 長靴を脱ぎ捨て半泣きで母を探して家中駆け回った。


 なかなか母が見つけられなくて、もう軽いパニック状態で走り回って、ようやく2階の寝室にいた母に抱き着いた。


「わっ、どうしたの急に。雪遊びはもういいの?」

 優しく問いかける母のカーディガンに私は色々濡れた顔を押し付け、首を横に振った。


 その後、落ち着いてから何があったのか一生懸命説明したが、母は「そんなの気のせいよ」と真に受けなかった。


 それでも何とか信じてもらおうと、母の腕を引っ張って外に連れ出して足跡と門扉下の泥のようなものを見せた。


 今でも忘れない、その状況を目の当たりにした母の瞳。その後1度も見たことのないその形相は、母親らしい色と光を完全に失っていた。


「お、ぉおかあさん……?」

 表情が固まった母に恐る恐る声をかけた。


「…………え? ああうん。大丈夫よ、大丈夫だから」

 普段の表情に早変わりした。


 そして何度も何度も私の頭を撫でながら、大丈夫と繰り返した。




 その日はずっと家の中で過ごした。


 母の様子はすっかりいつも通りになったが、家の中に入ったらすぐさま電話を手に取り、あちこちに早口で何かを話していた。


 子供には難しい話だったからよく覚えていないが、「ヒバシ」という言葉をしきりに話していたのははっきり記憶している。




 その夜、深夜1時頃に何人かの声が1階から聞こえてきて目が覚めた。


 足音を立てないようにこっそり階段までいくとリビングから明かりが漏れていた。

 手すりの柵から覗いた玄関にはたくさんの靴が並んでいた。大勢の来客があったらしい。


 眠いけど気になった私は1段ずつ階段を忍び足で降りた。

 耳に入る声の中には聞き覚えのあるものもあったから、今うちに来ているのは正月に会う田舎の親戚達だろうと思った。


 下に近づくと会話内容が少しだけ聞き取れた。



「……だからなんで今になってやってくるんだ……」


「……本当にヒバシならもうすぐ一族の誰かが……」


「……とにかく、あれを準備しなきゃいけない……」



 母が電話口で言っていた「ヒバシ」という言葉がまた何回も聞こえた。

 でも何を話しているのかは聞こえづらく、いまいち理解できなかった。


 とにかくみんな焦って怒って慌てて叫んで言い合っていた。



 それが不気味で、いつもの大人は本物のじゃない感じがして、私は寝て忘れようと部屋に戻った。




 翌日、母の実家の祖父と叔父が亡くなった。




 2人が突然死したのに葬儀の準備がやけに早かったのを、大人になった今では普通じゃなかったと理解できる。


 みんな、まるで死を予見していたみたいな……。





 20年前、大雪の夜に現れて我が家にやってきた跡を残した"何か"。


 どうしてうちに来たのか。

 祖父の死と関係があるのか。

 あの夜、親戚一同は何を話していたのか。


「ヒバシ」というのが"何か"の呼び名だろうか。




 全てが謎のまま大人になり、頭の中で繋がりかけの点と点を結びたくて、私は何度か両親や母方の親戚に尋ねたことがある。



 ねえ、私が幼い頃、雪の日に家まで足跡と泥溜りがあって――




 そう言うと決まって笑顔でこう言われる。





「大丈夫だから」






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る