忘れられない

サークルの飲み会帰りのことだった。


酒にはそこそこ強い自分は4~5時間は飲み騒ぎしたあとでも意識ははっきりしているし、記憶も飛んだりしないタイプだった。



だから駅で友人と別れて数分の帰り道もきびきびした動きで歩を進めていた。



悪酔いはしなくても眠気は人並みに感じていたから、早くベッドに飛び込みたかったのだ。



早足の理由はそれだけじゃない。


誰かが俺の後ろを尾行していたからだ。



その存在には途中で気付いていた。


最初は気のせいだろうと思っていたが、一定の距離でどこまでもついてくるではないか。



これは変な奴に目をつけられたかと不安になってきた俺だったが、自宅がオートロック付きのマンションだし大丈夫だと考えていた。


今思えば、酔いのせいで普段より思考が甘かったと思う。



いよいよマンション前まで来た。


自動ドアが開くより早く、右ポケットに入っている鍵を素早く取り出してエントランスのロックを解除した。中に駆け込むと初めて後ろを振り返った。



間一髪で閉じたガラスドアの向こうにいたのは、古くさいワインレッドのシャツと焦茶のロングスカートに裸足サンダル、つばの広い帽子を被ったうつむき加減のおばさんだった。



無事に安全地帯までたどり着いた安堵感と、さっきまで恐怖を感じていた未知の存在が、単なる中年の女性だったことに大きなため息が出た。



「へっ、残念だったなババア!」

親指を下にするポーズを見せてやった。


帽子の影からかすかに見えるおばさんの首元が動いた気がした。



俺はちょっと不味いことをした気がしてエレベーターに乗った。




2……3……4……と静かに上昇する画面の数字。


結局あのおばさんは何がしたかったのか、それだけが気がかりだった。




ガコン、7階で止った。




さっと降りて、廊下右奥の自室に向かうその時。



視界の左で物音が聞こえた。




何気なく振り返ると、さっき置き去りにしたおばさんが同じ姿勢で立っていた。




「うえぇやっ!?」


変な声が出た。



頭が動く前に体が動いた。



掛けだした勢いそのままで手こずりながらも、なんとか追いつかれる前にドアを開けることに成功。

内側から鍵と念を入れてチェーンも掛けておいた。





全身が脱力して玄関で座り込んだ。


口から喉までに一滴の水分も無くなったのは酒のせいではなかった。


たった10mもない距離を走っただけでこんなに疲れるとは思っていなかった。



もうすこし休んだら、もう寝よう。シャワーは明日浴びればいいや、と思っていると徐々に冷静さが蘇ってくる。



そうなると今度はあのおばさんに再び意識が向いてしまう。


1階エントランスで確実に外にいたあいつが、どうしたらこの7階までやってこれるんだ?

しかもエレベーターよりも早く!

挑発したのが不味かったのか?

怒っている?

なんなんだ、何がしたいんだあいつは!?



疑問は尽きないが、こうしてようやく本当に安全な場所まで来れた。


心が安らげるのは間違いない。




――本当にここは大丈夫だろうか?


よくわからない手段でマンション内まで侵入できる奴だ。


ひょっとしたら俺の部屋にも入ってこれるんじゃ……?




ベランダに立つあの姿が脳内に浮かんだ。


想像して、背筋に悪寒がした。




確かに。そもそも帰ったのかどうかもわからない。


まだ廊下やエントランスにうろついているかも知れない。



俺は、もしおばさんがまだいるんだったら警察を呼ぼうと考えていた。




とにかく確認しないことにはどうしようもない。




たくさん息を吸い込んで、はき出した。




まずは外の様子を見よう。



俺は右手でドアののぞき窓の蓋を、気配を殺して開けた。


自然と指先に力が入る。




唾を飲み込み、そおっと左目を近づけた。




のぞき窓から見える景色。


視界いっぱいに、福笑いみたいに目鼻口がぐちゃぐちゃになった女の顔があった。




瞬間、意識を失う俺には、女の左頬についた口が三日月のような形で笑った気がした。







どれだけ酒を飲んでも消えることのない記憶。



俺は今でも街中でつばの広い帽子をした女性を見ると、汗と動悸が止らなくなる。



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