160話 その時期には
シーラがついに亡くなった時、俺は八十代後半にさしかかっていた。
アンナさんの死はまだひきずっている。
幼く、あるいは若く、美しい少女として心にとどめることで、ふくれあがる『空っぽ』を止めている状態だ。
やはりこの悲しみは生きているあいだに飲み込みきれないものなのだろう。そしてまた一つ増えた、アンナさんよりは小さいけれど、たしかに俺に大きな影響を与える悲しみも、きっと、受け止めないまま死んでいく。
シーラは戦い続けたのだった。
初等科で俺と戦い、中等科でもきっと誰かと戦い、高等科ではまた俺と戦い、大学に行ったところで、戦っていた。
彼女にとってもっとも大きな敵は『親』であり『実家』だった。
あるいは『期待』であり『義務』だった。
親とは和解した。和睦した、のほうが正確かもしれない。心の底から打ち解け合うことは難しかったけれど、互いに落としどころを見つけて、互いの願いをちょっとずつ叶えて、シーラと彼女の父親との関係性は終わったのだ。
シーラの生涯を通した戦いはその時終わったのだけれど、もう、彼女はすっかり『戦う』以外の選択肢を思い出せなくなっていた。
だから彼女は弁護士として戦い続けた。わけのわからない、意味のわからない、かたちのわからない、あるかもわからないものと、戦いを続けたのだ。
俺と、同じように。
誰にも証明できないけれどたしかにそこにいて、誰の目にも見えないけれどきっと近くにいて、誰も知覚できないけれど遠くない未来、やってくるものがある。
それの具体的な名前はわからない。『敵』以外に表現のしようがない。
けれど俺は戦いをやめなかった。今もまだあらがっているつもりでいる。いつ来てもいいように準備はやめなかった。
思考持続力が高かった時期にした準備で突発的状況相手にどこまでできるかはわからないけれど、ここまで来て、たとえ道半ばで人生を終えたとしても、『これ以上はやりようがなかった』と胸を張れるだけの徹底抗戦はした。
もちろん、勝利するつもりでいるのだから、負ければ悔しいだろう。
負けると悔しいということを忘れずにいられたのは、シーラのおかげだった。
俺はこの世界で、勝負をせず、勝利をせず、敗北をしなかった。だから敗北の悔しさは『前世の記憶』という箱につめられ、だんだんと希薄になっていく一方だっただろう。
ところがそばでシーラが戦い続け、主に成績で俺に負け続け、そのたびに悔しそうにするもので、俺は『あんなのは味わいたくない』と、悔しさを忘れずに居続けることができたのだ。
俺の勝ちだぜ。
最後の最後まで――俺の、勝ちだ。
……まあ、なんだ。
もうじき煙となるシーラを見ながらこんなことを考えてれば、悔しさのあまり飛び起きてくるかな、なんて思ってみたけれど、そんなことあるはずもなく、シーラはじき、煙となる。
死者はよみがえらない。
煙となった者は、記憶を残したまま転生したりはしない。
同級生は減るばかりで、『死』が近くの部屋のドアをノックしながら、だんだんと俺のもとにせまっているのを毎日感じている。
それは穏やかな気持ちではあった。ノックの音は安らげる音階を刻んでいた。
死にたいという願望はないし、今死んだら相当悔しいことに間違いはないのに、一方で、すでに『充分に生きた』なんていう満足感を覚えている自分もいる。
……近しい人が死ぬたびに、一つずつ、心の中のなにかが死んでいくような気がする。
アンナさんは俺にとって『安心感』だった。
彼女という大きな存在が消え去って、俺はまごついて、困惑して、なにも手につかないほど絶望した。
今もまだ心の中にアンナさんはいる。その幻影にすがったまま、俺はかりそめの安心感を得て生きている。
シーラは『闘争心』だったようだ。
彼女が亡くなって、ふっとすべてを受け入れられるような心地になってきた。あれほど嫌っていた『死』にさえ、門戸を開いてかまわない気持ちになっている。
だから俺は、シーラとの日々を思い出した。
記憶の中のアンナさんはいつでも笑っていたけれど、シーラは、いつでも怒っていた。
なにかとつっかかってきた。すべてを競争にしようとしてきた。
……ああ、どう見たって敵対行動ばっかりだった、あいつの人生。
あいつがいなかったら、俺はどこかで『がんばる』ことをやめていた気がする。ちょっとした不幸で心が折れて、『今回の人生も不遇なまま終わったんだな』と思って、すぐにあきらめていたような気がするんだ。
笑っているアンナさんを思い描くと、明日もまた楽しいことがありそうな気がする。
怒っているシーラを思い描くと、ここで折れたらいけないと己を奮い立たせることができる。
カリナのことを思い出したかけたのだけれど、あいつは全然、そういう感じじゃなかった。
カリナは俺の中で相当特殊な立ち位置だったのだと、改めて気づかされる。あいつの人生は俺の血肉にはできなかったが、俺の人生こそ、あいつの血肉になっていたような気がしてならない。
つらつらと思考がわけのわからないところに逸れたあたりで、シーラが燃やされ、えんとつから上がっていく煙が、窓の外に見えた。
空は鉛色の雲がぶあつくふさいでいて、今にも雪が降り出しそうな様子だ。
ここで俺は、最近意識しないようにつとめてきた、あることを思い出してしまう。
――もうじき、聖誕祭だ。
聖女聖誕祭は時代を経ても廃れることなく残っているイベントの一つだった。俺も若いころには祝っていた気がするが……ああ、もう、ごくごく自然に五十代までをふくめて『若いころ』と表現してしまう……妻と二人暮らしになってからは、そうそう祝うこともなくなっていた。
最近は特にそうだ。
なにせ、聖誕祭と俺の誕生日は近い。年齢を意識するのをやめたのだから、誕生日を意識するのもやめたのだった。
それを、思い出した。
きっとこれからも思い出す。
鉛色の空を見るたび、煙となった彼女を思うだろう。
さようなら四月生まれ。
気が強くて、口うるさくて、なにかとつっかかってくる、一生涯の、友達。
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