159話 生涯の味方
ひ孫は遊びに来るたびに、倍々に大きくなっているようだった。
エマの子は元気な男の子で、そいつはもう言葉も操るし、あちこち走り回るし、お菓子をむさぼり食う。
今は――今は、ああ、もう、八十代も半ばにさしかかっているのだったか。
杖を削って、お菓子を作って、妻と語らうでもなくお茶を飲む。
たまにおとずれる娘とはそれなりに話すのだけれど、俺のほうで言いたいことをハッキリまとめることはできない。けれど、娘は熱心に聞いて、なにかを感じ取っているようだった。
自分の年齢について意識することをやめた。
九十まで生きなければならない。そうしなければ再転生し、俺はこの世界で煙になることができない。
だけれどもう、これ以上の延命の努力はしようがないのだった。やれるだけはやった。
若いころから続けていた行動はもはや習慣となり、どれほど俺が意識をあいまいにしたって体が勝手に続けてくれる。
あらかじめ立てておいた計画は、今より思考力があったころのもので、今の俺にそれを修整するほどの力はないと思ったほうがいいだろう。
俺は、俺が無思考状態でも生きられるように、努力を重ねきった。
「父さん、ブラッドとも話したんだけど、そろそろここを引き払って、うちに来ないかなって。母さんも一緒に」
俺は短く『十七番』と答えた。
サラに『一緒に暮らそう』と言われた時の対応を書いてあるノートの番号だ。
データでも物質でも残してある。そこには今の俺よりも思考持続力があった時代に考えたことが細かく載っているはずだった。
しかしサラは携帯端末を操作して『十七番』を開いたりもせず、少しだけ疲れたような息をついてから、言う。
「……わかった。母さんに聞いてみる」
どことなく諦念のこもった声だった。
俺の意思は、俺の意思だ。俺の行動しか、自由にできない。
俺とミリムは、夫婦という名前の共同生命だ。生きている限り離れることを望まない。だから、俺たちの行動を決定するためには、俺たち両方の判断が必要だ。
最近の俺とミリムはかわりばんこに起きている。
俺たちは家事をこなすと妙に眠くなってしまうのだった。互いに分担して一日の家事をおこなうのだけれど、それはすでに『互いが疲れて休んでいるあいだに、仕事をこなしておこう』という前提の分担であるようだった。
眠気は我慢して行動はできるだろうけれど、俺たちはなるべく眠気にあらがわない暮らしを心がけている。
人間に有用なあらゆる行動の中でも、最優先すべきは睡眠だと心から信じているからだ。
だから寝室に向かったサラを見送り、走り回るひ孫を目を細めてながめる。
杖を削り出す作業は、まだ幼いひ孫がそばにいるうちは、やらないと決めていた。
刃物を使うし、木くずは舞うし、幼い子供には危険がいっぱいだからだ。
一日の活動時間が短くなっていて、自分の寿命を九十歳とすると、たぶん、急いで作らないと間に合わないとは思う。
それでも、ひ孫がいるあいだは、やらない。ひ孫の様子を見る以上に優先すべきことは、この世に一つもないからだ。
しばらく元気に暴れるひ孫をながめていると、寝室のほうから争うような声がした。
……そういえば、そうだった。珍しいこと、でもないのだった。
だんだん記憶が鮮明になってくる。ミリムとサラは住処をどこにするかという話題において意見がまったく合わないようで、この家に残りたいミリムと、自分のもとに引き取りたいサラとは、しばしばああして対立する。
もっとも、二人とも冷静で理屈っぽいところがあるので、『争うような声』というのはそうボルテージも高くなく、すぐに互いに用意した資料を用いてのディベートになるようだった。
けれど俺同様、活動時間が減ってきているミリムの不利は否めない。
サラもサラでいそがしいようではあったのだけれど、今はブラッド付きでの社交をエマとその旦那に任せる機会も増えてきたからか、こうしてひ孫を連れてうちに来ることも増えた。
サラの時間が空くにつれてミリムの敗色はますます濃厚になり、もってあと二年かな、と俺は思っている。
十七番。
記憶力への不安をようやく認識した俺は、自分で用意したその対応メモを、携帯端末で読んでみることにした。
十七から二十までは住居変更にかんする対応のメモで、『サラが家に招こうとしてくる』『老人ホームへの入居をすすめられる』、はては『サラ夫妻と不仲になったケース』までが想定されている。
その中で十七番はもっとも平和にことが運んだときのもののようで、内容がどこか牧歌的というのか、『見守る』選択肢が多いように思われた。
そうしてスッスッとめくっていくと最後のページに、手書きメモでこのように書かれている。
『サラとミリムの意思にゆだねるのもいいけれど、あまり中立すぎてもいけない。二人の話をちゃんと見守って、基本的には、妻の味方でいること。サラがこちらを説得しようとする時、サラのまわりにはブラッドやエマがいる。けれど、ミリムのまわりには、俺しかいないのだから』
……ああ、そうだった。
自分で書いたことだけに、ストンと腑に落ちた。
中立じゃなくていい。誰かに過剰に味方をして敵を増やさないように立ち回らなくていい。もうそんな、バランスを気にしなければならない年代は終わった。
もう俺は、なにを考慮するまでもなく、妻の味方でいいんだ。
俺は立ち上がって、ひ孫に呼びかける。
「なんだい、ひいじいちゃん」
どこか生意気そうなその様子は、幼いころのブラッドを思い出させた。
俺は彼に『一緒に行こう』と言った。
彼は「ばあちゃんが話してるときは、いったらいけないんだぜ」となぜだか胸を張って言った。
それでも俺が一緒に行こうと言えば、彼はそっと手をさしだし、俺と手をつないだ。
ひ孫に言う――これから俺は、ひいおばあちゃんの味方をしに行く。でも、そうすると、おばあちゃんと対ひいおばあちゃんと、ひいおじいちゃんで、一対二になっちゃうだろう?
「おう」
それはちょっとずるいから、お前は、おばあちゃんの味方になってあげなさい。
「おう!」
敵同士となった俺とひ孫は、仲良く手をつないで女の戦場に入った。
本日の勝者は、俺とミリム。
サラに味方するひ孫を見て、ミリムは「いつか負けちゃいそうだね」と笑った。
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