157話 生きていく/八十歳を控えて
二十代前半からじらされ続けた孫の結婚は、彼女が二十代中盤にさしかかってもつかず離れずという青春ドラマみたいなものを見せられ、気づけば孫は三十代に近づき、『おじいちゃん、私ね、もうすぐ結婚するかも』と言われてからはや五年が経とうとしていた。
そのあいだにも俺はもちろん歳をとるわけで、気づけば八十歳まであと一歩だ。
周囲の八十歳手前の面々と比べればまだ若いような気はするのだが、俺の母も八十歳を超えたあたりからガクリと活動時間が減ったので、七十九~八十のあいだに一つの『谷』があるだろうことは想像にかたくなかった。
塩を控え、運動をし、睡眠をよくとる人生を送ってきた。
しかし健康を司るモノは気まぐれだ。健康に気づかい続けた者に報いるとは限らないし、気づかわなかった者に罰を与えるとも限らない。
口惜しい限りだが、人の身ではどうしようもないこともあるのだった。
努力とはその『どうしようもないこと』になるべく行き当たらないように人生の乱数を狭める行為である。
努力を怠ってはいけないが、万能と思ってもいけない。『努力しているから安心だ』という油断こそが悪いモノを呼び込むと信じて、今日もウォーキングと簡単な筋力トレーニングを欠かさない。七十代で筋トレやってるんだぜ。すごくない?
俺とミリムは今のところ壮健だが、シーラもまた壮健だった。
法曹界に君臨する女帝となった彼女は相変わらずで、自他共に厳しい性格から同世代にはとっつきにくいと言われ、後輩世代にはおおいにおそれられている。
あいつは若い時から『敵対』以外のコミュニケーションをしてこなかったし、そのまま、しないまま人生を終えるのだろう。
『戦って、勝つ』という人生だった。そうして勝ち続けたのだ。
そして今も戦っているのだ。
俺との生存レースである。
あいつの意味のわからない対抗心は、幼い時分から今にいたるまで変わることがなかった。
特に俺に対する時はいつでもケンカ腰で、なにかと競いたがり、態度はむやみにトゲトゲしく、表情は意味もなくツンケンしている。
俺たちはそうやってコミュニケーションをとって生きてきたし、死ぬまでそうするのだろう。
それは俺にとっていいことだった。
対抗する相手がいると気力がわく。気力というのは歳をとればとるほど重要になってくる。気力があっても無理はできないが、気力があれば『あとはご本人の気力次第です』というタイミングで息を吹き返すこともできるのだ。
隣でがんばっている妻の存在と、向こうでがんばっているシーラの存在があって、俺も心折れずに生きることをがんばっていける。
ところがこの『気力』が一気に折れるような事件が起こる。
本当に意外なほど一瞬で気力がなえてしまったその事件は、『アンナさんのご逝去』だった。
俺より二つ年上の彼女はすでに八十歳を超えている。
若いころから七十歳近くになるまで、ずっと音楽の道を進み続けた。
大変な苦労があっただろう。
演奏というのは体力を使うイメージがある。アンナさんがどれほどの鍛錬をし、どれほど節制して現役を維持していたのか、俺の想像力で思い描くことは難しい。
しかし、彼女はなにせ俺より二歳も上なので、俺より先に死ぬ可能性については前々から考慮していた。
八十一歳は充分に『大往生』と言えるだろう。
アンナさんの旦那さんも、息子さんも、お孫さんも、みんな彼女の死を受け入れていたようだった。
俺だって、受け入れる準備はしていた。ところが意外なほどに、心が折れている。
思えば彼女の存在は俺にとって代わるもののない、大きなものだった。
音楽の道に進んでからは疎遠気味ではあったけれど、連絡はそれなりの頻度でしていた。
歳を重ねるにつれ『姉離れ』は進み、今ではたまに互いの安否を確かめ合うだけで嬉しいような、そんな程度の間柄にまで落ち着いていた。
きっと俺の中でアンナさんより大きなものがたくさんできたから、相対的に、彼女の大きさが変わっていったのだろうと思っていた。
ところが亡くなったと聞かされた時にはしばらく呼吸もできないほど気力が落ち込み、このまま俺もあとを追うように死んでしまうのではないか、と本物の危機感が頭によぎったものだった。
彼女は俺にとって日差しだったのだ。
普段は意識しないほど当たり前にあって、生きていく中でその存在をだんだん意識しなくなっていく。
けれど、いざ、日差しが永遠に消え去るならば、その事態の大きさに困惑し、取り戻せないものかと焦燥し、戻らないのだと理解した時、絶望するだろう。
歳をとったせいか、悲しくても、涙が出ない。
ただただ空っぽがおしよせてくる。
俺は葬儀の準備のためにテキパキ動くこともできず、ただ家の中でぼんやりした。
目の前にはミリムがいて、彼女と一緒に見つめ合って、植物のように、椅子に根付き続けた。
言葉を発したのはどちらからだっただろう。
ぽつりぽつり、と俺たちはアンナさんのことを語り合う。
それは遠慮のない思い出話だった。
俺さ、最初、アンナさんのこと、ずいぶんキレた幼女だと思ってたんだよな……
当時のアンナさんにはキレ芸みたいなものがあった気がする。なんかすごく理不尽に怒られた印象ばかりがよみがえってくる。
しかしかわいかった。
かわいいは正義というのはどこの世界で覚えた言葉だっただろう? アンナさんは俺より二歳年上のお姉さんで、俺の精神よりはだいぶ年下のおしゃまな女の子だった。
理不尽に怒られると『は? ふざけんなよ幼女』と思うものだったが、彼女が表情をくるくる変えて嬉しがったりすると『まあいいや、寛大な心で許してやるよ、幼女……』とついつい折れてしまうのだ。
「……年上のお姉さんを心の中で幼女呼ばわりしてたの?」
いや、年上だけど……幼女ではあっただろう。
父親のことを『彼』と呼ぶと不自然だろうけれど、父親もまた『彼』には違いないのだ。
そんな感じ。
幼女幼女と口にしていると、不思議なことに元気が出てくる。
幼女の話をしている俺たちはいつのまにかニコニコとしていて、幼女の話題で盛り上がるうちに、どうにも心の中でどんどんふくらんでいた『空っぽ』は次第にしぼんでいき、ずいぶんと呼吸するのが楽になってきた。
俺たちの思い出話の中で、幼女は少女になった。
少女は女性になり、結婚し、子供が生まれた。
演奏家としての側面が語られ、母親としての側面が語られた。
話の中のアンナさんの姿が現代に近くなるにつれ、その姿は不鮮明になっていき、また俺たちの話は彼女の少女時代に戻る。
最後にはいつまでも若々しい彼女の姿が脳裏に残った。美しいお姉さん。きっとその姿は俺の青春の擬人化なのだろう。
死者を通じて、俺たちは心を若返らせる。
それはきっとまやかしにすぎない。
イメージの中のアンナさんには現実と違う部分がたくさんあって、俺たちの話はどこまでが想像でどこまでが事実なのか、もう、確かめるすべはどこにもないのだった。
まあ実際には昔からつけている記録をひもとけば当時の俺たちの正確な姿が浮き上がってくるのかもしれないけれど、俺もミリムも、自分たちが記憶だけを頼りに語る思い出話の不正確性を理解しながら、そのまま、語り続けた。
生きている人物を過剰に美しく語るのを、俺は好まない。
けれど思い出の中でしか話せない相手を美しく語るのは、よいことだと思う。
死者を偲び、語り合う。
その語り合いは哀悼の意からおこったものではあったけれど、死者ではなく生者である俺たちがなぐさめられるかのようだった。
「……おんなじものを見てた人が、すぐそばにいるのは、助かるねえ」
ミリムはのんびりと言った。
俺はそうだなとうなずいた。
それきり、黙った。
黙らなければ、せっかく縮んだ心の中の『空っぽ』が、また大きくなりそうな気がしたからだ。
俺たちはわかっていた。
夫婦だからって、同時に死ねるわけじゃない。
どちらが遺されるのかはわからない。でも、遺されたほうには、もう、『おんなじものを見てた人』がそばにいないのだ。
誰かと一緒に死者を悼んで、自分を慰めることは、できないのだ。
生き残るって、残酷だ。
でも、俺たちは生きていく。
二人で長く生きるために、怠らずに、生きていく。
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