138話 趣味への熱意
その年がいそがしかったのはもちろん娘の出産にまつわるアレコレのせいでもあったが、そこに俺の校長昇進までかぶさったことが大きな原因だろう。
そんな目が回る日々の中で、大して重要度の高くない会合に参加しようという気持ちになったのは、むしろ『いそがしかったから』というのが理由かもしれない。
息抜きが必要だった。
俺をせわしなくさせるあらゆるしがらみと無関係の、気の置けない相手との会話が、必要だったのだ。
そんな経緯でマーティンと落ち合って安居酒屋へ行く。
このかん、ミリムはミリムでマルギットあたりと会っているようだった。
さて、孫や昇進なんかと離れたところを求めていた俺ではあったが、やっぱり話題にするのは孫のことだった。
するとマーティンは目を丸くして、言う。
「……孫……? えっ、孫……? 誰の……?」
通い詰めているうちになん度か資本元の変わった安居酒屋で、いい年したおじさん(おじいさん?)二人でテーブルを挟んで座っている。
卓に並ぶのは酒と肉と、それから野菜だ。もう俺たちは『唐揚げ!』『チキン!』『肉!』『酒!』という年齢ではなくって、野菜を挟まないと胃もたれする体になっていた。
俺の対面に座るそいつは不摂生のカタマリだ。運動をしない、栄養バランスを気にしない。
『服を着ればやせて見えるから大丈夫』と言っておきながらそのシルエットは下っ腹のふくらみを隠しきれていないし、きっと、脱いだら骨に肉と皮が垂れ下がっている見事な中高年スタイルなのだろう。
マーティン――俺は優しく笑う。
俺に孫ができそう(できた、と言ってもいいのだろうか? よくわからない)という話をしたところ、急に現実を受け止めきれなくなった彼には、優しさが必要に思えた。
だから俺は噛んで含めるように言う。
俺たちは、もう、孫がいても、おかしくない年齢なんだよ。
「……いやいや。まだ中高生だぜ」
中高年なんだよなあ。
マーティンはあまりの出来事に精神が退行してしまっているようだった。
ほとんどの人にとって、『加齢』とは『避けたい』ものだった。避けたすぎて、自分が年をとっている事実をなるべく意識しないように立ち回るべきもののようだった。
そんな年齢を意識しない立ち回りをしているマーティンに対して、同級生の俺が『孫ができそう』と言えば、否応なく年齢を意識せざるを得なかったのだろう。
少し申し訳なくも思う。
でも……孫のほかにコイツに話したいこと別にないしな……
マーティンと俺とは趣味がまったくかぶっていないのだ。
俺は健康や長寿にまつわる運動・食事などに強い興味を持っているし、それらの情報を収集し、色々と試してみてもいる。
すなわち俺の趣味は『健康』だ。
対してマーティンは『不摂生で死ぬならそれでもいい。我慢して生きるよりマシだ』と思って生きているようで、健康関連の話題は少し出しただけでもあからさまにイヤそうな顔をする。
俺がマーティンにいちいち『運動しろよ』『食事制限しろよ』などと口うるさく言っているならば、その顔もわかる。
しかし俺はマーティンに『やれ』と強制はしないようにしている――最初のころは善意から運動をすすめていた気もするのだが、早々に無駄だとわかり、健康の話題は避けるようにしているのだ。
そうなるともう……孫の話しかない。
俺の提供できる話題は『最近の中学生』『職場であったこと』『孫、娘』『健康』の四本柱なのだ。
「いや、待ってくれよ。おかしくないか? 俺が結婚して離婚してるあいだに、お前、おじいちゃんなの?」
お前、結婚してたの!?
聞き逃せない話題に食いつくと、マーティンは目を伏せて「しまった」とつぶやいた。
中高年はコイバナに興味はないのだが、結婚・離婚には目を輝かせる。
重要なのは『結婚・離婚』に目を輝かせるということで、『結婚』単体だとそうでもないというところだ。
マーティンはため息をついて天をあおぐ。
そして、渋々という様子で口を開いた。
「会社の部下とさー。まあ色々あったんだよ。で、結婚までいったの。……俺は結婚式とかぶっちゃけ堅苦しいだけだと思ってるからやらないことにしてさ、彼女もそれで納得してくれたんだ。でもさ、婚姻届出してから一月も経たないうちに『やっぱりやりたかった』とか言い出してさあ」
家に帰ってからグチグチ言われ続けるのに耐えきれず、結果として二月ぐらいで離婚したらしかった。
俺は超笑顔で言う――ご愁傷様だな。
「なんで楽しそうなんだよ」
それは俺にもわからなかった。
マーティンは気の置けない友人で、俺は彼の幸福を願っている。
離婚したという話を聞いてご愁傷様と思ったのは本当だし、通常、すべての情報を収集し終えてから判断を下すタイプの俺が、マーティンの口から聞いた話だけでマーティンを被害者の側に認定している。
俺がマーティンに肩入れしているからだった。
正しさを気にするよりも先に、彼の言い分をすべて信じてしまうぐらい、彼の味方だからなのだった。
それでも……他人の離婚話はおもしろい。
五十代になるまではこんなんじゃなかったはずなのに、最近は人のスキャンダルとかに興味を示すようになってきている……
やばい。
俺は考察を発表する。
たぶん、娯楽がないからだ。
これと言える趣味がない――『健康』関連はもう日常の一部として根付いてしまっている。強いて言えば趣味ではあるのだが、『スポーツ』とか『サブカルチャー』みたいな、アクティブにおこなう趣味という感じではない。
そういった無趣味状態の時に、連日連日、番組を垂れ流しているだけで人様のスキャンダルやら大物の問題行動やらが滑り込んでくる。
脳を常に使って『子供の産前産時産後に親がすべきハウトゥ』をまとめている中、スキャンダルニュースへのそれっぽい説教は脳を止めててもできる手軽な娯楽だった。
それが習慣化し、俺の脳は、脳を止めてもできる娯楽に常に飢えている状態となっていたのだ。
こうして番組に説教したり文句言ったり正義の怒りを振りかざしたりするおじさんが完成する。
これはまずい……打ち込める系の趣味を見つけないと、俺が孫の教育に悪い存在になってしまう……
「ああ、でも、俺もあるわ……なんか娯楽をしたいけど、脳を使うの面倒くさいんだよな……でも、使わなきゃいけないよな、脳。退化するもんな……」
俺たちは顔をつきあわせてうなった。
脳トレに悩む五十代のおじさんたちは、普段から娯楽に使う脳の容量を確保していないので、話がそれ以上展開しない。
このままだと『趣味見つけなきゃな』『そうだな』で以下沈黙が続くばかりだ。
俺は提案する――一月後、趣味の発表会をしよう。
「趣味がないのに?」
だからタイムリミットを決めて、俺とお前で対決するんだ。
一ヶ月後に趣味を見つけられてなかったほうが、おごる。
我ながら脳を使えていないふわふわガバガバ提案だった。
こういう日常的、瞬間的に頭を働かせる瞬発力みたいなものが、年々減衰しているように思われた。
結構な焦燥感を覚える。
このままでは頭がとろけて死んでしまう。趣味を、趣味を見つけねば……
「まあそうだなー。趣味、趣味かあ。そう言われると、うん、難しい。時間がもったいないんだよな……若いころに大丈夫だったスケジュールも、今はダメだし……若いころは『休日遊ぼうと思ったら寝てるうちに終わった』がけっこうあったけど、今は『休日は寝る』という断固とした意思があるもんな」
というか――寝ないと死ぬ。
マーティンは全然笑い事にならない言葉を放って、笑った。
なんてこった、俺たちは趣味を探すのも命懸けの年齢に入っているのだった。
その日はけっきょく、『なにかやりたいけど一人だとちょっとな……みたいなことが見つかったら、お互いに、積極的に付き合おう』という約束を交わしただけで解散した。
でも、お互いに『たぶん誘いは来ない』と確信しているだろう。
趣味、趣味か……
五十にして、俺の前に大きな壁が立ちはだかる。
脳のため、そして、教育上問題ないおじいちゃんになるため、俺はなんとしても、趣味を見つけなければならない……!
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