137話 普通の人生

 サラが結婚しちょうど一年ほどが経ったころ、懐妊の報告が来た。


 俺の心情は筆舌に尽くしがたい。


 それはまあ結婚してるわけだし、跡継ぎが必要系の家庭に嫁いだわけだし、結婚して一年ほど経っているし、サラもお相手のブラッドもまだ二十代前半だし、そういうことはあるだろう。


 しかし理屈ではなかった。

『娘が妊娠した』。

 このなんでもないような事実にこめられた衝撃の大きさは、俺の覚悟や予想をかるがるとぶっちぎって、数分、放心させる威力があった。


 上の空で生返事しかできない通話を切って、とりあえずリビングに入る。


 そこでは妻のミリムが創作活動をしていた。

 創作をするのはもちろん俺たちの不労所得のためだけれど、特に収入につながったことはなくって、今では半ば趣味のような活動になっていたのだ。


 カタカタと端末を叩く妻へ語る――サラが、妊娠したらしい。


 一瞬だけタイピングの音が止まり、すぐまた再開される。

 ミリムは「少し待ってて」と告げてからしばし創作活動を続行して、キリがいいところになったらしく、やがて止めた。


 情報端末を閉じてまっすぐに俺と向かい合う。

 相変わらず表情に乏しい妻ではあったが、俺もいい加減、彼女と五十年ほどの付き合いになる。

 半世紀もの長さ、かかわり続けているのだ――否応なくわかる。ミリムの今の表情は、『先にサラから連絡をもらっていた顔』だ。


「殺意は?」


 えっ、なにその質問……


 俺は困惑した。けれど理解した。

 そう、ミリムが聞いているのは、我らが娘の夫、すなわち娘のお腹の子の父親であるブラッドへの殺意の有無なのだった。


 娘の妊娠に戸惑う俺に最初に問うことがそれなのか、と愕然としたが、『殺意は?』と聞かれてすぐ『ああ、ブラッドに対する?』とわかってしまうあたり、殺意の有無の確認は必要なことなのだなと納得した。


 納得したのだが、すげー切り出しかただ。

 俺じゃなきゃ困惑したままオロオロするか、キレるぞ……

 まあ俺だからいいんだけども。


 俺は答える――不思議と殺意はないよ。


『不思議と』とか口から滑り落ちるあたり、俺の精神はどうやら結構まずかったらしい。

 自覚させられてぎょっとした。


「あなたは人を管理したがるタイプで、わりと独占欲が強いから、いちおうね」


 うーん、否定できない。

 俺は常に『人と深くかかわらないようにしよう』とか『間違ってると思っても、俺の人生ではないのだから、好きなようにやらせよう。巻き込まれない限り、俺が口を出すべきじゃない』とか、『あいつにはあいつの人生がある』とか思いながら生きている。


 根っからの放任主義ならば、こんなことは思うまでもない。


 管理したい、独占したいという精神が根底にあるからこそ、『それは、いけない』と己を戒める必要があるのだし、戒め続けてきていたのだ。


 なるほど付き合いの長さゆえに、ミリムは俺のことをよく知っている。


 五十年だ……意味がわからん。こんなに生きられるとは思っていなかったし、この半生をずっと一緒にすごし続けるとも思っていなかった。


 俺たちの頭には白髪らしきものが見え始めて、顔には年齢を重ねた痕跡がそこらにある。


 もちろん赤ん坊のころからミリムを知っているのだから、確実に『昔と違う』顔なのはわかる。

 わかるのだけれど、ミリムはずっとこんな顔のまま、こんなふうに俺と一緒に過ごしてきたんじゃないかと錯覚するし、それはきっと、十年後も似たようなことを思うのだろう。


 懐古のような、それとは違うような不可思議な気持ちを胸に抱きつつ、俺は率直なところを述べる。


 孫が生まれそうだということは、嬉しい。


 娘の妊娠にかんしては、心が追いつかない。


 結婚前からだいぶ自立していたから、結婚してもさほど変わらないものと思っていたけれど、なんていうか、サラはまだ、俺の中で『子供』だったみたいなんだ。

 目を閉じてサラの姿を思い浮かべると、真っ先に見えるのは、二歳ぐらいのころのあいつの姿だ。

 短い手足でわちゃわちゃ歩いたり、なにかにつけてイヤイヤしたりする姿。


 もうとっくに二十歳も超えてるっていうのに、俺の中でサラはそのころのままなのかもしれない。

 だから、そんな子が妊娠と言われると、まず、ぎょっとしてしまうかな。


 ぎょっとしたあとで、現実を思い出す。

『ああ、もうサラは、大人だったんだ』。


 ……十代後半までずっとこの家で育ってきたんだから、もちろん、中等科やら高等科やらに通っていたころのあいつの姿を思い出すことはできる。

 でも、俺が真っ先に思い出す二歳のサラと、現実の二十四歳のサラのあいだにある時間が、『妊娠した』と言われた瞬間にとんでもない速度で過ぎ去っていくような、そういう感覚があるんだよ。


 心が、おいてけぼりで、ぽかんとしている。


 喜ぶとか、悲しむとか、俺の心はそれどころじゃないんだ。


 乗るはずだった列車が目の前で発進してしまったかのような、そんな、なんとも言えない気持ちだけがわき起こってくるんだよ。


「わたしは、妊娠と出産とそのあとに準備するもののことを考えてた」


 ミリムの回答は彼女らしかった。

 きわめて現実的で、冷静だ。


「たいへんなんだよ。ブラッドさんの親御さんと話し合って、決めなきゃいけないことがたくさんあるから。本人たちはそれどころじゃないから、こういう時こそ、わたしたちがやらなきゃいけないんだよ」


 ……よくよく思い返せば。

 ミリムが妊娠し出産する時も、俺の両親やミリムの両親の、手厚い助けがあった気がする。


 妊娠当事者のミリムはもちろん、伴侶の俺にもリアルな問題を片付けるためのキャパシティはなかった。

 きっと、サラとブラッドもそうなんだろう。


 五十にしてようやく俺は『後進がいる』という事実をしっかり受け止められたような気がする。

 もちろん職務における部下はたくさんいる。『年下の知り合い』も増えた。

 けれど職場の部下たちに教えることはすべてマニュアル化が済んでいて、それを順繰り覚え込ませるだけだった。


 だが、『自分たちが妊娠していた時に、親がしてくれたこと』のマニュアル化は、できていなかった。

『今まで自分がしたこと』をまとめるのはやっていても、『かつて、自分たちの先達がしてくれていたこと』のまとめは、全然だったのだ。


「特にあなたは、出産の時、また前後不覚になるから、それまでにやれることはやらないと」


 断定された。

 まあそのたしかに、なに? ミリムの出産の時、じゃっかん、前後不覚だった気はしないでもないよ?

 でもそれは我が子じゃん。

 今度は孫じゃん。ワンクッション挟むじゃん。

 さすがにもう、取り乱さないって。


「取り乱すよ」


 断言された。

 ミリムはよっぽど確信がないと断言しないので、きっと俺は取り乱すのだろう。


 出産当日までに平常心を手に入れたいところだったが、人の精神はそう簡単に変化しないことを俺は知っている。

 百万回の人生経験が生きた。人の心の軸というのは、そうそう簡単に曲がらないものだという体験を、俺は百万回しているのだ。


 わかった。じゃあ――マニュアルを作ろう。


 俺はやはりやるべきことをリストアップし、それをまとめ、データ化することを選ぶ。


 サラの子が生まれるまで、生まれる時、生まれたあと、すること。

 そして、そのハウトゥをまとめて――サラとブラッドにあげよう。

 もちろん彼女たちの孫が生まれる時には時代が変わっているだろうけれど、そのオリジナルハウトゥブックは、きっとなにかの役に立つはずだ。


「……あ、ひらめいたかも。それ、出版社に持っていってみよう」


 え?


「新書サイズで商品になりそう。物語系よりそっちのほうが書籍の可能性あると思うよ」


 コネもあるし。

 出版社に勤めているミリムは、そんなことを言った。


 言われてみればそんなふうに思えてくる。

 俺たちはもちろん不労所得を目指して物語を書いていたのだが、俺たちの書く物語はどうにも物語的ではないようで、ウケが悪いのだ。


 俺たちは妄想することが苦手だった。


 俺もあまり妄想することなく今までの人生を生きてきた……俺が頭を働かせてきたのは、『敵』の出現タイミングとそいつらがもたらすであろう被害、そしてその対応方法ぐらいなもので、それ以外には勉強と仕事しかしていないというリアリストなのである。


 ミリムもまたなにが起きても受け流しその場で対応方法を編み出す生き方をしていたので、自分から見たこともないような世界を創造するのは苦手なのだ。


 じゃあ、やるか――妊娠出産・その後ハウトゥブック作製。


「うん。まあでも、気負って書くと文章が意味わからないほど固くなるから、普通にね」


 普通だな。

 よし。


 俺はグッと拳を握りしめた。

 サラの出産予定は来年の夏。

 それまで、慌てず、騒がす、普通に、色々とまとめたり、準備したりしていこう。


 普通にな!

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